ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

彼女がそこに立っていたから♪

2012年06月30日 | お気に入り♪(ビートリー)

この演奏いいなぁ、groovyだ。!

ビートルズの英国デビュー・アルバムのオープニング曲なのだが、オリジナルの素朴さを通り越したノリにしびれた。
この曲にはこれ以外はありえない、と思えるオリジナルのボーカルのノリの良さをいっそう鮮やかにする、オカズの効き具合。

こういう試み(どういう試みだか、ミックス違いなのか、何が起こっているのか、よくわからないけど)は大歓迎だ。

 荒削りなまま疾走する17歳のビート。

The Beatles - I saw Her Standing There (with lyrics)

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Somedays♪ ~ 神話的構造を求めてはいけない

2012年06月30日 | お気に入り♪(ビートリー)

「翻訳はよい趣味だ」。

テキストのベタ打ちではなく、かるた風にしてみた。

Yesterdayは言うに及ばず、"day"の関係するタイトルに名曲が多いと言われるポール。

このSomedaysも、間断なく紡がれてゆくメロディのうえで、弦やオーボエの音がこれまた絶え間なく蠢いては、心象風景の大切さを語っている。
アムステルダムの船上祝祭日





自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
振り返ると、たしかに一直線に見える。
でも、実際は無数の転轍点(てんてつてん)があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかったプロセスと、そこから導かれる結論」がある。
分岐点まで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したもの」の背中を追いかけるというのは、ものを考えるうえで大切な仕事だ。
「起きてもよいのに、起きなかった出来事」のリストを思いつく限り長くすることは知性にとってたいせつな訓練だ。
「起きてもよいことが起きなかった理由」を推論する仕事は「起きた事が起きた理由」を推論するのとはかなり違う脳の部位を使用するからだ。
(内田 樹)

さすが、ウチダ先生、もっとブログに時間を割こうという決意表明までリーダブルだ。
起きなかった出来事の背中を追いかけたくなるのは、おじさん特有の心理なのかもしれない。

まもなく、46の誕生日を迎えようとしているが、
私にも、引きとめもしなかった背中、追いかけなかった背中、が沢山あるように思える。
~「あっ」と思って振り返ると、もう角を曲がりかけていて、背中の一部しかみえない。

アイデアや文章に限らず、自分が進んでいる道に「どうも展望がない」ということがわかったころには、ついてゆく背中は見えなくなってしまっている、
「そうだ、あの時の背中についてゆけばよかったんだ」、
そして「いっしょに角を曲がって、袖口をがしっとつかむんだった」、と思うようなことがある。

「小さな背中を引きとめもしなかった」、
格好よくも聞こえるが、今となっては背中を見失ってしまっただけなのかもしれぬ。
やさしさの街角
なんだか、ほろ苦い話だが、その背中はいつまでも見えてるはずもない

そういうもののような気がする。

これもウチダ先生の受け売りなのだが、やせ我慢こそがダンディズムらしい。
追いかける背中が見えないのでは仕方がない。

やせ我慢を続けるのも、まぁよかろう、と思うことにしよう。

「人生は自動販売機ではない」のだから、報いがないほうがむしろ当たり前のことなのだ。
(100円入れれば100円の缶コーヒーが出てくるわけではなく、持ち合わせの天賦が1万円分ほどあったとしても、1万円分の買いものができるわけでもない。)

だから、ことさらに不幸だったり、不運だったりするわけでもない。

イエス キリスト的な神話的構造を求めるほうがどうかしている。

 

街場の読書論
内田樹

太田出版

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[2012年6月/トムソン・ナショナル・カントリークラブ] ~左ひじの引けを直すレッスン

2012年06月24日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

前回、事情により幹事を禅譲したサークルのコンペ、
このところ手強い、と評判の、海外コースから凱旋帰国したY選手を迎え撃つ好組合せとなりました。 

一方の私は、いまだショットに不安を抱えているので、
練習レンジで撮影レッスンを受けて、客観的にどこが悪いのかチェックしてもらうことに。 

ティーチングプロの資格を持つセンセイの指摘は的確でした。

~タテ振りはできているが、フォローで左ひじが引けているので、弾道が安定しない。

~ ヘッドはほぼレベルブローに入っているインサイドアウト気味のスイング、
  インパクトでフェースが少しかぶるので、左に行きやすい、との指摘。

ズボシです。
(過去に本ブログで取りためてきたスイング動画を見ても、フォローでクラブが左に寝てしまっているスイングが多い。)

ドライバーもそうですが、フォローをきっちり管理することで、
  左へ行きがちだったショートアイアンの精度がよくなりました。

( ↓ ) スイング撮影記録は1本なので、左ひじが寝ないよう、
   " フォローまでタテ振り" に修正したスイングを後方と正面から撮影してもらいました。
  (クラブをフォローで上げに行くような動きを指摘されることもあったのですが、
    フォローをタテに納める動きにしたら、すくい打ち的な動きもずいぶん改善されたようです。)

     ※ 後半はYouTubeにあったレッスン動画ですが、
        両ひじをスクエアに揃えて回転する動きが参考になったので付け加えました。
     ヘッドスピードを上げるのに余分な身体の動きは要らない、動画も再掲載。

レッスンを受けてのスイング撮影.wmv

私は、目標を高く設定しがちなので、今日は調子を探りながらだし、Y氏の胸を借りるつもりで謙虚にスタート。

※ サブスコアカードの付け方もシンプルに。

  5段階評価みたいなややこしいことはやめて、
  素直にまずまずgood shotだったら、"/g"と書いてマルをつけます。
  ゴルフにミスはつきものなので、
  許容できる範囲だったら、、"/g"のマルです。
 「1打1打の芸術点を求めるのではなく、1ホールでマルのショットを多くしよう」という発想。

前半、調子を探りながらでしたが、謙虚な気持ちが功を奏しました。
18番は飛ばしに行こうとしてスイングを崩し、2打目もOB、4打目も木にあたって手前方向に跳ね返されましたが、そこからワンオン、マルを重ねて、なんとか46でまとめました。

 前回、初対面のメンバーの方と廻ったときも最初のハーフは丁寧にプレーしたのでまずまずだったし。
  謙虚に緊張感を持ってプレーしたほうがスコアはまとまる。。

さて、後半2番ミドル、G手前まで快心のティーショットで運び、精度のあがってきたウェッジでピン横30cmにつけて、楽勝バーディーです。

しかし、この辺りから、またいつもの自分に戻っていったようです。
(謙虚な発言が段々少なくなって、ハダカの王様ゴルフ風に。)

ショットは良くなってきましたが、謙虚にリズムよくアプとパットを打たなかったり、
鷹揚なアバウトさが顔を出し始めます。
8を叩いた2ホールは、いずれもグリーン廻りから、アプ2回の4パット。

しかし、いい感じは出てきましたよー。(毎度言ってますけど。。)

スイングの精度を上げていく、新たな足がかりと、
"/ good " のマル、で、1ホールでアプやパットも含めて、いかにミスを受け容れ、goodを増やしていくか。

素敵な1打を求めるのではなく、1ホールのなかで許容範囲のgood shotを増やしていくように考える。

ちょっとしたことですが、こういうアイデアで、気持ちの持ち方は変わるものです。

何を言わなくとも、スコアが物語ってくれるようにしてきたいものです。

Billy Joel - Big Shot

 ビッグショットにビッグマウスは不要であります。

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フォーレ/ラシーヌ讃歌ふたたび

2012年06月17日 | 日記

映画テロマ・ロマエ(ローマの風呂)を観てたら、この曲が流れていた。
劇的というよりは終始穏やかな空気感は、ややもすると聴き逃しがちなようにも思えますが、
以前よりも明瞭にくっきりと感じ取ることができる。

フォーレ雅歌とも呼ばれるこの曲は、レクイエムの類よりどこか温かくて、宇宙を照らす光のようなものを感じます。(フォーレ/ラシーヌ讃歌
微妙に揺らぐその光は、掴みどころがないようでいて、遥か深遠までを照らしているようにも感じられる。

若い時の恥ずかしい思い出ランキングみたいな記事に、ポエムを書いていた自分がはずかしい、みたいなのがあった。

~ え!? 私にはあてはまらない、逆のように思える。

「ことの理路」が段々わかってくるような年齢にならないと、分からない深遠さというのは確かに存在する。
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。

そして、その「ことの理路」というのは、理屈に適っていながらも、詩的としかいいようがない。
若くして天才的なインスピレーションや啓示によって、それを芸術に為し得るひともいるが、ふつうは逆なのではないか。
凡夫こそは、いい年齢になってからポエムを理解できるようになるのではないか。

(言っていることがローマ風だが、別にのぼせているわけではない。)

Fauré Cantique de Jean Racine (Choir of New College, Oxford)

百ヶ日になる。
満中陰をもって、薬師如来が、現世の苦悩を乗り越えて理想の彼岸へ行けるようにと、薬まで与えてくださるという。
そして、薬師如来に押し出されたあとを迎えてくれるのが、阿弥陀三尊(百ヶ日の観世音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来)ということらしい。

そして十三仏の最後を締めくくるのが虚空菩薩。
(壮大な宇宙の真理を蔵するのは虚空なのである。)
今の私の了見ではどうしてもまたここ(石や木や水と私たちの関係について)に行き着く。

友人の住職に過去帳をみつくろってもらうことにした。(弟分を含めて二冊)。

そういうものは芸術と同じで出自が大切だ。感謝いたします。

初盆の夜はよろしく。<(_ _)>

 

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変装をしていても

2012年06月17日 | お気に入り♪(ビートリー)

London townのバックカバーのPaulの写真が好きでして。
(Twitterのアイコンで着ているシャツはきっと影響を受けている。)

ほかではなかなか聞けない、お気に入りのdress me up as a robber のearly takeを乗せて、
スクラップブックでも作るように。

正規テイクでは歌詞が加えられ、堰を切ったように流れ出すスパニッシュな間奏のギターがいいのだが、こちらもデモテイクとは思えない異色のインスピレーションにあふれている。 
(完成品になる前のバージョンを聴くのは結構おもしろい。)

モーツァルトの凄さについてはよく語られるところだが、
多彩な楽想が頭のなかに渦巻いては形になっていくさまは凄いと思う。
プロで音作りのツボを心得ていれば出来てしまう曲ではなくて、
インスピレーションが降ってこないとこんな曲は書けないよなぁ、という曲はなんとなく分かる(ような気がする)。

そんなポールの歌ですが、大仰なメッセージというよりは、
変哲のない普通の物事を慈しむ詩がいっぱい、なのです。

どんな格好をしてようが ぼくは変わらない。

If we go on forever, I may never make a change.
永遠というものがあっても、ぼくは変わらないかもしれない。

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ジョージに父をみた

2012年06月10日 | 日記

つまらない悪戯だったが、

fbで話の流れで調子に乗って変装してみて、哲学的考察に至った。

禿頭礼讃
フィリップ エリアキム
河出書房新社

図書館でちら読みしただけなのだが、ブルース ウィルスの言葉の意味が少しわかったような気がした。

~ 「神は、人間をより謙虚にするために禿げ頭を作ったのだ」(ブルース ウィルス)

おじさんであること、おじさんになってゆくこと、を積極的に受け入れようと思っているのだが、
禿頭には至っていないし、中途半端で未熟で、どこか格好をつけたみっともない人間にしか見えんのだろうなと思う。
しかし、いつまでもどこか格好をつけた人間でいたいなぁとも思う。(それが美学というものではないか。)

fbをやっている方は分かると思うが、投稿のたびにプロフィール写真が出現する。

再現すると、こんな感じである。

 ▲%&#!$$?

 

\&&▲□%%■$$!!!

何を言っても説得力を持たないような気がした。このヘンなおじさんは何を言ってるのだろう。

言えば言うだけ、自分でも気持ちがいいとは言えない写真がズラリと並ぶ。なるほど、face bookだ、顔がものをいう。

そうこうするうちに、おじさんはダンマリするしかないかなぁ~という想いに至る。

"沈黙は金なり。"

~ 人の投稿にコメントしてもイチイチ顔が現れる。もう見たくないよ~、って思っても。。

~ 自分がそうなのだから、人もそうにちがいない。これはいわゆるハタ迷惑なのかもしれないから、黙っていよう。

おじさんになることは、男性ホルモンとの闘いでもある。

男性ホルモンはいくら働いても、近頃の風潮にはそぐわない。
あつくるしいとは思われても、ありがたいとは、あまり思われない。
これでは働き甲斐がない。
しかし、働き損を働き損と思っているようではうまく付き合っていけない。

自分のうちに、あんまり有難くないものを抱えざるを得ない時、
どうやってうまく折り合いをつけてやっていくか、その術を身につけていくものだと思う。
病や老いもそうなのだと思う。
カトちゃんおじさんなら、まだファニーかもしれないが、現実はもっと容赦がない。

そんな男性ホルモンと闘い、それなりに折り合いをつけているおじさんは偉い。
(キレイなおねえさんが集める羨望のまなざしと同じくらいに、尊敬されてしかるべきだ。)

おじさんになることは父を見ることでもある。

冗談にしか聞こえないかもしれないが、なかなかに、深くて豊潤なことなのだと思う。

( ↓ ) ジョージは変化を受け容れて、変化し続ける人だった。
    晩年の老い方に至るまで、どこか手本にしたくなるような。
   (晩年はがんとも闘っていた。)
    謙虚なのだが、静かに闘っている。闘っているのに静かで謙虚だ。

George Harrison: Living In The Material World Tribute

E調の歌ですみませぬ。

George Harrisoparts:eNozsDJkhAMmJhMjUyZjU2NGJgszSyPTNEsLQ2MnbwP/EJOASgMmGDA2xS4P1czEhKQSAItVDcY=]

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満ち足りていることがすべてではない ~ サムシング♪

2012年06月09日 | お気に入り♪(ビートリー)

以前なるほど、と思ったフレーズがある。

~ 書き手というのはだいたいにおいて密度を濃くする方がいいと思っているからそっちに傾きがちなのだが、そうするといま書いていることから外に出にくくなってしまう。

言葉を並べる時、そこにはある力学が働く

ざっくりとした書かれ方は緩いように感じるかもしれないが、
単に事情や経緯を説明する言葉によるナレーションでしかないものではなく、
時として、説明すべき人や物や事をちゃんと映し出し、もっと普遍的で本質的な部分を表現することさえあるように感じる。

カンペキで精巧なものが素晴らしさのすべてでないのは、書き物だけではない

私たちが好きになるのが、カンペキなスーパーモデルとは限らない。
あばたもエクボ、ではなくて、足りていないがゆえに好ましく感じたりすることは往々にしてある。
それは、単なる傷を舐め合うような低い共感レベルの次元に限った話でもない。

そんなことは、あらためて言われなくても、直感的に或いは経験的に誰もが分かっていることだが、
そういったことを、合点がいくように説明している文章に出会うと私は感服する。

聖書の中の「ローマ人への手紙」を読んでゆく、カール・バルト「ローマ書講解」の一節にある言葉だ。
私が(私だけではないと思うが)、何もかもに恵まれた羨むばかりのモノや生活や人に必ずしも惹かれないことを、一見難解なようだが、遥か昔の人間が的確に言い当てている。

 

ある人は、他の人にとって何ものかでありうる。
しかしそれは、彼がその人対して何ものかであろうと意志することによってではない。
だから、たとえば決して彼の内面の豊かさによるのではない。

彼が現にあるところのものによるのではなくて、
まさに彼が現にないところのものによって、
彼の欠乏によって、彼の嘆きと望み、
彼の存在の内にあって、彼の地平を越え、彼の力を越えるもによってである。

使徒とは、プラスの人間ではなくマイナスの人間であり、このような空洞が見えるようになる人間である。
そのことによって彼は他の人たちにとって何ものかである。

満ち足りていない何かに魅せられるということは、しばしば起こることだ。
Something、みたいな緩くてざっくりとした表現のほうが、閉じ込められたものを解放することがある。

The Beatles - Something with lyrics and video

このような空洞に光を感じ取れることができる感性は素晴らしい。
そのような感性をもったひとは沢山いるに違いないが、時代や空気や日常に埋もれてわからなくなってしまう。
だから、このように表現することのできるひとがいると嬉しくなるのだと思う。

( ↓ ) 大量消費文明の中にいながらにして射してくる一筋の光明を、僅かの瞬間に捉えたような音が美しい。(1:40過ぎ)

Living in the Material World

 

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カモメ史上初の、飛行技術の限界突破を目指せばよいのだ。

2012年06月06日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

良いサイトを教えていただいた。(まだまだ知らない自分を探して

ナショナル ジオグラフィックの創刊15周年 Special sightでカモメのジョナサン風の映像をつくってみた。

→photo letter 『カモメ史上初の、飛行技術の限界突破を目指せばよいのだ、ジョナサン』

ホワイトドライバー、かもめが飛んだ日で記事にしたのだが、
カモメのジョナサンの物語には、ゴルフばかりではない、
冴えない(と誤解されがちな)人生への示唆に富んだ励ましが込められているのです。 

「たいていのカモメにとって、大切なのは飛ぶことではなく、食べることだ。
しかし、このカモメにとっては、食べることではなく、飛ぶこと自体が重要だった。」

心当たりはないだろうか。

大方の意見とは違った価値感のほうを本当は大切に感じているようなことに。

自分にとって大切な心的現実は、人それぞれに違うのがむしろ自然なことではないのか。
心的現実性こそが重要である
最大公約数的な、あたりさわりのない世界こそが正しい、というのは少し違うと思う。

~ 現実は、私たちの生存を支える不可欠な条件である。
  しかし、仮想が現実に比べて劣るというのでは決してない。
  モーツァルトやアインシュタインといった創造的な天才の中では、
  むしろ仮想が現実よりも魂に近かったのではないか。

今現在が人類史上最高の到達点であって、
今信じられている現実~モラルや価値感やルールや社会インフラ~が唯一無二で絶対のものであるはずがない。

どうしようもないことだ。お前は一羽のカモメにすぎない。
もともとお前のできることには限りがあるのだ。
もしもお前が飛ぶことに関して普通以上のことを学ぶように定められていたとしたら、
目をつぶってでも正確に飛べるはずだぞ。
そしてハヤブサの短い翼がそなわっているはずだぞ。
馬鹿なことは忘れるがいい。
 

この世界にあるモノサシが絶対のモノサシだと誰が断言できるのでしょう。
モノサシには限界や誤りがあることを自覚しつつ、そのようなモノサシたちとも上手く折り合いをつけてゆく。

だから、狭い限定されたモノサシにおいて必ずしも認められなくとも、無理に謙虚でいる必要もない。
モノサシのほうが誤っていることは往々にしてあるし、モノサシがまるっきり別のものに変わってしまうことだってある。
それは歴史も証明している。

だから、
ジョナサンのように、たとえハヤブサでなくとも、
カモメ史上初の、飛行技術の限界突破を目指せばよいのだ。

自分を飛行練習に駆りたてる盲目的な衝動を大切にして、
漁船と岸を行きつ戻りつする代わりに、どれほど豊かな意義が彼に生活に与えられたか。

史上最速のハヤブサである必要はない。
ハヤブサでないからといって、飛行技術の向上をあきらめる必要もない。
 

「そこに行けないから、上を向いてはいけないという道理はない」、
私が思いついたフレーズにしては、なかなか良い。
コクリコ坂から~そこに行けないから、上を向いてはいけないという道理はない
 

このようなメッセージは、あちこちにある。きっとそれはほんとうだ。

( ↓ )パットが" 入らんだ~"と嘆いているわけではない。
    地を這いずり廻り、好むと好まざるに関わらずラットレースに参加しているのかもしれないが、
    高い視座を持って、時々は高地人でありたいと思う。

Highlander - Joe Hisaishi

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[2012年6月/ 鹿沼カントリークラブ] ~ メンバーさんとのプレーで大切なものをつかんだぞ

2012年06月03日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

友人の取引先のメンバー諸氏とのプレー。

前日、初心を取り戻そうと河川敷のショートコースに出向き、ウェッジ1本で廻ってウェッジはずいぶん改善された。

前に採り上げた右人差し指を添えるメソッドを取り入れることで、格段に方向性がよくなった。
((インパクトの真実 ~ アマゾンの奥義))
Trusty Rustyウェッジの抜けの良さも手伝って、冴えのある100Yショットが打てていた。

( ↓ ) これです。前回頻発したシャンクが治まり、スクエアで抜けのいい軌道を感じながら打てる。
    引っかけやザックリの心配もなく快適でした。

 

しかし、続けて向かった練習場でのティーショット調整、また左への引っかけが止まらなくなって、ヘンなクセを助長したくないので、修正をあきらめて帰りました。

そして迎えたのが今日のラウンド。

友人曰く、誰と廻ってもあんまり気を遣わない(ようにみえる)私だから、誘ったようなことを言っていましたが、
こんな状態ですから、朝から気が重くて。。
なんじゃこいつは(--〆)、、、みたいな、初心者帰りしたティーショットに、
皆さん唖然とするのではないか、との思いが頭をよぎり、いつになく謙虚な気持ちの朝でした。

鹿沼カントリーの門をくぐり、
" ○○プロ、本日は静かな面持ちで鹿沼カントリー倶楽部入りです。"
と、神妙な心持ちを実況中継すると、友人は助手席で失礼にも大笑いしてるし。
 (ー_ー)!!

マキュロイのコーチが誌上レッスンで言っていた、
時計の9時の位置までのテークバックを丁寧にすること、
とにかく、叩きに行くと暴れるので、これを大事にスタートホールは静かなティーショット。

まっすぐ。

ウェッジも絡んで、バーディーチャンスにつけ、難なくパー発進。

バッバ・ワトソンのイメージが強すぎて、身体が暴れていたのかもしれません。
引っかけは出ますが、丁寧に控え目な引っかけで抑えながら、フェードボールを心がけて。

ウェッジはいいのですが、アイアンショットにまで右人差し指添えを使ってスイングしてると、
妙な違和感があって、時々へっぽこをやっていましたが、
メンバーの方にも及第点はいただけたようで、気分よくランチタイム、スランプに喘いでいた私としてはまずまずの46点。

 昼、ちょっと飲みすぎたかなぁ。

午前中の程よい緊張感がとけてきたのか、後半はいつものイージーショットも顔を出し始めます。

しかし、5番ロング、" 振りにいきますよ~"宣言して、
開き直って、安楽プロのイメージで身体の中心にクラブを引きつけて、アップライトなタテ振りで
ヘッドスピードをあげて叩きに行きました。これは飛んでました。
" 能ある鷹は爪を隠すだねー"と持ち上げられて、続くPwを2回プッシュしましたけど。。

最終ホール、打上げピン手前の難しいポジションから、1m弱につけるウェッジショット。
(これも右人指し指添え)。
1m程度のParパットを外して、連続Parで締めることはできませんでしたが、
いい感じを取り戻せました。

このブログはご存知ない御二方ですが、地を這いずり廻っていた私を浮揚させていただけたようなラウンドになりました。

サトウ・青木プロ、とサンペイ師匠には感謝しております。m(_ _)m

( ↓ ) これなら左怖がらずにビュンと叩きにいける。目標にすべきタテ振りスイングだ。

400ヤード 飛ばしの極意! 安楽拓也のゴルフスイング(後方)

友人にも言われたが、
つま先オープン、スタンスはクローズ、右肩は左側を向いてる、
みたいな、ミスを誘発するような構えをしていたらしい。

フェード打ちの細工をしているうちに、おかしくなっていたのです。

腕をタテに垂らして、身体の中心に引き付けて、重力に抗わず重力を利用するタテ振り。
フェードを小手先の細工で打とうなんて思わない方がよかったのだ。

奇しくもマキュロイのコーチも、ボディ・下半身・腕が三位一体となったポスチャーが大切だと言っていました。
(球筋を細工しだすと、いつのまにか、ボールから離れて構えてしまう傾向があるようです。)
よく分かりました。

( ↓ ) パワーロスのない、ポスチャーこそが大事なのだ。

#1 ドラコンチャンプ安楽拓也による飛ばしの極意 解説!(基礎編)

 

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皮霜造りに挑戦した。

2012年06月02日 | 日記

旨そうな魚にいとよわし。

(からだにおいしい魚の便利帳/ 藤原昌高著、高橋書店より)

旬のいとより鯛が旨そうだったので、前回の反省(しあわせでナイト)を活かして。

" 薄皮造り、っていうのかな、皮をちゃんと残して、刺身用におろしてね。"と魚屋でオーダーした。
どう伝わったのか分からないけど、私の頭の中は、そのまま、刺身で食べられるような、
ウロコを取ってキレイな皮の部分の残った切り身をイメージしていた。

ところが、帰ってレシピを見ると、三枚におろすまでで止めとかないと、皮霜造りは造れないではないか。
切り身にしたら、湯引きができない。。

鯛などの皮の下に旨みがある魚は「皮霜造り」にするのがよいらしい。→真鯛の刺身 皮霜造り
たしかに松の木模様の皮つきのほうが、鯛の刺身などは美味しいように思う。

と思ったら、さすが魚屋のお兄さん、
開けてみたら、皮霜造りのことを言ってるのを察してくれたのか、切り身にせず、サクのままだった。

やったぁ、皮霜造りにチャレンジできるぞ。

サクの状態で布巾の上から熱湯をかけて、皮目が縮んでから氷水でしめる。
熱が取れたら、旨みが水に逃げないうちに水気を拭き取って、冷蔵庫で冷やす。
最後に切り身にする。

"切り身がなんだか大きいわ。"

うーん、たしかに。そのぶん大味で、薄皮と身の間の旨みというものが感じられなくなっているような気がする。

ふつーに旨いよ、とたー君はフォローしてくれたが、潮汁のほうは" うめぇ~!”と言っていた。

トーンが違うぞ。

子どもは正直だ。

 

 

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15年ぶりのたかね

2012年06月02日 | 日記

株価は底をつこうとしているのに、ややこしいタイトルになった。

じゃじゃじゃじゃーん。

大阪は三ッ寺筋にあったホースという店で出会ったのがタカネ。

コウネとかタテガミとも呼ばれる馬肉の首筋部分なのだが、これが美味い。

和牛がマグロのトロなら、タカネはアブラガレイのエンガワだ。脂っぽさが上品でコクがある。コラーゲンもたっぷり。

「ホース」にあったのは、半ば冷凍にしたタカネを薄くスライスしたもので、

舌に届く頃に、常温のなか脂がゆっくりと溶けだして、なんとも良い感じになる。

大阪に帰省した時に、あまりに美味しいので、是非ともお土産に持って帰りたいと思って店主にかけあったら、
半冷凍状態で保存しているタカネのサクを、特別に手頃な値段で分けていただいた。

今は亡き、美食を知る義父もよろこんでくださった。

ホースがいつのまにか店をたたんでしまった後、あの味をずいぶん探しました。

探せばよく似たモノには出会うが、ホースで食べたタカネとはどこかが違う。

小さかったり、口に運ぶ前に既にデレっとしてたり。

でも、赤羽で再会いたしました。あの味に近い。見た目もそう。タカネはこうでないと。 

くじらに馬刺し、珍味大好き。

一番トップにタカネ(こうね)を紹介しているところがニクイではないか。

どうぞ、召し上がれ。

 

ぐびっといかずに、チュッと口をつけたらニンマリしている。

今ではICカードや電子マネーもすっかり普及しましたが、15年ほど前は日経に電子マネーの衝撃という連載があったくらいで、近未来のことのように語られていました。
ネット・ショッピングも、国の補助金を受けた民間実験が行なわれていた程度。

そんな当時の仕事仲間と集ったのは塚田農場。
なかなかに気の利いた、おじさん心をくすぐるサービスがお気に入りの店。

ウマで始まりましたが、トリはハートで。

とろけてゆく歌を添えました。

Paul McCartney Letting Go Lyrics

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