ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

[2015年2月] ようやくの80台 ホーム開催でのコンペ優勝

2015年02月22日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

 今晩は、こんな歌でも聴きながら、久しぶりに80台で廻れたことを喜びましょう。

近頃またおさまらなくなっていた大叩きホールの罠、
今日も8を叩くホールが2つもありましたが、要所で締めて、7つのパー/1バーディーで、42/47の89で廻れました。

Paul McCartney - Figure Of Eight

Well, you've got me dancing in a figure of eight  おまえは俺を8の字で踊らせる

Don't know if I'm coming or going           80台は、近づいてるのか、離れて行ってしまうのか
I'm early or late, round and round the ring I go   前進しては後退するの繰り返し、∞ループをぐるぐる   
I want to know
I want to know             なんとかしたいよー
  Why can't we travel a continuous line?
        なんで真っ直ぐに進めないんだろう

  Make a love a reliable covenant all the time      祝福のスコアをいつだって信頼できる契約にできないものか
  Up and down the hills I go                 行けども行けども アップダウンを繰り返すばかりだ
Is it better to love one another
than to go for a walk in the dark?  林の闇を独りさまよい歩くより 一緒に歩く花道がよくないかい?

Is it better to love than to give in to hate?                 そんなに憎まずとも、愛し合えばいいじゃないか
  Yeah, we'd better take good care of each other
      お互いのためにも いたわり合ったほうがいい

  Avoid slipping back off the straight and narrow       まっとうなスコアから滑り落ちることは止めにしよう
  It's better by far than getting stuck in a figure of eight   はるかにいい、80台の呪縛なんかに囚われているより
Well, figure it out for yourself, little girl
             自分のゴルフをしたほうがいいよ、お嬢ちゃん

I don't go nowhere at all                      俺なんてどこにも辿り着けてないんだから
It's nothing more than a tape loop in a big dance hall   ダンスホールで流れ続けるテープループみたいなもんだ

そう、このコースのメンバーになった一昨年の冬、
このコースは、きっと私のことを愛してくれている、祝福してくれている、と感じていました。
あのフィーリングを取り戻せ。

 

 さて本日は、仲間うちのコンペをホームで開催。

先日の飲み会で知りました。ホームにキティちゃんカートがあることを。
(残念ながら、さくら草コース限定走行なので、今回はリクエストに応えることができませんでした。)

 メンバーの面目を保っての優勝です。

パーを取った後に大叩きしたり、仲間のゴルフが荒れた時につられたりするのは、
自分で無意識に、ブレーキをかけているのではないか、と気づきました。
(これは、たぶん私の心のクセです。ゴルフに限ったことでもないように思います。
誰しも似たようなことがあるかと思うのですが、たぶん、昔からいろんなやっかみやら誤解を受け流すことをしているうちに、和を以て尊しとなす、的な癖がついているのだと思います。無意識的なものなのですが、ほぼ間違いないような気がしてきたので、これからの私は「非情のゴルフィー」でいこうと思います。ハードボイルドです。ふわふわたまごではありません。)

「私は完璧に弾く権利がある。私は完璧に弾ける。私は完璧に弾くことを自分に許そう。」

こないだ、こんなことを書いていたのは、半ばそのようなゴルフをするためでもありました。
”自分のできる範囲での完璧”を自分に許してもいいのです。
流れに身を任せるのもよいが、要所々々では、アンカーとなって、完璧なゴルフを弾く。 

今シーズン投入したブルゾンに続くCutter&Buckのニット帽が幸運を運んできたのでしょか。

ドライバーは良くなかったですが、今回は決め所の1-2mのパットをよく決めました。

谷口プロが言ってました、”カップに蹴られるのは、転がりの悪い球を打ってるから。”

インパクト前後の僅かな距離幅のストロークで、球をしっかり掴まえてヒットすることを心がけると決まります。
  (特にカップの右に抜ける傾向が少なくなった)

 

( ↓ )前回、頭の紐を引きちぎられるアクシデントに見舞われ、ピーターアーツ帽は養生中。

 

この時は、腰痛で一か月ほどインターバルを空けてのラウンド。
Outスタートで1-6番まではまずまずだったのですが、
苦手にしつつある7番で、3発のOBを喫して11の大叩き、徐々に素ダボを繰り返してだめだめになっていくパターン。

 

アップダウン激しい。

もうこういうゴルフはやめにしましょう。

 

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ニュートンがリンゴを見ていて気づいたように

2015年02月21日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

さて、主体的に時空を書き換えるためには、対象である空間をどう認識するかということが大事なのでした。
物理的な世界は変えようがなくても、自分の認識する世界をコントロールすることならできる。
(イマジンの世界観

空間をどう捉えるか、というテーマについて、
能や武道、バレエといったものは、頭だけではなく身体的実感として、空間を認識したり制御したりする方法の宝庫だと思う。
バレエに関して言えば、能や武道以上に日本人男子の私には親しみのないものだから、かえって気づきに溢れているかもしれない。
(バレエがデフォルメするものをエトワールに学ぶ)

一方で、この映像を見ていると、東洋的な、阿修羅像の動きを見ているようでもある。

Nicolas Paul / Pierre Rigal / Edouard Lock - Trailer

ニーチェは「踊っている時にだけ最も高いところの物のシンボルを読み取ることができる」と言っている。

自分の本を「譜面」と呼んだというニーチェは、ショパンのピアノ曲を愛し、
” 作品の世界を耳から入れながら、自分の音叉を叩き、それが自分の身体に合うものかどうか、
  自分を強くするものかどうかを確かめた。"

ニーチェやサルトル、バルトといった哲学者はピアノを弾くという習慣によって、
三人それぞれに「世界に対する何らかの姿勢」を身につけたといいます。
哲学というと、頭でっかちな論理や理屈ばかりを連想しがちだが、本当はとても身体的なものなのだと思います。

「ピアノを弾く哲学者」にあった美しい文章、
人の姿勢のようなものについての示唆を含んでいる。

三人とも独自のリズムを追い続け、そのリズムが其々の気分と解決法によって世界のリズムともつながっていた。
そうした姿勢があったからこそ、三人は世界について人とは違う考え方を持つことができた。
人とは違う方法で世界にリズムをつけ、世界を聴き、世界に触れることができた。

バロック音楽の癒しについての竹下節子さんの本から。
一定のイメージを強要されると、人は窮屈に感じるようになる。

多様性の海の中で溺れたり、漂流したりする人が多い今の時代に、バロック音楽がバロックバレエと共に再発見されたことは大きな意味を持つ。
マニュアル化された生き方とか、メディアによって与えられる理想の体型とか、若さと健康のファシズム、
克服すべきストレス、癒されるべき落ち込み、などという言葉に囲まれていると、
「他者とは違う自分」を認めて、工夫し、しかも他者といっしょに何かを共有したり創造したりできるという楽観主義をたたえたバロックのエスプリにほっとさせられる。

そして、その後になって綴られる文章の美しさは、共通するものを含んでいる。
あっちこっちがほころびていても、手元にある、ありあわせを都合よく組み合わせて、
”若さと健康のファシズム”なんかにめげることなく、なんとか格好つけながら生きていく。

私たちの存在を規定し、縛る、時間と空間の檻。その扉が放たれ、
外の空気も匂いもざわめきも流れ入ってきて、見上げれば、どこまでも高い空が広がっている。
そこにはリズムもメロディもハーモニーもありそうだ。
それを知ったから、私たちは、それぞれの時間と空間をやっぱり背負い直して、
調子が狂ってきしむ弦や、思うように動かない指をかかえながら、
少し歩き、少し停まって少し踊り、笑い合っては、遊び続ける。

  

フランスでは「キネジテラピー」と言われる、一種の整体のような運動エネルギー療法がポピュラーらしい。
人間の体をホーリスティックにひと繋がりの全体とみなして、筋肉や骨格のエネルギーの流れをつかんでいく。
キネジテラピーはとても実用的で効果的なものと認知されていて、" 舞台活動での困難に出会う音楽家 "のストレス管理に使われているそうなのです。

心身統合的なバレエの動きは、座禅というよりはむしろ気功に近く、「動き」の中でたえず脳と体の間のフィードバックを確かめる。
『作用と反作用』という関係性の中で全体をとらえる。

バレエというものは静的で「没我型」のメソッドではなく、動的で「関係性」に立脚したメソッドなのでした。
たとえば、禅でいう虚空のイメージとは違い、相手との関係性のなかで、空間を濃淡を持ったようなイメージで捉えている。

聴衆との関係でストレスがある音楽家には、スパイラル・テストというものを試してみる。
自分と聴衆の関係を螺旋でイメージして、その螺旋を観ながら、
どのあたりに聴衆がいるのか、

その螺旋は震えているのか、どうあれば自分は満足なのか、と質問を重ねていく。
演奏家は螺旋の形を修正しながら、自分と聴衆とのエネルギーの流れやコミュニケーションの関係の全体をイメージしていくのだ。
聴衆とのコミュニケーションがうまくいってない演奏家に、どんな空間で演奏してみたいかと聞くと、
安心感のあるピラミッドや閉じこめられた球体の中だとかいう答えが返ってくる。
ピラミッドの向きを変えたらどんな感じがするのか、球体に穴をあけてみるとどんなイメージになるのか、
ホールの中で不安を感じる歌手には、どのあたりが怖くて、そこに明かりをつけたらどうなるのか、と質問していく。
ベースには人とのコミュニケーションを願っているわけだから、必ず自発的に殻は破るようになる。
自尊心やエゴイズムに立脚した小手先の技術であってはならない。
演奏の場を自分のエゴに閉じ込めないで、
観客やホール全体と一つの体だとイメージして、その中でのエネルギー配分を感じさせるのだ。

私の範囲を広げていく、という考え方にも近いような気がします。
(神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す
(螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪

バレエの身体使いを意識しながら、揺れる電車の中でバランスの取り方に気をつけながら立っていると
まるで、ニュートンが重力の中で落ちていくリンゴの振る舞いにハッとしたように、
 揺れる電車の慣性モーメントの中で、バランスよく力を込めることのできる足使いにハッと気づくものがありました。

運動神経にはいくつか種類があるかと思うのですが、
私はその中で、どうもバランス感覚があまりよくないのではないかと思っています。
よくつまずくし、揺れに対する耐性が弱くてバランスを崩しやすい。いわゆるstabilityに欠ける。
そんな私ですが、内股気味に股関節を入れると、電車が揺れてもよろよろせずに、揺れに対応できる。
ちょっと爪先を内側に向けるとバランスの良い箇所を探しやすくなる。

(ゴルフに置き換えてみます。)

ゴルフのスタンスはふつう爪先を外側に向ける。
爪先を外に向けた、がに股気味のアドレスが普通ですが、
それだと足裏の拇指丘に乗る感覚が掴みにくい。
しかし、爪先を内股気味にしてみると股関節から足先への裏筋に力が漲って、拇指丘に自然と体重が乗る。

逆にいつもやるように、踵に体重を乗せるためには、爪先をどう向けたらいいか、とモソモソやっていると、
これは骨ストレッチ、股関節のストレッチ、にもなっていることに気がついた。
毎朝取り組んでいる腰割スクワットでは想定しない動きであり、歩き方のバリエーションを広げる工夫にもなる。

(骨ストレッチ×倍音声明 ~ 體使いへの道)
(螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪)



さて、バレエの動きを見ていると、一見優雅に見えて股関節への衝撃は半端でなく、股関節のヒンジ部分には疲労が蓄積していくんではなかろうかと思う。
テニス肘があるなら、バレエ股がありそうに思えるくらい。

長年続けても股関節を磨り減らさずにいるというのは、
あの動きのバリエーションが逆に、股関節への偏った一方向からの衝撃を防いで、股関節を均質に使い、
動きそのものが股関節のストレッチになっているのではないかと思えてくる。

ゴルフのアドレスにしろ何にせよ、固定した型を求めると、どうしても、静止系の空間の中での振る舞いをイメージしがちだが、
たとえば揺れる電車の中は静止した空間ではなく、慣性モーメントという目に見えない力の場が存在する。
そこで良好なバランスを取る足使いには、がに股ではなく内股気味の違った型のほうが馴染みが良かったりする。
これはまさしく、足使いを通じて、空間からのフィードバックを受け取っているという体験そのものではないか。

歩くときに、爪先を内側に向けたり、外側に向けたり、ローテーションしながら歩くと、
漫然と歩く時間が、よいトレーニングの時間に変わりそうです。
足の筋肉の表筋と裏筋をバランスよく使ったり、股関節の可動域を拡げる下半身の骨ストレッチという側面だけではなく、
歩くことを通して、空間からのフィードバックを受け取り、自分の音叉を叩き、空間を制御することを学ぶという側面がありそうです。

( ↓ ) 空間との対話。暗闇や静寂のことを歌っているが、見えるものも聴こえる音もある。

   ニーチェの音叉で測って私を強くするものかどうかを確かめると、意外にも強いメッセージだった。

no one dared to stir the sound of silence
だれも無音の音をかき乱そうとはしなかった
"Fools" said I,
”このばかちんども!”と私は言った。

Simon And Garfunkel - The Sound Of Silence (with lyrics)

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バレエがデフォルメするものをエトワールに学ぶ

2015年02月15日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

『ひとは主体的に時空を書き換えることが出来る』、
『空間を歪ませたり、撓ませたりすることで、「間」の世界を作り出す』、というが、
そのためには、対象となる時空や空間というものを、確りと認識し、把握することから始めないといけないのではないか。
学ぶためには、学ぶ対象について意識的であることが重要です。

普段とは違う非常時にも似た特別な「間」の世界を作り出して、異界へ接する足掛かりにする。
緊急時にならないと発動しない人間の無意識領域までも動員して、別の段階の次元へと飛翔する。
(「倍音声明」体験へ

馴染みのない世界に多少なりとも触れる、ということは、
何も知らないだけに、知るものや得るものが多いように思います。

フランス・バロックやバレエの世界というのは新鮮です。
目指す高みには分野に関係なく共通するものがきっとあると思うのですが、
武道やゴルフ、能楽といった切り口ではなかなかにクローズアップされてこない部分があったりするような気がします。
たぶん、其々に、強調されデフォルメされている部分が微妙に異なっている。

フランス語環境に育つ人の耳は1000~2000Hzの音を選択的に聞くが、
英語環境の人は2000~12000Hzを聞く。
フランスのアルフレッド・トマティス博士によれば、選択的可聴音域がもっとも広いのはロシア語で、
これがスラヴ人が外国語を簡単に習得できる理由らしい。
音の聞こえ方の不思議を見ていくと、人の生き方の充実にも、きっと色々なレベルがあるのだろうとつい考えてしまう。

ひとは選択的にデフォルメされた部分の情報を意識や無意識に入れる。
そのレベルは人によって違う。訓練することで、意識的になることによっても、違ってくる。

恥ずかしながら、エトワールがパリ・オペラ座の最高位のダンサーのことだってことも知らなくて、
せいぜいお菓子かパン屋さんの名前に冠される美味しさの称号みたいなものか程度にしか思っていませんでした。
そもそも、オペラはイタリアが本場ではなかったか、パリ・オペラ座って何よ?ってくらいに無知。

Trailer - Les Étoiles du Ballet de l'Opéra

ヨーロッパのバロック音楽の中で、いわゆる「歪んだ真珠(バロック)」として揶揄されてきた部分はフランス・バロックで、今日のクラシック音楽に直結する整然とした古典主義の部分がイタリア=ドイツ系のバロックだと言います。
イタリア=ドイツ系のバロックは、アルペジオや上昇音階だの下降音階だのといった、基本になる音楽の秩序や和声を、部品のようにつなげたり繰り返したりして、音楽の純粋な論理に従う構築物を作るようになった。

興味深いのは、今日のクラシック音楽的な秩序のベースにある平均律は、近代が神や神学を捨てた「割り切り」による「人工的スタンダード」だという見方。
ピタゴラスは「音楽の問題を解決するものは宇宙の問題を解決する」と言ったが
音楽にはハーモニーのようにシンプルな振動の整数比の関係ばかりではなく、
シンプルな美しい数字を与えることができないというフラストレーションが存在する。
人間の情緒や快不快に影響を与える原因になっている音と音の関係を、
天球の音楽の如く、大宇宙と照応させようとしても美しい数学的解決にはならない。
(十二音階の狭間に在る音
(グレゴリアンのように倍音声明を謡おう
(「倍音声明」体験へ

円のような完璧な美しさをたたえた図形の円周率や、
自然界の至る所に見られる黄金比のような、神による創造の調和の秘密を、
明快でシンプルな「割り切れる」整数比で説明できないというジレンマ。
(パイ(π)は宇宙のすべてを知っている
(生命に宿る黄金比とらせんエネルギー

平均律という「割り切り」によって、心と体、知性と感性が動員されるという「心身統合的な」音楽観は次第に欠落していき、
ロマン派のように精神性の高みを求める音楽、プリミティブな体感を求める音楽、という風に分化し、
移調や大量コピーが可能になった音楽が近代以降に溢れるようになったが、
演劇的な踊りが優先されたフランス・バロックは、
近代化から取り残される一方で、古来音楽の中にあった身体感覚を失わなかったのだといいます。

おぉ、これはロマン派とプリミティブの狭間にあってあまりにフランス的だ。

Le Parc - Aurélie Dupont

歌として独立して磨かれ、豊かで親しみやすいメロディを持った、むしろイタリア的なものに惹かれるのですが、
(太陽がいっぱいのニーノロータ然り、ニューシネマパラダイスのエンリオ・モリコーネ然り、フランス映画であっても、イタリアの音楽がついてるのがよい。)
共感覚的な、色彩感覚や不協和音を音楽に持ち込んだ、フランス音楽の分かりにくさの理由は、「五感の統合芸術」だったからなのです。
「歌のイタリア、踊りのフランス」と言われるくらいで、イタリアの歌のような表情豊かなメロディではなく、音についても印象派的でどこか掴みどころがない。
たぶん、音楽に限らず、フランス的なものには、一体化した身体性が及んでいるのだと思います。

今やロックやポップスは言うに及ばず、ロマン派や近代以降の芸術に浴することがほとんどすべてなので、
ロマン派以前の、感性と知性、心と科学が分離されていない身体性や心身統御のテクニックに再発見するものは多そうです。

~ ロマン派風な個々の人間の感情や感性の表現ではなくて、人の感性のメカニズムに注目するのだ

~ クラシックのように「完成」していないので、自分が参加して作っていけるところがいつも半分は残っている。
演奏に楽器やテクニックの部分が大きくなく、作曲者の感情や感傷を垂れ流す必要もないから、
ロマン派風の、「心をこめて」、の至上命令に従わなくても済む。
一点のミスも許されない力業で大建築を仕上げるわけでもなく、
たえず不均衡が生まれてはそれが解消されていくことが一種の生命の脈動になっている。

安定せず、作用と反作用が平衡を作り、有機的だ。
「ズレ」や「溜め」をうまく扱わねばならないので、脳と体の間で常にフィードバックがある。

なんだか、ロマン派がぼろぼろに言われています。
私はロマン派の音楽は好きなので、諸手をあげて賛同もしにくいのですが、少なくとも、ゴルフにロマン派的なものは不要だと思います。

「作用と反作用」やフィードバックによるコミュニケーション辺りは肝です。

学ぶところはやはり多そうです。(続きます)

Elton John - Someone Saved My Life Tonight

”僕を救ったプリマドンナ”

プリマドンナはオペラの女性歌手、バレエでは女性プリンシパルはプリマ・バレリーナ、またはエトワール(星)であって、プリマドンナとは呼ばない。知らなかった。

~ ところが僕の耳に、素敵な自由がささやいたんだ

” 君は蝶々  蝶々は自由に飛ぶ

 飛び立つんだ 空高く バイバイ”

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バッハの少し前までは、中の三本指しか使っていなかった

2015年02月08日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

西洋文化にも、東洋的な心身調和の時代があった。

バロック時代のフランスには、東洋のヨガや瞑想などにも通じる「心身の統一理論」のひな形が存在した。

それが「バレエ」。

Sting - Prelude From Cello Suite. No. 1 (G Major)

フランスのバロック音楽は、バレエという体の動きと音楽との関係を通して、
歌い踊り、泣いたり、失神したり、
心身体験を自由に引き起こす知的な喜びであり、「心身統御」の機能を持っていたという。

「我々が書物の中で不思議な冒険を読んだり、芝居で観たりする時、それは我々に悲しみだの喜びだの、愛だの憎しみだのを喚起する。
しかし、我々はそのようなパッションが生まれることを喜びと感じる。
それはパッションから得られる知的な喜びであり、悲しみからさえも得られるのだ。」(デカルト「情念論」)

悲劇を観て涙を流しても、本当に悲しいわけではなく、人は満足して劇場から出ていく。
そこではパッションは受動的ではなく能動的なもので、
心身体験であるパッションは、内側から人工的に、自在に作り出せるのだから、
心身体験はトレーニングするように学び得るものだということになる。

ロマン派的な慟哭や個人的な感情の噴出でなく、能動的に湧き上がるパッションをコントロールする。
アクシデントのような感情に翻弄されるのではなく、感情をパッションとして予め想定する。

" 世界と自分の体と知覚とを同時に発見しながら、この世を細部まで充全に生きることの心地良さをたえず確認していくという手続き。"

意外にそんなことを言う人はいませんが、感情を体験し学ぶ場としての芸術、と言うと芸術の効用が分かりやすくなる。
(別にそんな分かりやすいものにならなくてもよい、とも思いますが。)

( ↓ ) 今回は主に竹下節子さんの本から引いていますが、古今東西の多くに取材した内容の濃さは、勇崎賀雄さんの「阿修羅の呼吸と身体」にも通じます。バレエの動きと阿修羅の姿にはどことなく重なるものがあります。     

バロック音楽についての本なのですが、ヨガの手印(ムドラ)にまで話は及びます。
下図は、音楽の演奏家のためのキネジテラピー(運動エネルギー療法、整体の一種)として紹介されているムドラ。
帆のように立てた小指と軽く曲げた親指で中三本の指をはさむ形を作り、
”私のアートは私のエゴと深い部分の私とをつなぐ橋だ。私はせせこましい理屈から自由になって表現のすべての可能性を追求するぞ”
と表明することで表現力が高まる。

この本では、マリー・ジャエル(ビリー・ジョエルに似てる)という
ロマン派の時代に生きた女性作曲家・ピアニストによる先駆的なピアノメソッドについても紹介されているのですが、
面白いことに、そのメソッドの教える手のポジションにこのムドラが似ている。

マリーのメソードは、親指と小指をその両端に弦を張った弓のように構えよ、という。
親指と小指は緊張して引き合うが、安定していて、硬直はしない。
人間の体は硬直すると疲れるけれど、逆に完全に弛緩しても休まるわけではない。単なる弛緩は死につながる状態だ。
親指と小指を固定して筋肉に緊張を与えておくと、それは運動させておくのと同じように力の源泉になる。
意図した静止はこわばりとは違い、深い思考が育まれる場所なのだ。

さらに言えば、これは親指と小指で骨の節々を押さえる「骨ストレッチ」にも似ています。
(骨ストレッチのゴルフ ~ ゴルフの真髄へ

親指と小指は本来弧を描いて支えるようにできている。
この二つの指の間に正しく自然な緊張が保たれていれば、残り三本の指は安定したまま自由に動ける。

~ それまで一種の格闘技のように無理やり従わせていた指が、本来のバランスを取り戻して有機的に動き始めた。
これまで機能も形も違う五本の指を同一のハンマーのように動かして弾いていた打鍵は、親指と小指に支えられた間でドミノのように連なって往復する波動となる。
事実、この方法を応用すると、今までピアノの習得が困難だった人、まったく楽器をさわったことのない大人、各指の運動分離がうまくできない子供、指が自由に動かない高齢者などにも、ある種の曲がたやすく弾けるようになる。
独立性の低い小指を無理に引き上げなくとも、
手首や腕全体を動員できるし、中三本の長い指だけでメロディを作ってもよい。
実際、バッハの少し前までは、オルガン奏者は中の三本指しか使っていなかった。

五本の指を均等に使わなくてはいけない、というのも思い込みなのでした。
五本の指の独立や分離ばかりに気を取られるのは本末転倒です。

「私は完璧に弾く権利がある。私は完璧に弾ける。私は完璧に弾くことを自分に許そう。」

これです、「私の定義の範囲では完璧です。」

ゴルフにも使えそうです。
五本の指が使えない奴に完璧なゴルフをしたなんていう権利はない、という発想ではありません。
三本しか使えなくても、完璧なゴルフをする権利を、少なくとも自分の定義としては認めてあげる。

JAËLL Marie - Sonate en la mineur pour violoncelle et piano

「無意識の領域を含めた自己実現が大切だ」(河合隼雄)

といいますので、そこのところの鍛え方を具体的に知りたいのです。

 マリーは68歳でソルボンヌの物理、生物学、植物学、数学の講義に出席している。
「芸術と科学は、無意識の世界と戦う、という共通の目的を持っている。」

いわゆる芸術家の直感や霊感というのも実は意識下の理性の働きなのだ。
知性を鍛えることで無意識の世界に分け入り、ひいてはそこに基盤を持つ「心」も広げることができる、とマリーは考えた。
マリー・ジャエルのメソッドは、フランス・バロックの心身統一理論の伝統の上に咲いたもっとも魅力的な花の一つである。

書き足りませんが、「言葉」(キュー・ワード)を使った心身統御法や、呼吸法については、以前読んだ「ジュリアードで実践している演奏者の必勝メンタルトレーニング」にも共通する部分が多いので、またジャンル横断的に記事にしてみようと思います。

 

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