ヘーゲル「小論理学」を読む

2016-11-14 22:11:02 | 科学的社会主義

今夜は、事務所の宿直。明日は、第7回中央委員会総会で27大会決議案が発表されます。すでに、文書は事務所に届いているので、ぱらぱらと眺めましたが、明日の午前中に熟読しようと思います。

暇を見つけて読み進めているのが、「ヘーゲル『小論理学』を読む(第2版)」(広島労学協・高村よしあつ著)。ヘーゲルは、じっくりと読んでみれば、世間で言われているように「客観的観念論者」というレッテルで切り捨てられるような哲学者ではないことは明らかだと思います。特に、真理に対する誠実さ、真剣さは、特筆すべきものがあります。

ヘーゲルは、理性に対する無限の信頼から、精神、自然、社会など世界のすべてについて真理は認識できると考え、この立場から、真理の認識から目を背ける態度を厳しく批判しています。ドイツ古典哲学の第一人者でもあったカントに対しては、客観的真理は認識できないとするカントに対しきびしい態度をとっています。

ヘーゲルは、真理に対して無関心であっても、「さまざまな技能や知識を身につけたり、有能な官吏になり」、社会生活を続けることはできるだろうが、ただ生きることとよりよく生きることは違う。真理を認識するために努力することは、理性的存在としての人間にとって、もっとも人間らしい生き方なのだと語っています。 

テレビのゴールデンタイムでは知識の量を競うようなクイズ番組が毎日のように氾濫しています。高学歴の芸能人が、知識の量を競い合っていますが、たくさんの知識をもっていることと、真理を探究し、よりよい生き方を追求することとは全く別の問題です。物事の本質を追求する哲学を学ばずに、物事の表面だけを追いかける薄っぺらな「学問」にどれだけの意味があるのでしょうか。はなはだ疑問です。

私は、中学生のとき、社会科の先生から「加藤は、ドイツの哲学者ヘーゲルに(外見が)似ている」と授業中に言われたことがありました。もちろんそのときは、ヘーゲルという人物がどんな人物かは全く知らなかったわけですが、いま考えると、ヘーゲルと私との間には、きっと何かの縁があったのでしょう(それこそ、非科学的でしょうか…)。

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る