すでに、「東京新聞」では報道されていましたが、戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアは、幣原喜重郎首相が終戦直後、GHQ最高司令官マッカーサーに提案していたことを示す新史料が発見されました。これまで自民党や改憲を主張する人々がくり返していた「押しつけ憲法」論は、事実上、否定される形になりました。
今日の「しんぶん赤旗」に掲載されていますので、紹介します。
すでに、「東京新聞」では報道されていましたが、戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアは、幣原喜重郎首相が終戦直後、GHQ最高司令官マッカーサーに提案していたことを示す新史料が発見されました。これまで自民党や改憲を主張する人々がくり返していた「押しつけ憲法」論は、事実上、否定される形になりました。
今日の「しんぶん赤旗」に掲載されていますので、紹介します。
先ほどまで放送されていたNHKスペシャル「決断なき原爆投下」。
「実によくこれだけ取材し編集した」と感心する番組だった。歴史の定説が覆る歴史的な番組だった。これを見ていた広島、長崎、京都のみなさんはどう思ったのだろう。
「早く戦争を終わらせ多くの命を救うために必要と考え、大統領が原爆を投下した」という71年前の原爆伝説がいかに虚構で嘘で塗り固められたものだったのか。
原爆開発を極秘裏に進めていたグループは、投下の時期を8月、目標を京都、広島などに絞って準備を進めた。軍部は、日本の降伏以前に原爆を使用しないと、議会で「予算の無駄遣い(22億ドル)」と非難されるのを恐れ焦っていた。最有力候補地は、京都だったが、トルーマン大統領が人口密集地では戦後、反米感情が高まるので避けるべき、と拒否。軍部は、広島を「軍事都市」と偽った報告書を作成し、攻撃承認を取り付けて、8月6日を迎える。そして、長崎も。トルーマンは、軍部の狙いを見抜けなかった自分の責任を恥じ、3発目の中止命令を下す。しかし、トルーマンは、軍部に追随しただけで、原爆投下を決断したわけではなかった。
しかし、トルーマンはそのことを隠し(私からみれば保身のため)、「早く戦争を終わらせ、アメリカ人の命を救うため、原爆投下を決断した」と国民には発表した。
トルーマンの保身のために、後から無理やりつけらた理屈が戦後71年アメリカ社会の中に定着し、核兵器を開発・生産する口実としてまかり通っている。
昨日発足した安倍改造内閣。選挙中はほとんど封印してきた憲法「改正」を一気に進めようとする内閣だ。その象徴が、稲田朋美前政調会長を防衛大臣に抜擢したことだ。マスコミでは、次期総裁の最有力候補だという。
稲田氏といえば、参院選挙中、2度も宮城県入りし、共産党攻撃の演説をくり返していた人物。選挙中、改憲はほとんど言わなかったが、稲田氏こそ、自民党の改憲派の最右翼である。2004年8月15日に靖国神社境内で行われた日本会議の集会で「総理の参拝」をもとめ、「神州不滅」と気迫の演説をし、その姿勢が買われて、05年8月の「郵政選挙」で安倍幹事長(当時)に「刺客」としてスカウトされ、衆院福井1区から出馬。
これまでの発言が凄まじい。
「現憲法は今すぐ廃棄して、自主憲法を制定しなければならない」(2012年5月10日 創成「日本」東京研修会あいさつ)
「祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれからも誰が命を懸けて守るのですか」(「致知」2012年7月号)
「靖国神社というのは、不戦の誓いをすることころではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(「WILL」2006年9月号)
「長期的には日本独自の核保有を、単なる議論や精神論ではなく、国家戦略として検討すべきではないでしょうか」(「正論」2011年3月号)
「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらうという制度はどうか。国防への意識を高めてもらうきっかけになると思う」(同)
歴史を偽造し、憲法を壊そうという安倍政治とのたたかいは、新たなステージに入った。
昨日、沖縄では、米海兵隊普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設反対をもとめる県民大会が9万人の参加で開催されました。沖縄県民が心一つに「基地はいらない」の明確なメッセージであり、私たちもその思いをしっかりと受けとめて、連帯して、たたかいたいと思います。
今朝の早朝宣伝でも、沖縄の基地問題を真っ先に訴えました。
私も、13年前に、沖縄に行きました。美しい海とは裏腹に、普天間基地の周辺では、数機の米軍ヘリコプターが爆音をとどろかせていました。地上スレスレを米軍の戦闘機が飛び交い、基地の中に人々が生活しているようです。それでいて、沖縄のみなさんは、あたたかく、人情味があり、人と人のつながりを大事にしています。
65年前の沖縄戦の悲劇をくり返してはならない、基地のない平和な日本を次の世代に渡さねばならないとの自らの決意を込め、琉球の「琉」をとって、息子に「琉海」と名付けました。
私自身の決意がいま問われていると思います。