ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

フローチェッカー

2011年10月30日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

チクセントミハイ博士が提唱した「フロー理論」。
ゴルフでも、ゾーンに入る、とか、フローな状態にある、とか言われるココロの在り方がある。
しかし、フロー状態は、ゾーンのようにつくり出すことが難しい状態ではない。
たとえば、心の状態を最も反映している感情に目を向け、自分の心の状態を観察してみる。
簡単にいうと、マイナスの感情が多ければノンフロー状態、プラスの感情が多いとフロー状態、となる。
フロー状態は特別なものではない。

( ↓ ) 著者がメンタルコーチを勤めるあるプロゴルファーは自分の感情に気づくため、このリストを常備してラウンドするそうである。
    書き出すことで、自分の感情を客観的に観察できるようになる。
    色を塗るのは、状況に合わせて、その状況なりのフロー状態をつくり出せるようになるための訓練になるから、とのこと。   
    マークを時系列で結んではいけない、そうだ。
  (心の状態は連続するとは限らないことに気づき、
   出来事に支配されるのではなく 自分次第で変えてゆけることを自覚するために。)

このリストをそのまま使わなくても、
  いつもやってる魔法のスコアカードを、結果ではなく、感情の得点をつけるようにしてみると面白いかもしれない。 
  (魔法のスコアカード/ リーダーズ・ボードの発想

「心の持ちようは、常にも兵法のときにも少しも変わらずして、
 心を広く直にして、心のかたよらぬように、心をまん中に置きて、、、
 うへの心よはくとも、そこの心をつよく、、」
宮本武蔵の五輪書の言葉。
バイ・ブレインというと新鮮で奇異に感じるが、
感情と精神を分けて、精神を鍛えることで感情をもコントロールしてゆく、というのは日本人には馴染みやすい考え方でもある。
(バイ・ブレインというのは、バイリンガルが2つの脳系統を持つが如く、もう1系列の回路を作りましょう、
という西洋的発想になっていておもしろい。 
 バイリンガルは二重人格?~ 英語脳で無意識レベルを強化する )

近代社会においては、たしかに結果を出すための「スキル」は目的別に沢山あるが、
目に見えにくい、心の状態やプロセスを取り扱う「スキル」(ライフスキル)は疎かにされがち、というか扱い方がよくわからない。

人間の脳は「認知機能」を持っていて、自分の周囲の状況や出来事に対して「意味づけ」をすることによって、
行動のレベルを上げ、進化した。
しかし、この「意味づけ」が、時として「とらわれ」や「揺らぎ」の感情を生じさせ、
時にパフォーマンスの阻害要因となる。
「雨が降っている」状況を脳が認知すると、傘をさすというパフォーマンス内容を決定する一方で、
雨は嫌だなぁという意味づけを勝手に行ない、マイナスの感情をつくりだし、「ノンフロー状態」で過ごすことにつながる。
「雨には本来は意味などついていないということを知っている」、
それだけで、認知の脳からの解放が発生する、という。

日日是好日(にちにちこれこうにち)
 ~ いろいろな出来事は起こるが、良し悪しをいうことではない。

どんな日にも、本来意味などついていない。
人があとから「意味づけ」したものに支配されているだけ。
「心の状態は自分でつくり出せるもの」。「自分の心は自分で決められる」。
心的現実性こそが重要である )

しかし、そうは言っても、ネガティブな認知を無理にポジティブな認知に変えることには限界がある、とし、
心にフロー化を起こす新しい脳の機能(バイ・ブレイン)を形成するための「ライフスキル」を鍛えることを
著者は提言する。Flow-er (フローな人)の薦め。

結果だけを見るのではなく、目に見えないものを重視する。
結果に至るプロセスに価値を置き、時間の質を向上させるライフスキルに着目する生き方へのパラダイム・シフト。

心の状態とパフォーマンスは24時間 私たちを拘束している。
ただ、何をしたのかに着目するのではなく、"どんなマインドで過ごしているのかが重要"。
同じ24時間の中で、ただ過ぎてゆく時間(Chronus Time)ではなく、
いかにしてフローな時間(Caerus Time)を生きてゆくことができるか。
フローな時間は、人間の内的な時間であり、機械的な時間と違って、速度を変え、止まったり、緩やかになったり、する。

著者は応用スポーツ心理学の立場から、さまざまなスポーツ選手に言及しているが、
イチロー選手についてのくだり、なるほどそうだったのか、と思った。

言葉の選択と言えば、イチロー選手を見習いたい。
彼がインタビューにゆっくり答えているのは、みんなにどう思われるかではなく、
自分の耳にどんな言葉を入れて心の状態をフローに保つのか、
ということに集中している証なのである。
 

「第二の脳」のつくり方
辻 秀一
祥伝社

 

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レディマドンナの一週間

2011年10月30日 | お気に入り♪(ビートリー)

インプロヴィゼーションといえば、この曲の間奏もそれっぽい。

レディ・マドンナの一週間。
Tuesday afternoon is never ending 火曜の午後はだらだらと長く
Wednesday morning papers didn't come 水曜の朝は朝刊も来なかった
Thursday night your stockings needed mending 木曜の夜にはストッキングは穴だらけ

おいおい。

日曜日に市場に出かけ・・・
月曜日にお風呂を焚いて、 
火曜日にお風呂に入り
水曜日に貴方と会って、
木曜日は送っていった
金曜日は糸巻きもせず
土曜日はお喋りばかり

友だちよ これが私の一週間の仕事です。

こらこら。

一週間/東京マイスタージンガー

 

 

なんだか美味そうにみえた。

 

 

柿の木通りを駆け抜ける秋の日。

なぜかサクラが咲いていた。

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弦と管のインプロヴィゼーション

2011年10月29日 | 日記

弦楽器と管楽器の音を勘違いすることがある。

ポールのOnce upon a long agoのエンディング、歌のメロディとは違う旋律が現れるのだが、
プロモーションビデオを見るまでは、ずっとテナーサックスの音かなにかだと思っていた。

ポールがふいに別のメロディをハミングしてみせたりするように、
曲の中にふっと、別の世界が立ち上がるようなやつにはインスピレーションを感じて、はっとする。

1985のエンディングもそうだし、ビートルズのIn My Lifeの間奏のピアノだって、
単なる間つなぎではなく、別の音楽がふっと降りてきたよな感じだ。
ベースになる曲の上でまた違った世界が湧き出ている。インプロヴィゼーション的と言ってもいいと思う。

松岡正剛氏の記事にいいことが書いてあった。(「即興の精神がすべての思想と対峙する」

インプロヴィゼーションは即興である。即興のことではあるが、実験音楽や前衛音楽とは同義ではない。
実験性と前衛性とは、まったく異なるものだとみたほうがいい。
それらがときにインプロヴィゼーションである場合はあっても、インプロヴィゼーションが実験や前衛であるとはかぎらない。
むしろインプロヴィゼーションは音楽の本来の探求であることが少なくない。
こうしたインプロヴィゼーションが世界中にある。
民俗音楽の片隅にも、現代音楽の脇にも、ジャズの途中にも。
これらを見過ごしてはいけません。
いまこそ、そこに駆けつけるべきだ。
世界遺産もいいけれど、こうした体と音とその日の時々刻々による全き自由こそ、何かにレジストされるべきなのだ。

インプロヴィゼーションは偶在性にも似ている。(生命と偶有性、終章

月曜日は出張で来京した弟と宮崎地鶏でイッパイやり、
10月から始めることになったプロジェクトの準備に忙殺されること深夜24時に及ぶ日があり、
オフィスのレイアウト変更で早帰りのはずの金曜日には長い打合せ。
その後 ささやかに立ち飲みバーで一杯やる。
なんだかインプロヴィゼーション的でいい日常ではないか。
課題は山積み、巻き返しを図らないとすでに遅延気味のあやうさを抱えたプロジェクト。
ひとの評価なんて気にしないでおけばいい。「ひとつでも善を積み増しすること」、そういう気持ちでいこう。
また新しい仕事の節目の記念に。

 

右はマッシュポテトの上にパティー状の肉がのったやつ。
昔、肉に合うのは絶対ジャガイモだと言うアメリカ人と、ライスにきまっている、という私とで、意見の一致を見なかったことがあるが、ジャガイモとひとくちに言っても奥が深い。
今なら、ジャガイモ(マッシュポテト)が添えてあって、お酒でないなら、塩をふったライスで食べるのが一番かも、ということになる。

( ↓ ) 弦楽器の音と管楽器の音がクロスオーバーするところ、なるほど、似ているといえば似ている。勘違いするわけだ。
    てっぺんから爪先まで全てでなくても、ふっとインスピレーションを感じる音が顕現するようなのはいい。

Jan Garbarek In Praise Of Dreams

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場を考える ~ 意識や生命の見える化に成功した。

2011年10月24日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

生命の不思議をどのように見える化するのか、について。
「場」を考える ~ 意識や生命の見える化 (1)の続編をようやく。
今回は、いくつかの文献を通して、見えてきたことを少し縦断的に意味づけていこうと思います。

神秘を創造するシンプルな仕組みで取り上げた「ラングストンの蟻」、
目からウロコでした。
無秩序に動いていたアリが1万回を超えたあたりで突然、
意志を持ったかのように秩序ある動きに変身する。
アリは同じルールに基づいて動いているだけなのに、一定の回数を経て、ルールが劇的に視覚化される。
生命の誕生に立ち会ったかのような、無秩序から秩序が生まれる瞬間。

アリが動く空間を支配しているシンプルなルールこそが「場」であり、「場」の中で生命は生まれるのだ。

・空間を細かく最小単位の粒まで切り刻んでいくと、空間はこのような「場」としてイメージできる。
(それぞれの粒は、ポテンシャル・エネルギーを持った「場」。すなわち粒子であると同時に波動。
 波動は粒子中にある針で表されているが、各々の粒子が呼吸するように(オシロスコープで測ると波形になるように)粒が大きくなったり小さくなったりする様子をイメージしたほうが分かりやすいと思う。)
 

・さて、空間の最小単位ではミクロに過ぎるので、生命が現れるマクロのもっと大きな世界に寄ってみる。

・水(H2O)は水素原子2つと酸素原子1つが、お互いの電子を共有することで結合したもの。
 共有される電子が偏った動きをしているがために、ミッキーマウスの耳のような形になる。
 結合すると、共有された電子は結合部分の周囲を廻るようになるので、電気量が偏り、
 電気双極子と呼ばれる、 プラスマイナスの電気を帯びたミッキーになる。

・プラスマイナスの電気を帯びたミッキーの集まり(水)、

 ・より大きな電子双極子のまわりで、ミッキー(水)は向きがそろって、同じ動きをするようになる。

 

・シュレンジンガー曰く、
"生命とは量子論的な秩序が巨視的スケールにまで現れてくる現象に他ならない。"
 ミッキーの頭は、自然の中の光の波動、量子電磁場の調和のとれた波動のなかで、
 揺らぎながら、秩序ある振る舞いをするようになる。
 生命の誕生だ。「場」の中、波動の中で、秩序ある調和が生まれる瞬間がやってくる。

くどいが、やはり「電子コーディネーター説」に一票、である。
ここでも、生命誕生においても、電子の振る舞いが鍵になっている。
秩序や無秩序について語る時には、物質を形成するのが電子の働きなのだから、あたりまえか。

石や木や水と私たちの関係について
つながってきた ~ 真実への目覚め

シュレジンガーは興味深い言葉をいくつも残している。

・" 生命のない物質も、生命のある物質も、どちらも10の23乗個という膨大な原子や分子の集団であるという点では同じ。生命のある物質では、その集団が整然と秩序正しく運動し、その秩序が保持されていることに特徴がある。"

・"生物はマイナスのエントロピーを食べて生きている。"

「エントロピー増大の法則」は、マクロの世界での物理の法則。
 ミクロ(量子論)の世界では素粒子のふるまいに秩序も無秩序もないが、
 マクロの世界では、時間と共に秩序は失われていく。

我々は、生命を維持するために、失われていく秩序を保持するために、
マイナスのエントロピーを食物として摂取する必要がある。
マイナスのエントロピーは自然界のなかで、生き物にしか存在しないらしい。

( ↓ ) 久しぶりに「時間はどこで生まれるのか」を紐解く。
    マクロの世界では、エントロピーが増大するほう(下向き)にしか時間が流れない。
    マクロの世界では、時間の経過は秩序が失われていくことを意味する。
    時間とともに、秩序が形成されていくこともあり得るような気もするが、エントロピー減少はない、とされる。
   (たぶん、言葉遊びになってしまっていて、エントロピー増大の法則とはモノサシが違うのだ。)

これはエントロピー減少の法則が成立することを示しているのではないか(・・?
ほんとうにエントロピーは増加するばかりで、無秩序に向かうものなのだろうか。→生命に宿る黄金比とらせんエネルギー
もう少し勉強が必要だ。

    

われわれが秩序に価値を見出すのは、生命が秩序そのものだから、とのこと。
生命、美しさ、そういったものは、(マクロの世界で)一方向にしか流れない時間とセットになって私たちには感じられる。

時間というのは、我々の現実世界では、生命と表裏一体のセットになったモノサシとして存在する。

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天上の月、水上の月 (1Q84 その2)

2011年10月22日 | 読書ノート

歴史は夜作られる、というが、
この本に
はポルノ小説か、と思えるようなシーンが多々でてくる。
大事なものを撫で上げている下りで、大事なことが語られたりする。
ほんとうは、そんなところにあるのだ、たぶん。
日常生活的には、建前を装うスーツが汚れてはいけないから、避けられる水溜まりのようなものになってしまうが、
そこに世界が映っている。

そのような水溜まりをよけながら、書き出したところで味気ないような気もするのだが、
差し当たりブログ上の目的には差し障りがない。
(水溜まりでちゃぷちゃぷするには本物を読んだらいい。)

アインシュタインは晩年になって、インドの大詩人タゴールに
" 誰も見ていない時は、空にかかる月は存在しないのでしょうか。 "と言ったらしいが、
量子力学が検知したミッシング・リンク
ここでは月が二つ存在する世界が描かれる。

夜になって空に浮かぶ二つの月、
もう一方の月は小さく、緑色がかっていて、二つの月は重なりあうことはない。
ここはここではない世界だな、と分からせてくれる しるし。
そんな風景が、青豆の世界にも、天吾の世界にも現れる。

<青豆の章から>

空には月がふたつ浮かんでいた。
世界がどうかしてしまったか、あるいは私がどうかしてしまったか、その どちらかだ。
瓶に問題があるのか、それとも蓋に問題があるのか?

その夜も月は二つだった。
青豆はブランデーのグラスを手に、その大小一対の月を長いあいだ眺めていた。
もしできることなら、彼女は月に向かって問いただしてみたかった。
どういう経緯があって、突然あなたにもうひとつの緑色の小さなお供がつくことになったのかと。
もちろん月は返事をしてくれない。
月は誰よりも長く、地球の姿を間近に眺めてきた。
おそらくはこの地上で起こった現象や、おこなわれた行為のすべてを目にしてきたはずだ。
しかし月は黙して語らない。冷やかに、的確に、重い過去を抱え込んでいるだけだ。
そこには空気もなく、風もない。
真空は記憶を無傷で保存するのに適している。
誰にもそんな月の心をほぐすことはできない。

ダウランドのラクリメを聴きながら、老婦人のタマルが、青豆にこんなことを語るシーンがある。
「服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。
人間というのは結局のところ、遺伝子にとってのただのキャリア(乗り物)であり、通り道に過ぎないのです。」

何度か引用するが、私は「電子コーディネーター説」を実におもしろい考え方だと思っている。
石や木や水と私たちの関係について
つながってきた ~ 真実への目覚め
世界の総量は変わらない。
物質化(現実化)するのは電子を伴った場合であって、
電子を伴わない陽子や中性子は物質化(現実化)しないから、この世に存在しないように思われるが、
電子を伴ったときには、再びこの世に姿を現す。
私たちは、そのようにして物質化した生命体であるが、
私たちを構成している有機物も、さらに細かい中性子や陽子レベルまでいけば、
太古から宇宙に存在していたのと同じもので、その組合せが無限に異なるだけのリサイクル、再生品だ。
私たちの意識や心は見えないし、
空っぽな無であるはずの真空でさえ(ポテンシャル)エネルギーを持っている(宇宙の始まりのタネ)が、
物質化(現実化)しない陽子や中性子の存在で、それらの不思議を説明することができる。
人間に共通の心のあり方や、理性や欲望についても、
もとの粒粒が同じなのだから、根本的なところでは同じなのだと納得がいく。

<天吾の章から>

ガールフレンドはその世界についてしばらくのあいだ考えていた。
「ねぇ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知ってる?」
「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい点まではわからない。」
「insaneはたぶん、うまれつき頭に問題のあること。
それに対してlunaticというのは、月によって、つまりlunaによって、一時的に正気を奪われること。
十九世紀のイギリスでは、lunaticであると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。
その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で、
信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。
つまり、月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ。」
「それで私が言いたかったのはね、月が二つも浮かんでいれば、人の頭はますますおかしくなるんじゃないか、ってこと。
潮の満ち干だって変わるし、女の人の生理不順も増えるはずよ。まともじゃないことが次々に出てくると思う。」

月というのは、特に西欧では魔物的なイメージでとらえらえるようだ。
ベートーベンの月光ソナタも、美しいがどこか不気味な雰囲気をたたえている。
前に、狂気めいたラインが印象的な
Monkberry Moon Delight ( 尽きせぬ悦び )を採り上げたが、
今日は、有史以来、連綿と続く叡知の粒粒を称える歌、水上の月。

Paul McCartney & Wings - Warm and Beautiful (1976) (Remaster w/Lyrics) [1080p HD]

A love so warm and beautiful / 温かく美しい愛、
stands when time itself is falling, / 時が流れ落ちても そこに在る
A love so warm and beautiful , never fades away. / 決して消えて失くなりはしない 
Love, faith and hope are beautiful / 愛、誠実さ、希望、この美しきもの
when your world is touched by sadness, / あなたの世界が悲しみに襲われたときであっても
To each his own is wonderful, / それぞれが、持っているものの素晴らしさを知る
love will never die. / 愛が死ぬことはない
Sunlight's morning glory / 太陽光の溢れる朝の栄光は
tells the story of our love, / 私たちの愛の物語を告げ
Moonlight on the water / 水上に映る月光は
brings me inspiration ever after. / 私に永遠のインスピレーションをもたらしてくれる
 
 

1Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社
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1Q84 

2011年10月22日 | 読書ノート

この本はダブル・ファンタジーのように青豆という女性の物語と、天吾の物語が、交互に対になって流れていく。

小説は前から後ろへ、登場人物とストーリーの展開に沿って読んでいくもので、
飛ばし読みや、拾い読みでさらっと読了にしてしまっては意味がないといわんばかりのフォーマットを感じさせるのだが、
このように主題分けがなされて、章立てされると、ここには何が書いてあるんだろ、もぞもぞ、と読みたくなってくるから不思議だ。

天吾はどことなく冴えないやつだが、
青豆はジョン レノンのShe said、she saidみたいな女性で、自分の欲望に忠実でいながら、インテリジェンスに溢れている。

ことに及んで、このようなセリフをいう女性がいるだろうか。
「そうすることが必要なの。生身の人間としてバランスをとっておくために」
「チベットにある煩悩の車輪と同じ。車輪が回転すると、外側にある価値や感情は上がったり下がったりする。でも本当の愛は車軸に取り付けられたまま動かない」
 

1Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社

青豆のキャラクターにも興味を持ったが、
Amazonの書評をみて、これは私宛のメッセージを持った本だと感じた。
視点が、物の見方、切り口がおもしろい。

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。
そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。
心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、
「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

4:30過ぎに聞こえてくるマイルスのトランペットのような咽ぶような音を発見したとき、これは凄いと思った。
ジョージ ウェルズの1984にインスパイアされて作られたというポールの1985。

Paul McCartney Nineteen Hundred and Eighty Five lyrics

~ たとえばこんな風に考えてみることはできないだろうか
  - 問題があるのは私自身ではなく、私をとりまく外部の世界なのだと。
  狂いを生じているのは私ではなく、世界なのだ。
  どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。
  つまり、今ここにある私の意識はもとあった世界に属しているが、
  世界そのものは既に別のものに変わってしまっている。

~そこでおこなわれた事実の変更は、今のところまだ限定されたものでしかない。
  新しい世界の大部分は、私の知っているもともとの世界からそのまま流用されている。
  だから生活していくぶんには、特に現実的な支障は今のところほとんどない。
  しかし、それらの「変更された部分」はおそらく先に行くにしたがって、
  更に大きな違いを私のまわりに作り出していくだろう。誤差は少しずつ膨らんでいく。

(「Book1 第9章(青豆)風景が変わり、ルールが変わった」より)

 ゴルフとおんなじだ。
インパクトでの僅かな誤差が200~300Y先では大きなブレ幅となって、時には致命的なOBを招く。

ここには量子論を押し広げたパラレル・ワールド的な不思議な世界観がある。
現実として選択されなかったが、現実になる可能性を持っていた世界がいくつも枝分かれして宇宙を形成しているという多世界解釈的な考え方。

~ もちろんすべては仮説に過ぎない、と青豆は考えた。
  しかし今のところ、私にとってはもっとも強い説得力を持つ仮説だ。
  この仮説に沿って行動しないとどこかに振り落とされてしまいかねない。
  そのためにも私が置かれているこの状況に、適当な呼び名を与えた方が良さそうだ。
  かつての世界と区別をつけるためにも、そこには独自の呼称が必要とされている。
  1Q84年 ― 私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう。青豆はそう決めた。
  QuestionのQ。疑問を背負ったもの。
  好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。
  私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。空気が変わり、風景が変わった。
  私はその疑問符つきの世界のあり方に、できるだけ迅速に対応しなくてはならない。
  その場所のルールを一刻も早く理解し、それに合わせなくてはならない。

図書館で借りてきたBook1を読了したが、Book2は貸出中、Book3は発売されてそんなに間もなくて、まだ図書館に入庫もないみたい。
この本、きわどいポルノまがいの描写も多くて、文庫本ならまだしもハードカバーをでんと本棚に置いておきたくはない。

しかし、内田樹先生に感化された(アデルの倍音)のか、
現実の世界とは違う「異界のひと」たちが語る言葉は何か私たちの世界の成り立ちについての重要な情報を含んでいるような気がしてくる。
たとえ、合理的な意味などそこになくても、
「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さや
「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかえがえのない快楽を見出すことができる人、
になるためのメッセージを探す愉しみがあるような気がする。

というわけで、感化された感のある私は、少なくともBook3まで、このテーマを取り上げて、
メッセージを探し続けることになると思う。

 冒頭のシーンに続き、「1Q84年」というテーマが提示されるシーンにも、
ヤナーチェクのシンフォニエッタの音楽についての下りが登場するが、あまり似つかわしい音楽でもない。

同じファンファーレ的小品で、あまり一般的には知られていないであろう、
アルフレッド・リード作曲のA Little Concert Suit からIntrada。
これを始まりのファンファーレとして添えておこう。
(好きな東京佼成ウインドオーケストラのクリアで端正な演奏にこれは近い。)

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秋の日のバタフライ - I Do♪

2011年10月16日 | 日記

先週の週末、ポール マッカートニーが結婚した。

個人的にはリンダ マッカートニーとスタートした頃が、ホームというか原点のように思えるのだが、今度のナンシーさん感じがいい。
麗しのリンダ・マッカートニーです(~-~)

秋の日に咲く、清楚に鮮やかなバラのようだ。

Paul McCartney New Wedding - Ex Beatles Marries Nancy Shevell in London

リアルタイムを過ごすファンならば、祝福して然るべきなのだ。

2011年の秋を称えよう。今日のコンセプトは「秋の日のドラゴンフライ」の続編だ。

 

あ、ローズ・ヒップだ。

 

ヒップ ! ヒップ ! ヒップ !再び、と思ったが、
桃尻というより梅干しだった。

質素でつつましいのが好みなのだ。

昨年の秋、紅葉園で教えてもらったカクキューの八丁味噌レシピの田楽で、秋を祝う。
(文字色も八丁味噌風だ。)

11月23日は「紅葉(もみじ)の日」だった。忘れないようにしよう。ブログに記録しておくとこういう時便利だな。

でも、リンダを忘れてはいけないよ、I Do.
Life is never easy even in the sun.

Linda McCartney - I Do

 

 

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Now Here Man

2011年10月16日 | お気に入り♪(ビートリー)

Nowhere man( 居場所のわからなくなった人)が、
Nowhere land( どこだか分からない場所)に座って
Nowhere plan( 何のためにもならないプラン)を練っている、という歌。

Isn't he a bit like you and me ? ( ちょっと君や僕に似てないかい?)

でも、
nowhere man、please listen
you don't know what you're missing
the world is at your command
見失っていることが分かってないだけで、
本当は思いのままにできるんだ、
と続く。

ラジオでこの歌について語られていました。
曰く、
Nowhere manというのは、どこでもない場所にいる人、のことを歌ったシュールな曲のように思われているけど、
Now Here Man( 今 ここにいる人 )とのダブルミーニングで、
今を生きている人の曲である、とのこと。

結構な読書家で、東洋思想や色々なことに興味を持っていたジョン レノンは、
意識に上げる、というようなことについて考えていたんではないでしょうか。

The Beatles Nowhere Man (2009 Stereo Remaster)



(↓)日経おとなのOFF (⇒ 一面的な解釈を鵜呑みにするのはよくない。参考にしましょ。



ロシアが制定するという9/2の終戦記念日、複雑な思いを持ちました。

戦争が、また「大義」として、利用されようとしている。
どうして、人は民族や国家、時代や世相を反映した社会システムやイデオロギーの流れに身を置いた時に一個人としては考えの及ばぬような愚挙にでるのか。

ロシアが自国にとっての戦争終結日である9/2を戦争勝利記念日とするとの報道に、憤りのような感情を抱きましたが、
9/2はポツダム宣言受諾の日で、国際的にみれば8/15より一般的な考え方。
玉音放送の流れた8/15をもって終戦記念日としている日本のほうが、むしろ国家主義的なのかもしれない。
日本でも、8/15を越えてもまだ戦争に明け暮れている人達がいた、といいます。

~ ロシア下院は今月7日、9月2日を「第二次世界大戦終結の日」として、記念日に格上げする法案を可決した。9月2日は第二次大戦終了時、日本がソ 連を含む連合国との間で降伏文書に調印した日だ。法案は当初「対日戦勝記念日」という名称を検討しており、歴史問題で日本をけん制する狙いが鮮明になって いる。

<初稿>2010/8/16

<第2稿>2011/10/16
何にもなれず、何のためにもならず、みたいな自己嫌悪な気分の時のジョン レノン。
~ Isn't he a bit like you and me ? ( ちょっと僕や君に似てないかい?)

自分だけでもないんだな、って思える、さりげなく 救いのあるフレーズを聴きたくなって再投稿。

 

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[2011年10月 広陵カントリークラブ] 今まで頑張ってきたことと比べて、どうよ。

2011年10月15日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

甘い夏の物語は終わった。

グレート・ギャッツビーの最終章、今の気分にピッタリのくだりがあった。

あの子はこのように いつも何かを胸に決意して生きておりました。
精神を高めていくことを、あの子がどれくらい重んじていたか、おわかりになるでしょう。

彼は長い道のりをたどって、この青々とした芝生にようやくたどり着いたのだ。
夢はすぐ手の届くところまで近づいているように見えたし、
それをつかみ損ねるかもしれないなんて、思いも寄らなかったはずだ。
その夢がもう彼の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる人知れぬ場所へと
移ろい去ってしまったことがギャッツビーにはわからなかったのだ。
ギャッツビーは緑の灯火を信じていた。
年を追うごとにどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。
それはあの時我々の手からすり抜けていった。

でもまだ大丈夫。明日はもっと早く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。
…… そうすればある晴れた朝に。

先週の3連休初日、今シーズン最後になる早朝スルーが残念な結果に終わり、
明けて翌々日の3連休最終日、またも同じゴルフコースへ向かっていた。
待ってろ、鹿沼の大地!

ゴルフとは元来うまくいかないスポーツなのだ。片山晋吾もそう言っていた。
なのに、こんなはずはない、と間髪入れず同じコースに行ってリベンジしよう、などと高慢なことをもくろむ浅はかな自分。。

8番ホール、パーオンして悦に入って先にグリーンにカートをつけて待ってると、連れが怒っていた。
その気分を引きずって、いい加減な4パットをした。
悪気もないので、そのまま調子をあげて次の前半最終ホールでようやくパーが来た。

単に腕が悪いだけなのだが、後半ホール、気持ちが高まってこない。
愉しくない終わり方はゴメンなので、例によって最終ホールは気持ちを込めていったが、
3連休のうち2日間家を空けた後ろめたさのようなものも手伝って、
あらゆる意味で、自己嫌悪、である。ろくでなしだ。

先日、どこに行っても、よく思ってくれない人がいるだろ、というようなことを指摘された。
思い当たる節がなくはない。
自分に悪気がなくても、敵意のようなものを感じる人に遭遇することがたまにある。
(誰にでもあることのような気もする。)
そうは言っても、話したりするような間柄になると、そのようなことは大抵なくなるのが常だと思っているのだけれど、
それとて、単なる勘違いかもしれない。
少なくとも、自分の方から人を嫌いになったり遠ざけるタイプではないと思っているのだが、
なんせ原因がよくわからないから、どうなってんだか分からない。
(ブログ書いてる自分は、嫌われるようなことが多少あっても仕方ないよな気はしているけど。)
ただ言えるのは、調子に乗ってるときにそういうことが多いような気がする、というだけだ。 ← 結論がでたぞ。

話がゴルフからそれてしまったが、休日出勤も手伝って、やや気分がトーン・ダウンしている。
いや、だからこそ、今日は静かな休日のオフィスで仕事を片づけてきてよかったのかもしれない。

あなた、成功を手に入れようとしてたよね。
だけど、今まで頑張ってきたことと比べて、どうよ。
満たされないままでいるのでしょう。
けど、物の見方を変えて、もっと醒めた見方ができたなら、
人生は素晴らしくなって、心はきれいになると思うけど。
雨風吹いて、いろんなものが行きかう。 そんなことに関係なくうねりが来る。
偉大な海は流れる。
私が何を言おうとも、それぞれの道を歩んでいかないと。
でも、本当の平穏を感じる前に燃え尽きちゃったかな。
たくさんの好いことと、悪いことがあったね。
でも、人生と愛は廻っていた。
私たちの志が同じなら、 誰も勝者でも敗者でも無くなる。


「今まで頑張ってきたことと比べて、どうよ。」、この動画の作者の方の訳に少し手を入れたのだが、心に沁みた。
Godiego/The Great Sea Flows

ポールの新曲の次のラインを聴いた時にも同じような気持ちになった。 (ポールの最新曲 再び ♪
勝手にそうすることにした物語にとらわれているだけではないのか。

For so long  I was out in the cold / 長かった 寒さに耐えながら          
And I taught myself to believe Every story I told / これまでの人生の物語を信じようと必死になってた

結構、寒さに耐えて頑張っているつもりなのだけど、寒いと言わないと伝わらないのかもしれない。
(これまた、誰にでもあることのような気もする。)

寒いと言う人は好きだけど、寒いと言う自分は嫌いなのだから仕方がない。

 

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あわい ~ エルガーの弦楽セレナーデ

2011年10月09日 | お気に入り♪(クラシック)

「翻訳=写経」論。(グレートギャッツビーとサン・フェリー・アン)(小さな竜巻(Warterspout)

クラシック音楽は、これに似たようなところがあると思う。
作曲家の「テクスト」に敬意を表しながら、その高みににじり寄っていこう、とする営みがクラシックの演奏、という行為のような気がする。
必ずしも敬虔で神聖なものでなくともよい。
むしろ、教科書的で偶像崇拝的な解釈よりは、一種の狂気や憑依を感じるようなパフォーマンスに惹かれる。

「あ、これは翻訳者が実際に自分の体液みたいなものを注ぎこんでいる訳文だな」、
この感覚に相通じるものがあるように思う。
厳然と存在するテキストに、このような生々しさを与える行為。

音の群れが、世界の「あわい」を行き来するような第1楽章(3分過ぎまで)、
静かなメロディに生めかしい生気のようなものが注ぎ込まれゆくよな感じ(7分過ぎから)、
こういうのを弦楽セレナーデっていうのか、と思わせる、深く揺らぎながら響く9分過ぎからの最終となる第3楽章。

ジャイーヌ・ヤンセンのエルガーの弦楽セレナーデ、秋から冬へと向かう季節のあわいに似つかわしい。
はらはらと散る落ち葉の不安感のような佇まいを見せる音の饗宴。
Janine Jansen & Friends - Serenade for strings in E minor, opus 20 [ E. Elgar ]

クラシック音楽とは決してエスタブリッシュメントな敷居の高いようなものではないと思う。(Eleanor Rigby
人を遠ざけるばかりのようで、かえって、もったいない。どうして、そんなことにしてしまうのか。
そんなツンと澄ましたものではない。

村上春樹氏が小説について語ったくだりなのだが、諸事にあてはまるような気がする。

~ 人間の知性の質っていうのはそんな簡単に落ちないですよ。
  ただ、時代時代によって方向が分散するだけなんです。
  この時代の人はみんなばかだったけど、この時代の人はみんな賢かったとか、そんなことはあるわけがないんだもん。 

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング
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グレートギャッツビーとサン・フェリー・アン

2011年10月08日 | 読書ノート

内田樹先生は翻訳が趣味だと言う。

~ ほんとうにわずかでも、好きな作家の数ページだけとか、そういうのを写経的に翻訳する。
  週末になると"写経"する。今日は誰それの短編をひとつ訳しました、というね。
  すごくいい趣味だと思います。
  
 (小さな竜巻(Warterspout)

~ 「翻訳は写経である。」そして写経というのは、つまり「テキストに対する敬意」。
   ロジカルで明快な文章なら頭だけでスラスラ訳せるが、
   本当に訳し甲斐のあるものは、身体を使って写経しないと入ってこない。

理解できない時、それは自分の修行が足りないから理解できないのであって、
さらなる精進を積めばわかるようになるのではないか、という姿勢でテキストに向かう謙虚さ。
自分の頭をもってしては、他人の頭の中で起きていることを、「意味」に「言語化」して理解することができないなら、
「意味以前」のノイズでも受信することのできる身体でもって受け止めるべきなのだ、と言う。

私たちは言語化(広い意味で)されたものでないと理解することが難しいので、
共通理解の基準をそこに置くが、
しかし、それだけでは" 一番高いところににじり寄りたい " というレベルのところにはたどり着けない。
「こんな高いところがあるんですねー」ということを感じることなく、
本当のスケールを縮減化したところで、わかったような気になってしまう、と警告してくれる。

硬直化した干物みたいなオリジナルのテキストに、
生身の人間が自分の体液みたいなものを沁み込ませることで、乾物が生モノに変わってゆく。
翻訳とはそういう作業にもなりうる。

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング


村上春樹氏はスコット・フィッツジェラルドが書いた「グレート・ギャッツビー」を四十年以上に渡って宝玉のようにいつくしんできたという。
そして、内田樹先生もその物語の底流にある「フェアネスに対するこだわり」を評価する。

自分が一方的に善で向こうが悪で、
こちらが傷つけられるという物語に落ち着いちゃうと、世界の見通しはよくならないけど、
少しでもフェアネスを取り込んでいって、
不条理と思える出来事の中に、ひとすじの条理を見たほうがいいんじゃないかという姿勢。
それがあるから、読んだ瞬間に体温がスーッと下がる感じがする。

そのような" フェアネス"を感じたくて読んでみる。

 文体やところどころにそのようなものを感じるのだが、以下のAmazonにあった書評が私の感想を言い得ている。 

「グレート・ギャツビー」は劇的な感想は抱けないものだと思います。しかし、じわじわとくる印象があります。読者が経験することによって、「こういうことだったのか」という不思議なシンパシーめいたものを感じることの出来る作品だと思います。想像以上に深い作品だなと改めて思い知りました。
 でも、この作品の本質というか、全体的な「これはこういうことだ!」という感想が抱けないんですよね。
これは決して悪いことではありません。逆に可能性を感じるくらいです。
それは作者、訳者の責任ではなく、読者の責任でしょう。この作品をちゃんと理解できるようになりたいです。

~ 「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。
   「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
   父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、
   多くを語らずともわかりあえるところがあった。
   だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。
   (「グレート・ギャッツビー」冒頭部より抜粋)

You've got a lot,   君は沢山持ってるね  
And from what you've got, I'd say you're doing well, dear.  そしてその割にはうまくやってる
Bressed like a dream,  夢のように恵まれて
Anything you what they seem, you're looking swell, dear.  欲しいものは何でもあって
 見るからに素敵だ
Your little man   あの男は
didn't drink it when you can do,  he can't stay, dear.  君みたいに飲めなかったし、長くはいなかったよ
That's very well,  たいしたもんだね
But in fire or shiny shell, you dance all day, dear.  火の中だろうと 輝く貝殻の中だろうと 君は日がな踊ってる
So go, be gay,    陽気にいくんだ
Let your feelings leap away into the laughter.    感情を跳躍させて、
笑っていればいい
San ferry anne,  サン・フェリー・アン、
and the world keeps turning happy ever after.  そうすれば世界は永遠に幸せに廻り続ける

Paul McCartney & Wings - San Ferry Anne (1976) (Remaster w/Lyrics) [720p HD]

この週末も、翻訳トレーニング(写経)。
私の頭のなかにも、夏が終わって行方を探すカモメたちが飛んでいるようだ。
ジョナサンの夏休み ~ 憧れのマスカラス
ホワイトドライバー、かもめが飛んだ日

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[2011年9月 広稜カントリークラブ] 実りの秋はくるのか

2011年10月08日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

7-8月に連続80台を出して後、フック病にかかってしまい、スコアメークどころではなくなってしまった8/13、21のラウンド。
フック病を克服して、今夏最後となる早朝18Hスルーに向かったのは鹿沼にある広陵カントリークラブ。
事情あって9月はラウンドできなかったが、いつもの古河とはまた違った気持ち良さがある。
コースでは、ここかしこで金木犀の甘い匂いがする。

  

今はアコーディア傘下であるが、昔は全日本女子プロ選手権なども開催されたよう。
岡本綾子選手のサインなどもあった。

フック病は治まったものの、アバウトなゴルフをしてしまうクセはなかなか抜けない。

北コース1番から、ゲームを制御している感がなく、3パットのダボでスタート。
続く2番は、フック防止のハンドアップの構えが極端になり過ぎて右プッシュのOBでプレ4.またも3パットで9を叩くと、相方ともども緊張感のないラウンドに。。

4番ミドルでもAwを3回繰り返しての5オン。
しかし、ここで2mのパットを狙い通り打ち出すことに成功して少しゴルフ勘みたいなものが戻ってきた。

続く5番を丁寧なプレーでパーであがると、制御の効いたターゲットゲームに変わっていって、前半3つのパーを重ねてハーフターン。

16パットにまとめたのだから、私としては上出来。

さて、ティーショットもいい感じになってきての後半スタートホール、
私は軽いフェード、相方は軽いドローで、同じ空高くにティーショット。

まるで飛行機ショーのようだ。

2打目でピンまで50Y程度の好位置をキープ、バーディーチャンスをつくったが、
アプをざっくり、パットもちょろちょろ外して4パットして8。
ありえない…。
なんでもない50Yからのバーディーチャンスだったはずが、
そこから6打のトリプルでスタートし、モチベーションが急降下。

続く南2番のティーショット、ハンドアップをほどほどに迎えても、
ボールを上から潰すように打つと、多少つかまえに行っても左は怖くない、と確信して叩きに行ったら、
230Yの吹き流しの先まで推定280Yのいいドローボール。
しかし、なんでもないライ、残り100Yから、Awを3回打ってダボ。

またも上手く調子に乗ってゆけない。。

あとは見ての通り、上から潰し打ちをしたり、ライン出しをしたり、いろいろ試しながら、
プレ4(「-」が続く表記がそれ。)を重ねたり、スコアを度外視したホールが続く。

しかし、前回の大宮カントリーでのハーフ・ラウンドに続き、
フックが出ない、左が怖くない、というのは実に安心感がある。

最終ロングホールは、せめて気持ちよく終了しようと、
ティーショットを安全に潰す打ち方でFw真ん中に高い球で置き、(上から潰すと芯を喰いやすいし、多少つかまえにいっても左にはいかない)
3Wも上から潰すようにヒットしてG横のバンカー手前まで運び、
つまみアプで砲台状の受けGの手前から安全に乗せていく。
のぼり6mのバーディーパットが残ったが、これも丁寧に狙いに行けた。
数センチ左奥に切れたが、なんなくパー。(出だしでつまずいた後半では唯一のパーである。)

相方ともども、あいかわらず、スコアはさえないが、上り調子ではある。
スコアメークにこだわらず、実戦ラウンド練習だと思えばいいや。

そのうち、集中力が出てくれば、スコアはまた急上昇するはずだ。
冬場に向けて、調子が悪くなってゆく傾向があるが、今年は実りある秋にしよう。

どのコースでも、どんなグリーンでも、自分の狙い通りにショットやパットが打てているか。
これをモノサシにしたい。スコアだけがモノサシではない。

( ↓ ) 前にも採り上げたが、潰す打ち方にはこのような理屈もある。
    何より、芯を打ち抜きやすいと思う。

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NYシティ・バレエ秋の新作はポール マッカートニー

2011年10月02日 | お気に入り♪(ビートリー_見つけもの)

ポールがNYCB(New York City Ballet )向けのスコアを作曲した。
衣裳担当には娘のステラも顔を出す。

( ↓ ) NYCBの日常的な練習風景。
  バレエバーにつかまりながら、身体のバランスを探りながら、の動きは、
  センターバランスや重心、体幹や軸の立った身体使いと同じ。
  バレエは舞台を必要とするが、ワンマット・アスリート的な地味で質実剛健なところがあるように思える。
   (
ワンマット・アスリート ~ 仙骨への意識がポイント
  練習後なのだろうか、心地よい疲れに包まれた気だるいような充実感が、汗をかいた日曜の宵のビールみたいだ。

Baryshnikov lesson in New York City Ballet (2003)

かんかん照りの砂漠に飛び出した囚人たちに大粒の雨を降らせる、
Band on the runのような劇的な効果を期待させない音が少し残念だが、
このなかに味わえるものを探すのもファンの愉しみというものだ。

Ocean's Kingdom

メロディが滔々と歌う白鳥の湖風ばかりでもなく、バレエには元来プリミティブで、またポリフォニックな要素もあるのだと思う。
淀みない"半月"の動き
大人は愉しい ~ 薄闇の向こうへの誘い
メロディメイカーの印象が強いポールだが、その作りには対位法的で、ポリフォニー的な志向がある。
そして原始的な大地を踏みならすようなリズムや前衛的な音楽への関心もここかしこで聞かれる。

This is my right
A right Given by God
to live a free life, to live in freedom,, We will fight for the right to live in Freedom

神に与えられたrightを大切にしよう。
rightを単に権利とだけ訳すと陳腐になりそうだ。言葉ってそんなものではないでしょう。
たとえモノフォニックな音楽であっても、字面よりもポリフォニックな言葉に聞こえることがある。
きっと、行間を嗅ぎ分ける感覚が研ぎ澄まされていなくとも、音楽が行間を埋めてくれるのだ。

10年が経ち、Concert For NYのドキュメンタリー「The love we make」が先週あたりから英米で放映されているよう。
しばし、熱く見入ってしまった。

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In your eyes

2011年10月01日 | お気に入り♪(フォト×音楽)

風邪をひく。
家ではサムゲタンを沢山食べてスタミナをつけたのだが、鶏肉は体にとてもやさしくて、しかも美味、
身体が弱ってるときには、ことさらだ。

そして風邪をおしての神田は、なかなかな宵だった。
鳥を肴に、金沢の酒を飲んで、風邪をふきとばす。

私はよく適当にメロディをつけて鼻唄や口笛にしてハミングするくせがあって
時々、おっ、これは採譜できたら、すごい曲になるのにもったいない、と思ったりする。
ひとにあまり理解してもらえたためしがないのだが、なんとなく話は通じたような気がする。
In your eyes, タケカワ ユキヒデのヴォーカルのなかでは1,2を争うソウルフルな曲だと思う。
ゴダイゴは大好きなのだが、なかなかYouTubeにないので、自分で気が向いたときにつくってみる。

ベティ デイビスのような瞳を称える歌だ。

休まないスピリット~ thank you、baby

時の落し子 再び

はい、私は、ありがとう。

今回はこちらとコラボさせていただいた。→ http://blog.goo.ne.jp/photo/44759/tn

 

all the long fogotten beauty

 

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