今回でこのシリーズも最終回にしたいと思うので画像数が多くなりそうです。最後は実は観音崎から移動して、観音堂で観察やちょっとした秘密?見たいな話を聞いた後また移動し、さらに車を降りてから↓のようなジャングルの中を無理やり進んで凄い物を見せて貰いました!
何を見に行ったかと言うと↓のアーチ状の石橋です。ジャングルの中の人工物としてまだまだ迫力ある姿でたたずんでいました。滅多に誰も近づかず忘れ去られたようなこの橋は、実は石垣の歴史に必ず出てくるあの明和の大津波の後減ってしまった島の人口を増やすため、竹富島から無理やり移住させられた523人が最初に住んだ村、冨崎村(宇良村)の物なのです。今では竹富島関係の戦跡巡りの時に年に一度くらい(最近では07年4月だと思う)見に来る人がいる程度です。
かなり立派な造りですが、なんせブッシュに覆われて、本当は全体を撮りたかったのですが、ちょっと引くと、もうレンズと橋の間に木々が沢山入って何だか分からなくなってしまうので全景は写しませんでした。20mmくらいあれば撮れるかも?
冨崎村(宇良村)自体は土地が良くなかったので作物が育たず1785年には白保の盛山(ムレーマ)に村を作ったそうです。しかしそこも1873年に人口が17人になり、またも白保や宮良から23人を移住させたが、マラリアや人頭税などで1917(大正6)年に廃村となったようです。
やっぱり無理やり連れて来ても上手くはいかない、と言う事でしょうか?辛い話ですね。それにしてもこんな大切なものが市の文化財に指定されていないどころか、このシャングルの回りの斜面もかなり切り開かれ海側から徐々に家が建ち始めています。先人が、「ここの土地は良くない」と放棄した場所だと言うのに!? それにしてもこの石橋、名蔵の古墳ぶりに興奮しました!
追記
この時参加していた人の話だと、「造りにコンクリートを使っている部分があるのと、その時代の物にしては技術が凄すぎる」との事なので、当時の物では無いだろうと言う意見でした。ただそれも多分と言う事で、本当の所は分かりません。石垣竹富郷友会の方達が以前、「先人移住地探訪」と言うのを2006年、2007年にも「戦跡巡り」と言う事でやっているので一度お聞きしに行って見ようかと思っています。
色々調べていくうちにオイラ的には、市街地~崎枝~川平まで繋がっていて大田節と言う歌の一節にも出てくる、岳端道・タキハジィミチィ(万勢岳の端にあるからと言う説)と言う当時の幹線道路の一部だったんではないか?と思っています。ちなみにこの道路は今でも一部残っているそうです。