" でも、時には痛みばかりが続くこともあるのよ。"
ぼくだって同じ夏のもやの中で育ったのだが、君はどうしてそんなに強いのだ。
アデル 『サムワン・ライク・ユー』 Brit Awards 2011
倍音が聞こえると、僕たちはそこに自分がいちばん聴きたかった当の言葉を読み出してしまう。
だから、すぐ傍らにいるように思えるのは当たり前なんです。
だって、自分で自分の声を聴いているんですから。
倍音が出せる作家は読者を「自分がいま一番読みたい言葉はこれだ」という幸福な錯覚の中に巻き込んでしまう。
「ここにはまるで自分のことが書いてある」というふうに感じる。
最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書) | |
内田 樹 | |
技術評論社 |
私はオトコなのだが、このAdelに「倍音」を感じたのだと思う。 (弦のコラージュ、そして「倍音」の魅力)
がつんと、鉱脈に当たったような気がした。
さびしかったり、みっともなかったりする感情たちに価値がないわけではない。
そういう感情の鉱脈こそが、実は豊かに太くて、大きいものであったりするのではないか。
汲めどもつきぬ泉のようでいて、
しかし 掘り当てに行かなくては、掘り起こし続けなくては、かれてしまうもの。
そういうものは、本当に「鉱脈」と呼んでいいのだ、と思えてきた。
費用対効果だけでは語れない、今のビジネス的スコープから外れてしまっている鉱脈、宝物というのはきっとありそうだ。
作家だけが見つけられるというものでもなかろうし、探してわるいというわけでもない。
おっ、内田先生に対する異論になってるが、
これは「異論を立てること」を薦める先生への敬意でもあるのだ。
人間の住む世界に「骨組みと軸と構造を与える物語」というものがあって、
人間が人間であるために読まなければならない物語という鉱脈がほんとうにあるんです。
そうやって穴を掘っていって、鉱脈に当たる。
村上春樹が" 自分のなかにまだ手つかずの鉱脈のようなものが眠っているという感触を得た"と言った
「鉱脈」というのは、本当に鉱脈のことなんです。
鉱脈から溢れだすものによって涵養される物語というのは、
人類史始まって以来、同じ主題で語り継がれてきた物語が絡みついている。
そして卓越した作家だけがその鉱脈に触れることができる。
そのような物語が倍音を発しないはずがないのです。
もういちど 村上春樹にご用心 | |
内田 樹 | |
アルテスパブリッシング |
( ↓ ) こういうまどろっこしいタイトルを見ただけで、昔は素通りしてしまっていたのだが、
内田 樹先生が繰り返し言及する世界にふれてみよう、と思った。
今さら何をいってるんですか、と言われそうだが、流石にところどころに素晴らしい。そのうちにまた。
走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) | |
村上 春樹 | |
文藝春秋 |
最初に言葉がある。
たしかにその言葉を自分は知っていた。
でも、ただの空疎な言葉でしかなかった。実感の裏付けがなかった。
それが、ある瞬間に言葉が意味を受肉することが起きる。
まずは言葉を押し込んでおくことで、
自分自身の貧しい経験や身体実感では説明できないような、
他者の身体、他者の思念のためのスペースが、むりやり、こじ開けられる。
そして、成長してゆくうちに、そのスペースに、ひとつずつ生々しい身体実感や思いが堆積してゆく。
自分たちの身体実感をベースにして、それにぴったりの言葉を探し出すことでは、
本当の学びは成立しない。
狭苦しい「自我の檻」から一生出られない。
よく分からない言葉や思想をむりやりにでも押し込んでおくということは大切なんです。
(内田 樹)
音楽は不思議だ。
彼女が歌う頭の中のheaviness、
言葉に音楽が乗ると、身体実感を伴った痛みのようなものを感じるではないか。
これは、いきなり堆積して血肉のようなものになってゆきそうだ。
ちゃぷちゃぷした贅肉はいらないが、
ぎすぎすした精神には贅沢な涵養が必要なのだ。
上澄みさえサラサラさせておけば、底なし的に堆積物があるくらいのほうが夫々によい味になるのではないか。
さらさらと流れていってしまわない劇的なカントリーソングだ。
胸の奥の堆積物に突きつけるようなフックがある。
Adele - Don't you remember with lyrics