私と日本共産党(私の歩んできた道)(その3)

2009-12-18 19:14:35 | 私と日本共産党

 国政選挙に5回も挑戦となると、党の職員とはいえ、正直厳しいところもある。特に、先の総選挙では、「東北で比例の1議席を死守する」という党としての目標は何とか達成し、比例候補としての最低限の責任は果たせたとはいえるが、小選挙区で得票を大幅に後退させたことは、正直かなりのショックであった。落選や得票の後退(私の場合は激減)を体験すると、候補者は気落ちし、「自分が時代に取り残され、有権者から不要だと言われ、見放されているような気分にすらなる」とある有名な共産党議員が以前著書に書いていたことを思い出すが、私もそんな状態だった。

 私のそんな状態をふっきらせた契機は、10月の県知事選挙であった。天下みゆきさんという最高の候補者を得て、私も政策スタッフの一員として選挙戦をたたかったが、私はあの選挙戦で運動の先頭に立つ候補者の役割を再認識した。誰かが決意しなければ、たたかいは始まらない。候補者の役割は、候補者本人が考えている以上にはるかに大きいものだと思った。

 総選挙後もいっそう困難になる雇用情勢、普天間基地に象徴される民主党政権の混迷、小沢一郎氏の強引な国会運営…。民主党が、参議院でも単独過半数になれば、衆院比例定数の80削減も浮上するだろう。こうしたことを考えれば、あの総選挙をたたかった私が再度、挑戦するのが一番いいと思った。

 自民公明政権を退場に追い込んだ総選挙が第一ラウンドなら、来年の参院選挙は、政治を前向きに変える第2ラウンドである。第一ラウンドでは、自民公明政権と真正面からたたかった日本共産党は議席を伸ばすことはできなかったが、今度は、何としても議席も得票も伸ばす。定数2の宮城選挙区でも勝負する。決して、沈むわけにはいかない。私の決意は、固まった。

「財産を無くしたら、また働けばよい。名誉を失えば、その名誉を挽回すれば世の人は見直してくれるだろう。しかし、勇気を失えば、この世に生まれてこなかったほうがよかったであろう」(ゲーテ)


 


私と日本共産党(私の歩んできた道)(その2)

2009-12-10 22:52:14 | 私と日本共産党

 今日の私は、大学卒業後、日本民主青年同盟での11年間の専従職員としての活動、仕事を抜きには考えられない。私は、大学4年生のとき、大手の損害保険会社に就職が内定していた。私と同期の学生も、銀行や証券会社に就職が内定していたので、私も当然そうした方向に進むつもりでいた。日本共産党の活動は、条件は違っても、そうした大企業の中でもできると考えていたし、日本を「ルールある資本主義」にするためには、職場での活動が重要だと考えていた。
 卒業を1ヶ月後に控えたある日、日本共産党の県委員会から、「ぜひ、民主青年同盟の専従職員に」という要請を突然受けた。「青天の霹靂」であり、まったく予想もしていなかったが、3週間、悩み抜いた末に決断した。栃木の両親のことを考えると本当につらかった。両親は、予想通り、猛反対だった。「共産党に就職させるために、大学まで出したのではない」「息子を返せ」と党の事務所にまでやってきた。しかし、最後は、賛成はしなかったが、私の選択を認めてくれた。いまでも、心から感謝している。
  
日本民主青年同盟での11年間は、本当にいろいろなことがあった。
 1991年の湾岸戦争のとき。イラクのクウェート侵略は許せないが、平和外交の努力なしに多国籍軍が空爆をし、何の関係もない人々の命を奪っていいのか。同時代に生きる者として、自分たちがいったいどうすればいいのか、悩みながら、仲間たちと一緒に平和運動にとりくんだ。
 1995年の阪神淡路大震災、薬害エイズ、沖縄の少女暴行事件、普天間基地の移設問題、宮城県の王城寺原への海兵隊の実弾訓練の移転…。激動する90年代に、一人の若者として、何をなすべきか、反戦平和の党の歴史を現代にどう受け継ぐのか、自分の未熟さ、壁にぶつかりながらも、仲間とともに前を向いてがんばろうとした青年時代だったと思う。県内、全国にたくさんの友人を得たことも大きな財産だった。
 民主青年同盟の時代、仲間や先輩から大きな影響をうけたが、私が思想的にも人間的にも最もつよい影響を受けた存在は、故森実一広さん(元民主青年同盟中央委員長)だった。森実さんは、人間的にもあたたかく、若者の苦悩と願いに本当に心を寄せる青年運動のリーダーだった。同時に、実によく勉強をし、マルクス、エンゲルスの古典、哲学者ヘーゲルの文献も読みこなしていたのには驚いた。「青年の苦しみの根本に、大企業中心の政治と青年を苦しめる思想攻撃があり、それを克服する根本が学習である」とよくいわれた。森実さんが京都から民青中央委員会に来られて、実際に、私が直接指導を受けた時期は、長いものではなかったが、一つ一つの言葉と発言に、何度も目からうろこが落ちる思いだった。私にとっては、最高の指導者だった。それだけに、私の最後の民青全国大会の会場を笑顔で別れた3ヶ月後に病気で亡くなるとは…。残念でならない。この文章を書きながら、あらためて、森実さんの遺志を受け継ぐことを誓う。


私と日本共産党(私の歩んできた道)(その1)

2009-11-27 23:00:30 | 私と日本共産党

 

小中学校時代の私は、自分でいうのも変だが、学校の成績もよく、いわゆる“優等生”だったと思う。少なくとも、中学校まではそうした自分の生き方に疑問をもつこともなく、ただ周囲の期待に応えるために、一生懸命に学校の勉強をしていたような気がする。
 そんな私が、自分の生き方に根本的な疑問を抱くようになったのは、高校2年生の秋に高野悦子さんの『20歳の原点』3部作に出会ったことだった。高野さんは私の同郷で、小学校、中学校のちょうど14年先輩にあたり、誰かに薦められるがままに、一気に読み切った。読み終えたときの衝撃は、ここでは表現しきれない。もちろん、当時の全共闘の考え方など、とてもついていけない、共感できない内容も多々あったが、高野さんの自身に向き合おうとする真摯な姿勢に、「自分の生き方が果たしてこれでいいのか」「学校の成績がよくても、自分の中に核となるものがあるのか」「自分に自信がない」「うつろな存在だ」と毎日、真剣に思い悩んだことを思い出す。いま考えれば、「いい子症候群」だったということか。結局、親や先生やまわりの大人に「よく見られたい」と、自分の奥底の気持ちに蓋をして生きてきたということ。でも、そのことにそのとき気がついたことは、幸いだった。あのままだったら、自分は空洞化した人生を送ることになったのだから。そういう意味では、『20歳の原点』は、高野悦子の遺書ではあったが、私にとっては「救いの本」だったといえようか。
これが、私の自分探しの出発点だった。

 

 (栃木県の実家から歩いて10分のところにある宗源寺の高野さんのお墓。実家に帰ると時々、お墓参りに行っています)

 大学は、杜の都仙台へのあこがれもあり、東北大学の経済学部を選択した。ここで、平和運動を通じて、民主青年同盟や日本共産党に出会うことになる。最初、戦前から命をかけてたたかってきた日本共産党への驚き、感銘とともに、それまでの私のイメージの中にあった共産党への偏見、「共産主義=ソ連=自由がない」が混在し、100%の確信をもって活動ができたわけではなかった。しかし、ソ連が社会主義とは縁もゆかりもない体制だったこと、ソ連の横暴を真正面から批判してきた党が日本共産党であったことなどを知り、私の中に、自信のようなものが生まれてきたのかとも思っている。
 私が、日本共産党が理論的な基礎にしている科学的社会主義に信頼を寄せるようになったのは、この理論が単に資本主義批判として力をもっているだけでなく、人間の問題を実に深く洞察していることだった。
 私は、高校時代からの悩み、苦しみが自分のせいではなく、競争主義をあおる財界、自民党政治にその根源があることをマルクスから学んだ。当時、一生懸命に勉強していたのは、科学や文化そのものの価値ではなく、テストで試される記憶の量や操作スピードを身につけ、競争に勝つためだった。ペーパーテストの成績が良くなればなるほど、自分の中の“心の空白”はどんどん広がりつらくなった。日本共産党とマルクスと出会ったことで、「人間には歴史を前に進める生き方があること」「競争のためではなく、社会科学、自然科学(こちらは今でも苦手ですが…)そのものに学問の面白さ、学ぶ面白さがあること」を発見した。そして、マルクスが「人間の精神的豊かさは、社会との関係の豊かさに依存する」と述べているように、多くの仲間、書物との出会いを通して、私は、以前の苦しい時代から抜け出すことができたと思っている。

 私の高校、大学時代と比べても、いまの高校生、大学生は、「超」異常な競争教育にさらされている。そのことに疑問すらもてずに苦しんでいる青年がいかに多いことか。

 

私をかつて苦しめた”怪物”は、いまでは「自己責任論」という武器を身につけて”巨大なモンスター”に進化した。私は、若い世代に、ぜひ、日本共産党と民主青年同盟、科学的社会主義を知ってほしいと心から願わずにはいられない。(以下、つづく)