ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

2010年東京での締めの3軒

2010年12月28日 | 日記

明日(今日?)28日で年内は仕事納め。


29日には帰省予定につき、ブログも束の間 休暇入り予定です。


( ↓ ) 本日(日跨ぎにつき昨日)28日の晩東京での飲み納め。


 おでんの名店 丸健水産でお任せおでんを先ずは立飲みでぺロり。



( ↓ ) 帰省しての大阪での飲みは、この手のこてこて系ではないので、
    ならばと、東京で、大阪は新世界の味を先取り。



( ↓ )もう1軒、気になった串かつ店が傍にあったので、続けて3軒目。



大阪に帰省してわがまま言わぬよう 、東京でのお気に入りの店で関西風タコ焼きも先日しっかり仕込み(左)、


卵焼き風のやつではないけど、明石焼きも先んじて食べておいた。(右)


 

  皆さま 良いお年をお迎え下さいませ。<(_ _)>

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「詩人」という生き方 ~ Junk ♪

2010年12月26日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

~ 詩人とは必ずしも詩を書く人、というものではなくて、
  音楽や演劇をやってる場合もあれば、絵を描いたり、家庭で料理を作ったり、野菜を作っていたりする場合もある。
  別に何をやっているのでもかまわない。

 

正常と異常の境界線上にある視点や言葉が今の時代ではほとんど失われてしまっている、と著者はいいます。

正常と異常、健康と病気、そういう区別がはっきりあるのだというような物の見方では、大切な本質は見えてきません。

~ 病的である者こそは現實を知つてゐるやうに私には思へる。 ( 中原中也 )


本当は連続しているものですら、ある境界をもって二元論的に区別される。
この正常というものは何をもって約束されているというのか。
健全とは何か、それは淋しいものだ、と言った中原中也の嘆き。

「正常」と「異常」の両方を股にかけて往ったり来たりしながら
「異常」の世界の言葉を「正常」の方へ持ってきて伝えようとしているのが「詩」ではないかと私は思います。
しかし、異常の側へすっかり行ってしまったら、ミイラ取りがミイラになってしまって、
豊かなものや真実の何かを掴んで運んでくることができなくなってしまう。
それはまた、ある意味で貧しくなってしまうことであって、
そうはならない「したたかさ」や「しぶとさ」を持っていなくては詩人にはなれない。

 

 内田樹氏との共著について以前、「ドラゴンへの道」で採り上げさせていただいた春日武彦氏。
実は語り口が内田樹氏に似ていることに気がついた、おもしろい。


20世紀最大のアメリカの詩人とも称されるウィリアム カーロス ウィリアムズについて引いているくだり、
キレイさと美しさは必ずしもイコールではない。

ウィリアムズは過去の文学とか芸術に対して、全く素手の状態にいつも自分を置いていた。
旧来の詩観では詩になりえないものを平然として詩として書いていく。
つまらないこと、平凡なこと、卑近なことなど。
その結果、詩の柵や敷居がとり払われ、広大な新しい領域が現前してきたのである。
道路に寝そべっている犬、ネグリジェ姿の若い女、風に吹き飛ばされた新聞紙、点滅するネオンなどが、「詩」として描かれた。
当然こうした彼の詩風を詩ではない、と言って否定する者もいた。
しかし、ウィリアムズは平然とあらゆる事象を詩にしてやまなかったのである。

ウィリアムズは、狂人的で破滅的な天才芸術家としてではなく、
" ノーマルでありたい "と思い、きちんとした市民として日常を送りつつ(彼は医者であった)、
散歩者のような視線で詩を書きつけていった、といいます。

世界を脳天気に肯定するわけでもなければ、テロリストのように憎悪するわけでもなく、
もっとさりげなく世界と折り合いをつける方法はある筈なのである。
それを探し求め、遂行していくところに幸福は立ち現れるであろう。
100%の幸福などあり得ない。幸福は常に断片やほのめかしとして現れる。
点が三つ、逆三角形の形で打たれていればそれを見た者は必ず顔を検知するという。
その三つの点に相当するものを見出し、幸福な表情を発見しながら、我々は日常を生きていくのである。

したたかで、しぶとく、日常生活を送りつつ、詩人で在ることはできる。

詩人とは必ずしも詩を書く人とは限らない。別に何をやっていてもかまわない。詩を書かなくてもよい。

ドラゴンへの道を目指しながら、且つ詩人である、 また新しいモットーを見つけた。 ← 実践しろ。

( ↓ ) どうして?  庭のがらくた達が話しかける。

(未完成テイクだけどウィリアムズの詩のようである)Junk-The Beatles. Junk-The Beatles. 

Motor Cars, Handle Bars, Bicycles for two
Broken hearted Jubilee
Parachutes, Army Boots , Sleeping Bags for two
Sentimental Jamboree
Bye Bye,  Says the Sign in the Shop Window
Why Why , Says the in Junk the Yard
Candlesticks, Building Bricks , Something Old and New
Memories for You and Me 
Paul McCartney -"Junk"(ソロになってからの正規版テイク。原点に立ち返るような気持ちがする。) 


 

龍 〆 ← しばらく忘れていた。
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東京砂漠

2010年12月25日 | 日記

格好の良いクリスマス・グリーティングを、と思いきや、、

24日、イブの晩、仕事から帰って待っていたのは、チキンでなくて 豚の生姜焼き。

ふつーの晩ごはんなんですけど。。 

でもねぇ、おかげで豚の生姜焼きは好物になってて、めでたいと言えばめでたい。

みりんちゃんを甘くみるなよ。キラっ

 わたしの上京物語 

あれは、25歳を迎えたばかりの夏の日でした。

辞令が出て、ばたばたと上京したわたし。

" こわい舎監やから、よー気をつけて電話せーよ。"

" とりあえず大きな荷物は後で送ったらええから、カバンひとつで行ってこいや "

電話口の舎監どの、私の発した言葉に、獲物を見つけたかのようにかみついた。

" カバンひとつで行きますので、布団もないですが、よろしくお願いいたします。"

" おまえは、布団を用意せよと言ってるのか、知らんぞ、そんなもん。"

こんな感じでした。(汗

上京してキヨスクのおばちゃんにとりあえず どの電車に乗ったらいいのか聞いてみよ、としたら、

ムスッと案内板の方向を指さすだけ。

おぉ~ 東京砂漠ってほんまやな。大阪の駅の売店のおばちゃんは全然違ったで…。。

エラそうに、建物にはビルングとか書いてるし、なんやここは。。

上野発の列車に乗って、独身寮に向かいました。

列車のなかでは、さすが東京、国際色豊か、中近東風の人たちが乗っている。しかも手にはビール。

パンクロック風の金髪のお兄さんが、こんなとこでビール飲むな、って注意をしました。

日本語の達者な中近東のよっぱらい、
" おまえたち日本人ボウネンカイとかビールのんでる、ビールのんでナニがわるい "

" 電車のなかでビール飲むなって言ってんだよ "

 " おまえハラジュクでキンパツでオカマしてる、わるいのオマエね ! "

  " 俺はオカマじゃねぇー! "

・・・ 駅のそとに降りていく諸兄、、挨拶代わりにしてはミョーな光景の連続。

人情の機微を心得たわたしは、ちゃんと菓子折りを持ってこわい舎監の待つ寮へと向かいました。

舎監の部屋にあがらせていただき、ずいぶん話し込んで、ようやく寝泊りの許可を得ました。
( あとで聞いたら、上陸に失敗して布団無しで過ごすことになったという輩がごろごろいた。)

当時で築35年の旧い寮で、コーヒー好きなぼくは、共同水洗場の水でお湯を沸かして飲んでましたが、
冬になって朝、顔を洗うのにお湯を冷まそうと、白い洗面器に水を足しに行ったら、
水が錆色に茶色くなった。。げげぇ。

なぜに、こんな話してるかっていうと、そこの寮のまかないの晩ご飯に頻繁にでたのが豚の生姜焼き。

薄いけど、やたら面積の大きい生姜焼きが、多い時には週に数回あったような気がするくらい。

あの頃、キライになったのが豚の生姜焼きと、
寮食の時間に間に合わず、深夜のコンビニで毎日のように買い食いしてある日突然キモチわるくなったメロンパン。

生姜醤油の味加減と香ばしい脂が好きになったのは、
子供たちが食べ盛りを迎えて、再び口にするようになったここ数年のことなのです。
 

It's the song that we heard when we started, 
Now the birds have all flown from our nest.

って、ちょっと早いか。でも、年末年始の過ごし方もずいぶん変化してきたような。

Paul McCartney - Baby's Request

 諸事情により 今年は恒例のチーズ・フォンデュも封印、チーズ鍋。わさび菜がよくマッチする。

(↓) 大人もよろこぶ、小銭を集めてくるんだ袋。誰がいちばんお金持ちか、大人げなく銭勘定したりする。

おまけ。東京砂漠。
今ではすっかり馴染みましたが、あの頃は急にひとりぼっちになったようでちょこちょこ動き廻ってましたなー。
当時その寮は外出するときにプラスチックの札をひっくり返していたのですが、
はじめの頃の週末、ひっくり返った札と知らぬ名前が並んでいるのを見て、
仕方なく、ほかほか弁当を買って、公園のベンチで独り、昼飯を食ったのをよく覚えています。
夏空は青く、蝉がぶんぶん鳴いていたような気がする。 

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螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪

2010年12月23日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

私は「自己本位」という言葉を自分の手に握ってからたいへん強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものはじつにこの自我本位の四字なのです。
~ 夏目漱石 「私の個人主義」

漱石にたいへん強くなったと言わしめた「自我本位」。
このような、技術的で、ちょっとした工夫を促してくれるような精神論、には興味がある。

言葉の表面からは自己中心的なイメージがつきまとうように思えますが、そんな安直なことを指しているようにも思えません。
自分の手持ちのモノの考え方や、"手垢にまみれた" 言葉のイメージをもってしては
先達の云わんとするところを理解できない、あるいは誤解していることだってあるはずです。

善人なをもて往生す。いはんや悪人をや。
~ 親鸞 「歎異抄」

前者を「自力作善(じりきさぜん)」の人、後者を「他力本願」の人、と呼ぶのですが、
著者は単純に字面を読むだけでなく、
人間を「凡夫」と呼んだ親鸞の深い人間認識の意味するところを次のように読み取ります。
"自分は善人だと思いあがっているような人間を仏さまは救って下さるのだから、
 どんなに一生をかけても煩悩を消し去ることなどできないことを率直に認めている人間のことはなおのこと救って下さる"。

人が社会的動物である以上、自己をコントロールし、他人に配慮する社会性を備え、「相手の身になること」は大切。
だがしかし一方で、それは自分の真に感じたこと・考えたことを押し殺し、
「他人にこう思われたくない」、「他人にこう見られたい」の方を優先してしまう、
他人本位で神経症的な発想につながりがち。

「善い人間になりましょう」というレベルの道徳が生み出すのは、
せいぜい自分の中の煩悩を見ないようにして、善なる部分だけを自分と見做すような在り方の人間だ、と言います。

どんな人間も聖なる部分も邪なる部分もあわせ持ってるわけで、
人を信じると言っても、「この部分を信じる」までしかでないはず。
100%信じる方が話としては美しいでしょうけれど、
それは相手に神と同じような完璧さを求める「欲望」を向けることにほかなりません。
道徳というものは、その影に厚かましい欲望や美しい嘘を含んでいる場合が往々にしてあります。

空海も、お説教じみた禁欲的な教えを「遮情(しゃじょう)」と言って戒めた。
ただ禁欲的にすることが正しい道だと思い込んでいる人は、表面的には煩悩を減らしているように見えても、
それは偽物で、むしろ生命の持つ本来のエネルギーや深い知恵から遠ざかっていく間違った道である。
真言密教の言う「煩悩即菩提」、
煩悩にまみれた自我があればこそ、その向こうに悟りの大我、すなわち菩提への転機がある。

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)
泉谷 閑示
講談社

さて、「夏目漱石の自我本位」を身につけていきたいなぁ、と思うに至った、「美しい」フレーズを書き出しておきます。

客観が混入したとき、主観は曇らされてしまいます。
客観というのはさまざまな主観の公約数的なもので、
たいていは他人から異論が出ない程度の無難なものに過ぎません。見方によっては実に神経症的なものです。
人間という複雑な生命現象を理解するうえで、このような客観といった精度の悪い方法論では、もっとも重要なエッセンスを捉えることはできません。
科学ですら、客観という概念が厳密には成り立ち得ないということを、量子力学などの分野では論証してきているようです。
「独りよがり」を無くすためには、主観を抑えることが必要なのではありません。
自分の中にある主観をむしろしっかりと育てていくこと。
そうやって主観の純度が高いものになってはじめて、真に独りよがりと縁が切れる。
そこでは、もはや客観は凌駕され、その認識は主客の別を超えるものになってゆく。
主観というものは、当初「自分」、「自我」、「自己」などと言われているものに属しているのですが、
純度を高めてある地点を超えたとき、この「自」が消えます。
主観の「主」が消えた主客を超えた認識こそ、物事をあるがままに観ることを可能とするのです。

   前稿でも採り上げた螺旋の構造。
   C点で固定して古びていってしまうような人がかなりを占めているのが今の社会だと著者は指摘する。

( ↓ ) 一般には聖母マリアと解釈されているが、ポールが少年時代に亡くした母親の名前はMary。
    あるがままに任せる自我の向こうに答えがあるはず。
    人間の中に本来的に宿っている仏性や螺旋エネルギーといったものは見つける気があれば見つかるはず。

LET IT BE英語日本語歌詞

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自己形成のイメージ

2010年12月22日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

図でイメージすると物事は頭に入りやすい。

「本当の自分」というものは、どこかから持ってきて身につけるものではない。
私たちが行なうべきことは、まだ知らない「本当の自分」に対して畏敬の念を抱きながら掘り進めていくこと。

自分に足りない所を、理想的設計図を目標に(自分が勝手に持つことにした向上心を元に)、
そこに少しでも自分を近づけていこうと努力するから疲れる。

自己形成のイメージは、彫刻的なもので、
余分なものに気づき、それを削ぎ落していく、宝石の原石を研磨していくようなイメージだと著者はいいます。
ちょうど仏師運慶が、設計図もなしに木にノミをふるい、見事な仏像を彫り出したように、
木の中に存在している仏の姿を見とおしているかのように彫り出していくイメージ。

自分自身もまた仏であると気づくこと、自分の中の仏性に目を向けること


( ↓ )掘っていく箇所(分野)が異なると、分野ごとに赤い水が現れたり、緑の水が現れたりする。
    これが専門性による違いなのだが、より深い水脈ではお互いに通じている。
    普遍性の真実についての、実に分かりやすく喩えだと感じました。

ニーチェは、人間の成熟していく姿を「没落」といった。
これは(後世にある意味為政者によって都合よく曲げられた)偽善的なキリスト教道徳が、
「昇天」のような上昇のイメージで救済を表したことから、逆の言葉を用いたと考えられているそうだが、
この彫刻的自己形成のイメージにも沿ぐう言葉だと思う。

 よし、これからはニーチェの言う、「没落」していく「超人」でいこう。

キリスト教のアダムとイヴの「善悪の知恵の実」、や仏教の「分別」、で説かれるのは、
『二元論』(善悪、正誤、等々)に対する戒め。
人間の認識する二元論的な理性の働きが、人間の不幸を生み出す源にもなっているのだという教え。

   有心(うしん)にして分別計較(ふんべつけきよう)し、自心現量(じしんげんりょう)するは悉くこれ夢。
   識心寂滅(しきしんじゃくめつ)して一の動念無き所、これを正覚(しょうがく)と名づく。
    ~ 禅宗の祖の一人と言われる達磨禅師の言葉

   (理性をもって、分別したり比較したりして、自分の頭で受け取るのは、夢幻のようなものである。
    頭の関与や計らいを一切去って物事を受け止めることができたとき、それを本当の認識というのだ。)
     

人間の認識力の盲点(スコトーマ)は、相対論や量子論によっても明らかにされている。

物事を二元論的に一面からだけ捉えるのはよくない。
曽野綾子先生もいうように、アーリントン墓地に眠るような人たちでさえ、
見方を変えれば女たらしや自分勝手な輩から詐欺師までいろいろ。
他人を全体的に理解することはそんなに単純ではない。

( ↓ ) Aが悪(負)で、Bが善(正)、だとする。


( ↓ ) 人はA(悪)から、B(善)へ向上したように、見える。
    あるいは、AよりBの方がエライように見える。

しかし、悪(煩悩)を滅却して善に至ることは凡夫にそうそう出来ることではない。

ただ禁欲的にすることが正しい道だと思い込んでいる人は、表面的には煩悩を減らしているように見えても、
それは偽物で、むしろ生命の持つ本来のエネルギーや深い知恵から遠ざかっていく間違った道である、
と説いたのが空海。

「欲望を抱いてはならぬ」と言ってしまうと、むしろ本質からどんどんズレていってしまう。

( ↓ ) 実際には直線でなく、螺旋状に発展するものであるから、Cは発展した次元にいるが、、

 ( ↓ ) 立体的な視座を持たぬ人がみると、AとCは同じような負の位置にあるものとしか映らない。
     実は単なる堂々巡りではないのだが、
     物事の変化を表面的にしかとらえることができないと、AとCの区別もできない。

二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・目に見えるもの・数量化や計量ができるもの・必然性が明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を及ぼさない場合だけしか扱えないという、大きな限界がある。
しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとっては重要です。なぜなら、それらの性質は「生きているもの」や「自然」の特性そのものだからです。

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)
泉谷 閑示
講談社
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[2010年12月佐野クラシックゴルフ倶楽部] マスカラスセンセイの〆の言葉

2010年12月19日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

今年1月 ニューセントアンドリュース&オールドコースでの初ラウンドは52/59の111で始まった。
今年〆となるランドは またも52/59の111で終わった。

その間、進歩がなかったわけではない。いや、かなり進歩したと思う。
夏場にかけて調子をあげ、87をマークした。
しかし、私の場合、ショットがよくてもアプとパットがダメだったりして、
気持ちが乗ってこなかったりして、なかなかスコアとして結実してくることが少ない。

1月に一緒に廻ったメンバーの一人は先日ハーフ38をマークし、38/49で自己ベストの87をマークしたとのこと。
(ニューセントアンドリュース&オールドコースではハーフ70以上叩いてたのに)

ゴルフはやっぱり気持ちである。

巻き玉が左方向に出るのが止まらず、今日も特に後半は途中からスコアなんてどうでもよくなった。

最終Par5でまた左へOB打った後、気を取り直しての打ち直しから、しっかりパー(つまり7、ダボのことね)で締めたのがせめてもの救いか。
4打目Gエッジからの転がしアプをダフってショートしたが、1ピン強のパットを決めてフィニッシュして、
思わず、" おっしゃパーだ "、と小さくガッツポーズした。
2打罰のOBが頭から消えていたから気持ちが入った。

ティーグラウンドにあるタバコ消しの白いボール状の灰皿と、ティーマークを勘違いしての2打罰もあったり、
集中力のないポカも顔を出した。。

( ↓ ) 左:元気づけの"くのいち"ガム。効果なし。 

     右: この写真だと分かりにくいけど、やたら打ちおろしが多い山岳コース。

 

2010年 マスカラス先生〆の言葉


( ↓ )恥ずかしい成績だが、現実に目をそむけるな。 

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そんなぼくに何がわかるのか ~ Nothing Rymed

2010年12月17日 | お気に入り♪(マイナーなラジオ局編)

寒くて さみしい感じの金曜の晩に。

私に何がわかってるというのだろう。

Gilbert O' Sullivan - Nothing Rymed

If I give up the seat I've been saving  To some elderly lady or man       とっておいた席を老人に譲ったとする
Am I being a good boy Am I your pride and joy  ぼくはいい子なんだろうか、誇りに思い 喜んでくれるのだろうか
Mother please if your pleased say I am          母さん そう思ったなら頷いて 
And if while in the course of my duty I perform an unfortunate take  教会のお勤めのさなかに運悪く 醜態を演じたら        
Would you punish me so, unbelievably so        とがめれるんだろうな、信じたくないけど
Never again will I make that mistake           そんな間違いはもうしないぞ 
This feeling inside me could never deny me      心に浮かぶ感情がどうであろうとぼくを否定するものではない
The right to be wrong if I choose             ぼくには悪になる権利だってある
And this pleasure I get from say winning a bet is to lose  
この悦びは負けるが勝ちっていう格言から得たものだ
When I'm drinking my Bonaparte Shandy   ボナバルト・シャンデーを飲み
Eating more than enough apple pies        アップル・パイをたらふく食べる
Will I glance at my screen                そんなぼくに何がわかるのか  
and see real human beings strave to death    本当の人間の姿 飢えて死んでゆく人のことが
Right in front of my eyes                ぼくの眼の前で

Nothing old, nothing new,nothing ventured    旧いもの、新しいもの、賭けるに値するものなど何もない                   
Nothing gained, nothing still-born or lost   得るものなど何もなく,
生まれ続けたり 失い続けたりするものもない
Nothing further than proof  nothing wilder than youth  証明以上のものはなく 若さ以上に広大なものはなく
Nothing older  than time, nothing sweeter than wine   時よりも年老いたものはなく ワインより甘いものはない
Nothing physically, recklessly, hopelessly blind        肉体的で むこうみずで 絶望的に盲目なものなんかない
Nothing I couldn't say, Nothing why 'cos today       口に出せないことなんて何もなく、 今日が故にあるものなんて何もなく
Nothing rhymed                             韻をふむものも何もない

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地球が丸くて青いから ~ Because

2010年12月16日 | お気に入り♪(ビートリー)

われわれを取り巻く日常の光景そのものが神話であり、
それに何の不思議も感じない人は、すでに心そのものがマヒしている
~ロマン・バルト (フランスの批評家)

かつてわれわれは目に見える山や川、そこに注がれる光などを「この世」を構成する実体的な存在と信じ、何ら疑いの余地があるとは思わなかった。しかし、「この世」は物質現象で尽きるものではなく、隠された2重レベルの空間構造がその背後に広がっており、それが物質現象を生じさせるもとであることを量子力学は科学的に検知してしまったのである。
「この世」はバーチャル・リアリティのごときもので、「この世」と「あの世」を分ける幕の背後では何かが光速より速く伝わり、何かが共同謀議していると量子力学はいう。
この眩暈(めまい)のするような発見は、人類の進歩というより、新たな科学の混迷の始まりとなる可能性が高い。人類の世界観へも大きな影響を及ぼさずにおかないだろう。

死後の世界を突きとめた量子力学 (5次元文庫)
コンノケンイチ
徳間書店

( ↓ )「量子力学が検知したミッシング・リンク」で取り上げたコンノケンイチ氏の本、
    面白くて興味が尽きず、さらに最新の著作を買い求めました。
    内容的にはダブるというか、そのまんま同じ記述も多い。
    本質を突いた仮説と、そうでない部分を自分なりに咀嚼して、折にふれまた整理していこうと思います。

宇宙論の超トリック 暗黒物質の正体 『現代物理の死角』復刻補強版 (超☆わくわく)
コンノケンイチ
ヒカルランド


氏が著書の中で取り上げている、スウェーデンボルグ。
日本では、オカルト的で神秘主義的なものは科学的でないとして、
一般的な論説の場から遠ざける傾向があるらしく、あまり知られていないようですが、
実家に数少ない彼の翻訳本があります。
学生の頃、少なくとも日本では有名とは言い難い"知の巨人"とは一体何者かと興味を抱いて買い求めたのですが、
内容をすっかり忘れてしまっていて、読了したかどうかさえ定かでないので、
帰省した際にでも持ちかえって読んでみようかと。
(ヨーロッパではゲーテやカント、ドストエフスキーに至るまで多くの人が影響を受けたと言われる18世紀の知の巨人。
 科学、数学、心理学、哲学にも精通し、アメリカの思想家エマーソンが北欧のアリストテレスと称したとのこと。
 そんな彼は、なんと現生の肉体を有したまま霊界とこの世を出入りしたという驚くべき体験を有していたらしく、 「スウェーデンボルグの霊界手記」という書物を書き残している。)


( ↓ ) " われわれが認識する物質世界は実在しない "
    そんな不思議な世界観をイメージさせるような映像。
    Beatlesのカバーですが、歌詞を変えてある。
    アレンジはオリジナルに忠実ですが、こんな秀逸なカバーはそうそうない、発見です。
Copernicus ("Because" by the Beatles)

( ↓ )これはバッキング・トラックを除いたヴォーカルだけのBeatlesバージョン。
   映像はやはり量子世界風のやつをクリップ。
   歪んだ時空に私たちが同化しているが故に気づかないといわれる、世界の空間構造を歌っているような気さえする。

Because the world is round it turns me on  世界が丸いから 私は心を奪われる

Because the wind is high it blows my mind  風が強いから 私の心は混乱する

Because the sky is blue, it makes me cry   空が青いから 私は泣きたくなる

Because by The Beatles

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量子力学が検知したミッシング・リンク

2010年12月13日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

量子力学はこの世の背後にある広大な世界を検知した

死後の世界を突きとめた量子力学 (5次元文庫)
コンノケンイチ
徳間書店



量子(quantum)という名称が示すように、素粒子は「個」の姿(粒子)を示すと共に、
「量」としての性格(波)も有する。

しかし、、
電子は、波を検出するために設計された実験では、必ず波としての側面だけが測定され、
粒子の性質を検出するように設計された実験では、必ず粒子という側面だけが測定される。
波と粒子という両方の側面を測定できる実験は絶対に行なえず、
われわれは波と粒子が混じり合った量子そのものは絶対に見ることはできない。

これは、この世の基本的な制約なのでどうしようもない、という。

粒子であり同時に波でもある、とはこういうことだった。

( ↓ ) 何度見ても不思議な量子のふるまい。( くどいですが何度も見ないと、事実として受け入れ難い。)
    波と同時に粒子である、とは、観測という行為が加わるだけで波が粒子に変わることであり、
    粒子でありながら、結果を観測すると干渉縞があらわれる波になっているということ。

Dr Quantum (超訳)

素粒子は人間の意識を事前に察知する、
自然はブラックボックスの中の秘密を人類には見せない!?

アインシュタインが" 神はサイコロを振らない "と言って反論したいわゆる「コペンハーゲン解釈」。
ボーアは、
「この世の物質は観測されて初めて実在するようになり、実在性(リアリティ)は観測者の行為に依存する」
と主張した。
観測されている時は粒子だが、観測されない時には、存在するという可能性だけが波のようになって拡がっている。

    

アインシュタインは晩年になって、インドの大詩人タゴールに次のように問うたといいます。
" 誰も見ていない時は、空にかかる月は存在しないのでしょうか。 "


近代量子力学の実験結果によれば、
自然界の事象は、誰も見ていない時には実在しない不確定な可能性に過ぎず、
人が見るという行為によって現実の事象となって現れるという、
容易には受け入れ難い事実を確認するに至っている、とのこと。。
(人の意識によって、波のようにあやふやであった粒子が、実在を伴った粒子(それが集まったものが物質)として現出するということ。)

量子のふるまいをマクロの物質にあてはめると、
アインシュタインの言った月や、目の前に認識されるビルディングや街並などの物質世界は、
人間の意識によって現出した実在となって存在しているのであって、
人間の意識(観測)から離れた客観的な実在としての存在は不確かで怪しいものになってしまう。
人間の知覚する時空構造から離れた、あやふやな波のような存在ということになってしまう。

あらゆる粒子は、「観測されていないとき」は波であるので、「どこにあるか」は決められない。
粒子ならば常にどこかにあるはずなのだが、観測者が「それを見るまでは」位置が決められない。
シュレジンガーは、
人間の観測(認識)という行為によって
量子世界が有する不確かで多様な可能性を有する状態(波動関数の波の状態)が、
一挙にただ一つの現実世界となると説明し、これを「波束の収縮」と呼んだ。 

われわれが見ている自然の山や川は、
われわれが見ていようがいまいが常に存在する、と考えるのが普通。
しかし、量子力学にしたがえば、これは人間の認識の錯覚に過ぎず、
山や川は、多様な存在状態の可能性を有する、あやふやで不確かな状態であって、
われわれが見た瞬間にパッと位置が決まることになる。

マクロの世界を支配していると考えられていた法則は、
ミクロの世界からみれば、近似値にすぎないことを前の記事で取り上げましたが、
逆にミクロの世界の法則( とびとびの概念 )をマクロの自然界に適用すると、
この世とあの世のような、表裏一体の不思議な世界観が現出することになる。 

われわれの世界は原子レベルまでは一直線の梯子(はしご)で連なっているが、
そこから下(量子世界)には、区切られた大きな断層、ミッシング・リンクが存在する。

われわれの現実世界(マクロの世界)で当たり前であるとされている物理法則は、
量子世界(ミクロの世界)では必ずしも通用しないということ。

時空とあの世について」で取り上げた光速を超えた時空である非因果領域、
いってみれば相対性理論が説明するマクロの世界ではあり得ないはずの「あの世」の世界。

ミクロの世界の「波束の収縮」は光速を超え、マクロの現実世界の物理法則では説明できない。
つまり、ミクロの世界では、あの世の空間構造が漏れ出しているということ、、

あの世という呼び方が適当でないならば、「折り畳まれた世界と接地する所」で取り上げた異次元世界、異界、といえばいいのでしょうか。

しかし、マクロとミクロの世界ではそこに現れる物理法則が異なったものになるのであれば、
ミクロの集積であるマクロ(現実世界)に、ミクロの法則やミクロ世界の事象をそのまんま当てはめるのはいかがなものか。

 ミクロとマクロの世界を隔てる境界線、断層(ミッシング・リンク)というのがはっきりしない。
  生命現象(生や死、あるいは意識の実体といったようなもの)もその境界線がはっきりしない。
  そこに、なにかしら鍵があるのでは、というのが今現在での私の知見。

アインシュタインはなんで、そんな問いを発したのでしょ
きっと、マクロの世界もミクロの世界でも通用する統一した理論としての相対性理論だと信じていたからなのだと思う。
ところが、今や量子コンピュータなるもの、波束の収縮が、超高速の一瞬で起こる現象を利用した研究が進んでいるという。

( ↓ )10:30過ぎに出てくる「観測の理論」。
  " 何(こっちにあるもん)をもって、何(向こうにあるもん) を見るつもりや?" の視点。
  ( シュレジンガーの波動方程式も出てきます。)
    量子世界は、仏教に代表される東洋哲学、
    西洋においてはスウェーデンボルグが伝える霊界構造とクロスするものを感じさせる。

    湯川秀樹 創造的人間:東洋的思考から理論物理学へ

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ひとあし早い年賀状 ~ Same time next year

2010年12月12日 | 日記

日ごろ 拙ブログをご覧頂いている方のもとには ほとんど届くこともないですから、
ひと足早めに今晩つくった年賀状をお届け。

例年のごとく、フチなしの全面写真印刷なのですが、ささやかだけど大きな変化があります。

今年は、揃って出かける機会があんまりなかったこともあり、年賀状に適当な家族写真も多くないので、
先日の近くの紅葉の写真を採用することになりました。

子どもたち曰く、これなら使う、って。( 家族の集合写真だとキマリわるく感じる年頃に成長したということなのだ。)
ケガの功名といったらいいのか。

ピカソの有名な「花束をもつ手」にそっくりだ、
平和の象徴みたいな感じがしていい、と思ってたら、ずいぶん違っていた。

Must we wait another year     僕らはまた新しい年を待たなくてはいけないのか
for the celebration , dear ?     祝福のときが来るのはいつ?
If we do , We'll hold it here,    もし願いがかなったら しっかりと握りしめよう
Same time, next year        来年の同じ頃には

I'll be here, the same as ever,   僕はこれまでと同じように ずっと此処にいるだろう       
Maybe wearing something else  どこかが疲れ切ってしまっていたとしても
Ah, but nothing changes      でも、何も変わりはしない

埋め込み無効になってますが、新年を迎える前のこの季節に相応しいような曲。
(こんないい曲なのに正規盤CDには収録されずファンクラブ向けのお蔵入りになった曲を集めたアルバムに入っていて、
 後に正規盤のボーナストラックとして追加されたもの。)

Same Time Next Year


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左足をつっかえ棒にしたガイドラインの在るスイング

2010年12月11日 | ゴルフィーライフ(Myスイングチェック)

フィル ミケルソンのスイングは、よく「ヒールアップ」していると言われます。
ヒールアップには 体の固い人にとってはバックスイングの稔転がしやすくなる効果があるらしい。

ヒールアップというと、イメージがもうひとつですが、
『左足を、つっかえ棒のように使う』ことで、
右足体重で頭を右側に残すカウンターバランスにもなる。

私は手元や上体が暴れだしてスイングを乱すクセがありますが、
このつっかえ棒が、いわばガイドラインの役割にもなって、
上体の突っ込みや伸びあがりがなくなり前傾角度をキープでき、
スイング軌道の安定に資するのでは、ということに思いが至りました。

ラウンドスタート後、脂が乗ってきたら、背中をターゲット方向に向けるくらいのバックスイングをしても、
ガイドラインがあれば安心して攻めていける。

ショットのスイングの幹はかなり出来上がってきて、リッキーファウラーあたりをイメージすることが多いですが、
やっぱり、フィルもいい。
手元が" 泳がない "スイングをすれば、シャフトのしなりのパワーも効果的に使える。
 
左足をつっかえ棒にしてミケルソン風に

(↓)ヒールアップすることは実は体重移動の理にもかなっていて、正しい軌道でボールにパワーを集約させていけそう。

プッシュアウトしないために、心がけていること。

1.右方向を向きがちなアドレスに気をつけること

2.右腕返しのタイミングが送れないように右軸上-右太腿-で右手がうえ、を意識すること

( ↓ )  ミケルソンのように、確信を持って打っていきたい

( ↓ ) 150Yを切ったら、そこからまた新たなpar3のつもりで、きっちり打っていきたい。 
    100Yショットなら、毎回同じように打てるはず、信じて打つことだ。それがスコアをつくる。

ちょっと巻き玉になってます。もっと怖がらずに左に振りぬいた方がいいのかも。スタンスは開いても、肩と胸のラインはターゲットにスクエアにセット。

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ポールの歌う「今 ここ 」 ~ Here Today

2010年12月05日 | お気に入り♪(ビートリー)

秋の紅葉が終わり、街がXマス・ムードに色づき始めると、ジョン レノンの亡くなった12/8が近づいてきます。

以前、老境についての考察三部作、と半ばふざけてネーミングしたやつがありましたが、
人間誰しも、折り返し点である40-50歳を過ぎるころには、来たるべき「死」や「老後」について考えを深めていくようになるといいます。
   「
成熟の仕方 ~ 大海にそそぐ前の出来事」、
   「
タンホイザー序曲 ~ 大海にそそぐ前は静止系か」、
   「
大人は愉しい ~ 薄闇の向こうへの誘い

画家のモネが本格的にあの「睡蓮」を描き出したのは60歳近くになってから、だそうです。

以降、亡くなるまでの30年近く、ほとんど睡蓮の絵だけを描いたといいます。
自宅の庭にガラス張りのアトリエを建て、何枚ものカンヴァスや車輪付きのイーゼルを用意し、
朝から夕方まで刻一刻と移ろう水面の光や影を追い続けた。

仏教でいう、「仮観(けかん)」(お金は多ければよいし、土地は広い方がいいといったような現世の煩悩)だけではなく、
悟りの正体とも言われる「空観(くうがん)」(欧米の物理学者は量子論と仏教に接点を見出し仏教好きになる人も多いらしい)、
さらには「中観」(この世を幻と認識した後に自分の果たすべき機能を決め、他人にもそれぞれ機能があることを認識できる)
といったような世界観をどうやって、バランスよく自分の中に育てていくか。

60歳近く、会社員でいうと定年近くになって慌てて始めても、きっと遅いように思えます。
老いさらばえていく自分に嫌悪感を抱くようなことから比較的自由でいられるような感覚は、
今持ち合せている感覚の単なる延長線上にあるのではなく、
価値観のシフトを必要としそうですから、一朝一夕には身に付かないように思えます。

このブログでも、そのあたりの感覚を養い、価値観を拡げていくような内容の記事を取り上げていきたい。

( ↓ ) ポールが、40代になってジョン レノンを失った喪失感をつぶやくような語り口の小品にしている。
    身近な人間を失う経験の多かったポール、外交的でライトな印象が先行しがちですが、
    人生についての深い知見というか、意識の質感(いわゆるクオリア)が秀逸だと思う。

   Yesterdayを連想させるタイトル、
   そしてYesterday以来になるという弦楽四重奏とギターのみの伴奏による曲。
   プロデューサーにジョージ マーティンを迎えた、レコーディング風景や当時のインタビュー映像。

Paul McCartney - Here Today


 秋から冬へ、ピッタリの映像があったので併せてクリップ  

Here Today - Paul McCartney


And if I say, I really knew you well, What would your answer be?
If you were here today. 
Well, knowing you, You'd probably laugh and say that we were worlds apart.
If you were here today.  Uh, uh, uuuh, here today.
But as for me, I still remember how it was before
And I am holding back the tears no more. I love you.

What about the time we met?
Well, I suppose that you could say  that we were playing hard to get.
Didn't understand a thing, But we could always sing.
What about the night we cried?
Because there wasn't any reason left to keep it all inside.
Never understood a word, But you were always there with a smile.

And if I say  I really loved you and was glad you came along.
Then you were here today, for you were in my song.

「 今 ここ 」は過去の上に積み重なっているが、過去も未来も、意識のふるまいによって変えることができる。
オープン・エンドな、人間の意識の持つ偶有性は、今や科学的にも自明の道理。

クオリア(意識の粒)を磨き育てる道は続く。

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MY LOVE

2010年12月04日 | お気に入り♪(ビートリー)

アナハイムのディズニーランドだったか、
列待ちのなかでアメリカ人カップルの女性がMy Loveを幸せそうにハミングしてたのを覚えています。
キレイな歌声だった。

( ↓ ) レコーディング・バージョンより むしろこちらの方が好き。
    90年に続き、93年、2回目行った来日公演の頃のビデオ・バージョン。(そのうち削除されそうだ。)

   " ウォーウォーウォーウォー" ってところが、年代によって歌い方が微妙に変化してゆく。

 Paul McCartney ポール・マッカートニー MY LOVE

   90年、まだ学生だった頃、友人と大阪から上京して東京ドームへポールのコンサートを観に行った。

   その時、この辺りに住んでる人はいいなぁ、追っかけだってできるし~と思った。

   そして今、東京ドームまで電車一本で行けるとこに住んでいる。毎日通りもする。

   93年の来日時、妻とのはじめてのデートがポールのコンサートだった。

   2002年は、カミさんになった妻と一緒に行った。
   

どうでもいいことに気がついた。

うれしそうにプレミアム・モルツが映っているけど、普段飲むのは発泡酒。
" 発泡酒は値段が安いことから、中身も安いように思われがちだが決してそうではない "

なのに、外で飲む時、ホッピーはあってもメニューに発泡酒はないように思う。(気のせいかな。)
どうしてなのでしょ ?(・o・)?

( ↓ ) くじら好きな私。 これは「くじらのたたき」、珍しい。

 

( ↓ ) カブのソース。パルメザン・チーズが混ざっているので、あっさりしてるのにコクがある。ナイスである。

 

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波と粒子について

2010年12月04日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

 波の運動と水の粒子の軌道の関係

波と一緒になって水の粒子も伝わってゆくわけではない。
理想的な実験的環境の下では、水の粒子は楕円運動の軌跡を描いて漂っている。

学生時代に勉強した流体力学が、マクロとしての波と、ミクロとしての粒子の運動を分けて考えてしまうという、
私の常識、先入観になっているのかもしれない。

( ↓ ) 光は波であるので、音と同様、ドップラー効果が観測される。
   本来黄色にみえるはずの銀河や星であっても、
   我々に近づいてくる時は波長が短くなって青く見え、
   逆に遠ざかってゆく場合には、波長が引き伸ばされて長くなり、赤く見える。

(「ホーキング未来を語る」より)

( ↓ ) 宇宙の膨張が加速しているなら、月や太陽も徐々に私たちから離れていくはずだし、
   (今見てる太陽は8.3秒前の太陽だといいますが、この時間も増えていくはず)
    今見えている星や銀河が見えないところへ遠ざかってしまう。
    私たちの地球との相対的な距離が近づいたり、離れたりすることで色も違って見えるかもしれない。

ヤングの干渉実験で示されるように、光は粒子であり、また同時に波でもある

「同時に」粒子であり波である、というのがピンとこないのは、たぶん冒頭で述べた先入観に原因がある。
粒子は、ミクロの素粒子レベルまでどこまでいっても物質そのものであり、
波は粒子が集まった時に観測されるマクロな状態を指すのかとばかり思ってたが、
どうも量子論の指すところの意味はそうではなさそう。

電磁波(電波や可視光線など)に波長があるのはわかるが、
電子のような粒子にそんなものがあるとは考えにくい。

しかし、あらゆる粒子は波のようにふるまい、あらゆる波は粒子のようにふるまう。
まるで禅問答にも似た量子力学の考え方。

すると原子核の周囲を廻る電子は、グルグル粒子が飛び廻っているイメージではなく、
原子核の周囲をグルリと囲んだ波がうねうねと揺れ動いているイメージになる。

アインシュタインは相対性理論ではなく、それまで波だと思われていた光を粒子とみなす考え方
- 光量子仮説 -でノーベル賞を受賞した。

" 「量子」とは「とびとび」の概念である。 "

熱せられた水の温度や、アクセルを踏んだ車の加速を考えてみれば、物理量は連続的に変化するのが常識。
一方、光のエネルギーは小さな係数(プランク定数)× 光の振動数の整数倍にしかならない、
つまり、「とびとび」の値を示すのだが、とびとびの幅が極めて小さいならば、連続しているようにしか見えない。

マクロの世界を支配していると考えられていた法則は、
ミクロの世界からみれば、近似値にすぎなかったということ。

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)
村山 斉
幻冬舎

( ↓ )原子はバラバラにすると電子とクオークになるが、素粒子には3つの世代があり、3つの世代を繰り返すらしい。
   第2世代以降の素粒子は、現在の地球上に物質として存在しないが、
   創世時の宇宙に存在し宇宙線の中に存在が確認されているもの。

 

上図の「ボソン」と呼ばれる素粒子、これが面白い。

フェルミオンと呼ばれる素粒子群は物質をつくるもので、排他原理が働く。
つまり、リンゴが存在する空間に、別のリンゴを置くことができないように、
電子のあるところに別の電子は置けない。それが物質というもの

ところが、「ボソン」は排他原理に従わず、同じ場所にいくらでも詰め込める。
光子も「ボソン」の一種で、(波ではなく)粒子でありながら、同じ場所に詰め込むことで、光は重なり強くなる。

排他原理に従わないので物質を構成できないが、「力」を伝達する素粒子、それが「ボソン」。

この本、「リサ ランドール博士の異次元理論について」でちょっと書いた、
宇宙に存在する4つの力(重力、電磁気力、強い核力、弱い核力)まで踏み込んだ内容になっています。
磁石のS極とN極の周囲には目に見えないバネのような電磁場があって引き寄せあったり反発したりするのではなく、
電磁力は粒子が光子(バーチャル光子)を吸ったり吐いたりして(交換して)伝わるものだ、
と説明するのが量子場の理論と呼ばれるもの。

力は粒子のキャッチボールによって伝達されると考えるのです。

( ↓ ) 何度見ても不思議な量子のふるまい。
    波と同時に粒子である、とは、観測という行為が加わるだけで波が粒子に変わることであり、
    粒子でありながら、結果を観測すると干渉縞があらわれる波になっているということ。

ミクロの粒子は幽霊的な存在だった

   アインシュタインが" 神はサイコロを振らない "と言って反論したいわゆる「コペンハーゲン解釈」。
   あらゆる粒子は、「観測されていないとき」は波であるので、「どこにあるか」は決められない。
   粒子ならば常にどこかにあるはずなのだが、観測者が「それを見るまでは」位置が決められない。

 

( ↓ ) 2010/11/30 初刷、とある。つい、数日前じゃないか!
    同じようなことを考えている人がいる、、共時性のようなものを感じたけど たぶん気のせい。
    あの世とかこの世の不思議、といったものは解明されていないだけで、
    どこかで科学(相対性理論や量子力学あたり)とつながっているに違いない。
    哲学的、あるいは宗教的だとされてしまっている事柄を、科学の視点でとらえ直す。
    トンデモ本の類になってしまうのかもしれませんが、実に良い発想だ。
    科学だって仮説があって、検証されることで発展してきた。
    アリストテレスの時代がそうであったように、哲学や宗教は本来 最先端の科学と同格のものであったはず。
    多くの人が寄ってたかって神話やオカルトの世界に押し込めてしまったのだと思う。    

死後の世界を突きとめた量子力学 (5次元文庫)
コンノケンイチ
徳間書店

 幽霊か人だまのようにも見えますが、これ、ゴルフボール・デザインのコースターです。
   ゴルフばかの集まりの忘年会での一こま。
  (風邪っぴきで不参加のつもりが、顔だけ出しての一言で、ついつい無理してしまいました。)

 

 

 

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暗黒物質と暗黒エネルギーについて

2010年12月04日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

自分の周囲を満たす空間が何でできてるか、って問われれば、
誰だって、酸素とか、二酸化炭素とか、窒素ってことくらいは知っています。

でも、それらの物質を原子、さらには素粒子レベルまで細かくミクロにしていっても、物質である素粒子の間の隙間が残る。
この隙間を埋めるモノは何?って言われると、意外に答えに窮するのではないでしょうか。

(↓) 原子を構成する最小単位である電子、アップクオーク、ダウンクオークに加え、
   物質を作らず独立して存在するニュートリノまで様々な素粒子が発見されている。



アリストテレスは「存在しないものが存在する」ことを嫌い、「絶対真空」という考え方を否定しました。
そこで「エーテル」と呼ばれる物質が元素の間を満たしていると考え、
アリストテレスの後の時代においても、
水が波を伝えるように、空気が音を伝えるように、
電磁波や光が波であるとすれば、当然それを伝える媒質があると考えられ、
エーテルが光(電磁波)を伝える媒質と考えられてきた。

しかしアインシュタインによって、再びエーテルが存在しないことが証明され、
2400年前の「真空」という考え方が復活した。

真空管とかいうけど、真空の歴史って、そんなに浅いのか。。ウィキペディアで「真空」について調べてみました。

絶対真空とは空間中に分子が一つも無い状態を示すが、地球の表面上の圧力(1気圧)は100kPa時に1cm3中の気体分子は0℃時で2.69×1019個も存在する。 人工に作り出せる真空状態は10-11Pa程度である。この圧力下でも1cm3に数千個の気体分子が存在することになる。 外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でも気体分子は存在するとされている。

あらら、真空と気軽に言ってますが、本当の絶対真空というのは実際には作り出すのが難しいよう。

素粒子さえもない、「絶対真空」とはどういうものなのでしょう。

そもそも、原子にしたって、原子核とその周りを廻る電子があって、
原子全体が東京ドームだとすると原子核はボール位の大きさでしかない。
ボール大の原子核の周りを、東京ドーム大の大きさの径で電子が廻っている。
原子や粒子といっても、実は中身はスカスカ。

その隙間が物質の存在しない真空ならば、世の中、スカスカの真空だらけってことになる。

真空は、どうやら"全く何も無い状態"と考えてはいけないらしい。
それでは、宇宙の道理が説明できなくなってしまうらしいのです。

宇宙というと、気宇壮大に過ぎて、自分には関係ないと感じるように思えますが、
私たちのいる「今、ここ」も宇宙の一部。

 ~ 宇宙は“無”の状態から創られたと考えられていて、宇宙誕生の初期には「真空の相転移」が起こった  ために
   インフレーションといわれる現象によって急激に膨張したと考えられています。(ビッグバン宇宙)
   この宇宙は、真空の状態でも真空のエネルギーがあり
   粒子と反粒子が現れては消えている(生成・消滅の繰り返し)もので,
   真空とは、単に物質の存在を確定できないだけの状態であると考えられています。

真空(分子が一つもない状態)に、粒子が出てきた… 
対生成・対消滅が起こる場所は、粒子と反粒子という物質が存在する場所。
それを真空と呼ぶのか。

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)
村山 斉
幻冬舎

「折り畳まれた世界と接地する所」で取り上げたこの本、素粒子物理学をわかりやすく解説している。

宇宙を、遥か彼方の別世界と考えるのではなく、
私たちのいる「今、ここ」の理(ことわり)だと考える視点でもって、少しずつ整理していきたく。

まずは先へ進め。    

ここでいう「真空のエネルギー」は「暗黒エネルギー(dark energy)」とも呼ばれています。

(↓) 学校では「万物は原子からできている」と習ったが、実は「原子以外のもの」が宇宙の約96%を占めている。
   それがわかったのは2003年のことだというから、
   我々世代の人間がおおかた勘違いしたままでいても仕方がない。

 

ニュートリノ(ベータ崩壊の際に、電子と一緒に飛び出してくる電荷を持たない粒子。
質量はゼロに近く、ほかの物質と出会っても反応せずに素通りする幽霊のような粒子)は、
観測に成功しましたが、暗黒物質はまだ正体不明で、存在することだけが分っているもの。

太陽系は、銀河系の中心のまわりを秒速220km(時速80万km)という猛スピードで廻っている。
それだけのスピードで動く太陽系を銀河系に引き留めておく重力を生み出すには、銀河系の星の重力だけでは足りず、星以外の何か(暗黒物質)の存在が必要。

137億年前のビッグバン直後の2億年の間は光のない暗黒の時代だったといいます。
暗黒物質の重力に引かれて、原子たちが集まり、反応し、光を放ち、星となって宇宙に燦々と輝き始めた

暗黒物質はまだ観測さえされていないが、
反物質(反水素)は実験室での生成に成功している。(自然界での存在は観測されていない。)
すべての粒子には電荷だけが逆の反粒子が存在し、その反粒子が集まってできたのが反物質。
反物質は物質と出会うと消滅し、E= mc
2によって質量がエネルギーに変換される。
ビッグバン直後、宇宙にあった反物質は物質と出会って消滅した。物質も同じだけ消滅した。

私たち、物質がこうして存在するのは、わずか10億分の2だけ、物質のほうが多かったから。
星も空気も水も私たちも、10億倍あった物質と反物質のいわば「おつり」みたいなもの。
反物質の世界は、物質の世界を鏡に映したようなものだと考えられていて、
その非対称性(CP対称性の破れ)は説明されているが、反物質のほうが多い世界がどのようなものだったかははっきりとは分からない。

『天使と悪魔』FILM CLIP:ヴァチカンに仕掛けられた反物質とは?  

しかし、原子と暗黒物質を合わせてもまだ宇宙のエネルギーの27%にすぎない。

それ以外の73% ― つまり宇宙の大部分 - は、暗黒エネルギーが占めている。

( ↓ ) 宇宙がビッグバン以降、膨張しているという話しは聞いたことがあるが、
    約10年前、宇宙の膨張がなんと「加速」していることが分かったらしい。
    暗黒物質は、他の物質と同様に、宇宙の膨張につれて、その密度が薄まるが、
    暗黒エネルギーは非常識にも薄まることがない。
    宇宙という箱がいくら大きくなっても薄まらずに、
    その膨張をぐいぐい後押しして加速させている謎のエネルギー、
    そんな得体の知れないものが宇宙の7割以上を占めている。
 
    科学は進歩したが、私たちの身体を取り囲んでいる空間に存在する、7割以上のエネルギーが何なのかを解明できていない。
    人間の認識力には大きなスコトーマ(盲点)があるようだ。

スーパーカミオカンデ (Super-Kamiokande) 1/4

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