ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

コスモス ~ 世界は二つある

2014年10月26日 | 日記

薄闇の向こうへの誘い。(大人は愉しい ~ 薄闇の向こうへの誘い

現実と幻想、書かれたものと書かれなかったもの、産まれたものと生まれなかったもの。

小さいものは小さいままに日々を記しただけの日記が、微かな幻想たちのための優れた標本となっていく。
日付の飛び石が、本来行き来できないものの間に橋を架け、逆にそれを辿って現実の心の形を読む。

現実のかけらに混じった小さな幻想も消えてなくなることがない。
過去に見た夢も、今日思い出した形にしておけば、いくらでも隣に並べることができる。

記憶をたどることは、単なる懐古趣味ではない。
世界の成り立ちが、過去や未来とのアクセス方法によって、大きく違ったものになるのなら、
過去と接続することは、フォースの源になる。
時間がエネルギーなら、過去との微分差が、今ここの現実のエネルギーの源になるはずだ。

ちょーさんの十三回忌に行ってきました。

薄闇の記憶をたどってみようと思います。

最後に会った時の思い出ではなくて、会えなかったことの思い出です。
13年前、マレーシアにいて結婚式に来れないというので、
披露宴の後の新婚旅行はちょーさん夫妻が滞在するランカウイ島に行くことになっていました。
時とタイミングがしつらえたような、特別のプランを愉しみにしていました。

ところが、結婚式を週末に控えた週の半ばになって、旅行会社から急の連絡が入ります。
「(私の奥さんの)パスポートの有効期間が、残り半年を切ってしまうので、アジアには入国できません。」

そんなことはもっと前に言ってくれー。
当時勤めていた銀行は、関連会社で旅行会社もやっていたのですが、
旅行業は専門外ですから、パスポートの有効期間チェックという基本動作が甘かったのだと思います。
(今になって思うと、こちらもこちらですが。)
当時支店にいた私は、結婚休暇を控えて大忙しでしたので、旅行会社からの謝罪訪問の申し出を断りましたが、
本店にいた私の奥さんは直接謝罪訪問を受けて、受付担当者だった女性の落胆ぶりに、怒りようがなかったようなことを言っていました。

仕事上も大きなアクシデントに見舞われた後でしたし、
脳梗塞を患い、その年になくなった父が無理をおして上京するということもあり、諸事こまやかに、とはいかない時期だったような気もします。

おかげで、新婚旅行は、パスポートの有効期間上問題のないハワイに急遽変更。
式の段取りで手いっぱいだったまま、ノープランで飛行機に飛び乗った感じでした。

新婚旅行だというのに、ハワイに着くなり、ワイキキビーチでふて寝。
だって、ほんとうにノープランのまま、来たくもないハワイにやって来たのですから。

先輩だったので、ちょーさんとは呼んでいませんでしたが、
才色兼備な女性だったので、おじさん連中は、尊敬と親しみを込めて、ちょーさんと呼んでいたのだと思います。

ジャイアンツのちょーさん(長嶋)は、大阪にあっても、当時まだ別格のスターでした。
新任外交(渉外、営業職のことを外交と言っていました。今でもそんな呼び方をするのでしょうか。)向けの泊まりこみ研修があると、
強烈なタイガースファンのえらい人がいるかと思うと、研修の訓示でON(王、長嶋)を中心としたV9ジャイアンツの組織力がいかに素晴らしいものであったかを熱く語る軍曹みたいなおじさんもいました。
巨人は嫌いだが、長嶋は好きだというひとも多かった。
私が銀行に入ったばかりの頃は、今とはちがって、中堅どころの30-40代の先輩社員との間には口をきくのがはばかられるような壁があったのだが、
そんなおじさんに、
″おまえは長嶋、オヤジの方のナガシマに似ている″と言われたことがあります。
わたし史上、最高の褒め言葉のひとつです。

さて、なんとも枯れた本を読んでると思われるかもしれませんが、透徹した心眼をお持ちの方だ。
心象世界と現実世界みたいな話があるが、
コスモスという呼び方をする宇宙がある。宇宙を指すときの「コスモス」という言葉の使い分けに、なるほどと思った。

世界には、コスモスとワールドという二つがある。
自分が主であるコスモスでは、自己顕示や有名になる必要もないから、
″努力を積み重ねながら、平凡に、無名のままに過ごすのは、つまらないことでも、虚しいことでもない。″

江戸時代の人間は、今よりずっと生に執着することなく死んでいきました。
当時の文献を読んでみると、本当にあっさり死んでいる。
江戸時代の人生は短かったのかもしれないけれど、「短すぎる」という感覚はなかったはずです。
すでに生きている時から覚悟が決まっているのでしょう。
では、あっさり死んで何事もなく死を受け入れていた江戸期の人と、そうではない今の人とはどこが違うのか。

昔の日本人は、「この世に一時滞在する旅人にすぎない」という慎ましさを持っていた。自分を大したものだとなどとは考えず、
名が世間にゆき渡らなくても、旅の間、この世の光を受けたと思える「気位」を持っていた。
自愛心の発達した現代人には、この結論がなかなかに理解できないのだと言います。
ややもすると、厭世的なイメージで捉えがちなもののなかに、
実は豊かな深みやコクがあるのかもしれない。
ワールドな世界に背を向けるのもどうかと思うが、
実は世界は二つあること、豊穣なコスモスの世界があることに気づいている。

江戸までは下れなくとも、昭和の風情なら分かります。
70年代フォークの趣きのなかに、敬意を表すべき慎ましさがある。
I Live for You + Lyrics.wmv

食べ疲れ気味の夕方でしたが、昭和のラーメンてこういうのを言うんだな、と妙に納得した。
支那そばってこれか、というのとはまた違う。
オバQで小池さんが食べていたラーメンって、これだったに違いないと思った。
大宮の百貨店、高島屋の裏にある昭和。

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くるみの木にくるみらい

2014年10月21日 | 日記

二年も喪中が続くと、久しぶりの年賀状の初動が早い。
(喪中はがきは十一月には送るものだからだ。)

喪中はがきに使われる、桔梗や菖蒲の挿絵のような控えめな風情に慣れたのか、
家族の写真が入ったカラフルな年賀状もよいけど、
よく年配の方がするように、干支が印刷されただけの簡素な年賀状に変えてみるのもよいかな、と思ったりした。
さらりとした力の抜けた時候の挨拶状には、慌てず騒がずの、風雅を感じたりもする。

さて、この秋に観たのは、ボストン美術館所蔵の葛飾北斎。

実は、歌川広重のほうが、鮮やかな色彩がポストカード的で綺麗だと思っていました。

広重の大井川の渡しを描いた作品などを見ていると、
荒川の河川敷のような水辺や川べりは、本来人々が集まる場所で、
民間利用が進む近い将来には、かつての賑わいが戻ってくるのではないかとも思えてきます。

かたや歌川広重とほぼ同時代を生きた葛飾北斎の作品には、
一瞬の風や波や滝の動きを捉えようとする視点の斬新さがあって、表面的な構図や色彩を超えた、世界の見方に関わる凄みを感じる。

(セザンヌは″林檎ひとつでパリを変えてみせる″と言ったといいますが、同じ気風を北斎に感じます。)

( ↓ ) そのあたりはこちらの方がうまく説明してくださっています。

(【これが88歳の作品!?】葛飾北斎が老いてから描いた画が強烈すぎる【波の画だけじゃない】)

北斎はこんなことを記したことがあります。
「70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。
(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいく らかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、
100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。」


北斎は数え年90歳になって、この世を去ります。彼の言葉を借りれば、奥義に極めた年齢。
しかし、彼の最後の言葉は次のようなものでした。

「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし 」

(もうあと5年長生きできたら、本当の画工になることができたものを)

引越しと改名を繰り返し、晩年自らを「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」と名乗ったという葛飾北斎。

「蛸と女」のぶっ飛びぶりは、現代芸術のアナーキズムを凌駕している。

たとえば春画なら、デフォルメされているとはいえリアルの範疇にあると思うのだが、
こちらは狂気と幻想の世界、あの時代にここまで描く勇気というか大胆さは何ゆえなのか。

残念ながら、「蛸と海女」は今回の展示になかったが、
北斎のことを「職人的な技工を持った、印象派の画家たちにも影響を与えた、日本を代表する浮世絵師」という側面だけで捉えることをしなくなる。
かえって、この画家が本当に描きたかったものは何なのだろう、北斎の眼は何を捉えようとしていたのだろうということを感じてみよう、となる。

有名な「神奈川沖浪裏」は、富嶽三十六景といいながら、富士山というよりは大部分が波の描写であって、
引く波や寄せる波、砕け散る波やなだれ落ちる波までを、漫画か着物の模様のようにパターン化して描き分けていることにあらためて気づかされた。
遠景にある富士山は小さく、近景にある波の方が圧倒的に高い場所にあってエネルギーがある。
実は、富士山のブルーではなくて、海のブルーを見ていたことに気づく。

さて、少し年賀状のほうに話を戻そう。

フチなし印刷の写真年賀状の迫力が好みだったりするので、この夏に撮った写真のなかに適当なものがないか見繕いながら年賀状作りを始めることに。

( ↓ )ヤナギランの波を近景に持ってきたのはいいが、磐梯山の方が高い。北斎の視点には及ばない。

「凱風快晴」、通称「赤富士」。これは、年賀状にふさわしい、おめでたい雰囲気がある。

( ↓ ) いいぞ、モチーフは異なるが、視点が北斎に近づいてきた。

北斎が富士山のなかに赤から青までの色彩を捉えたように、花の色に仄かな赤から青までの光のグラデーションを捉えている。

しかし、年賀状の写真に似つかわしいという点では、赤富士のおめでたさには及ばない。

おめでたい赤富士から一転、たとえようのない寂しさを湛えた富士山。
右は北斎の絶筆と伝えられる作品、黒雲と共に龍が昇天するめでたい図様と言われているが、どこか異界に続いているようでもある。

 

( ↓ )これもまた、異界とのリンクを感じさせるところが気に入っているのだが、

これでは年賀状というより、「黄泉の国からの便り」になってしまうのでやめました。

~ アイデアが浮かんだので、閃きのまま、年賀状の作成を開始 ~

くるみの木姿に、羊年を表す文字である、未来の「未」を重ね合わせてみる。
大きな「未」の字が、頂辺から地下に張った根っこまで拡がっているイメージなのだが、作画のバランス上こうなってしまった。

「くるみ」は「来る未来」。
「未年」とのダブルミーニングにしたら、なんだかこてっとなってしまった。

とはいえ、まさしく「Hope for the Future(未来への希望)」風ではないか。
年賀状としては画面が暗いという意見もあるが、希望は暗闇の中からでも立ち上がってくるのだ、気に入った。

先行公開することにしよう。
(十枚に一枚くらい、「富嶽三十六景」風のなかに、「蛸と海女」風をまぜて出すというアイデアはどうだろう。
 数年前に、アイドルのビキニ姿を全面印刷した年賀状をもらったことがあるのですが、あまりの場違いさに印象度抜群でした。
 どうしたんだろ、と気にもかかるしね。)

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Hope For The Future (未来への希望)

2014年10月13日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

なぜに72歳にもなるポールに「未来への希望」を与えてもらえるのか。(ポールの新曲、Destiny(運命)のテーマ)

「Hope for the future」のメロディをなぞっていく歌詩や弦のうねりに感じる恍惚、
ノアの箱舟に搭乗したとして、感じているうねりはこんな風ではないかと思えるほどだ。

We will build bridges up to the sky  我らは空に向かって橋を架け
Heavenly light surrounding you and I 天上の光が僕らを包み込む

Paul McCartney - Hope For The Future - 'Destiny' Video Game

『誰かに触れて、何かを感じる。それは私のなかにも同じカケラがあるということだ。
同じカケラが他者に共鳴しているということなのだ。』

田口ランディさんは女性なのだが、同じカケラがあるのでしょうか。
共鳴するところがずいぶんあります。
その行動力たるやすごいのですが、決して”馬鹿なエッセイスト気取り”ではない、彼女の視点には感じ入るところが多い。
オネストだ。そして、旅人というと松尾芭蕉みたいになってしまうが、
少しストレンジャーな心持ちも似ているような気がする。
私も大体において郷に入っていく立場のほうだから、
旅人というと聞こえはいいが、旅の自由と引き換えにする避けがたい代償のことは分かるような気がする。

ずいぶんといろんな場所を旅して、旅慣れた気分になっていた。
私はいつのまにかとても傲慢になっていたなあ、と思う。旅人の心得を忘れていた。
旅人は柔らかな心と体をもたねばならない。
郷に入れば郷に従い、主体性などみじんも感じられぬほど受け身でなければならない。
土地と人に対して謙虚でなければならない。
およそ人間が住んでいるあらゆる場所には、その場所独自の文化と価値観がある。
出されたものは食べねばならない。
その土地の風習、宗教、人間関係に干渉してはならない。
旅人の瞳はいつも子供のように澄んでいなければいけない。

まったく軟弱だなと思う。軽率だなと思う。
それでも、私はどうしようもなく、旅人でありたい。
罰当たりでも、死ぬまで旅を続けたい。遠くへ、近くへ。外へ、内へ。

この本で紹介されていた「マヤ文明 聖なる時間の書」の下り、
時間論にかかる現代科学の知見が既に古代マヤ人の考え方に織り込まれていたことに驚きました。

「マヤ暦が2012年に終わる」というので、預言のように、運命論的な採り上げ方をされているが、
マヤのシャーマンは本書の中で「運命は存在しない」と断言し、
未来には無数の選択肢があって、人間は行動することによって未来を選び取ることができると語っていると言う。

まるで、ポールの「New」に出てくる歌詞のようでもある。
(ポールの新作、そして栄光の11月がやって来る)

「ドン フェルミン(マヤのシャーマン)、あなたにとって時間とは何なのですか」
「時間とは空間の持つ可能性のことだ」
「それはどういう意味でしょうか」
「空間はそれ自体としてはもう変えようがない。ただ一つ残されている可能性が時間なのだよ」

マヤのシャーマンたちは口々に「時間はエネルギーである」と語るのだそうだ。
それは、「もし時間がなければ、ものは変化しない、動かない」ということであり、
時間や空間といったものにエネルギーを感じ、時間を「生命の瞬間の連続であり、生命の源である」と考えた。

「私が生きて変化するから時間が生じるのだ」という現代人的感覚とも違う。
(時間は流れない、世界が流れる - She's Leaving Home)
デカルトやニュートンの絶対時間でもなく、相対論の時空の概念を持っている。

田口ランディさんがうまいことを言っています。

類い稀なる天文知識と時間哲学を持った彼らが、その科学的叡智を決して人間存在から切り離すことがなかったことに感動してしまう。
生命も現象である、電気も現象である、その二つは本当に違うものなのか。
私たちは科学的な思考もできるけど、同時に超越的な存在について考えることもできる。
目に見えないもの、知覚できないものの存在を感じ、森羅万象に命を感じることができる。
そもそも科学とは「わからないこと」を明らかにするものであって、「わかること」を証明するためのものではない。
「わからない」が前提だったはずなのだ。
マヤの「科学(理性的叡智)」は、宇宙における人間的存在を包括するようなものであった。
そこでは人間と科学と倫理は調和していた。シャーマンであり科学者であることは矛盾しない。

西欧のダイナミックな歴史をつくり上げたもとになっていたのはキリストの磔刑像。
ヨーロッパやアメリカにおいて、政治を実行するひとたちの正義の源としてあったのがキリスト教であり、
キリスト教はあまたの音楽や絵画、あらゆる西洋芸術のインスピレーションの源泉でもあった。

(八重の桜 ~ 2013年の磔刑(たっけい)
「わからないこと」、エビデンスがないものを、科学的でなく宗教めいたものと否定してかかる態度は
むしろ科学的でなく、単なる思考停止だと思うのですが、
一方で内田樹先生が言っていたように、
『あちらの世界のことを「こっち側」と「あっち側」の「あわい」でどう振る舞うかということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。』

スピリチュアルというと、なんだか宗教がかってくるし、多くの人はそれを嫌う。
エビデンスに依拠しない「科学」、「理性的叡智」と呼んでみたら、もっと知りたい、というひとが出てくるかもしれない。
(もっといいネーミングがあるといいのに。)

たぶん人は、好むと好まざるにかかわらず、自分の知覚や感受性によって規定された世界に閉じ込められている。
気がつくとその世界にいるので、それがすべてだと思ってしまう。
だけど、実は世界は無数にある。
ただ、一つを認識したら同時に複数の世界を認識することはできない。
人間は一つの認識しか持てない。なぜかそのようにプログラミングされている。

世界の成り立ちは、過去とのアクセス方法、未来とのアクセス方法によって異なる。
今まさに生きている世界は、過去と未来の間にあって、過去とどんな配線で接続されているかで、
今ここの世界の成り立ちは人によってすごく違う。

マヤ人のいう時間のエネルギーとは、 過去や未来との接続の仕方によって生じる電位差のようなものなのか。
このフォースについて学びたい。

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[2014年10月] ショートゲームの「ビジョン54」

2014年10月12日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

ショートゲームスコアをつけることを始めました。
([2014年9月] ~ ショートゲームにもうひとつのスコアを

@lifelongpassion: ツアープロのプレイもそうだ。ロングで3つ、ミドルで2つ、ショートで1つがショットの基本。
カメラがクローズアップして、いよいよ勝負が始まるのはショートゲームになってからが多い。
そこに集中して上手にプレイするために、ショットとは別の、もうひとつの勝負スコアを想定する。

スコアカードにはパット数を記入する欄がありますが、有効活用できていません。
フルショットではない、アプローチを含めたショートゲームを各ホール3つで廻ると目標設定して
パット数ではなく、ショートゲーム・スコアを記入します。
ハーフで3×9=27、1ラウンドで54に設定して、ブレ幅を小さくしていく。

新しい「ビジョン54」です。

ロングで3つ、ミドルで2つ、ショートで1つを、「ショット」スコアのベースに置くと、
各々「ショートゲーム」スコアの3を加えると、6、5、4のボギーになりますから、
オールボギーで1ラウンド90。

90/54だと、ショット36/ショートゲーム54、
89/53だと、ショット36/ショートゲーム53となるわけです。

ショートゲームを54で回れているかどうかで、
美しい一発のショットばかりに心を奪われない、平均的なゴルフ力をアップしていくのです。

90/54を基準に置く。

ショットが良くて、グリーンオンして2パットであがれば、ショートゲームスコアもつれて良くなっていきます。

逆にショットの調子が悪くて、OBを打ったりしても、
ショートゲームスコアという、もうひとつのゲームを作っておくことで、
切れずに、トータルスコア以外のショートゲームスコアという目標を矜持してラウンドできる。

 ナイスアイデアでしたが、きびしい結果に。

100/62(In 53/32、Out47/30),,

「ショット38/ショートゲーム62」という内容。

「ショット36/ショートゲーム54」という90達成の基準値からみて、いかにショートゲームに課題を抱えているかが明白になります。

89で回って来たいしこが、
「ショット41/ショートゲーム48」ですから、ショートゲームでいかに差をつけられたか、ということです。

スコアがメタボリックに過ぎます。無駄多すぎ。
つべこべ言うのはやめにして、ショートゲーム・ダイエットに励むことにします。

 

The King's Singers: The Windmills of Your Mind (with lyrics)

前にも、ゴルフがだめだった時には、替え歌にして遊んでましたが、
今日はエヴァに慰めてもらいます。

 Yesterday

 シャンク.wmv

エヴァの気持ちをよく分かってもらうために、訳もつけておきました。
「翻訳は良い趣味だ」というのは本当です。

Eva Mendes - The windmills of your mind {lyrics on screen}

Round, like a circle in a spiral  ぐるぐる回り続けるスパイラルの中に迷い込んでしまったわ
Like a wheel within a wheel  わたしは車輪のなかの車輪
Never ending or beginning  終わりもなければ 始まりもないの
On an ever-spinning reel   巻き続けるリールのようなもの

Like a snowball down a mountain まるで山を転げ落ちるスノーボール
Or a carnival balloon        カーニバルの風船って言ったらいいかしら
Like a carousel that's turning   回り続ける回転木馬
Running rings around the moon  月の周りをぐるぐる回っているわ

Like a clock whose hands are sweeping 時間を刻んでいるだけの時計
Past the minutes of its face       時間だけが無為に過去になっていくわ
And the world is like an apple      世界は林檎のようなものね
Rolling silently in space          静かに宙を転がっている

Like the circles that you find   あなたは どんな円を見つけるのでしょうね
In the windmills of your mind   あなたの心の風車が作る円の群れのなかに

Keys that jingle in your pocket  ポケットの中でじゃらじゃらしている鍵のように
Words that jangle in your head  頭の中で言葉がじゃらじゃらしてるわ

Why did summer go so quickly?  どうして夏はそんなに早く通り過ぎてしまったの?
Was it something that you said?  あなたは何て言ってたかしら?

Lovers walk along the shore    河川敷を歩くゴルフびと
Leave their footprints in the sand  バンカーの砂に残るのは後悔の足跡
Is the sound of distant drumming 遠くから怒りの声が響いてくるわ
Just the fingers of your hand? スコアを書くあなたの指先から

Pictures hanging in a hallway  掲げた目標スコアは絵空事
In the fragment of this song  とっちらかったままのショットの断片
Half-remembered names and faces  どんなラウンドだったか半分しか思い出せないわ
But to whom do they belong? そんなの何の為にやっているの?

When you knew that it was over  もう終わってしまったわ
Were you suddenly aware       気づくの遅すぎよ
That the autumn leaves were turning 秋に葉の色は変わり
To the color of her hair?      高麗芝はベント・ヘアーになるの  

As the images unwind        風のイメージの中で
Like the circles that you find     あなたは どんな円を見つけるのでしょうね
In the windmills of your mind     あなたの心の風車が作る円の群れのなかに
 
 あなたはどんな円を見つけるのでしょうか、って、
 
 エヴァ、このなかには無いようなきがするよ、
 現在の自分と理想の自分のふたつの円は離れすぎていて、つながってもいないかもしれないから。
弔事で延期になっていた上毛・赤城決戦までに、探しとこう。
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1%の戦略

2014年10月05日 | 読書ノート

何十%も生き方を変える、とか、身につけてしまった考え方やライフスタイルを変える、 というのは難しい。

でも 『1%だけ、変えてみる』。

たとえば、1%は、自分のためではなく誰かのために生きてみる。
生きてみる、というと大げさだが、いつもの習慣にプラスして、1%を加えてみる。
100%捧げることを求めるのは偽善か傲慢のように思えるが、ささやかな1%が変えていく力になる。

1%だけだからといって、「がんばらない」的な生ぬるいメッセージではない。
100%に満足しないで、100%を超えていく、
ゼロ%とはまったく違う、凄みのある数字。有りや無しやでいうと100%有り。

(「がんばらない」ことをメッセージ化したものが身の回りに溢れていますが、すこし苦手。「逃げろ!」とかいう方が面白い。
鎌田氏自身が書いているように、私たちは本来的に利己的に出来ているうえ、資本主義という競争社会に生きているのですから、「がんばらない」というのは方便なのだと思います。
鎌田實氏には14年前に「がんばらない」という著作があるのですが、本書が自身の最高傑作だと自賛されています。)

1%の力
鎌田 實
河出書房新社

1%に重きを置く。
時間的長さや、多い少ないの問題ではない。
信頼を置く場所をどこにするか、という話。

似ている。→  (★★『心は自分ではない』★★)

~さわやかに晴れ渡ったアルファの心の状態であることがたとえ1%であっても、
濁ってぐちょぐちょした曇天なベータの心の状態でいることが99%を占めていようとも、
1%のアルファの方が本来の自分だと捉えてみる。
時間の長さの問題ではない。

99%の曇天のベータを1%のアルファが変えていく。

 毎朝のタルセバの減薬に成功しました。
   当初150mgだったものを治験終了後の6月から100mgに減らし、
   およそ3ヶ月を経た一昨日から50mgへと減薬です。

そんなタイミングで手にしたのがこの本ですから、何かしら自分に向けられたメッセージがあるに違いない。

「あと1%」「まず1%」「1%だけ」「1%なら」「たった1%」云々、、
医師である鎌田氏の数々のエピソードは著書の方で、ここでは1%の不思議を、不遜な心に沁みさせるための抜書を。

ほぼ完成と思った時、「あと1%」何かを加えたら物語が生まれた。
仕事の時でも、100%に満足しないことが大切。
100%を超えていこうとする時に、新しい世界に出会えるのです。

1%には人生を変える力がある。
困難の中にいる時、100%のことをしようとすると身がすくんで動き出せないことがある。
1%なら心と体が動き始められる。

とにかく格好だけでもいいので、1%誰かのために生き出せば、この1%はものすごいパワーを発揮します。
「たった1%」だからこそ、意表をついたり意外性があったりして、そこから次々におもしろいことが起きるのです。
1%って、うまく出来ているような気がします。

利己的な生き物の僕らが、資本主義という競争社会に生きるのだからむずかしいのです。
丸ごと自分のために生きて良い。
その上に1%、誰かのために生きる。
1%でも相手の身になってみると、空気が変わることが分かりました。
イラクの戦場に行き始めた時も、みんなにバカだなぁと言われた。
「1%主義」だと、バカになれた。
全人生をかけるなんて思わず、1%と思うと、飛びやすいのです。

1%だけ事態を好転させてみる。
「1%主義」には持続力がある。
1%だと肩に力が入らないし、応援される方も暑苦しくない。
1%だからこそ、広がっていきやすいのです。
僕はこれを「1%のカラクリ」と言ってきました。「1%の戦略」なのです。

1%というのは不思議な数字です。
ゼロと比べた時、凄みのある1%なんです。
100%と比べれば、ほんの僅かな1%が、
実は無限大の力を持っている可能性があるということです。

本当はエピソードや体験に絡めて語られるところに説得力や凄みが出てくるように思うのですが、すべて書くこともできませんので、参照するための手立てを講じておこうと思います。

面白い引用を見つけました。身も蓋もないようなカフカの言葉ですが、
これもまた1%、歩けなくとも、つまずくことはできる。
「変身」の本質は、歩いて行った地続きの今の延長にあるのではない、とカフカは言っているのでしょうか。

未来に向かって歩くことは僕にはできません。
将来に向かってつまずくことはできます。
一番うまくできることは倒れたままでいることです。

月曜日限定ベジタリアン(Meat free Monday)を勧めるポール、これも少しばかりの変化から始めようというメッセージだ。

まるごと月曜日は菜食主義者になる、ということはないけど、
毎朝の私は人参と小松菜のジュース、あとはバナナ程度だから、朝食ベジタリアン。

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