今日は、カール・マルクスの生誕200年の日

2018-05-05 11:53:04 | 科学的社会主義

 

5月5日、子どもの日。穏やかな日差しです。

今日は、ドイツ出身の思想家・革命家のカール・マルクスの生誕200年の記念日です。ヨーロッパの新聞や雑誌では大きな話題となり、ドイツの大統領も、マルクスの多面的な業績や現代的な意義について触れる講演を行ったことが今日の「しんぶん赤旗」にも取り上げられています。

私も、マルクスの著作や関連書籍は、学生時代からずっと読んできました。私の思想形成にとって、なくてはならない人物の一人だったことは間違いありません。これからも、マルクスを著作は、もっと深く読みこなさないといけないとも思っています。

21世紀を迎えて、マルクスの思想と生涯から何を学ぶのか。私は、マルクスが述べたことを固定したものではなく、もっと柔軟に発展的にとらえて解釈してもいいのかなと最近は思っています。

マルクスは、労働者階級の解放に人生を捧げたわけですが、マルクスの時代には、まだ普通選挙権も一部の国でしか実現していませんでしたし、今日でいう「市民と野党の共闘」もありませんでした。

歴史を振り返ってみると、時代の変化に対応できた組織は生き残り、対応できなかった組織は消滅してゆきます。企業の世界でも、政治の世界でも同じです。本当に私たちが時代の変化に対応できているのか、常に自己点検が求められます。

欧米でも日本でも、マルクスへの注目が高まっているこの時代。現実をしっかりと踏まえつつ、大きなビジョンと展望をもって日々をすごしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


共産主義の理念を考える

2017-11-01 15:19:43 | 科学的社会主義

  今回の総選挙。前原氏、小池百合子氏による野党分断(バックには巨大な力が働いていると思われるが)という逆流の中、共産党は身を挺して市民と野党の共闘を守り抜き、立憲民主党、共産党、社民党で69議席を確保。最悪の事態を避けることができた。そのことは、選挙後、多くの有識者から共産党へのメッセージにも現れている。

 同時に、共産党自身の反省としては、日常的に共産党の理念を有権者に知らせていく活動がいかに不足しているのか、いかに若い世代に共産党が知られていないのか、痛感させられる結果となった。

 これは、もちろん、私自身の反省でもある。

  「共産主義」とは、本来、コミューン、共同という意味であり、コミュニティセンターなど、日常生活に定着している言葉である。しかし、この言葉が政治的意味で使われると、旧ソ連や中国などを連想させ、「一党独裁」「自由と民主主義の抑圧」など、暗いイメージがつきまとってくる。

 しかし、このイメージは自然にはなくならないし、歴史の事実は消せない。そうであるならば、どうして「共産主義」にマイナスイメージがこびりついたのか、旧ソ連や旧社会主義国はどうして破たんしたのかなど、事実に即して徹底して明らかにする必要があろう。

  科学的社会主義の創始者であるマルクス、エンゲルスは、生涯を通じて、革命論を発展させ、最終的には、議会を通じての多数者革命、平和革命が多くの国々で主流になることを明らかにした。日本共産党は、綱領で政党・団体・個人による統一戦線によって社会を変革することを宣言している。実際、今日、市民と野党の共闘をつらぬく日本共産党の姿勢は、この党の綱領路線から来ているものであり、一時期の場当たり的な戦術では決してない。同時に、これは、日本共産党という世界でもユニークな共産党の路線というにとどまらない。ここには、科学的社会主義の本来の姿が体現されているのだ。

 問題は、「日本共産党の野党共闘への姿勢は評価するが、背景にある『共産主義』はやはり一党独裁であり、不安だ」という有権者の率直な思いだ。ここを事実と理論で納得していただかないと支持は広がらないと思っている。

  現存の自称「社会主義国」、崩壊した自称「社会主義国」は、なぜ一党独裁だったのか。それは、世界の共産党が出発点において、当時のコミンテルン(世界共産党)の支配下(コミンテルン〇〇国支部という形態だった)にあったことに原因がある。コミンテルンは、レーニンの革命論の誤り(マルクス・エンゲルスの理論からの逸脱)から、人類の英知である議会制度を敵視し、資本家を排除するソビエト型の政治制度を世界に押しつけた。それが、スターリン時代に極端に肥大化し、強権的なやり方で世界の共産党に強要された。それに反する動きは、徹底的に抑圧された。自由と民主主義を弾圧、抑圧する体制は、1953年にスターリンが死去し、ソ連国内でスターリン批判がなされたときにも、この誤りの根本は総括されず、1989~90年のソ連東欧の崩壊まで、継続することとなった。

 日本共産党は、試行錯誤を経ながらも、コミンテルンや旧ソ連からの干渉とたたかい、彼らとは一線を画してきた。議会内外の運動と連携し、議会を通じて多数の国民の支持を得るという路線を歩んできた。それは、自由と民主主義を何よりも大事にし、多数者の世論と運動で社会を変えていくという、科学的社会主義(共産主義)の本来の立場を歪める者とのたたかいでもあったと思う。

 一党独裁とは、本来の科学的社会主義とは無縁なものである。複数の政党が国民の前で自由な論戦を交わし、国民の間でそれぞれ草の根活動を強めることなしに、国民主権の政治が発展することはありえない。

  総選挙の結果から、いまそんなことを毎日考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『資本論』第一巻150年の大特集

2017-04-15 16:20:43 | 科学的社会主義

今月の雑誌「経済」5月号は、「資本論」第1巻150年の大特集です。不破さんの新連載「『資本論』全三部を歴史的に読む」が開始されたので、再購読をして、読み始めました。来月からは、若手の専従者とともに不破さんの「『資本論』全三部を読む」の集団学習も始めるので、その準備も兼ねて、読み始めています。

この間、ブログでも紹介した『対話する社会へ』の著者である暉峻淑子さんもエッセイ「私と資本論」に「希望をあたえてくれた労作」と寄稿しています。

「『資本論』が150年間も、研究者や大学のゼミや、労働者の勉強会でまじめに読まれ、資本主義社会の解明に光をあてているのも、理論と事実と行動の三方面からの分析に資しているからだと思う。本というものは、これだけのものを遺すことができるのだ、という希望をあたえてくれた労作だとも言える」と紹介しています。

私が「資本論」第一巻を読み始めたのは、大学1年生の3月14日。ちょうど、マルクス没後100年という日であった。しかし、結局、第1巻を読み切るのにも何年も費やしてしまった。「難攻不落」というのが「資本論」の印象だった。いまは、不破さんが「資本論」の道しるべを示しているし、「資本論」を読む環境としては、実に整っているといえる。問題は、読み切るという意思を持ち続けることができるかどうかだろう。若い専従のみなさんと試行錯誤してみたい。

 


ヘーゲル「小論理学」を読む

2016-11-14 22:11:02 | 科学的社会主義

今夜は、事務所の宿直。明日は、第7回中央委員会総会で27大会決議案が発表されます。すでに、文書は事務所に届いているので、ぱらぱらと眺めましたが、明日の午前中に熟読しようと思います。

暇を見つけて読み進めているのが、「ヘーゲル『小論理学』を読む(第2版)」(広島労学協・高村よしあつ著)。ヘーゲルは、じっくりと読んでみれば、世間で言われているように「客観的観念論者」というレッテルで切り捨てられるような哲学者ではないことは明らかだと思います。特に、真理に対する誠実さ、真剣さは、特筆すべきものがあります。

ヘーゲルは、理性に対する無限の信頼から、精神、自然、社会など世界のすべてについて真理は認識できると考え、この立場から、真理の認識から目を背ける態度を厳しく批判しています。ドイツ古典哲学の第一人者でもあったカントに対しては、客観的真理は認識できないとするカントに対しきびしい態度をとっています。

ヘーゲルは、真理に対して無関心であっても、「さまざまな技能や知識を身につけたり、有能な官吏になり」、社会生活を続けることはできるだろうが、ただ生きることとよりよく生きることは違う。真理を認識するために努力することは、理性的存在としての人間にとって、もっとも人間らしい生き方なのだと語っています。 

テレビのゴールデンタイムでは知識の量を競うようなクイズ番組が毎日のように氾濫しています。高学歴の芸能人が、知識の量を競い合っていますが、たくさんの知識をもっていることと、真理を探究し、よりよい生き方を追求することとは全く別の問題です。物事の本質を追求する哲学を学ばずに、物事の表面だけを追いかける薄っぺらな「学問」にどれだけの意味があるのでしょうか。はなはだ疑問です。

私は、中学生のとき、社会科の先生から「加藤は、ドイツの哲学者ヘーゲルに(外見が)似ている」と授業中に言われたことがありました。もちろんそのときは、ヘーゲルという人物がどんな人物かは全く知らなかったわけですが、いま考えると、ヘーゲルと私との間には、きっと何かの縁があったのでしょう(それこそ、非科学的でしょうか…)。

 

 

 

 

 

 


若い世代は真理の探究を切望している

2016-09-06 16:47:43 | 科学的社会主義

先日、若手の常勤者を対象に「科学的社会主義」の講義を4時間行った。中央の学校を受講したこともある若手の専従者を相手に哲学、経済学、未来社会論などを深めて突っ込んで話をするのは、思っていた以上に大変だった。講師の反省点もあるが、それ以上に、科学的社会主義の世界観の講義への反響が想像していた以上に大きく、私自身も新たな発見があった。最近、党内でもあまり語られることが少なくなった真理観(不可知論と反映論、相対的真理と絶対的真理、事実の真理と当為の真理)が、若い活動家に感動をもって受け止められた。いま、若者の心をつかむうえで、科学的社会主義の世界観(哲学)を抜本的に発展させることが、この分野の一つの大きな課題だと思っている。