ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

アデルの倍音

2011年08月28日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

" でも、時には痛みばかりが続くこともあるのよ。"

ぼくだって同じ夏のもやの中で育ったのだが、君はどうしてそんなに強いのだ。

アデル 『サムワン・ライク・ユー』 Brit Awards 2011

倍音が聞こえると、僕たちはそこに自分がいちばん聴きたかった当の言葉を読み出してしまう。
だから、すぐ傍らにいるように思えるのは当たり前なんです。
だって、自分で自分の声を聴いているんですから。
倍音が出せる作家は読者を「自分がいま一番読みたい言葉はこれだ」という幸福な錯覚の中に巻き込んでしまう。
「ここにはまるで自分のことが書いてある」というふうに感じる。

最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)
内田 樹
技術評論社

私はオトコなのだが、このAdelに「倍音」を感じたのだと思う。 (弦のコラージュ、そして「倍音」の魅力
がつんと、鉱脈に当たったような気がした。
さびしかったり、みっともなかったりする感情たちに価値がないわけではない。
そういう感情の鉱脈こそが、実は豊かに太くて、大きいものであったりするのではないか。

汲めどもつきぬ泉のようでいて、
しかし 掘り当てに行かなくては、掘り起こし続けなくては、かれてしまうもの。
そういうものは、本当に「鉱脈」と呼んでいいのだ、と思えてきた。
費用対効果だけでは語れない、今のビジネス的スコープから外れてしまっている鉱脈、宝物というのはきっとありそうだ。
作家だけが見つけられるというものでもなかろうし、探してわるいというわけでもない。
おっ、内田先生に対する異論になってるが、
これは「異論を立てること」を薦める先生への敬意でもあるのだ。

人間の住む世界に「骨組みと軸と構造を与える物語」というものがあって、
人間が人間であるために読まなければならない物語という鉱脈がほんとうにあるんです。
そうやって穴を掘っていって、鉱脈に当たる。
村上春樹が" 自分のなかにまだ手つかずの鉱脈のようなものが眠っているという感触を得た"と言った
「鉱脈」というのは、本当に鉱脈のことなんです。
鉱脈から溢れだすものによって涵養される物語というのは、
人類史始まって以来、同じ主題で語り継がれてきた物語が絡みついている。
そして卓越した作家だけがその鉱脈に触れることができる。
そのような物語が倍音を発しないはずがないのです。

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング

( ↓ ) こういうまどろっこしいタイトルを見ただけで、昔は素通りしてしまっていたのだが、
    内田 樹先生が繰り返し言及する世界にふれてみよう、と思った。
    今さら何をいってるんですか、と言われそうだが、流石にところどころに素晴らしい。そのうちにまた。

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)
村上 春樹
文藝春秋

最初に言葉がある。
たしかにその言葉を自分は知っていた。
でも、ただの空疎な言葉でしかなかった。実感の裏付けがなかった。
それが、ある瞬間に言葉が意味を受肉することが起きる。

まずは言葉を押し込んでおくことで、
自分自身の貧しい経験や身体実感では説明できないような、
他者の身体、他者の思念のためのスペースが、むりやり、こじ開けられる。
そして、成長してゆくうちに、そのスペースに、ひとつずつ生々しい身体実感や思いが堆積してゆく。
自分たちの身体実感をベースにして、それにぴったりの言葉を探し出すことでは、
本当の学びは成立しない。
狭苦しい「自我の檻」から一生出られない。
よく分からない言葉や思想をむりやりにでも押し込んでおくということは大切なんです。
(内田 樹)

音楽は不思議だ。
彼女が歌う頭の中のheaviness
言葉に音楽が乗ると、身体実感を伴った痛みのようなものを感じるではないか。
これは、いきなり堆積して血肉のようなものになってゆきそうだ。
ちゃぷちゃぷした贅肉はいらないが、
ぎすぎすした精神には贅沢な涵養が必要なのだ。
上澄みさえサラサラさせておけば、底なし的に堆積物があるくらいのほうが夫々によい味になるのではないか。
さらさらと流れていってしまわない劇的なカントリーソングだ。
胸の奥の堆積物に突きつけるようなフックがある。

Adele - Don't you remember with lyrics

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3チアーズ

2011年08月27日 | 日記

ほんとうの歌詞はこっちだ。
(ときどき、YouTubeとかの歌詞はちがっていて、ネイティブの耳でもそんな感じかと安心する。)
でも、これが、Preaches for the girls(女子へのお説教)、
とダブル・ミーニングに聞こえるように作ったのだとしたら、すごい。
クールに色っぽい声援だな、と思ってたら、実はおしりペンペンの歌だってことになる。

THREE CHEERS FOR THE GIRLS;(女子への3つの声援)
HIP  - HURRAH!
HIP  - HOORAY!
HIP !

Paul McCartney Girl school lyrics (studio version)

Hip !

Hip !         

Hip !               

久しぶりにゴルフも何もない週末、
いいけど、ぬるい。ぬるい時に浮かぶのはこの程度のアイデアである。

ラガービールがサイコーだっていうんで、ガマンできず、
新しいヒントを見つけたけど、ゴルフの練習にも行かずじまい。

桃尻とはよく言ったもので、こうして並ぶとなんだかヘンな気分になってくるので、
少しさわやかにSchoolつながりで。
学生時代ってそんなによかったのか。
行けなかった同窓会を残念がりながら、うじうじ じめじめと、ぬるくて豊潤なひと時を。

I never felt gentle touch until I met you / 君に会うまで こんな穏やかなタッチは感じたことがなかった
You better tell me all you know / なんでも話そう
Concerning this new situation  / 今の新しいシチューションのことを考えてみたら
I like it , You like it , They always do / ぼくは気にいってるし、君も悪くないって思ってるだろうし、いつだって みんなもそうだと思うよ

Paul McCartney - Your School (Unreleased Song)

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小さな竜巻(Warterspout)

2011年08月27日 | お気に入り♪(ビートリー_見つけもの)

金曜の夜、夜半過ぎになって、26年ぶりの同窓会の写真がアップされてるのをようやく見た。

そこに私はおらず、通り過ぎていった記憶ともよべない時間と場所が写し取られているのを、
なすすべもなく眺めているだけなのだが、
それぞれの26年があったのだな、と思わずにはいられない。
(名前と顔がわからなくなってるひとも沢山いる。これでは、大阪の街でたとえすれ違っていてもわかろうはずもない。)

「ちょっと待って」、タイムをかけたいような気分。

少しオーバーな引用になるが、
" 僕は生涯最大のチャンスが目の前を通り過ぎてゆくのを、じっと見つめることしかできなかった。"ふう。

Waterspout - Paul McCartney


Daddy loved a dancer, though she never gave an answer / ダディは踊り子が好きだったんだけど 彼女は振りむいてもくれないから
He used to follow her all about  / 追いかけまわしていたんだってさ
Still, she couldn't shake him, she didn't seem to make her mind up / それでも、彼女はおかまいなし
Till he took her to the waterspout / 竜巻のある場所へ連れて行くまではね

Love comes in, love comes out / 愛はやってきては また去っていく
At the bottom, at the bottom of the waterspout / 竜巻の底の底の方ではね
Whoa whoa whoa, love comes in, love comes out
At the bottom, at the bottom of the waterspout

Woody wouldn't do it, but he said he never blew it / ウッディはする気がないんだ、絶対吹き飛ばせないって
He didn't know what was hanging out / とぐろを巻いているのが何かわかってなかったんだ
Oh, till he got an answer out of daddy's dancer/ そう、ダディの踊り子が教えてくれるまではね
When she took him to the waterspout / 彼女が連れて行ってくれたのは あの竜巻のあるところ

Only love can get you at it and in a minute / 愛があれば あっという間に行くことができる
You will find yourself swimming in it, only love / 竜巻の中で泳ぐんだ
Catch you up today, take your breath away / しっかり喰らいついて、息を止めて
Make you want to say what you're thinking of, it's only love / 大事なのは愛することだって言えるように 

Daddy couldn't stand it, said Woody was a mad bandit / ダディは耐えられないんだって ウッディはそれは手に負えない暴れん坊
And they were knocking each other out / いつもお互いやり合ってる
Whoa oh, till the little dancer came up with another answer / 小さな踊り子がやってきて教えてくれた
When she took him to the waterspout / 彼女が連れて行ってくれたのは あの竜巻の場所

登場人物のいくたりかは「行くべき場所」を見出すが、そうではない者もいる。
いくたりかは「なすべきこと」を知るが、そうではない者もいる。
それは私たちの実人生と変わらない。

物語は「私がどこへ行き、何をすべきかを知った」とわかった時点で、
「いつ終わってもよい権利」を確保する。

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング


これに感化されて訳してみた。

すぐれた物語は「身体に効く」。だから、私たちは「物語を身体で読む」。
他人の頭から送られてくるのは、輪郭のはっきりした語や文ではない。ノイズであり、ある種の波動である。
自分の身体を他者の頭脳に接続して、身体に発生する「ざわめき」を忍耐強く聴き取って、
それを自分の脳にもわかる言葉に置き換えてゆく。

~ ほんとうにわずかでも、好きな作家の数ページだけとか、そういうのを写経的に翻訳する。
  週末になると"写経"する。今日は誰それの短編をひとつ訳しました、というね。
  すごくいい趣味だと思います。

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弦のコラージュ、そして「倍音」の魅力

2011年08月23日 | お気に入り♪(クラシック)

弦楽器のみだが、メインのメロディーだけでなく、不協和音のような別のフィーリングが後方で渦巻いている感じがよい。

Paul McCartney - Love in the open air (strings only)

ガブリエルのオーボエ」、
なんと深いところに届いては響いてくる音楽なんだろう、
ヨーヨーマの演奏でこの曲を聴いた時に、そう感じました。
静かな曲なのだが、最高にエモーショナルだ。

裏磐梯で、また聴きたくて持っていこうと思ってたら、Chiki Serrano という方の演奏におもわず耳がとまりました。
ソロ演奏と共に、その後方、あたかも幽玄の彼方から、横溢してくるような響きのなんと豊潤なことか。
歓びも哀しみも、様々な感情が織り込まれたかのように、
幾層にも重なって聴こえてくる音のタペストリーから、
時々せきを切ったように流れ出ては音の形を与えられる感情の粒の群れ。

Gabriel's Oboe-Ennio Morricone-Chiki Serrano cello-Musica y Ceremonias

(生まれて初めてYouTubeにコメントを書いたが、感激のあまり、fineをfoneとスペルミスした。)

深い森と湖のなかに顕現する光と影。
この映像をみると、裏磐梯でなぜこの曲が聴きたくなるのかイメージが重なり合う。
The mission / Nella Fantasia instrumental flute

スイスにも1ヶ月ほど滞在していたことのある家内は笑うが、
映像の途中に出てくるマッターホルン、どことなく裏磐梯側の眺めに似ている、と思う。

今年2011年1月に神戸女学院を定年退職されたフランス思想家であり、武道家でもある内田樹先生の
最終講義六講を収録した本。
内田先生の本には、これまでも非常に影響を受けたのだが、この最終講義のなかに
「倍音」というものについて宗教的、音楽的立場から見解を述べられた箇所があります。

最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)
内田 樹
技術評論社

荘子の言う「天籟(てんらい)」、「天の奏でる音」、
これは聴く者ひとりひとりによって違う音として聞き届けられ、
そこに何を聴き取るかは、その人の霊性的成熟度に深く関わってくる、といいます。

天から自分に向かってまっすぐに降り注いでくる、
その人が最も聞きたいと思っている当の音、それが「倍音」。
ひとりひとりの霊的成熟度に合わせて、聞こえる音が変化し、
おそらくその段階において最も相応しい音、自分が聞きたいと思っている当の音が聞こえてくる。
音楽の魅力は倍音の喜びだという言葉があるくらい。

仏教の読経の声明も、
「う」「お」「あ」「え」「い」の五音と「ん」というハミング音の六音を順に繰り返し、
円座を描いて、皆で声を出し、四、五十人もいるときれいな倍音が出るといいます。
注意して聴いていないと、自分が何の音を聴いているのかわからなくなるため、
この倍音声明は瞑想法にも使われる。
倍音声明で自分に聞こえる音は、ひとりひとり違うと言います。
日本に限った話ではなく、イタリアなどでは、あの「グレゴリオ聖歌」もまた「倍音」。

(以前撮ってきた天台声明 → 京都大原での神秘の夜 

さすが、内田 樹先生だ。
私が、その時々に応じて聴きたくなるのは、きっと、この「倍音」を欲しているせいなのだと気づかせてくれた。
「倍音」を求めるこころ、それは、音楽に限ったものでもないと思う。

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三色そばと自由研究

2011年08月21日 | 旅と帰省とお出かけと

紫キャベツの色素で紫色になったお湯で、うどんをゆがくと。。

 

同じ紫色のお湯で中華めんをゆがいてみると。

 

あらら、緑色になるんですな、これが。

 さらに緑色の麺に、お酢をたらすと、今度はピンク色に。
(お酢が少ないためか、黄色っぽく写っていますが。。)

 

中華めんに含まれるかんすいはアルカリ性。
紫キャベツは中性では紫色だが、アルカリ性の時には黄色や緑色に変化し、酸性になると赤くなる。

 おもしろい。三色麺はこのようにして作ることができるのか。
  (自由研究としては、インスタントだな。)

( ↓ ) こちらは会津で行きつけのそば屋さん「桐屋 夢見亭」の三点盛り。(えびのてんぷら(と旨い蕎麦)

撮影の都合上、お盆が上下逆になっているので、
左から、会津のかおり、権現そば、頑固そば、となる。
毎度 苦渋の決断を迫られていたが、三つが一度に食べれるようになった。
こちらこそ ありがとうございます。
m(__)m

てんぷら、といえば、イタリアンで出てくるズッキーニ、
粉チーズをまぶして揚げると、コクが出て実においしくなる。
沖縄土産にいただいたチャンプルの素を少しつけて食する天ぷらはビールにもよく合う。
(いろんな料理に使えるチャンプルの素。http://www.gardenpana.biz/SHOP/67074/list.html
 いろんな塩味を試している方にはおすすめしたい、スロークッキングの万能調味料。)
 
天ぷらは熱いのが一番なのだが、少し冷ました天ぷらも 味が沁みて、実に旨い。
冷ますことによってチーズの風味がしっかりとズッキーニの上で落ち着き、風味が濃くなるように思う。
 

今年の磐梯山は例年に比べて人が少なかった。
いつもなら沢山の人で賑わう釣り堀が、ほぼ貸切状態。

おかげで猟師でもあるご主人とゆっくり話ができました。
獲れがけのキュウリやトマトをふるまっていただきまして、子どももすっかり夏野菜好きに。
ごちそうさまでした。<(_ _)>

彼岸過ぎには、マツタケ狩りがシーズン入りするそうです。
入山料5千円(お土産代3千円込み)で案内してくれるとのこと。

 

自転車で暮れなずむ森林を行くと、地震のせいか、大きな石が行く手をふせいでいた。

 

まだ青いどんぐり。

でも、森林の奥には静かに秋の気配が。

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[2011年8月 鶴カントリークラブ宇都宮] マスカラス・コーチ、失意のインタビュー

2011年08月21日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

夏の総決算を、27ホールのマッチプレーで行なうことにした。

 

ここは、藤田幸希(さいき)プロが所属していたことがあるのか、
クラブハウスのレストランで撮影されたスナップ写真なども。

  

一見非力そうに見える彼女だが、このドライバーショット、男子がみても参考になる。
パワーロスのない美しく長い円弧を描いてフォローまで、ビュン! とヘッドがはしっている。
打球音もよい。

藤田幸希 ティーショット集

前回120を叩いて崩したゴルフ、
そうそう簡単に、絶好調時のニュアンスは戻ってこない。
ゴルフとはそういうものだ。

連日の猛暑から
一気に涼しくなって、心配された雨もなく、天候は絶好の27ホール日和。

誕生日に良いマッチプレーをプレゼントしようと思ったのだが、
お互いつられるようにふがいないゴルフに終始。
27ホール、ホールごと、ショット毎に、打つまでの待ち時間が長いせいもあって、
ラウンドのリズムにも乗っていけないまま、ストレスの溜まる展開が続いた。

さて出だし東コースから、前回の悪い調子をひきずる3連続チョロのトリ・スタート。
3番・4番でパーをとって押し戻す。
3番の358Y、Par4は、途中から下りになってるとはいえ、ティーショットを打って行ってみたら、隣のGの横まで行っていたぞ。

しかし、どうも集中力をキープできない悪いクセが戻ってきた。ふがいない。

 

中コースも出だしからPar。
しかし、ティーショットが良かったのは、東の3番までで、
その後は、フックボールのオンパレード。
手打ちになってるのか、巻き球がとまらない。
ところどころ、201Y Par3で3番アイアンで1オンさせたり、よいショットもあるのだが、
前回に続いて、次々とボールをロストしまっていては、スコアは上がってこない。
中コース終了後、慌ててボールを買いに行く始末。

ロストしたホールは、つれて、どうでもいいショットを適当に打ってしまう。
こういうクセをつけると直すのがタイヘンになる。

最終の西コースで、ようやくゴルフ(ターゲット・ゲーム)をしている感じが出てきた。
そして、ようやく最終27ホール目で、ようやくストレートボールのティーショットが打てた。
(それまでは、ほんとに横なぐり気味のフックボールばかり、学習効果もないまま打ち続けていた。)
第2打のPwは横のブレはなかったが、奥のバンカーに打ちこんでしまい、ダボとしたが、
あがりの4ホールは内容が格段によくなってきていた。

ショットは、ドライバーからアイアンに至るまで、すべてフック系の巻き玉だったが、
パッティングは18,15,15とこれまでにない出来栄え。

しかし、スコアが55,53,48というていたらくでは、話しにならない。

時折、イメージ通りに球が出る程度には勘がもどってきたが、
どうして、集中力が揃ってこないのだ。

夏の総決算がこれでは、ブログをどうやってまとめたらいいのかも分んなくなってきた。
(--〆)
正直、あんまり、書く気さえ湧いてこない。。

( ↓ )センセイ、ありがとうございます。外野の声には負けませぬ。
    これで少し背筋が伸びたぞ。これでいいのだ。(-。-)y-゜゜゜
I Believe in Golfy !

( ↓ ) ちょっと意識したのだが、この衣裳いいなぁ。ほしい。

Mil Mascaras

 

 

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言葉を並べる時、そこにはある力学が働く

2011年08月14日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

高村光太郎の「火星が出てゐる」という詩を知った。

要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。

「要するにどうでもいいのか。」
逆説的だが、鋭いチカラを持った言葉だ。
( 昨日のどうでもいいゴルフを叱られているようにも思えた。)

言葉の力を侮ってはいけない、と思う。

正直に告白すると、私はブンガクというものを若い頃、冷めた目でみていた。
客観性に欠け、ゆえに真理から遠く、たぶんに感情的なもの。
メロディやリズムがついている音楽の方が親しみやすい。多くの表現者が音楽に向かうから詩も優れている。
学問として行なうなら、もっと現実的で実践的なものがふさわしいのではないか。

それゆえ、ブンガクは、今も少し遠い感じがするが、
若い時とは違った見方をするようになってきているのも事実。
内田 樹先生(フランス思想家、であり武道家)が言うところの、「誰の本にも書いてないから自分の言葉で語ってゆくほかないもの」、
そういうものの断片は、科学ではなくブンガクのなかにあるのではないか。
語ってゆく縁(よすが)としてのブンガク、これは中高年になってからこそ親しめるものなのかもしれない。

~ こういうことは誰の本にも書いてない。
  だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。
  (
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。

少し前のことだが、保坂 和志氏に新しい小説の見方を教わったような気がする。

小説、世界の奏でる音楽
保坂 和志
新潮社

~ 私は大学生の頃から「それがいかに素晴らしいか」というような骨董品を撫でまわすような事後的な文章には関心がなく、
  音楽や小説を自分の生きている世界の一要素として循環させているとでもいうか、
  そういう働きかけが存在するサイクルをイメージできるような文章にしか心動かされなかったということで、
  それがそのまま今にいたっている。

~ 導きとして読んでいる本は、私がこれまでに蓄えてきた考えとこれから形にしようとしていることのインターフェイスというか、界面活性剤のような働きをしている。

同意した。同じようなところがある。

保坂 和志氏は、樫村晴香さん(この人も内田 樹先生と同じくフランス思想が専門らしい)の言葉を引用して、書くことの限界を指摘する。

文章とは線的にしか進まないが、思考そのものは池に投げた石の波紋のような拡散的な拡がりを持つ。
文章は逐時的であるが、視覚は一挙に与えられる。
(樫村晴香)

私たちは物事を時系列に書きとめることが可能であると思い込んでいるし、
書き直すことほど物事の正しい姿に近づくものだと思い込んでいる。
(保坂 和志)

私が遠ざけていたのは、世界文学全集を読破しないと入り口に立てない的なブンガクであって、
そうなると、私はたぶんいつまでたっても部外者だ。
しかし、保坂氏がブンガクにとって大切だと考えていることは、そのような権威主義的発想ではない。
芥川賞の選考基準みたいなものにも疑問を呈す。

文章表現の次元でいくら努力しても意味はない。
小説というのは文章の出来を競うものではなくて、文章によって何が書けるか?
つまり、言葉によってどういう風にして世界と触れ合うことができるか?
を試行錯誤するものだからだ。

書き手というのはだいたいにおいて密度を濃くする方がいいと思っているから
そっちに傾きがちなのだが、そうするといま書いていることから外に出にくくなってしまう

長くなりますが、以下「なんとなく」、今の映画や本、音楽を含めた表現の流れについて合点のいく説明だったので引用します。

小説を書くという行為には、書き手自身の気持ちを集中させて
一点に向かって絞り込むような求心的な力学が働きがちなのだが、
新規の人物を登場させることによってその力が緩む。
小説には「何人かの人物に出来事という力が加わると、その人たちはどうなるか?」という
物理や化学の実験に似た側面があるのだが、
閉じた人物群の中でそれをやってしまうと
書き手自身が閉じた人間関係の原理の外に立てなくなり、
その関係の中で働く力学だけがリアルであるかのような錯覚にはまってしまう。

新規の人物を登場させることには、
自分で作り上げて自分ではまってしまった錯覚=力学から書き手自身を救い出す効用がある。
求心的でない書き方はどうしても小説として緩くなる。
しかし、緩くなっても小説としての面白さがあるのなら、
閉じた人間関係の原理が唯一の原理ではないということを、もうひとつの実験として証明したことになるだろう。
小説としての結構が緩くなれば、面白さは強く分かりやすいものではなく、「なんとなく」に傾いていくが、
「なんとなく」というのは読者にとって「不馴れ」であったり、説明しにくいものである、という意味であって、自分が読んできた小説がこれまでそうだっただけのことではないのか。

「言葉を並べる時、そこにはある力学が働く」、というのは鋭い。
言葉の持つ純粋なチカラ、ではなく、
言葉によって作り上げた、ある種の世界(=物語)によって生み出される力。
よしあしは別にして、自分が発した言葉によって受ける外圧というものがある、と思う。
(たとえば、貧困問題に取り組む演説を行った政治家が、そのあと豪華な食事をしてていいのか、みたいな論調。
ふつう人間は実に多面的な生き物のはずで、場面ごとに様々であるはずなのだが、
悪意をもった意見はある部分を切り取って、シロクロの判定をしようとする。
そういう見方をされたくないからなのか、相反する二つのことを、同じ文章、閉じた世界、で言う人はふつういない。)

閉じた世界のなかに閉じこめられて、唯一の原理にしか立てないようになってしまっては、実に窮屈だが、
書いたり言葉にする時には、そのような力学の存在を多少とも心得ておいたほうがよさそうだ。
でないと、こころない人と言われかねない。

しかし一方で、「われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」、のだから、
ほんとうは、可能な限り、いくつも通路を開けておいたほうがよい。

そのほうが涼しそうだ。

 

猪苗代の黄金の夕方に潜んでいたのは蛍。

虫つながり。
早朝の薄暗い桧原湖めがけて、この後カミキリ虫はとんでいきました。

 

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[2011年8月古河ゴルフリンクス]卑弥呼杯、予選落ちの悲しみを歌う。

2011年08月13日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

連続80台をマークした先週と同じコースで3連続80台をクリアするつもりでいた早朝スルー。

全米プロの初日、石川選手は池ポチャを6つもやって、自己ワーストに並ぶ大乱調。

石川、ウッズは予選落ち―全米プロゴルフ
>初日最下位の石川遼は通算17オーバーの147位。
>タイガー・ウッズ(米国)は通算10オーバーの116位で予選落ち。

私も、夏休み最後のラウンドを、ゴルフといえるプレーを殆どすることなく、ただの球叩きに費やした。

諸事都合により、思いもかけず早い会津への帰省となってしまい、
本日26年ぶりに大阪の道頓堀ホテルで開催されている、高校の同期全体の同窓会にも行けたのになぁ、
と思ったりもして、頭のなかは雑念だらけ。

前半4つ、後半4つ、合計8個のロストボール。
先日9つボールをロストしたケーデー氏の気持ちがイタイほどわかる。(イタタ、いてっ! )
しかも、この日は先日のロストを1ペナとする救済ルールは無しの2ペナだから、
2×8=16もロストだけでスコアを失ったことになる。

ロストに悩まされたのは私だけでもなく、
どん詰まりで近めのFwにドロップしたティーショットの球が見つからずロストになったケースもあった。
まずまずのショットがラフの1stカット程度の場所に沈むと、夏ラフの中に沈んで見えなくなる。
行ってボールが見つけられるかどうかが最大のキーポイントになる。
ナイスショットだと思っていても見つからなければアウト、スコアをその時点で2つ失う。
なんだかバクチっぽい。

出だし、10番で第2打を1ペナでトリ、11番をロストでトリ、とするとおかしくなりはじめた。
13番でもロストし、終盤で少し戻しておこうとした16番ショートで池ポチャして7を叩くと、
17番、18番はロストボールを探す意欲まで失い、10、11の大叩き。
前半終わってパーもなしの63.

後半気持ちを入れ替えて再スタートと思いきや
3番ホールで手堅くいったフェードでFwヒットしたつもりがまたもロスト、
6番、7番では計3個のロストで、乱れ打ちして9、12と初心者のようなスコア。
まったく、やる気が起きず、集中力を失った状態を断ち切ろうともしなかった。
連鎖反応的にショットからパットまでいいところなし。
最終ホールをPar(この日はParが2つだけというていたらくぶり。)で終了したのがせめてもの救い。


しかし、85、87と続けた後、1週の間を置いた同じコースで120、である。
常人では考えにくいジェットコースターぶり。

目を覆わんばかりのヒドさに、本日のラウンドは「予選落ち」ということにして、気持ちをおさめることにした。<(_ _)>

夏休み最後のラウンドがこれでは、帰宅しても、気持ちがおさまらない。

以前ケーデー氏のアドバイスもあって、ブログで歌うのはひかえていたのだが、
かなしい時には、さみしい歌を歌う、くらいしか頭に浮かばなかった。

今夜は寝苦しい夜になりそうだ。

( ↓ ) 寝苦しい夜を過ごしたくないひとは聞かないほうがよい、と思います。はい。 <(_ _)>
     絶望に頭を抱えながら淋しさをまぎらわすように歌います。
   ( 英語の歌もいまひとつだが、日本語の歌は輪をかけていまひとつである。
    でも、気が紛れればそれでいいのだ。
    ここはCLUBなのだから、このような輩がいても大目にみてあげるのだ。)

 でも、あんまりヒドイようなら、こころやさしい方、メッセージでもこっそりくださいね。
  今は常人の気風をなくしているかもしれぬので。

 

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ペパーランドへ還れ

2011年08月12日 | お気に入り♪(ビートリー_見つけもの)

さて、気分を変えて、明日はカップを家に持ち帰るべく戦いに出かけなくてはいけない。(^_-)-☆

いつものリンクスへ向かうために気持ちを高めよう。

苦さの混じった場所に戻ろう。

思うようにならないのがゴルフというゲーム、それがあたりまえなのだ。

( ↓ ) なかなか勇ましく愉しい気分になる。
    ビートルズのサージェント・ペパーを連想させるが、ポール1983年録音とされる珍しい未発表曲。
    ペパーランドというのは、苦みをふまえてなおも肯定的な感じがあって、
    単なるファンタジー、おとぎ話でないニュアンスが、考えてみれば洒落ている。
    ラストではThe Endの有名なフレーズが挿入される。

And in the end,
The love you take is equal to the love you make.

Paul McCartney Return To Pepperland

 

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2011年の夏空から

2011年08月12日 | 旅と帰省とお出かけと

東日本大震災の後 はじめて訪れる裏磐梯 ~ 会津の夏の空から。

( ↓ ) つられて、久しぶりに水溶性の色鉛筆を使ってスケッチしてみました。

    " 木は難しいんだから、上手く描けなくても気にしなくていいのよ。"

( ↓ )アメリカの詩人、ウィリアムスの気持ちを技化してみる。 (「詩人」という生き方 ~ Junk ♪

   したたかで、しぶとく、日常生活を送りつつ、詩人で在ることはできる。
   山の天気が気まぐれなら、それとさりげなく折り合いをつけるのである。

   旧来の美意識では曇天の湖畔なんぞは、不運以外の何ものでもなかったのだが、(忍びの朝 ~ 秋元湖畔にて
   そのような天気のなかに感じる美しさというものが存在するのではないか。
   かならずしも原発反対、と直接的に表明しなくとも、表現のしかたに現れるものかもしれない。

   日常的な帰省の諸事が大半であっても、
   そのとき感じた美しさを写真に切り取って、好きな音楽をつけて記事にしてみると、
   変わった風合いが生まれるかもしれない。

   毎度おなじみの帰省をパターン化するばかりでは、単なる夏休みの宿題日記になってしまいそうだ。

   そうではなくて、その瞬間々々しか持ち得なかったような輝きを残したい。

   

東北自動車道は、ここかしこに修復の痕跡が残り、
そこまでは手が及ばないのか、車の通らない側道側のアスファルトの割れ目からは夏の雑草が伸びていました。

夕陽のキレイな帰りの磐越道、
車のミラーには、後方の夕陽が眩しく映り、
視線を少し上げると、白い月がぽっかりと太陽と向き合うように高く昇っている不思議な光景に遭遇した。

たとえはよくありませんが、
東の空には、キノコ雲のようなてっぺん部分が長く平らになった巨大雲。
いつしか、巨大雲は形を変えてゆき、帆立貝のような模様に。
幸せのホタテ雲、は写真にはなく、記憶のなかにだけ残ります。

旅の途中、道すがら聴いていたのは、コクリコ坂からの主題歌を歌った手嶌葵さん。
2011年夏色の歌 ~ かもめと鷹と
感情のコントラストを取り戻そう ~ 空に終点はあるか
裏磐梯~会津の空をテーマに、ダイジェスト的な映像をつくってみました。

世界を脳天気に肯定するわけでもなければ、テロリストのように憎悪するわけでもなく、
もっとさりげなく世界と折り合いをつける方法はある筈なのである。

ウィリアムスに敬意を表して。

2011年夏会津の空.wmv

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コクリコ坂から~そこに行けないから、上を向いてはいけないという道理はない

2011年08月09日 | 日記

レイトショーでみた「コクリコ坂から」、上を向いて歩く大切さを教わる。

元気もらって夏に連れていく音楽CDを作りはじめたら夜更け近くになってしまった。

 

 

 

「失われた可能性」、宮崎吾朗監督の好きな言葉は、偶有性が指し示すような世界観を持つ。 
人間の孤独を癒す量子論 ~ 偶有性が示唆するもの

私たちはよく、「でも現実は…」という言い方をしたり、「現実逃避」という言葉を使ったりします。
しかし、「現実」という言葉がこういう使われ方をするときには、
必ず大切な何かが台無しにされる感じがある。
「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実を見ろよ」というようなことを言われると、
水をかけられたようなシュンとした感じになる。
なぜそこまでみな「現実」が大事だと言うのだろう。

閉塞した感じがあるとき、年齢的に遅すぎるように思えるとき、
結果として上に行けない、そんなときに、上を向いて歩くことは、なかなかむずかしそうだが、
そこに行けないから、上を向いてはいけないという道理もない。

"くすんだり、色褪せたものではなく、この瞬間しか持ち得ないような、世界が輝いているんだぞというそんな感じ"

歴史に名を残すもの、われわれが知識で知りうる世界が、長い人類の歴史のなかのピークのすべてなのだろうか。
ドラマや物語として人に語り継がれていないもの、浪人や市井のひとのなかに、
瞬間々々の持ち得る、なにかしらのピークがあったのかもしれない。
そもそも、なにもかもをモノサシではかれるものと勘違いしてしまうことにモンダイがある。
クレオパトラか楊貴妃が人類史上、最高の美女で、誰にとってもそうである、と本気で思うひとはいないだろう。

上を向いて歩くときに現れる、心的現実性こそが重要である、のだと思う。

シェフのオススメ、濃厚オレンジタルト、完売。

 

(オレンジタルトはこんな風 →)  

コクリコ坂の主人公たちの年代になろうか、とするのは、子どもたち。

酷暑のなか、昼間ぶっとおしで部活だったのに、ローソンで誕生日プレゼントを買ってきた。

ほんとに、やさしいな。 1963年の若者がかえってきたかのようだ。

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ジョナサンの夏休み ~ 憧れのマスカラス

2011年08月07日 | ブログについて

ブログはスクラップ ブック代わりにも使っている。

だから、あんまり公開を前提にしていない記事もときどき混入いたします。ご容赦ください。<(_ _)>

( ↓ ) リビングルームで書き物をしているポールの姿をとらえたこの写真、お気入りだったのでスクラップ。

   こんな歌しか書けないんだよ、、♪

   チカラの抜けたくつろぎ感が、ジョナサンの夏休みにふさわしい。

Paul McCartney - I Can't Write Another Song

( ↓ ) この方も実に良い雰囲気のくつろぎ感を醸すひとだ。
    憧れのあまり、被り物にまで手をださせた憎いひと。
    ここまで大きな筋肉はつかないが、パワーがあって柔らかそうなマッチョぶり、にも憧れている。

Mil Mascaras

ゆうこりん、こりん星を卒業

TVみてて、自分を" ただのおかしい人"と言ってるゆうこりんがいた。
事務所の社長に続けなさい、と言われて、がまんして、出身はこりん星です♪ とやってたらしい。
えらい。

わたしは、自分のことをジョナサンにたとえてみたりマスカラスになってみたりしているが、
ゆうこりんみたいにひとの役にたっているわけでもない。

でも、アンドロイドの話ではないですが、
姿勢よく、自信と生気に満ちた、存在をそばにイメージするだけで人は向上する。

TVの子役たちは、親とにらめっこしたりしながら、
感情を表現したり、役柄と一体化するトレーニングをする、という。
そのような日常的なトレーニングを積めば、涙を流すシーンで自由自在に涙が出たりもする。
そのようなコントロールができる、ということは、スキルとして称賛すべきものだ。

だから、そこに、別のもうひとりの自分がいる、というのは遊びとしては、非常に高度なのですよ、たぶん。

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[2011年 8月古河ゴルフリンクス(サークルコンペ)]連続80台

2011年08月07日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

恒例の夏合宿のはずが、今年は古河での早朝スルー。
(私ともうひとりのワガママ、というわけでもないのだが、軽くサクッとラウンドできるのはありがたい。)
しかし、もうひとりのワガママは、急な用事で不参加。僅か7名。(これをコンペというのか。(・・?)

しかし、こんな薄暗いうちから ゴルフをやれる仲間がいる、というのはありがたいことだ。

 

先日、自己ベストの44/41の85をマークして、90台~100台の大気圏を脱出し、新ステージに突入宣言を出したバッバ打法。

だが、今朝は出だしからボールがイっていない。
しかし、3ホール目(12番)のショート、G左バンカーから2mにつけてパーセーブ。
バンカーからでもセーブできるようになったショートゲーム力を発揮する。
14番(Par4)でも2mをきっちりキメてバーディー、
15番(Par4)もそのままの勢いで4mのバーディーパットが決まった、と思いきやカップにケラれ、
3パットしてボギー、、失速。。
もっと一気にたたみかけるラッシュ力、をつけないと。

幸運の女神の後ろ髪をつかみ損ねたら
16番(Par3)でAwを2回の3パットで6を叩き、お釣りがついてかえってきた。
17番も素ダボを叩いたが、
18番(Par5)は4mのパットを沈めてパーで前半を終わった。このしぶとさ、が大事。
46の18パット、連続80台に向けて踏みとどまった感のあるハーフターン。

 

さて、後半。満を持してニューボールのPHYZを投入。
ティーショットこそ左に低いフックボールを打ってしまったが、200Y以上残してもあまり苦にしない私、
まんまと2オン(パーオン)に成功。
そして集中力がキマッた時のパットは冴えている私、6mを沈めて、後半バーディースタート。

ティーショットも徐々に安定感を取り戻し、続く2番、3番もバーディーパットこそ決まらぬがパーで3連続パー以上。
ここ、古河では、出だしから乗ってゆけるパターンのラウンドは殆どなく、
中盤から後半で押し戻す展開になることが多いのだから、前途洋々の発進である。
難しいとされる3番(HDCP1)も楽々パーであがってきて、次のPar5は楽勝のはず。

 さて、このまま上昇気流にのっていきますか、カモメさん。

しかし、真ん中からコースなりのスライスボールで打ち出した4番、Fwキープしたかと思いきや、ボールがない。

(今日は昨夕の豪雨などの影響かコースコンディションが悪く、Fwには泥さえ混じり、スコアカードも茶色に汚れるほど。
夏ラフはボウボウに伸び、ファーストカット程度のところでもラフに入ったらボールは見えなくなる。
同伴のケーデー氏はボールをなんと9個使った。(-_-メ)
ロストでも1ペナでOKとする、この日のルールに甘えてしまった。
ここで、PHYZボールを引っ込めて別ボールにしたら魔法も消えた。)

乗ってゆくべきPar5、ふがいなくボギーとすると、続くショートもボギー。
やっぱり、きびしく行かないと、甘えを許したゴルフをすると、ちゃんと自分にはねかえってくるような気がする。

今日、このような甘えたルールでハーフ30台が出ても、価値は無いな、
そう思うと、ゴルフにも多少雑さがでたのかもしれない。

いつも左に行きがちな6番、ドラコンをゲットした真っすぐのティーショットの後のAwをピン横5mにつけたのだが、
今日の集中力なら入りそうなバーディーパットを外すと、あらら、帰しの50cmのパーパットも外してボギー。

3番と共に難所とされる7番、キモになるティーショットをFwど真ん中に置くも6番アイアンをチョロしてボギー、(でも続く8番アイアンできっちり乗せた)
8番では、ドラコンに続き、サークル会長のニアピンをさらっていったが1m弱のパットが右に抜けて3パットボギー。

このあたりで、取りこぼしなく、Myリーダーズボードの数字を縮めていければよかったのだが、
出だし3ホールで▲4とした3番以降はオールボギーで結局▲4のまま終えてしまった。

最終ホールでは再びPHYZボール投入して、真っすぐのストレート。よいです、PHYZボール。
バーディー出しての30台達成を狙う。(どうして、いつもこのように追い込まれる展開になるのだろう)
しかし、ねちこい夏芝と、まとわりつくような湿気のある炎天下のなか、途中中だるみ。。
それでも最後は2.5mのボギーパットをきっちり入れて締めくくった。(このケジメがゴルフでは大切なのだ。)

2バーディー、4つのパー、46/41(18/19)の87。
もう知り尽くしたコースだし、ハーフ30台にも手が届きそうなチャンスを取りこぼした感はあるが、
2ラウンド連続で80台の達成には成功した。
もう、堂々と80台プレーヤーです、と言おう。

夏休みで気が抜けたか、昨晩1時間半しか寝てなかったので昼は爆睡してしまったのだが、← 何のための早朝スルーや(--〆)
真夏の夢ではなかった。

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2011年夏色の歌 ~ かもめと鷹と

2011年08月06日 | お気に入り♪(マイナーなラジオ局編)

毎年、夏の頃、テーマ曲探しをよくやっている。

心を何にたとえよう

気に入っていた動画なのに よく削除されていることがある。
下の2本は手を入れて見れるようにしておきました。

少年時代~夏の風景
2010年夏のテーマ曲探し ~ 夢への地図

そして、今年はコレ、手嶌葵さんが歌う今夏のジブリ作品「コクリコ坂」の主題歌、「さよならの夏」。
スマホへの乗り換えを検討中の私、auのCMでも使われているこの曲、
いかにもこの夏らしいではないか。

『コクリコ坂から』予告編 The latest trailer for Studio Ghibli "Kokuriko-Zaka Kara"

旗をあげて待つグリーン。
そこを目指し海空を渡ってやってくる白いカモメ。 (ホワイトドライバー、かもめが飛んだ日

私の愛 それはカモメ …

ゆるい坂を下りてゆけば 夏色の風に会えるかしら

いまだおさまらぬ原発の余波のなか、記録的な豪雨にも見舞われた、会津、フクシマへ。
この夏、短い滞在のここそこで聴くことになりそうな道すがら、の歌。 

( ↓ )すぐに削除されそうですが。

心を何にたとえよう、削除されていたのでライブ・バージョンで。

人影絶えた野の道を 私とともに歩んでる

あなたもきっと寂しかろう

この曲は沁みる。カモメなのだが、 鷹の心を持った、ハヤブサのジョナサンだから。

Teshima Aoi -Teru No Uta - (live)

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どうすれば人を創れるか

2011年08月06日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

asimoくんのようなロボットには好感は持てても、恋はできないだろう。
産業用ロボットの姿・動きだからである。

どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私
石黒 浩
新潮社

百聞は一見にしかず。
アンドロイドにインタビューしたジャーナリストは、アンドロイドが微笑んで喋ると、
一緒に微笑んで、目を見つめてしまったという。
Android Video

これは愛知万博で展示されたという、NHKアナウンサーの藤井彩子アナウンサーをモデルにしたアンドロイド。
シリコン製の皮膚を持ち、空気アクチュエーターと呼ばれる機械音の出ないコンプレッサーを遠隔操作することによって、
人間の動きや表情に近い見た目を実現する。

この遠隔操作技術が進歩し、人間の脳波でロボットを制御する「ブレイン・マシン・インターフェース」が完成すると、
映画「サロゲート」の世界が現実になる時代がくる、らしい。
(「映画「アバター」のようなバイオエンジニアリングを使った地球外惑星での話ではなく、地球の近未来の話。)

石黒教授は、自身をモデルにしたアンドロイドを製作し、
実在の女性をモデルにして、ジェミノイドFというアンドロイドも製作した。
(対話機能のみを重視した最小限のメカニズムで設計されたジェミノイドFは、1千万円程度のコストで製作できたそうである。)

とはいえ、まだまだ不気味な感じもあって、暗がりで会ったら怖いように思えるが、技術は進歩する。
近未来には、高級車を買うように、アンドロイドを購入するのが当たり前になるのではないか。

Female Android Geminoid F

石黒教授は、自身、そしてジェミノイドFのモデルとなった女性が
自分そっくりなアンドロイドの出現によって得た体験から、次のように語ります。

人間とは、もはや身体で定義されるものではない。手足がなくとも義手や義足を使えばよい。
いわば、そうした肉体からの解放を極端に進めたのがジェミノイドであり、サロゲートであろう。
肉体にアイデンティティを求める時代は終わった。
無論、脳を置き換えることは非常に難しいが、脳の指令を機械の身体に伝えれば、
その機械の体が遠隔操作されているのか、自律的に判断して行動しているのか、
表面的には区別がつかない。
そうして、技術の進歩と共に、人間と機械の境界は曖昧になってゆく。

技術は、歴史的にも人間の肉体の様々な機能を機械に置き換えてきた。
そして、機械に置き換えられた部分は、人間を定義するのに必要がない部分とされてきた。
人類は、新しい技術を発明するたびに、人間の定義をより深化させ、
人間とは、単に肉体によって定義されるものではないことを実証してきたのである。

このように、技術の進歩と共に、より深い人間の定義を求めることこそが、
技術によって進歩する人間の存在価値であり

人間として生き続けることの真の意味だと私は考えている。

ジェミノイドFのモデルになり、実際にジェミノイドFの遠隔操作を行なったモデルの女性は、

感情に左右されずに振る舞うことができ、背筋がぴんと張っていて姿勢を崩すこともなく、
人間の肌よりもツルっと美しい肌を持っているジェミノイドFを見て、
自分のお手本がいるように感じた、と言います。

そして1年が経ち、ジェミノイドFが若くきれいな見かけを維持しているのを見ると、
自分自身も髪を切ったりして若く見えるように努力し、
ジェミノイドをお手本にしているうちに姿勢まで良くなったそうです。
単純に今の自分が目の前にいるというより、理想の自分が目の前にいるように感じられ、
「(自分そっくりの)ジェミノイドに何かを諭されたら、いうことを聞いてしまいそうだ。」とも。

アンドロイドが演劇を生身の人間と演じ合ったシーンにえもいわれぬ情緒を感じたので抜き書きしておきます。
アンドロイドの主(あるじ)の女性との会話です。

女性は「あなたは世界に何体あるの?」と聞く。

アンドロイドは
「20万体位あると思うんですけど、壊されたものもあるので…。
私を壊してすっきりするならそれもお役に立てたということで…。」と答える。

続いて女性が
「壊したらすっきりするかな?」とアンドロイドに聞くと、
「大抵の方は後悔するようです。」とアンドロイドは答えます。

女性はドイツ語でカール ブッセの詩を読み、それをアンドロイドが日本語で読み返す。
~ 山のあなたの空遠く さいはひ住むと人のいふ。

「日本人は寂しさのない国を探します。ドイツ人は幸せのある国を探します。」
女性は問う。
「あなたはどっち? 寂しさをなくしてくれる? それとも幸せをくれる?」

「アンドロイドにはわかりません。寂しさがなくなれば幸せじゃないんですか?」

最後に女性は、
「たぶん私は、あなたを壊さないと思う」と言って眠りにつく。

アンドロイドは眠る女性を前に最後の詩を読みます。

~ このままずっと歩いていくと何処にでるのだろう
   知らないうちに わたしはおばあさんになるのかしら
   きょうのことも忘れてしまって お茶をのんでいるのかしら
   ここよりももっと遠いところで

   そのときひとりでいいから すきなひとがいるといいな
   そのひとはもうしんでててもいいから
   どうしても 忘れられないおもいでがあるといいな

なんだか、アンドロイドが愛おしくなってきた。

Toto's 99

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