ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

梅の香りに寄せて ~ 鼻唄作曲家

2012年03月31日 | お気に入り♪(フォト×音楽)

三七日(みなのか)、 梅の香りに寄せて 。

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絡め取るもの ~ From a lover to a friend

2012年03月25日 | お気に入り♪(ビートリー)

訳をつけてみるのは良い趣味だ。

これは不思議な感じのする曲で、声明のごとく言霊が漂っているかのようなオープニング。

サビがあるのかどうかもはっきりしないまま、漂い出した音が乱反射しながら煌いているよう。

Driving Rainのほうが明らかにキャッチーなのだが、ポールはこちらをシングルに持ってきた。
当時、リンゴ スターは、このFrom a Lover to a Friendがフェイバリットだと言っていたが、
正直なところ、lovelyでもcatchyでもないと思っていた。
( Driving Rain、たたみかけるようなドラムにレイドバックするギター、スカッとしたい向きにはオススメです。 → ストーンズっぽいポールと来日公演の思い出

それが今は響いてくる。
漂う音が、たよりなげな感情の粒々を絡め取ってしまうように共鳴する。

何かを失わないと届いてこない音があるのか。

Paul McCartney - From a Lover to a Friend [videoclip] 2001

And when the time comes around いつかその時が来たら
We will be duty bound         僕らには義務がある      
To tell the truth of what we've seen 見てきたことの真実を語らないと 
And what we haven't found      そして見つけられなかったことに
Will not be going down          がっかりすることはない      
Despite too easy ride to see       いとも簡単に見つけられそうなことだったとしても

From a lover to a friend          恋人から友達へ
Take your own advice           自分自身への忠告を受け入れることだ
Let me love again              もう一度愛させて
Now that you turned out to be     あなたがそうなのだと分かった
Someone I can trust, Someone I believe 頼ってもいいひと、信じてもいいひとだと

Ohh la la la
How can I walk when I can't find a way どうしたら 歩いていけるのだろう 道が見つからないのに
I'm in a dilemma                 ジレンマの狭間にいる
All I want is to tell me you're going to take it away  取り去ってあげるって言ってほしい

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風林火山と浄土真宗

2012年03月25日 | 旅と帰省とお出かけと

二七日(ふたなのか)。

なんとなくに過ぎなかった仏教への関心が、具体的に。

仏壇のショールームなるものへ行ってみる。
教えの本質は変わらなくとも、仏教も見た目やスタイルはアップデートしている。
少なくとも、今の私には、服やファッションに溢れかえったショッピングセンターより愉しく感じられた。(http://www.memoriarubutsudan.com/cate_service05.html

にわか仕込みで浄土真宗を勉強中。もう教えてくれる親がいないので、自分で分かるしかないから。

海外に行くと日本人でよかったなぁ、と感じるのと同じように、浄土真宗でよかったな、と思う。
他にかぶれたりもしたし、これからもそうだろうが、浄土真宗には、ほんとうを感じる。
時代の空気や権益におもねることのない、純粋さや、愚直なまでの正直さを感じる。

親鸞聖人の唱えた「悪人正機」や、肉食妻帯の決行。
平安末期、女人禁制であった当時の比叡山のふもとにある赤山(せきざん)禅院で、出会った女性が親鸞に言ったという。
" すべての者に仏になれる可能性があるとお釈迦様はおっしゃっているのに、この御山の仏教はなぜ女を差別するのでしょうか。
 どうか、いつの日にか、すべての人が救われる真実の仏教を明らかにしてくださいませ。"

「唯 仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲りを恥じず」(教行信証)と語り、
たくましく前進を続けた親鸞の教えは、時として異端のように解釈されることもあるが、
すべての人を必ず絶対の幸福にする、と誓われた「阿弥陀仏の本願」、
生涯教え続けた教えはこの一つ、実にピュアなのだ。
浄土真宗は釈迦如来の教え、仏教をそのまま伝えたもの。
本当の仏教とは何かを明らかにする過程でいくつもの宗派が生まれた。

にわか仕込みを続けよう。

大宇宙には数え切れないほどの仏が現れており、釈迦の説いた経典にも大日如来や薬師如来など「十方の諸仏」が出てくるが、
釈迦が"最尊第一"と呼び、"私がこの世に生まれ出た目的はこの経を説くためであった" と言わしめたのが「大無量寿経」。
そこで説かれているのは「阿弥陀如来の本願」ただひとつ。
そこでは、人それぞれに違う知恵や学問や経験で固めた「自力の信心」ではなく、阿弥陀如来から受け取る「他力の信心」が説かれる。
信念は大切だし、ガイドにもなるが、人心では量れない、自力では如何ともし難いこともある。
他力本願というが、本来の他力とは弥陀の本願を指す。

釈迦の教え(仏教)は、「聖道(しょうどう)仏教」と「浄土仏教」の大きく二つに分けられる一方で、
釈迦自身が、時代が下ると「聖道仏教」では誰も救われなくなる、と説いたといいます。

聖道仏教は自力で難行苦行を経ることによって救われる「自力仏教」であったのだが、仏教のすごいところは、それら数々の教えの通用する期間にまで言及しているところ。
正法・像法の時代を経て、日本では平安中期以降は末法の時代に入る。
末法の時代にはいかに修行をしても悟りを得ることができなくなり、「教」だけが残る。
(「行」(修行するひと)や「証」(悟りを開くひと)がいなくなる。)
末法が一万年続いた後にはすべての経典が滅する「法滅」の時代がやってくるが、「弥陀の本願」を説く「大無量寿経」だけは残ると釈迦は説いた。

平安中期以降、浄土仏教が庶民だけでなく、それまでの聖道仏教の学者や公家や武士にまで急速に広まっていく中、浄土宗を唱えた法然は有名な大原問答を行なった。
京都大原での神秘の夜 

法然を師と仰いだ親鸞が、僅か9歳で出家の式(得度の式)を行なったのが青蓮院とのこと。
京都 東福寺の紅葉と青蓮院のライトアップ

ほんの数年前、母と京都に行った時に訪れた場所が、このようにしてつながってくる。

浄土真宗では、戒名とは呼ばず法名という。(受戒という考え方がないため。)
命終と共に浄土へ往生するという教えであり、本来の仏教の教えにそぐわない霊魂観にもとづいたものとされる位牌は用いず、過去帳を用いる。
繰り位牌や法名軸を用いることはあるが、合掌の対象はご本尊(阿弥陀仏)であり、法名軸も仏壇の側面にかけて一緒に阿弥陀仏に向かって合掌することになる。

一人に一つ位牌がないと寄す辺がないようで淋しい気もするが、潔い気もする。
位牌は礼拝の対象ではない。

話は横滑りするが、武田信玄が織田信長との戦で上洛の大義としたのは仏敵打倒。
信玄公の奥方の妹君が嫁いだ先が浄土真宗の本山、本願寺で、
本願寺と信玄公は親戚関係にあったというからおもしろい。
風林火山と浄土真宗
 

父と観に行った思い出のある、映画「影武者」。影に人生あり。
 

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不謹慎かもしれないが愉しむことにした

2012年03月20日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

アマゾン川流域に住むMekranotiという人々は、夜の二時間以上を歌って過ごすという。
~ 自給自足で食うや食わずの生活を送っているのに、何時間も歌って暮らしているのだ!
  まったくの時間の浪費に思える。無駄なこと甚だしいので進化生物学より神の介入を信じたくなるところだ。

~ カート・ヴォガネットは自らの墓碑銘として、こんな言葉を選んだ。
  「彼には、神が存在する証は音楽ひとつで事足りた。」

" 他人が歌い踊っているのを眺めているだけでも、その高揚感が自分のことのように感じられる。" というのは本当だ。
VisaのCMで日本でもおなじみのこの踊り、
YouTubeのコメントが良かった。

The beautiful side of humanity... the beautiful side of the Earth

Thanks Matt

Where the Hell is Matt? (2008)

宗教には歌と単調な旋律と踊りがつきものである、という。

これも大地を踏みならすようなプリミティブなリズムがそんな感じだ。マンドリンや口笛もシンプルだし。

喪に服すことをも、愉しみとするかのような世界観がスバラシイ。
七七日までこのようにしているとよいのではないか。

Paul McCartney - Dance Tonight ft. Natalie Portman

電子を伴うかどうかで現実とあの世はいとも簡単に反転する、のだった。 
意外に近いところでリンクしているのかもしれないしねぇ。 (量子力学が検知したミッシング・リンク
死はタブーではない、視野が広くなったような気がする。

今度はうちの庭で咲いてるし。

  

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悲しい歌を受け入れる ~ ひ・ふ・み体操♪

2012年03月18日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

ブログを開始してから およそ丸三年が経とうとしているが、我ながら良い記事もある。

石の上にも三年という。

日記をつけるつもりは当初から無かったので、そういう意味では欠落している部分も多い。
読書ノートというにも、読んだ本をすべて記録しているわけでもない。
当初の目論みどおり、ゴルフ記録としてはまずまずだが、いまだビジョン84には到達していない。(85まではいった。)

しかし、ダンデライオンの歌詞を引用すると、「運命が用意してくれた大切なレッスン」という気がしなくもない。
書き留めながら読み進めることで、つながったり、深まったりするテーマもある。
以前ならひたすら忘却していたことをすぐに参照できたりする。
生命や時間や存在といった一見哲学的で分かりそうもないことを捉え直すトレーニングになったり、
異論を立てることで物の見方や視点が変わってみたり。
吉本隆明氏が先日亡くなられたが、本×新聞×YouTubeみたいな掘り下げ方をしながら、その人となりや考え方に触れることができる、ということもある。

レッスンの効果なのか、相当の痛手を負った件の時においても、存外突き放して自分を客観的に見ることができていたりする。
梅だ、早春だ、と、勝手にプライベートな問題を重ね合わされて、タグ付けされるのもメイワクだわなぁ、とか。
(自然はもっと大らかで柔軟で懐の深いものだ。だからこそ、いろいろな場面で私たちを癒してくれる。)

なので、異論を立て続けることにした。
その時々の感情がそこはかとなく感じられるのがよかったりもするけど、流されてばかりもいられない。

take a sad song, and make it better, (悲しい歌を受け入れる。)

そんなことを積み重ねて周りを少しでもベターにしていく。人生とはそのようなものではないのか、などと思ったりもする。

Hey Jude英語日本語歌詞

Refrainが効いている。
感情のままにおもねることをせず、我慢して、辛い気持ちを抑制するんだ、と言ってるのだ。
型に入れることで、気持ちや感情といったものは矯正されてゆくものだと思う。
気分やムードに引きずられて、沈痛な面持ちでいることのほうが、coolで、foolなことなのだ。
冷え冷えさせてはいけない。

And any time you feel the pain, Hey Jude  / 苦痛を感じるときには、ヘイ、ジュード、
Refrain、                        / 辛さを抑えるんだ
Don't carry the world upon your shoulders / 自分の両肩に世界をしょい込むことはない
For well you know that it's a fool who plays it cool / わかってるじゃないか、
By making his world a little colder / 自分の世界を冷え冷えさせてクールぶってるのがどんなに愚かだってことを

感情を矯正するためには頭のいい身体を使う、のであった。

年齢はやがて重力に負けて笑顔をなくしていく。
アンチエイジングを揶揄する向きもあるが、抵抗できるくらいのパワーはあるに越したことはない。
舌廻しエクササイズを提唱する宝田先生の、快活な笑顔の基準、「ひ・ふ・み体操」。
(長いが14:40過ぎから、いっしょに、ひー・ふー・みーとやると、型を記憶していくような快感があるぞ。)

~ 身体は頭より一億倍物知りなんですから、身体が「気持ちいい」と言ったら、おとなしくそれに従って、ごちゃごちゃ理屈は言わない、ということでよろしいのではないでしょうか。

笑顔の基準~ひふみエクササイズ~

 

( ↓ )こちらは珍しいマルチ・スクリーンの映像。

ポールは " The movement you need is on your shoulder "の一節がイケてないと感じていたところ、
ジョン レノンに、" 一番いいフレーズじゃないか、最高だ"と後押しされてそのまま残したと後に述懐していました。

 The Beatles - 'Hey Jude' - 4 screen comparison

<2010/11/21 初稿>
<2012/3/18 加筆修正>

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梅が清々しく香る頃

2012年03月17日 | 旅と帰省とお出かけと

かなしい夜は誰にだってくる。きわめて個人的なことですが、書き留めておきたいと思います。m(_ _)m

前の日に電話で話したばかりなのに、もう初七日を迎えます。

TVのそばでコップ刺しのままにしてあったのは好きだったスイセンの花。
東日本大震災から一年が経とうとする前日、弟がTVの報道に涙するやさしい面持ちの写真をメールで送ってきてくれたばかりなのに、その3/11に突然にいなくなってしまった。

 

三種類も小鳥がやってくる、窓から見える裏庭にある梅の風景が落ち着くらしくて、梅切らぬばかというが、切るのをいやがった。

はなむけにと鋏を入れていると、花をつけた小枝がにじんでは、かすむ。

 

うつむき加減に楚々と咲くスイセンの花をまじえて。

淋しくてたまらなくなるので、ブラームスの1番シンフォニーのサビの部分をばかみたいに何度も繰り返しくちずさんだ。

Brahms symphony No1-4Mov(2/2) Ozawa-Ssito Kinen Orchestra

だが、お別れの会場にはさみしさや辛さばかりではない温かみがあって、多少なりとも望みに近い送り方ができたのでは、と思う。

しっぽりとした灯りのなか、清楚で可憐な花々に囲まれて、
若々しさを取り戻した遺影には少女のように無垢で純粋だった優しい面影ばかりが偲ばれる。

斎場の方も何かと気遣ってくださり、家から持ってきた梅やスイセンが萎れてしまわないように、一緒になって花瓶刺しにしていただいた。
朝になるとそっと水を取り替えてくださったり。

 

代替りしたはずの住職がいらしたのも何かのご縁のような気が。

あのような気持ちの込もった、名人の域を感じるお経を聴くのははじめてでした。

誰にでも仏心があること、ひとりひとりがあまた枝分かれした偶然の重なりの結果ここにいる唯一無二の存在であること、生前という言葉があるように阿弥陀仏として生まれる前が人間界であってもっと大きな死生観を持つことの大切さ、西洋的な唯物論では説明できない世界があること、などを子ども達の方を向いてわかりやすい言葉で滔々と話してくださった。
次を繋いでいく子ども達の明るさは、やりきれない哀しい気持ちを救ってくれる。そして変わらぬ態度で接してくれる家内、つらい一週間を一緒に乗り切った弟。

あちらでの御名前を頂戴したが、冬と春のあいだでほんのりと、清々しく香る、響き。

おかげさまで、この季節には、ひとしきり思い出すようになるでしょう。

 

名残り雪が降る大阪、まだきりりと寒い早春の空気に咲く梅の花の頃、あまりに潔く、往ってしまった。

最期まで子ども想いだった。二度と得ることのできない愛情を失くしてしまった。

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3/11

2012年03月12日 | 旅と帰省とお出かけと

こんな親不幸者でも絶対忘れない日になった。

沢山の悲しみと、沢山の祈りと共にある日。

ごめんなさい、そして、ほんとうにありがとう。

これほどに根性と我慢強さを持ちながら、不器用で、無償の慈悲深い愛情を持ったひとはいなかった。

さみしすぎる。

(勝手ながら暫らくお休みいたしますが、意外に私は強くもある。また、ふらりと戻って参ります。)

 

 

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われわれの性衝動が強大な理由

2012年03月10日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

 恥じることはない。人間の性衝動が他の動物よりも強大なのは、「さしあたって必要としないほどの大きな能力をあるとき突然に備えてしまった」ところの「新哺乳類型」の脳のせいなのである。

われわれの発達は自然のプランにしたがっている。自然のプランに逆らうことはできない。われわれにできるのはそれに協力することだ。
動物的なはずのわれわれの性衝動が、ほかの動物よりはるかに強大なのは、精神の発達をうながす役割が組み込まれているから。

( ↓ ) たんなるエロと芸術を分けるものは何なのか。

Women in Art by Famous Artists

ヨガを伝えた古代密教によれば、宇宙の力(シャクティー)は、あたかも量子論のごとく二つの様態であらわされるという。
一つが具体的表現。(身体的シャクティー)
もう一つが抽象的表現。(精神的シャクティー。これはクンダリーニとも呼ばれる。)

ヒトにあてはめると、身体的シャクティーはわれわれを身体的成熟へと導く。
ヒトの性器は出生時にはほとんど完成しているが、その機能は眠ったままで、自然のタイムスケジュール(思春期)になると、クンダリーニと性機能が同時に発達を開始するのだという。

クンダリーニ

性衝動は肉体の衝動であると同時に精神的な衝動でもある。
身体的シャクティー(身体的成熟)の最高段階の表出であり、
同時に精神的シャクティーのもっとも低い段階の発現、とされている。

ここに、「新哺乳類型」の脳を持ってしまった人間と、他の動物の境目があるのだ。
(だから、芸術とポルノの境目は区別しにくいのだ。)

身体的シャクティーはわれわれの関心を肉体に呼び戻し、
精神的シャクティー(クンダリーニ)は、身体から常に離れようとする。(精神的、抽象的発達へ向かわせる。)

反対の方向を持った二つが、同時に依存しあい、二重螺旋(らせん)のような構造となって精神を発達させていく。
(「螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪」や「自己形成のイメージ」で言っていることは、こうしてつながるのだ。)
つまり、われわれ人間に与えられてしまった、単に動物的なだけではない、性衝動がクンダリーニ発現の鍵を握っているということ。

クンダリーニが目覚めることによって生じるエネルギーは、低いチャクラから高いチャクラへと発達しながら昇っていく。

七つのチャクラは前編(「沈黙の領域が無意味なものであるはずがない」)で述べた三つの脳に対応している。

1番目と2番目のチャクラは「爬虫類型」の脳を通して具体的な意識に変換される。
3番目と4番目のチャクラが「原始哺乳類型」の脳によって、
5番目と6番目のチャクラが「新哺乳類型」の脳によって意識に変換される。

性衝動は主に2番目のチャクラが開かれることによって発現するのだが、
各々のチャクラが開かれる都度、クンダリーニは各々のチャクラで活発化し上昇しながら精神を発達させていく。
3番目のチャクラは「意志」であり、人間としての精神発達へ向かうためのパスポートともいえる部分、
4番目はハート、愛や感情を生みだす部分であり、精神的エネルギーの要となる。さらに高次を目指すかどうかはここが分岐点になるらしい。

以降はなかなか開くことが難しい領域になっていくが、
5番目の咽頭部は、時空に関する創造
6番目の眉間の部分は、叡知の波動表現を担うことになる。

そして7番目のチャクラ、ここだけが人間の持つ三つのどの脳とも関係を持っていないのだ。
(脳によって意識に変換されることがない、ということ。)

著者は、スフィンクスは人間の発達のシンボルであったと言う。
エジプト人がそこに住みつく以前からそこにあったという説もある。
18世紀の絵画にその完全な姿が残されている以降の時代に、ちょうど6番目のチャクラに当たる部分から上が破損して失われてしまった。
失われた頭部は現代文化が失ってしまったものを象徴的に示している、と言う。

スピリチュアルなものは、科学的でないがために色眼鏡で見られがちだが、
自然のプラン(Nature's Plan)に従えば、私たちが未だ使いこなせていない「新哺乳類型」の脳、左半球の未知の脳は、その時をひたすら待ち続けているはず、なのである。

せめて瞑想の訓練くらいしようか、(妄想ではない。)
(ビートルズもゴダイゴもこの辺りに行き着いた。)

脳波のパターンを変え、神経回路を配線し直す訓練を。

肉体的・精神的な健康ばかりに目が行きがちだが、感情的・霊的な健康というものもあるのだ。

叩けよ、さらば開かれん、というようなこともあるかもしれない。
鉱脈は掘り下げないと、見つからないものだ。

瞑想の魔法 - Meditation Magic in Japanese with Jasmuheen

 

脳とテレパシー―あなたの脳には巨大な力が潜んでいる (KAWADE夢新書)
浜野 恵一
河出書房新社
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沈黙の領域が無意味なものであるはずがない

2012年03月04日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

~私たちは頭蓋骨の中にたった一つの「人間の脳」を持ってるのではない。進化の過程をあらわす三つの脳を持っているのである。

いちばん深いところにある「爬虫類型」の脳、その外側にある「原始哺乳類型」、そしてそれらの表面を包む「新哺乳類型」の脳。
人間の脳は、「さしあたって必要としないほどの大きな能力をあるとき突然に備えてしまった」のだという。
2万年前のクロマニヨン人の時代には既に現代人と同じ大きさに達していたというのに、現代になってもまだ能力の30%しか使うことができていない、と言われている。
あっても使いこなせないほどの能力を、私たちは既に「本質的に」、持っているということになる。

3層の脳のうち、表面の「新哺乳類型」は生まれたばかりの時には白紙の状態であり、「新哺乳類型」の左右(いわゆる左脳と右脳)は分離したまま。左右を結ぶ脳梁は4年をかけて神経的なつながりを作り上げる。
あらかじめプログラムされている膨大な情報を持った旧い脳を活性化し、新たに構造化された情報に変換して「新哺乳類型」の脳は発達していく。

私たちは自分自身の中に、身体活動のほとんどをまかせられる自動操縦士を持っている。
心臓が意識せずとも動くように、スポーツなどの動作や運動も正しくインプットすれば、旧い脳(「爬虫類型」と「原始哺乳類型」)が行なってくれる。
日常生活の90%以上に対して我々は無意識のままでいることができる。

私たちは睡眠のサイクルにおいても、意識が3層の脳(「爬虫類型」の脳、その外側にある「原始哺乳類型」、そしてそれらの表面を包む「新哺乳類型」の脳)を順番に離れながら、統合と覚醒の周期を繰り返しながら休息している。
しかし、「新哺乳類型」の脳は、旧い脳から伝えられる情報と関係した部分に限定された使い方しかされておらず、特に旧い脳と神経的なつながりが希薄な左半球の脳には、ほとんど使われていない「沈黙の領域」がある、と言う。

旧い脳の厚いサポートのおかげでせっかくフリーでいられるというのに、「新哺乳類型」の脳はまだまだ十分に活用されていないのだ。

膨大な情報と本能を持つ「旧い脳」をフルに活用した右脳的発想について説明する類の本は多いが、
 この「沈黙の領域」の活用を説くものは意外に少ないことに気づいた。
  "潜在意識の活用"、みたいな本も、表層部分の「新哺乳類型」と旧い層にある部分の区別があやふやなままの言説が多いし、どちらかというと右脳活用(旧い層の活用)の説明になっているのではないか。
左脳の「沈黙の領域」の活用に言及しているのは少ないように感じられる。

脳とテレパシー―あなたの脳には巨大な力が潜んでいる (KAWADE夢新書)
浜野 恵一
河出書房新社

この本は、ヒトの生まれてからの脳の成長プロセスや、睡眠の仕組みをまじえて語られているためか、タイトルは安直だが、納得感のある話になっている。

生まれたばかりの時には白紙だった「新哺乳類型」の脳が、4-5歳になると「自我」が芽生えて、「自覚」が原始哺乳類型の脳から移行を開始する。7歳にもなると、人間の発達のプログラムにしたがって、自覚の「新哺乳類型」の脳への移行が完了するのだが、本人にも親にもそんなことは分からない。
(人間の身体を細胞レベルで見ると、5年も経てば、すべての細胞が更新されて入れ替わっているのに、まるで気づかないのと同じだ。遺伝子の設計図のパターンは受け継いでいるが、5年前の私を形作っていた物質は原子レベルで見ると消えてしまっている。)
生命のプログラムとはそのようなものだった。(生命に宿る黄金比とらせんエネルギー
7歳以上の子どもは、7歳未満の頃とは知的能力や質が明らかに、根本的に違ってくる。
その違いの原因は新しい自己感覚が顕れるからで、それはあくまでも自然のプランにしたがって起こるべくして起こったもの。

しかし、この自然のプログラムの進行が、15歳以降の思春期になると突然に難しくなる、という。
本来ならば、それまでの身体的プロセスから分離された精神的発達に移行し、
" 進化史上例を見ない果実であるところの「沈黙の領域」"が活かされていくべき段階で、知の発達にブレーキがかかる、と言う。

著者の指摘はこうだ。(だから、「沈黙の領域」の活用に言及した本が少ないのだ。

~ 科学的思考がもたらす偉大な創造性ですら、数学や記号という具体的なプロセスを通して生み出されるものであり、
  感覚器官でとらえることのできる現象に限定した創造性の発達だけを問題にしてきた。
  それは発達を具体的で物質的な段階で停止してしまうことを意味する。
  
形式的・具体的操作思考で終わってしまう。
  もし遺伝的なプログラムどおりに発達すれば、「純粋の抽象」の開花が予定されているにもかかわらず、だ。

忘れられた人類史 1 世界創世

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<パッティングのファイナル・アンサーPart2>パッティング専属コーチ ジェット先生の教え

2012年03月04日 | ゴルフィーライフ<気づきとアイデア>

<パッティングのファイナル・アンサー>末端と中心を結ぶのは左手だった」で結論を得たはずだったが、
近ごろ、パッティングがおもわしくない。

入れごろ、外しごろをことごとく外す。(-_-メ)

しかし、今回のラウンドで、パッティングに関しては1年ぶりの発見があった。

 アドレスしてから、ファイナル・アンサーのグリップで、左手人指し指を伸ばしたグリップで、素振りをすること。

当たり前のことに聞こえるかもしれないが、
私はボール後方からカップに正対して素振りをした後、
アドレスに入ったら、素振り無しでパッティングするのが習慣になっていた。

ラウンド途中でこれに変えたら、1-3m程度のパットが面白いようにキマるようになった。
(少なくとも、確信を持って打てるようになった。)

マスカラス先生のマスクを裏返しに被って偽マスカラスを装い、途中からターバン風にしているのは、往年のマスカラスの天敵だったタイガー ジェットシン。
パッティング専門コーチとして、このほど招へいした。(・_・)
名前が長いので、タイガー先生は紛らわしいし、ジェット先生と呼ぶことにする。

今冬は栄養状態が良すぎたようで、最後にみえる素顔はぷくぷくしている。
(マスカラスは素顔を明かさない。ぷくぷくしてるのは、あくまでもジェット先生です。念のため。)

インドの怪人タイガージェットシン現る ~ パッティングの結論

アドレスしてから素振りをすると、ヘッド、ストロークの軌道が、
クラブの重さなりに収斂した軌道になっていく。

そして、パッティングもアッパーブローではなく、「ダウンブロー」で打つべきだったのだ。
藤田プロがいうように、右肩が下がってはいけない。その時々で不安定なインパクトになってしまう。
ダウンブローこそが芯を打ち抜くために必要な打ち方だったのだ。

右肩が下がってくると、パッティングに限らずショットも悪くなる。
これはこれまでにも何度か記事にしてきたが、時々忘れてしまう。
<総括>ドライバースイング最終形の実践
力のある、且つ安定感のある球を打つために、右肩を下げないこと。
これはパッティングにもいえることだったのだ。


 (ワッグル/2012・4月号より)

私からジェット先生には、細木数子先生も若さの秘訣だと言ってたこのレッスンを贈りたい。 
(これ、きくよー。頬がこってて、口元の筋力が弱っているのがわかる。)

下の付け根は首筋につながっているから、首筋のトレーニングにもなるらしい。
唾液が出てきて、口腔のいろんな窪みに気が向くから、デンタルケアとしても良さげだ。

宝田式舌回しエクササイズ

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[2012年3月 トムソンナショナル カントリー クラブ]~ シーズン入り前のキャンプ中ということで

2012年03月03日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

まだ、今シーズンは開幕していないことにしておこう。

3月下旬にここで開催するサークルのコンペの幹事をやることもあって、ちょっくら「調整」に行って参りました。

栃木IC近く、廣済堂系のコースでありながら、リーズナブルでなぜか人も少ない。
ホールで打ち待ちも少なく、快適にラウンドできるところが気に入ったので先月に続いて来訪。

しかし、スタートホール、おまえは初心者か!というようなひどいショットを連発して8.
その後も、時々思い出したようにいいショットも出るが、およそスコアメイクには結びつかないゴルフでやり過ごす。

この日は、「パットにかける」と宣言している。(前回があまりにひどかったので。。)
パット数だけみると悪いが、私の場合、カラーからでもパットを握ったところからパット数としてカウントするので、
この日は、感触を確かめながら、1-3m位の入れごろ外しごろのパットを結構沈めた。

14番ミドル、距離は短いが、打ち下ろしでフェードボールが要求される。
ワンオン狙いで思い通りの球が打てたのだが、Gに僅かに届かず、砲台Gの手前の土手にめりこんでいた。
(写真ではよく分からないが、べっとり土にめりこんでいる。)

 

掻きだすようにパンチを入れたのだが、打ち終えたウェッジは土掘りしたスコップのよう。
ワンオン&イーグルどころか、結局ダボ。

後半はOBも出始めて、ショットはまるでシマリがなく、
克服したティーショットの引っかけが続くことも。

しかし、狙いに行って残った嫌な返しのパットとか、結構キメました。
(実は、パッティングは確かな開眼ポイントを発見した。

この開眼はショットにも有効で、4番ショートでの右肩を起こした6番アイアンの切れのあるショットや、
引っかけを続けて適当さを増していながら、次につなげるために気合いを込めていった最終ホールでのティーショットなど、
ところどころで、集中力が高まったときには、手応えを感じるものがあった。

( ↓ )これは最終ホールのティーグランド。左はOBの右ドッグ。
    240Yのフラッグの先、30-40Y近辺までフェードで持っていった。
    続くUtilityもカンペキ、Awはピンに向かって真っすぐだったが、G奥のカラーへ。
    カラーからの5mほどのパットがなぜかノーカンで、下りだったせいか3m近くオーバー。
    パットは好調だったけど、わずかにスライスラインを読み切れず、ボギーで終了した。

次は、難関セント アンド リュースが控えている。
集中力を増していく準備は整いつつある。(プロ野球だって、まだキャンプ・シーズンだもんね。)
エースはキャンプ中に100%では投げないものだ。(-。-)y-゜゜゜

 

コメント
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