ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

夏越しのトリオ

2014年06月30日 | 旅と帰省とお出かけと

年末にささっと帰省したものの、三回忌のタイミングでの帰省はままならずにいました。

仕事の区切りもついたので、一日休みを取って、ようやくの大阪帰省。

通院以外での年休は、退院から復帰後はじめてです。

退院した時ですら翌日に産業医面談して最速復帰を目指し、あれから夏休みも、風邪っぴき休暇も取らずの一年。


さて、大阪に着いたら、弟と待合わせて、まずは天満に向かいました。

母のシチューといえばこれでした。玉葱やジャガイモをブツ切りにして、牛バラや牛すじ肉と煮込んだ、

アメリカ好みだったところを感じるような豪快で素朴なスープ。

土手焼きとかは好きでもないのに、今でも牛すじを求めるのは、たぶんこれが食べたいからです。

(大阪にはこのタイプのシチューを出す店が以前はたくさんあったらしいのですが、今ではこの「かね又」と新世界にある「あずまや」さんくらいになってしまったとのことです。)

  


お墓参りにいく道すがら、寄り道をすると、このようなすばらしい棚田があるのです。

これまで、田植えの頃に大阪に帰るということをしていませんでしたが、

田んぼに水を張った時期、朝霧や太陽の光を写した田んぼは、朝な夕なに、時折絶景と化します。

山形や新潟に行かずとも、このような絶景の棚田に出逢えるのか。( 天地人~棚田を見に行く )

TVからは関東のゲリラ豪雨を伝えるニュース、関西も週末は曇りがち、
うまくゆくと、夕陽を湛えた棚田の絶景に遭遇できるかもしれないと期待していましたが、、

ほぼ同じアングルですが、やはり写真で見たようなわけにはいきません。

水を張った時季であることはもちろんですが、稲の伸び具合ひとつで、出来上がりの風景は変わってきます。

( ↓ ) 以前採り上げたことのあるドゥリング/フルート、オーボエ、ピアノのためのトリオ

西方浄土を想うような曲なのです。

Trio for Flute, Oboe, and Piano by Madeline Dring, Mvt 2 Andante Semplice

 せっかくですから、「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」、古代から伝わる稲のパワー、をどぞ。

奈良の桜井市、天理市あたりは「山の辺の道」と呼ばれる古代大和ゆかりの地。

今日6/30、水無月の終わりの宵から、茅の輪くぐりと呼ばれる神事が執り行われます。

~ 水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり ~ という古歌を唱えながら、茅の輪を三度くぐるとよい。

石上神宮(いそのかみ)の御神徳を。神事の前日に準備されていた茅の輪ですが、まだ通行止め。


軍鶏が木登りしていると思ったら、ここそこでパワーを発揮されています。 霊獣なのでしょか。

 

 

「夏越し茅の輪」は三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)にもありました。

ここでは、三つの茅の輪が掲げられています。通れます。

杉、末、榊の三霊木をかかげたみわの茅の輪をくぐって、
大美和の大神様の、和魂・幸魂・奇魂それぞれの霊力を受けて祓い清めるのだという。

 

三回忌は過ぎてしまいましたが、三回茅の輪をくぐって、そのあと三輪素麺をいただきました。

 

はからずも、茅草の季節に夏越の大祓めぐり。

せっかくですから、今日の日にふさわしいドゥリングのトリオをもう一度。

お気に入りは第2楽章ですが、3つの楽章を3つの楽器のトリオで。

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世界の約束 ~ 古代蓮の光景から

2014年06月21日 | 日記

夏至の頃、6月下旬から、
映画のぼうの城の舞台にもなった行田では、古代蓮が見頃を迎えます。

8月上旬まで花の時期は続きますが、
まだシーズン入りしたばかりの6月下旬は、花の姿はまだ、ちらほらとしか見ることができません。

しかし、この時季こそが、パワースポットとしてはすばらしい、というから面白い。
1400年~3000年前とも言われる昔に咲いていた古代蓮の種子が昭和40年代に出土し、池の中で開花したのだと言いますが、
殆んどミイラ同然であろうはずの種子が、千年以上の時を超えて、現代に生き生きとした花を咲かせる、
種としての、継続する命としての、驚異的な生命力、
そして、それらの花の開花する意思が、一斉に蕾となって池の中にうごめいている。その数10万本以上、、。

治験を終えて、新しいスタートを切ったばかりの私にぴったりの場所ではないですか。

その地が湛えているエネルギーは半端ではない。

フランスはジヴェルニーのモネの庭に高遠さんが行ったように、わたしも思い立ったように行田の古代蓮の池へ。

 

池にうごめく古代蓮たちのむせかえるような匂いを浴びながら、蓮池の夕暮れの光を追ってみました。

モネの心をなぞってみるのです。モノマネ、モネのね。

これはもう生きてますね、息をしてます。
青くてむせ返るような匂い、
モネはやはり光に魅せられたのでしょうか。

蓮の花は朝の8時くらいが見頃で、午後になると花を閉じてしまいます。
ただでさえ、咲き始めで花が少ないのですが、花ばかり追いかけなくても、かくも自然は美しい。

ハスの葉は水を弾くので、ころころした水滴が、アーティスティックに散りばめられている。
コース料理であしらわれるソースのようでもある。
(大きいのは、夏に食べる、和菓子の葛玉のようです。ぷるるん。)
それは風や水の軌跡を残しながら、今度は光を湛え始める。

 
 

蓮の花の命はわずか四日間ほど。
蕾だった花弁が午前中に次第に開かれていき、午後は閉じて、
四日目には花弁は散ってしまう。

 

 

これは四日目を迎えた花でしょうか。
なんだか、自らの死期を悟った象が、群れから離れて独りになるのに似ていると感じました。

 

やがて 葉陰になっている場所に、ばさっと花弁を落とすのです。
ジャングルで象が倒れるように。

僅かに四日間のあいだ、世界にその姿を現すだけの花なのだが、その種子は遥かに永い悠久の時空を過ごしている。

思い出のうちにあなたはいない
そよかぜとなって頬に触れてくる
木漏れ日の午後の別れのあとも
決して終わらない世界の約束

あなたのいない世界が「世界の約束」だなんて、悲しい感じがしますが、
花の姿でいつまでも生きるわけではない。

この歌は不思議な歌で、歌われる歌詞の順番通りのストーリーだと悲しいのだが、
順番を入れ替えてみると、妙な温かさがあったりする。

それは多分、生から死へという片方向のストーリーの順番だけではないということなんだろうと思います。
片方向だけの結末は必ず始まりがあって、終わる、悲しいものになるが、そうではないということなのか。

これも、いわゆる普通の成功譚(せいこうたん)ではない。

世界は、物語の都合上、不可逆に、片方向に、できているだけなのかもしれない。

いまは一人でも 明日は限りない
あなたが教えてくれた
夜にひそむやさしさ

 

 


90歳のお婆さんから少女まで、不可逆的でない世界を生きるソフィーは、
決して変わらない世界の約束、光を手にしたように見える。

どういうわけだか、母の姿に映る。ちゃんとお参りに行きますから。

 フランスからドイツに拡がるアルザス地方に取材したという風景は、印象派の絵画のようだ。

水面が世界を映している。

 

涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束

水滴のひと雫に宇宙が織り込まれているということがある。   (裏返しの宇宙 ~この世の空間構造)


世界が水面を映していた場合。

( ↓ ) のぼうの城の田んぼアートまで。

~ さすがに6月では田植え直後で、田んぼアートには早いです。
  勇み足になると、水を張っていない棚田を見に行った時を思い出しました。 ( 天地人~棚田を見に行く )

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治験ホールアウト

2014年06月21日 | いいことも起きるにきまってる旅行記

ずいぶんと日が長くなりました、明日はとうとう夏至を迎えます。

そして日が高みに達するその日の前日に、およそ一年に渡った治験が終了しました。

エクステンデッドとなった18番の後の19番ホール、

爪囲炎の左足親指の爪も、とうとう剥がれ取ってのホールアウトです。

副作用を慮って、減薬の打診も数回ありましたが、
せっかく無償で先端の治療を受けられる治験だというのに、減薬したら元の薬量に戻せなくなるので、治験を続けるほうを選び続けてきました。

19サイクル、57週間を完遂。
(1stラインからのタルセバに加えてMetMabの併用効果を診るための治験でしたが、併用効果が見られないとの理由で治験自体が中止となったのです。)

治験終了に伴い、タルセバはこれまでの150mg錠剤から100mg錠剤へ減薬して様子を見ていくことになりました。

一粒が1万円近くもするものなので、治験が終わって3割負担となると、こたえます。
通院する度に、高級クラブ並み(ゴルフクラブの話ー、)の代金がかかる。

しかし、これまでのように、治験縛りで我慢し続けるのではなく、薬を減らしたり止めたりが出来るようになります。
本当の回復を目指す方向へシフトしていけばよいのです。そういう見方や物言いをしてくれた奥さんに感謝しています。

 

病み上がりの昨秋に復帰を果たすも、春先からまたも休止を余儀なくされているゴルフですが、復帰の道を探ります。

その間、せっかくシーズンインしたというのに、タイガーも腰を痛めて、マスターズ、全米オープンと続けてお休み中。

全英オープンの頃には戻りましょう、タイガー。

( ↓ ) 98年28歳で末期の卵巣がん、さらに3年を経て、なんと今度は肺に転移して余命3ヶ月の宣告を受けたというのに、
     モネを観にフランスへと渡り、食から生活を立て直していってサバイブしています、という高遠智子さんの本。

     こういう方を見ると、がんと一口に言っても、個性はそれぞれで、癌はそれぞれに違った顔を持つ、というのは本当なのだと思えます。
     だから、闘病記にも、それぞれに顔があり、それぞれに個性があってしかるべきで、
     克己型のマッチョ系の闘病記ではない、もっと自然体な感じに勇気づけられたりします。

いわゆる「ガンシミ」もない肌や爽やかな容貌をみていると、
なんだか、たまたま癌ですけど、それだけのことです、って感じがします。
闘病の重さや、暗さや冷たさのような事から遠い人のようでいて、ちゃんとそこを乗り越えてきている。
殆んど同じ年なので、共感しやすいのだと思います。⇒  Rethree&Co料理教室 遠 智子

この人は、きっと「これが本来の自分だったらいいな、の方に信頼を置ける」人なのだと思いました。
(★★『心は自分ではない』★★)

たとえ時間的にはわずか1%だけの爽やかなアルファ、であっても、
そちらが本当なら、衒いなく、そちらが自分です、と言う。
99%を占めているのが曇天のベータであっても、時間の長さの問題ではないと決める。


( ↓ ) この方も女性ですが、仕事柄といい、とても人ごとには思えません。

仕事復帰をしてからの一年間、感謝すべきことと同じくらいに悔しいことがありますが、
そこを何とかかんとか折り合いをつけてやっていくことは、将来へパスを出し続けてるようなものだと思います。
がんになって仕事を続けていく人はもっともっと増えていくでしょうから、
直接的に感謝されなかったとしても、
茫茫と道を遮っていた草を踏み分けてるうちに、少しは歩きやすくなったな、という程度には、役に立つことをしているのかもしれない。

 

なんだか、女性礼讃みたくなっていますが、先日は父の日でもありました。

″ 理性の命令に屈服した男、従来からの男性的思考に支配された、新たな展開が期待できなくなってしまった男″
からのシフトを目指すのなら、単一の心では無理があると思えます。

( ↓ ) あれほどに表現力に長けたポールですら、
コンサートでも、日常生活でも、自分の感情をなかなか表に出せなかった、というのです。

実際にそれは多くの男性に当てはまると思います。
思ったことをすぐ口にするのは男らしくないと思い、本当の気持ちを伝えないままでいることがあります。

私も言いたいことを言わずに我慢する方でした

でも私は成長したんです。今はそんな自分が好きで隠したりはしません。

影響を受けた時間や文化的な空気の密度、濃さのようなものが薄まって、
そこからフリーになるまでには、時間や年齢の経過が必要なのだと思います。

きっと平方根の法則みたいなものではないでしょうか。
最初は全部で100個ある粒子のうち、その平方根である10個の粒子がでたらめに動いて、粒子全体の精度を下げている。
100個のうち10個、10%がでたらめな運動をしている。
ところが、成長して、全部で1万個の粒子になると、その平方根は100個だから、
1万個のうち100個、1%にまで減る。

「自由な運動をしている粒子の絶対数が上がってくると、自由度が増し、撹乱する要素が気にならなくなる。」
(内田樹 「身体で考える」)

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仏の精神(エスプリ)とは

2014年06月15日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

私にはアムールが足りないのかもしれない。

毎朝の野菜ジュースを作りながら、痛めていた足の爪が無事に剥がれ落ちた記念写真を人参の姿に託そうと、
人参を支えようとしていたら、図らずもアムールになってた。

アムール=愛、フランス語のことはよく分からないが、鼻にかかったくぐもった音に聞こえる。

音や振動の共鳴が人間の思考にもたらす影響の大きさを考えると、この魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした音声に、何らかの鍵が隠されているのではないか。

たとえば、印象派の時代のフランスの絵画は、時代の最先端をいってたはずなのだが、
セザンヌやルノワールにせよ、モネにせよ、必ずしも鮮やかな彩度の高い印象を描いているわけではない。
ゴッホの黄色や、シャガールブルー、デュフィの薔薇色の赤といった、色彩表現の先端を切り拓くような色使いばかりではない。
印象派の求めた光は、その印象的なネーミングとは違って、実ははっきりしていなくて、魑魅魍魎としている。

時代の先端はきらびやかなはずだと思っていたが、どうしてなのだろう。

最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)
内田 樹
技術評論社

内田 樹先生が師と仰ぐのは、エマニュエル レヴィナスという仏の哲学者です。
先生が仏文の世界に入ろうと決めた1960年代半ば、フランスという国の知的生産力はすごく高くて、
サルトル、カミュ、ラカン、フーコー、レヴィナス云々
その後20世紀後半にかけての、人文科学の知的達成のほとんどがパリから発信されていて、きらきらしていたといいます。

そして、内田先生がレヴィナスに会った時に、レヴィナスがものすごい勢いで話始めたのを見て、そのスタイルに感銘を受けたそうです。

本物の学者というのは「いいから俺の話を聞いてくれ」という人なんですよ。
本来の学的な語りというのは、「皆さん聞いてください! 僕はすごいことを発見しました」と言うはずなんです。
自分のやっている研究が、どんなに面白いかを事細かに説明し、
自分の仮説は、この場にいる全員が緊急に理解する必要のあることなんだと、必死になって、情理を尽くして語る と思うんです。
自分は哲学的な荒野をこれまで駆け巡って、それなりに必死に道を切り拓いてきた。
だから、俺の話を聞いて、それを理解して、俺の仕事を引き継げと、こっちにバシバシとパスを蹴り込んでくるわけです。
こっちに受け取る技量があるかどうかなんて二の次で、「とにかくそこに誰かいたらパスを出す」
レヴィナスという人の知性の運動は、ダイナミックで、温かいものでした。
その時の僕の学術的な力量はほんとうにお粗末なものでしたけれど、
その能力を云々するのではなくて、「お若いの、頑張りなさい」と背中をポンと叩くという、
この身ぶりこそ、真に学的な構えではないか、僕は今でもそう思っています。

話を、哲学的な先端から、芸術の先端の話に戻しましょう。

さて、先の瑞々しいところ、と書くのが先端なのですが、

スペクタクルで視覚的な刺激こそが先端なのでしょうか。それはそれで素晴らしいのですが、
視覚的に魑魅魍魎として、なんだかはっきりしないようでも、匂いや香り、ははっきりとしているということがあるかもしれない。
匂い立つような感覚の際(きわ)は、視覚的には、むしろ魑魅魍魎の中にあるのかもしれない。

たとえば、モネははたして、一連の睡蓮の作品で、光や影の煌めきだけを描きたかったのでしょうか。
光の画家というのは分かり易い呼び方ですが、視覚的な効果のみに魅せられて、庭まで作って、同じような絵を描き続けていたとも考えにくい。
朝な夕なに、池の睡蓮を観察して、飽きることなく、描き続けた画家が感じていたものは、その時々に変化していく、もっと全人的な感覚なのではなかったか。

 

哲学的な知の先端にあった仏の精神(エスプリ)、それは、これまで縁遠い世界でしたが、
遅まきながら、興味を持って、捉え直しながらというのも面白いかもしれません。

 

心的現実こそが、むしろ現実であるということ、(心的現実性こそが重要である)

視覚的な現実感に囚われて、匂いや香りから立ち上がる現実が分からないようでは、
軟弱な、できそこないの大人、ということになってしまう。

大気中に漂っている匂いの粒子を本当に味わうことのできない 軟弱な大人 には、おそらくばかげた考えだと思われるだろう。
しかし、目で見るのと同じように鼻で感じることのできる人にとっては、
香りの存在は、その香りの源である当人にもまして現実的な存在なのだ。

理性に従うのが男性的態度だと思えるが、
そちらの方がむしろ、
理性の命令に屈服した男、従来からの男性的思考に支配された、新たな展開が期待できなくなってしまった男、ということになる。

この本の面白いのは、文字のテクストだけはなく、文字の配列や、文字の大きさといった、視覚的な意匠にも工夫を凝らしているところ。

( ↓ ) ポールが先日の国立競技場コンサートの初日公演中止の時に出したメッセージで使ってたやつだ。(夢の国立競技場)


その軽や
かで
うっとり
させ
る匂いは、
少しずつ大
気中に発散
しながら漂い、ほと
んど具象的な物となった。ま
るで彼女の存在が宙に浮かんで
いるようだった。それは触ること
も見る こともできないが たしか
そこ   に存在していると   思え
たのだ。   彼女は僕の目の前   にいる。
僕の手   作りの香水がそれを    再現し
ている    のだった。これからは彼    女に会
いたく    なったら香水の栓を開    ければ
いい   のだ !  僕は陶然とて、   彼女
にぴったり重なる
ように
してその香 水の中に

溶け込んだ。 もう僕ら
を分け隔  てるものは
何もない。 彼女
の匂い  に混じっ
た自分 の匂い
は心地 よかっ
た。僕 はこの
香油 を香
水の 瓶の
中に 注ぎ、
しっ かりと
栓を した。

大人の秩序が、理性の名のもとに、すべてを支配している。
ヨーロッパでもアメリカでも、誰もが自分と疎遠に生きている。
自分の暮らしにも自分の肉体にも疎遠 で、自分とは似ても似つかなくなってしまった。

あんたの欲望は欲望じゃないのかい。
成長しても偽の大人にならず、成長しても本物の大人をうまく演じられるようになってほいい。
自分の本当の欲望を育み、未来形や過去形では語らず、
妥協をすすめる気難し屋の言うことに耳を傾けるな。
自己との良質な関係を求めることこそ、他者との関係を究めることであり、これからは それが歴史の原動力になる。

仏(フランス)のエスプリ(精神)からみれば、人生は、家を建てることにも似ているように思えます。

三回くらいは建ててみないと、満足いく仕上がりにはなかなかなるもんではない。単一のストーリーを求めていない。

御仏様が仰っしゃるのは、そんな簡単に完成させることができる程度の、浅薄なものではない、ということなのでしょうか。

身心の疎遠さを詰めていって 原動力にする、

おもしろいな、新しい仏教の学び。

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らっきょう

2014年06月08日 | いいことも起きるにきまってる旅行記
六月初日となった先週末は、早くも猛暑日となりました。

サボテンの花、満開。
ロードサイドの「とん太」という、いけてないネーミングが気になるといえば、気になっていたラーメン屋さんの軒先。


酷暑も束の間、先週の木曜に入梅すると、関東は局所的にまたも異常気象的な豪雨。
しかし、梅雨空も悪くないと思えます。
つい先週が酷暑だったから、なおさら、涼しさがありがたいのです。

退院して、まる一年が経ちました。
一年を振り返って整理して、また次に向かい合っていこう、と殊勝な考えもよぎったのですが‥



季節ものの、土の着いたらっきょを見つけたので、漬けてみました。
梅酒ですら漬けたことがないのに。

おじさんの書き物には、どこか新しいアイデアみたいなものを、多少なりと含んでいないとつまらないと思っていたのですが、それはそれで不遜です。

おおかたは、一見ぱっとしない日常なのですから、そこを上手く掬っていくことが大事なのではないでしょうか。

一年前に始めた野菜ジュースを毎朝作る習慣、それがあるから、ささっと台所仕事でもして、らっきょを漬けてみようかという気になった。
ある意味、モニュメンタルな一日。

浮き島状態だった左足親指の爪が、先程むにゅっと回転してパカパカになってきました。永らく、三ヶ月ほども悩まされていますが、これもひと区切りへと向かうとよいのですがねー。

そして、あしかけ三年跨ぎのプロジェクトも先週節目をつけました。

見た目らっきょでも、諸事、海容とならんことを。
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骨ストレッチ×倍音声明 ~ 體使いへの道

2014年06月01日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

左足親指の爪囲炎に悩まされています。

しばらくぶりで、先日は杖を持参。100球肩じゃないけど、家や会社と最寄駅の往復以上の移動が続くと、次第に負荷がかかって爪が剥がれるような痛みを伴います。
痛い片足をかばった歩き方をすると、今度は腰を痛めたりして、「歩き」というのは実に精妙なバランスのうえに成り立っていることが分かる。

歩き方を変えるためには、実は全身の使い方をぜんぶ変えなくちゃいけないんです。
極端に言えば、生き方まで変えなくちゃいけない。

人間の不幸は直立したことにあるという説がありますね。
(人間が四足歩行のままであれば、いろいろな病気にかからずに済んだ。
腰痛だって、肩こりだって、痔疾だって、心臓疾患から痛風まで、だいたい人間のかかる病気の多くは直立歩行のせいだと言うのです。)

四つん這いで歩く赤ちゃんは、ほとんど完成された動きをする。
(赤ちゃんが四つ足で歩く時、足裏はすごく活発に動いているんだそうです。
四足歩行の時には手も足も自由自在に動くのに、直立歩行になるとちゃんと機能しない。)

でも、人間は必ず直立歩行を始めるんですね。無理なのに。
身体が「そんなの無理だよ」と悲鳴を上げているのに、赤ちゃんは何としても立とうとする。
「直立したい」というのは、身体的な必要じゃなくて、多分、極めて人間的な欲求なんです。

これ、不思議だと思うんですよね。
なぜ人間は本能的に完成形を知っている四足歩行を捨てて、あえてやり方の分からない直立歩行を選択するのか。
なぜ、わざわざ、ふらふらしながら、不自然な身体運用をすることを泣くほど欲望するのか。

人間は誰でもうまく歩けると思ってるが、実は「人間はうまく歩けない」。
そして、直立歩行というのは本質的に、ふらふらとバランスが悪くて、そもそもが身体に悪いもんだから、
この歩き方が正しい、という「定型がない」。
中国人と韓国人と日本人と、顔の区別はつかなくても、「日本人はこういう歩き方はしないよな」というのがあるじゃないですか。
能楽のすり足にしても、自分で決めたリズムですたすた歩くというわけじゃない。
シテ方が動きの主体で、歩みを完全にコントロールしているという気分でやると、動きがごつごつして見苦しい。
そういう、秩序に身を任せる動き、歩行法、というのは、主体や自我を重視するヨーロッパではまず成立しないのではないか。

 

 「歩く」という、一番基本形の動きだと思っていることに、実は決まった型がない。
むしろ、逆に、努力によって、歩き方のバリエーションを増やしたりできるという工夫の余地が残された、ある意味「人間的な」領域。

『あえて、本来的に不得手な「変なこと」をしようとしているから、「うまく歩く」ためには、あらん限りの身体資源を動員しなければならない。』

~ 横道に逸れますが、これって名言だと思います、

  よく、自分は、あえて不得手な方をいつも選んでるような気がする、と感じるのですが、それは決して損ばかりではないと諭してくれます。
  不得手な、変なことをしようとするから、あらん限りの身体資源を総動員できる。

「歩く」ことが、これほどに、工夫のしがいのある伸びしろのある領域だったかということに驚いて、ついつい引用が長くなりました。

( ↓ ) 以前から興味深く拝見しておりました甲野善紀先生の身体運用。
    昔の日本人は走れなかった、って、そんな風なことは考えたこともあまりなかったです、少しオドロキました。
        体育なんてなかった時代には、走る必要はなかったし、走るというのは非常時の所作だった。
    歩くこともそうだが、走ることについても、効果的なトレーニング法についての検証はまだこれからである、
    歩いたり走ったり、という基本動作について、人間は実はよく分かっていない、ということのオドロキ。

ナンバ歩き-甲野善紀-

これまでも、日本の古武術や合気道などの身体運用に興味を持っていましたが、
いよいよ、準備段階や興味の段階を経て、実践する段階に来ているのかもしれません。

爪先が治って、稽古に出れる程度に回復したら、和の身体動作について、
合気道教室などの場を借りて学ぶ機会を持ってみるかな、というようなことも考え始めました。

~ 「筋肉」から「骨」へと視点をシフトすること。そこにこれまでの壁を突き破るヒントがあると確信します。

部分的な筋肉トレーニングやストレッチはかえって、他の部位の硬化やケガを招く。
ストレッチや筋トレを熱心に続けるほど、体の柔軟性が失われ、痛みや怪我の原因になる、という逆説。
ランニング前のウォームアップひとつをとっても、しばしば全体の動きを重くして、パフォーマンスを悪化させているとの指摘に唖然。
根強い「筋肉信仰」や、筋肉アスリートへの憧ればかりが先行するが、
実はこれまでの筋トレやストレッチ法は
十分に科学的に深く検証が行われたものではない。常識化されているが、そうかもしれない。

~ 手足の筋力に頼った動きから抜け出した先の世界こそが、真骨頂なのです。

  「何かを身につけないと強くなれない」という発想自体を疑い、固定観念から離れ、それを捨てていく勇気を持つこと。

目いっぱいの、限界的な極限値の領域ではなく、
「ちょっと違う、もうちょっと違う」、「あぁ、そこそこ。」 "っていう」、微妙なほうのギリギリの領域を追い求めるのですね。

達成感を得ることで喜んでいるのは脳だけ、
脳が生み出す満足感は麻薬のようなもので、もっと頑張れ、もっと頑張れとけしかけてきますが、体は悲鳴を上げていることも多いのです。

さて、

頭の都合でなく、体の声を聴くための「骨ストレッチ」、具体的にどうすればよいのか、というと、これがすごくシンプルな基本動作を加えるだけ。 

 ~ 「親指と小指で骨の節々を押さえる」という簡単な動作を加えることで、関節が連動し、柔軟で楽な身体運用が可能になる。

基本のポーズはこれだけなのです。 ~ 詳しくは ⇒ (「骨ストレッチ」~「動ける体」を手に入れる「コツ」を伝授!)

1、片方の手の親指と小指をつないで輪を作る
2、もう片方の手の親指と小指で、輪を作った側の手首のグリグリを押さえる

足のくるぶしを触るときも同様に、親指と小指で押してやると、これまでの前屈やハムストリングスのストレッチが「骨ストレッチ」に変わる。

骨ストレッチとは、「刺激を与える部分を孤立させず全体へとつなげる」メソッド。

これまでの筋トレやストレッチのように、「体のある部分だけを孤立させて、ほぐしたり鍛える」のではなく、
骨から骨への連動による全体性を重視する。

背骨を一本の軸として、上半身の肩甲骨、鎖骨、胸骨、肋骨、
下半身の骨盤 ― 仙骨、尾骨 ― といった重要な骨が配置され、
これら一つひとつの骨が孤立しているわけではなく、連動して可動域が広がって体が動いていることに思いを致す。

腹筋の6パックもすごいが、肩甲骨を自在にグリグリ動かせたら、こっちの方がすごいし、本当の身体能力の高さを示しているように思います。

骨ストレッチの基本は、「親指と小指で骨の節々を押さえる」ということなのですが、
著者が、手首や足くるぶしと共に、刺激を与えるポイントとしているのが「鎖骨」。

親指と小指で鎖骨を上下に挟むように押さえて、ストレッチすることで、骨への刺激の連動経路がスムーズに開くようなのですが、
部分への刺激を、それで終わらせずに、全身への連動につなげることで、可動域が広がり、勁(けい)のエネルギーも増幅されるということなのだと思います。
(必殺 アックス・ボンバー ~ 「勁(けい)」のエネルギーの体現者たち)

骨ストレッチ(鎖骨メソッド)by甲野善紀先生1

甲野先生が、甲冑は重いだけではなく、うまく着るとパフォーマンスがあがることについて述べられているのが、興味深い。
(下の市川海老蔵さんの対談でも、歌舞伎の衣装も、(手という部分の筋肉で持つと)重いが、着るとそうでもない、ということについて語られる。)

これは単なる負荷分散の話ではない、
昔の日本では、「体」でなく「體(からだ)」という文字が使われていたといいます。
骨を豊かに使うことがポイントで、甲冑で締め上げた刺激を全身に連動させる「體」使いが肝心なのだ。

和の身体作法は、実に奥が深いし、日常に取り入れて工夫ができるから、面白い。

これまでもいろいろ書いたりしてきましたが、

(能をやっていて一番よかったと思えるのは、自分の成果を気にしなくてよくなったということ

(ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方)

(自然体の作り方)

(<能ゴルフ ~ 腰椎4番>)

毎朝の腰割習慣(夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~)にも取り入れている「倍音声明」(キラキラ光る倍音とは)と、
この「骨ストレッチ」は相性がよい。

自分の声の振動をガイドラインのようにしたら、倍音声明がクリアに聞こえてくるように、

魑魅魍魎とした感覚を掴むためには、具体的なガイドラインを持つことが大事なのです。

鎖骨を意識する、
鎖骨を意識するために、親指と小指で鎖骨を触ってやる、
そして、倍音声明で発した母音の声を、鎖骨に響かせる。

骨が連動して、全身のガイドラインとなって、鎖骨にとどまらない、全身の共鳴を引き出す。

倍音声明の具体的技法としても「骨ストレッチ」は有効だと思う。

市川海老蔵 × 甲野善紀

骨ストレッチ自体はシンプルなのですが、長々となりました。
自分の習い覚えたこと、魑魅魍魎とした感覚の世界をなんとか言語化して技法化できないものかというテーマ。

(大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。)

「ことの理路」が、この歳(50歳過ぎ)になって、だんだんと分かってきた。
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。
哲学も舞楽も武道も、その帰するところはおそらく一つである。
こういうことは誰の本にも書いてない。だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。

筋肉という、加齢と共に衰えざるを得ないものに、いつまで重きを置いているのか。

それに筋肉というのは、フローに近いもので、鍛え続けないと、筋トレを続けないと、出力が落ちてしまう。

一方で、たしかに、骨は死んでも残る。

部分的な筋力に頼らない、「骨」を鍛え、ストックしていく、そういう體(からだ)を目指しましょう。

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