今日から私も3連休。本棚の整理をしていたら、故服部文男東北大学名誉教授の「百合子と『資本論』」という冊子が出てきたので、懐かしいと思い、一気に読んだ。
服部文男先生は、私が東北大学の経済学部時代の学部長であり、退官してからは、日本共産党の宮城県後援会代表委員も務めていた方で、我が国でも屈指のマルクス研究家でもあった。先生の資本論の講義は、12年前に党の常勤者の学習会で何度かお聞きしてはいたが、私自身の問題意識が、当時未熟だったこともあり、先生の講義の大事な点をほとんど消化していなかった。
服部先生は、5年前の年末に亡くなられたが、いまになって、先生の書いた文章をいろいろと読むと、先生のお元気だった頃に、しっかりと学び切れていなかったことが残念でならない。いまからでも、先生の遺志を受け継いでいきたい。
さて、服部先生も、この冊子の中で、「百合子全集を読まずに死ぬのは惜しいと思って、(晩年)読み始めた」と述べている。実は、この一言に私も、「そうだ」と思い立った。私の場合は、もっと先に読まればならない本がたくさんある。特に、今年、最大の課題は、「資本論」を第一巻から再読し、途中で挫けた第三巻を読み通すことである。また、5月から刊行される不破哲三さんの「マルクス・エンゲルス書簡集」抜粋(230通)をまず読むという目標もある。入党30年、節目の年にぜひこれだけはと思っていた。しかし、服部先生の冊子を読んで、百合子も読みたくなった。
実は、青年運動をやっていた当時、私の最も好きな作家の一人が、百合子であった。しかし、それから10数年。宮本百合子全集は、部屋の片隅に追いやられ、ほとんど目を通すことはなくなっていた。今日、久しぶりに全集18巻を開いて読んでみた。
「ある場合一冊の伝記は、数冊の小説よりも人の心を打つ。それは何故であろうか。絶えず自分たちの人生について無感覚ではいられないすべての人は、昨日という再びかえらない日を後ろにしながら、明日に向かって生きている。その時間の道ゆきを、自分ではない人々はどんな力量をふるって内容づけて行ったか。そこには尽きない同感と批判とが誘い出されるのである。伝記は、自分と自分の生きている歴史の関係をよりはっきりと見出すために読まれる。明日の価値を生み出すために読まれる。昨日のために読まれるものではない。少なくとも、私はそう信じている。そして、また何かの機会に、もっといろいろの分野の、いろいろの活動をした世界の婦人たちの短い物語を書いてみたいと思っている」(『真実に生きた女性たち』まえがき)
百合子は「真実に生きた女性たち」のなかで、キュリー夫人やナイチンゲールなどの生涯を描いているのだが、そういう宮本百合子自身の51年の生涯が、我々にはかり知れない勇気を与えているのだ。
かつて、日本の科学的社会主義の運動で、大きな役割を発揮した知識人、作家が次々と亡くなる中で、私たちは、いま最も苦悩の中にいる多くの青年たちに、生きる勇気と希望をどれだけ語り切れているのだろうか。百合子の言葉は、戦中も戦後も、多くの青年にはかり知れない影響を与えたことは間違いない。私たちに、いまそれができているのだろうか…
私は、そのことを『資本論』と百合子からぜひ、学びとりたいと思っている。