ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

New !

2013年08月31日 | お気に入り♪(ビートリー)

ポールの新曲「New」が発表されました。同名のアルバムも10/14に発売予定。
前回のDriving Tourでも当時新曲だったDriving Rainのパフォーマンスが素晴らしかったので、新曲をたずさえての秋のツアーがますます楽しみになりました。
ストーンズっぽいポールと来日公演の思い出

韻を踏みながら、韻を探しながら歌を作るっていうのは、思いがけない効果を生むようなところがあって、シンプルなワーディングに不思議な深みが与えられるようなことが起こる。
ワーディングや、韻を大切にする言葉使い、といった肌理の細やかさは、
発声の仕方を工夫したり、単なる話し言葉としてではなく楽器のように鳴らしてみたり、といった創意を生みだすベースになると思う。
深みを添えるだけではなく、新しい次の転回形へと発展するチカラを与えられる。

~ 翻訳はよい趣味だ。(内田 樹)

訳をつけておきました。

とてもシンプルな歌だけど、新しいパラダイムに居る人には、新しい自分を後押ししてくれるようなバイブレーションを感じるのではなかろうか。

( ↓ )  どんな文字にもなり得る三本線、こういうラインを何て呼ぶのだろう。

マイナスを消す働きのあるハ行のバイブレーションなどに見られる、宇宙の響きや波動と合わせていくといったテーマを連想させるような、シンボリックな3本のライン、
なんだか、その時々のバイブレーションを映し出してくれそうに見える。
バイブレーションを感じることができれば、今度はそれをベースにして転回形を生み出せるかもしれない。
音楽の語法を置き換えることでのテーマアップ。

Don't look at me       ぼくのことを見るんじゃない
It's way too soon to see     早過ぎるよ 見るには
What's gonna be , don't look at me 何かが起きるのはこれから、だから見ても仕方ないよ
All my life          ぼくはこれまでずっと
I never knew what I could be  自分が何になり得るのか、 
What I could do          何ができるのかも分からなかった
Then we were new        ようやく生まれ変わったぞ
oo-oo-oo-oo           うーうーうー

You came along                           きみが現れて 
And made my life a song    ぼくの人生を歌に変えてくれた
One lucky day you came along  とあるラッキーな日に きみはやって来た
Just in time         まさしくピッタリのタイミングだったよ !
While I was searching for a rhyme ぼくが韻を探しているあいだに
You came along          きみはやって来た
Then we were new        そして我らは新しくなったのだ 
oo-oo-oo-oo           うーうーうー

We can do what we want     我らはやりたいことが出来る
We can live as we choose     我らは選んだとおりの人生を生きることができるんだ
You see there's no guarantee   分かるだろ、保証なんてない
We've got nothing to lose     失うものなんてないのだから

Don't look at me         ぼくを見るんじゃない
I can't deny the truth       真実は否定できない
It's plain to see , don't look at me  それはもう明白だ、だからぼくを見ても仕方ないよ
All my life            ぼくはこれまでずっと
I never knew what I could be    自分が何になり得るのか、 
What I could do             何ができるのかも分からなかった
Then we were new        ようやく生まれ変わったぞ
oo-oo-oo-oo            うーうーうー 

ごるひーらいふ(NEW!)ってタイトルはどうかな。

 We can live as we chooseって言葉も拝借して、face the strengthに代わる副題に。

 『心は自分ではない』にも似たメッセージ。

  たとえば99%が、ぐちょっとした曇天であっても、1%の晴れ間が本来の自分だと決める。
選択と決定の積み重ね、大きな力はあるにちがいないが、それ以前は自分で決めていけることばかりだ。
選択権を握っているということは、すごいことだ。
大きな力への影響力を握っているということだから。

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セプテンバー ~ 黒鍵のコードと天体の音楽について

2013年08月25日 | ツールとしての音楽

セプター、セプテットは本来「7」(七重奏)を表すものであったが、ジュリアスとオーガスタスが勝手にも割って入ったことで、 
セプテンバーは9月になった。
ジュリアス

映画「最強のふたり」で効果的に使われていたEWFのSeptember、
最強のふたりをDVDで見たのは告知を受けたばかりの四月初旬だったが、まもなく八月が終わろうとしている。
その都度「別の話」が生まれてくるということ

骨転移のステージ,腫瘍マーカーCEAは標準値の5.0を大きく上回り、検査を続けてる間も上昇して、入院前には40台に。

しかし、5/22-6/5の約2Wの入院治療を経て、40台だったホームラン王的数字が標準値(5.0)以下にまで。
そして今では、勝ち投手どころか、防御率一点台。

レントゲン上では肺の原発巣は薄くて見えないほどになり、CT撮影でも明らかにみるみる影が薄くなっている。

野菜ジュース習慣をはじめとする食生活、27年以上も吸い続けたタバコを即日止めたこと、免疫力を上げるために夜にお風呂に入るようになったこと(完全なシャワー派だった)、毎朝のスクワット(野菜ジュース共々始めてからまだ休んだことがない。たまには休んでもいいけど、休む理由もないから。)、、
ビタミンの血中濃度をいつも高くしておくような心がけの数々が功を奏しているのか、感謝すべきことです。

こんな風にまもなく九月を迎えることができようとは。

いつもの年なら行く夏を惜しみながらみたいな気分でいることの多い八月の終わりですが、今年はビーチボーイズのバラードよりアップビートなこちらのほうが似つかわしい感じ

(ゴルフィーな暮らしの復活をもくろみ、昨日は約半年ぶりにゴルフクラブを担いで練習場にも行ってきましたが、
リキミが抜けて目を見張るようなショットが出る、ということはなく、以前にも増してリキみだらけでした。
ドライバーはとっ散らかり、親指付け根のへんなところの皮が剥けてしまいました。。 
/(-_-)\ )

さて、let it be がどうもうまく弾けないのです。本のとおりに弾いているつもりが、どうも音の雰囲気から違って聴こえてくる。 (´・ω・`)

ギタリストとベーシストのためのポピュラー・ピアノ入門 (CD付)
宮脇 俊郎
リットーミュージック

 こういうときは、地道に工程表( ↓ )に戻ってキホンの積み上げ。今日は黒鍵を使ったコードあたりからです。

とてもゆっくりですが、今日もゆっくり。鍵盤に触る時間は短いのですが、音楽のことは考えてるだけで結構楽しめるものです。

 わたしはビールがあれば充分に幸せな「おめでたい人」以上を求めている。(それだけだとつまらない。)

ロダン・タイプによって幸せ度が強化されるってことはゼッタイあると思います。(この出自の本についてはまたあらためて。)

 

 (あぁ、チカラ入りすぎて、勉強工程がブログ具材として浮いてしまっている。ちょっとサンドイッチしておきます。)

~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~

1. A♭、B♭、E♭、Fm

オリジナルの鍵盤表を使ってB♭を(♭1●3●5)と書き下してみました。
♭を数字の左に書くことで、1の音を半音下げて(フラットさせて)、♭が書いてある線上の黒鍵を押さえるイメージが湧くような書き方にしています。

何故 わざわざこんな風に書いてみるの?って言われましたが、
実際に書いてみることで、法則というかパターンのようなものを捉えようとして、肌理細かく頭が働くのでスッキリするのです。

たとえば、B♭、E♭、A♭でフラットさせる音はどれか。
(B♭は1の音(ルート音)だけですが、A♭、E♭では5の音にも♭がついています。)

Fになると、Fmと書いてる。(F♭とは書いていない。)
フラットさせる音が1の音ではなく3の音(ラ)になっています。(F♭ではない。)
したがってルート音をおさえる左手もフラットさせないから黒鍵を押さえていない。(ファを押さえている。)

こういうことも、実際に鍵盤を押さえながら注意深く考えるか、こうやって机上で鍵盤の押さえ方をなぞってみないと、浮かびあがってこない。
(たぶん、ぼーっと読んでるだけでは、さっきのはF♭って言うんだっけ?? みたいになって、頭が混線するだけだと思う。)

C⇒Fに比べてC⇒Fmは切ない感じになるので、Cのキーの中でスパイス的に使われる。

実際に弾くときには、Cにつなげて流れをつくるのが基本になるから、Cからつなげやすい転回形になります。
転回形になるとフラットさせている音が1音と5音ではなくなってしまい、音の基本構造が隠れてしまうから頭で理解しにくくなる。
転回形になって、フラットさせる音(黒鍵を押さえる音)の順序が入れ替わっても、転回形のパターンは白鍵のときと同じだ、って思えるだけでも、わざわざ書き下すことのイミがある。

 

2. サスフォー(sus4)

第3音を半音上げる(♯させる)。
Csus4の場合、C(ドミソ)に対してCsus4(ドファソ)となって、本来3番目のミである音が4番目のファで「保留」している状態のコード、ということになる。

Gsus4なら(ソ、シ♯(ド)、レ)  
Fsus4なら(ファ、ラ♯、ド)

F⇒G⇒Cという定番のコード進行を、F⇒Gsus4⇒G⇒Cとすると流れがキレイになる。Gsus4を何小節か引き伸ばしても不自然にならないから、サビ前でGsus4を四分音符で弾き続けながら”ヘイ、エブリバディ、みんな一緒に歌おうぜ”とか演れる。

Fsus4はブルージーでロックっぽい味つけに。(ラ♯ = シ♭、という音はブルースの音階に含まれる音)

サスフォーを弾くにあたって、4の指も(薬指)も出てきたぞ。

 

3. C7とF7

これも書き下すことで、頭の混線を防ぐ。

C△7(=CM7)やF△7(=FM7)のセブンスの音が♭(フラット)している。

(これも転回形になると、セブンスの音がフラットしているという本来の構造が見えづらくなってしまうから、書き下して納得しておくのだ。)

セブンスのフラット弾き(C7、F7)にあたって、5の指(小指)をフラットさせて(半音下げて)黒鍵を押さえる、という芸当も出てきたぞ。

4. アド・ナイン(add9)

セブンスコードの音を通り越してさらに先、ナインスの音を入れる。

セブンスの時は、左手でルート音、右手で残り三つの音、って具合に全部で四つの音を押さえて頑張ってたのに、
ナインスでは3番目の音を省略することが多いらしい。だから左手だけでルート音を押さえるというセブンスの弾き方でなくて、左手のルート音は低音部の厚みづけの役割に戻るってことか。

アド・ナインはメジャーやマイナーを決定づける音(ドミソのミやファラドのラ)の代わりにナインスの音(レやソ)を入れることで、
明るいとも暗いと言えないスッキリとした響きが特徴で、イントロなどでよく使われるという。

~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~

セブンスからナインスに至るコードの成り立ちは、天上の極みの表現にも似ています。

ポールはYou never give me your moneyで、セブンスまで行って昇天してしまう良い子達を歌い、
ジョージはCloud9で、ナインスの極みを歌った。
(転回形の3パターンをコード進行させて揺らぎながら上手くなる

アメリカ口語辞典からの引用です。

be on cloud nine
(嬉しくて)浮き浮きしている
字義どおりには「九番目の雲の上にいる」だが、その由来については後述のとおりである。Sally's on cloud nine because her favorite rock star spoke to her.(サリーはいちばん憧れているロックスターに声をかけられ、嬉しくて浮き浮きしている)。Is he happy? He's on cloud nine.(彼はハッピーかって? もう嬉しくて、足が地に着かないよ)。さて、この表現の成り立ちについていうと、もともとはbe on cloud nineではなく、be on cloud sevenといっていた(今でも、時に、sevenを使った言い方を耳にすることがある)。このbe on cloud sevenは、be in seventh heavenと、漫画などにあるような「死んだ人が雲の上に座ってハープを弾いている」情景とが、結合して出来たと推測される。一方、米国気象局の専門用語にcloud nineという表現がある。これは気象学的に九つに分類された雲のうち「九番目の雲(具体的には入道雲をさす)」ということだが、このcloud nineのほうがcloud sevenよりも数字の上では位が上だという言葉遊びから、パイロットたちの間では、上述のon cloud sevenに代わってon cloud nineという言い方がはやりだし、それが一般にも広がって、今日のように慣用句として定着したものと思われる。[言い換え]be very, very happy

 

音楽と思想・芸術・社会を解く 音楽史 17の視座―古代ギリシャから小室哲哉まで
田村 和紀夫,鳴海 史生
音楽之友社

音楽と人間と宇宙の関係(Cの世界観 / 瞑想のツールとしての音楽)については、古代ギリシアからそのようなアイデアがあったことを、この本が明確に教えてくれる。 

音楽は宇宙の秩序を内包している。
ここから有名な「天体の音楽」という考えが生まれる。
神々がつくった世界は整然とした秩序を持ち、調和していることは自明の理であり、
ハルモニア(調和)を通して、魂は宇宙や物質とも呼応している。
音階や和音が数比で表される事実をもとに、宇宙や人間精神の構造を音楽は相似的に反映していると古代ギリシア人は考えた。
 

ウチダ先生も「倍音」や「エートス」について言及されていた。(弦のコラージュ、そして「倍音」の魅力、 昭和のエートス(負けたり、負けたりする)) 

ウチダ先生の著作そのものではなく、別の地平から、同じ場所に行き当たったみたいな感じが嬉しいのです。(・∀・)
そして、広い意味での瞑想のために音楽を使用する、「ツールとしての音楽」という発想は、「エートス論」であることに気づいた。

これは教育を目的とする音階論なのである。
このように音楽の諸要素、つまり、音階、リズム、楽器等について、教育的目的から音楽の使用法について論じたものを「エートス論」という。
良い音楽は魂の調和をもたらすと信じられ、古代ギリシアでは音楽は教育の一環として国家の成立の基盤を成す重要なものであった。

人間の社会の基盤となる根本的な情緒に、強く働きかけるものが、ムーシケー(音楽の語源であり起源)というものだったのに、
ルネサンス以降は、音楽的側面の分離・独立が進み、鳴り響きの技術は加速度的に豊かになっていく。
しかし、こと音楽観に関しては、ルネサンス以降の西洋音楽は、人間存在の根幹にまで思いを致した古代・中世の音楽観を発展させたというより、それらをひとつひとつ切り捨ててゆく歴史だったといえよう。

ちょっと言い過ぎだと思うが、(ルネサンス以降にベートーベンやロマン派のような精神性の高い音楽は生まれた)、
音楽という鳴り響きの技法が高度に発展していくためには、精神性とか音楽観のように、形而上学的で実体のないものはジャマだったに違いない。

しかし、分岐して高度に発展した音楽が、バレンボイム氏が力説するように、今度は形而上学的な、強力にインテグレートするチカラを必要とするようになる。
クレシェンドの瞬間は教えることができない

高度に専門化され過ぎたクラシック音楽は行き先を失い、ひと握りのマエストロでないとインテグレート出来ない音楽になってしまった。代わってジャズやロックといった、手の届く、インテグレート可能な音楽が生まれ愛されるようになった、というのは的外れな見方でもないと思う。

西洋音楽の歴史を一気に俯瞰できるような動画

科学と哲学の歴史も似ているように思う。
高度に専門化する過程で分岐したままになっている。ココロのほうは置き去りだ。
高度に専門化されたのは専ら科学であって、実体のない、哲学的なモンダイは、人類の研究課題からこぼれ落ちてしまったかのようだ。
時空とあの世について

~ なんでも、ニュートンがデカルトにこう言ったとか。
”ぼくは物理の問題をやるから、君は心の問題をやってくれ。”
2人は対等に、物理や哲学を、人類の研究課題として捉えていたということです。

音楽を道具やツールとして使えば、科学では照らすことのできない場所を照らすことができるかもしれないというささやかな企て、「ツールとしての音楽」。
いにしえの叡智、「天体の音楽」をふたたび。

 

 

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断片のキラメキとはそういうことだったか ~ 断片にある真実と祈りについて

2013年08月18日 | いいことも起きるにきまってる旅行記

この本の冒頭部、ジョージが自分の生家を訪ねた時に、自分の生まれた1943年を回想する場面がある。

ぼくはオリヴィアと一緒にその家のようすをうかがい、1943年のことを思い描いていた。
魂の世界から抜け出して「ぼく」という存在はその家で、現実の身体を与えられた。
この星全体のことを考えたら、なんとも不思議なことだ。
いや、物質というレベルで考えるのなら、この星以外の星も含めなければならない。

あの時代、あの家、あの家族のもとへ、ぼくはどのようにしてやって来たのだろう、そしてその「ぼく」とは一体何物なのだろう。

これは特別な問いではない、昔から人間が発し続け、いまだ解決されない問いだ。

だから、このような問いを発し、考えることは、哲学的とされ、むずかしい問題だとされる。こんなにシンプルで素朴な問いかけなのに。

心的現実性というものにジョージが言及していることに驚いた。(心的現実性こそが重要である

たとえば、1943年の家族の風景は、ほんとうに現実だったのだろうか。
その時の風景は誰が認識していた現実なのか、その家族以外の誰かが認識していた現実なのか。
その認識は今も生きた視覚として残っているのか、幻想だったんじゃないのか。

現実とは、一定の共通認識のもとにあるもので、そうでないものは幻想かもしれない、
そんな風に考えていくと、多種多様に展開されている世界中の現実はどこまでが現実なのか、よくわからなくなってくる。

現実というのはひとつの観念だ。どんな人にも、その人固有の現実がある。
だがほとんどの場合、だれかにとっての現実なんて、ただの幻想にすぎない。
いつのまにかみんな「この身体こそが自分である」という幻想を持たされてしまっている。
ぼくはジョージではない、本当にジョージではない。
今はたまたまこの身体を借りているだけなのだ。
その身体だって変化を遂げている。
赤ん坊だったり、若者だったり、そのうちに年老いた姿になり、やがては死んでゆく。
でもその奥に何かがある。それこそが唯一の現実なのだ。
誰かが元ビートルたちは現実から切り離されている、と思っていたとしたら、それはその人の個人的な観念に過ぎない。誰かが思っているというだけでそれが真実だとは限らない。そうした観念が集まると、いくつもの層をなした幻想になる。 

~ 平凡な日常を生き、それぞれに日々の雑事に追われている人々に対し、哲学的な洞察を期待するのはいささか無謀なのではないか
― インタビュアーの問いに対してジョージ ハリスンが答える。

どうして? ぼくだって日々の雑事に追われている。
なぜ、一生暗闇の中を歩み続けるのか。
もしみじめな時を過ごしているのなら、ただじっと見つめてみたらどうなのだ。

なぜ闇の中にいるのだ。光を探しなさい。それはとても大切なメッセージだ。

そう思う。ただ追われていてはだめなのだ。 なぜ闇だと感じるのか、じっと見つめてみるというシンプルなこと。

ビジネスタームにも乗らないし、宗教的なテーマはグローバルにも語られにくい。
時として科学や経済上のテーマ以上に切実で、有益なメッセージが求められているのにも拘らず、
今の世界の構造上、表に出てきにくいものになってしまっている。
表面的なテクニカルな問いには答えられても、本当に根源的な問いには正解が与えられていない。
 

だからぼくは歌ったのだ、
「My Sweet Lord、神よ、心からあなたに会いたい。どうして一生怯え続けなくてはならないのか。わたしの中にある恐れを洗い流してくれ」と。

あれ以来、ぼくは懸命になって、幸運にも垣間見ることのできた輝く小さな光を、消さずに守り続けていこうとしている。
そして、その光をもっと、もっと分かりやすい形で周りに示していこうとしている。自分自身がその光になってしまうまでずっと。

それはとても大切なことだ。
ときには神について大声でしゃべりたくなる。
だが、それを説明しようとすると、空虚な言葉の羅列のようになってしまう。

そうか、だから、ジョージの言葉や音楽は断片的なのかもしれないと思った。

説明的に物語を創ってしまうと、嘘くさくなる。 断片的に、シンプルな形でしか伝えることのできない真実があるということだ。

幸福も断片として顕れるのだった。まるごと100%の幸せなんてものは期待しないほうがよい。(「詩人」という生き方 ~ Junk ♪)

断片のキラメキとはそういうことだったか。

( ↓ ) 個に徹すれば普遍に通ず。

「集団から切り離された個人のあえぎ」ともいうべき音楽がブルースだといいます。
誰しもの喘ぎが、断片のような祈りのフレーズになって、大きなうねりのように歌われる。

I really want to see you ,Lord.  But it takes so long , My Lord 

本当にあなたに会いたい
   けれど時間がずいぶんかかりそうだ、私の神様。

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断片の煌き 其の壱 ~ 中途半端を恥じるのがみみっちいことかもしれない

2013年08月18日 | いいことも起きるにきまってる旅行記

" 流行のポップミュージックには目もくれなかったし、そんなものには興味を失っていたが、すぐれたシタール奏者になれないことも明らかだった。"
(ジョージ ハリスン)

 この中途半端な境遇や、それに対する諦めにも似た気持ちは誰にでもよく起こりそうなことだ、共感する。 

「流行のポップミュージック」という文脈は、現実世界での「ビジネスの現場や最前線」に置き換えることができそうだが、
フルタイム出場が困難なわたしは、立ち位置について再考をせざるを得ない。
かといって、新しいパラダイムや価値観(シタール奏者になること)について、手がかりがあるわけでもない。じつに中途半端だ。

" ぼくの思いはとても単純だ。ビジネスの世界にフルタイムで足を踏み入れる気はない。
なぜなら、自分は庭師だからだ。花を植えて生長を見守る。クラブやパーティーに出かけたりせずに、家にいてひらすらに川の流れを見つめているのだ " 

庭師というのが、ジョージの趣味を反映している。
ジョージは、「庭にいるときが神にもっとも近づける」と語ったというが、自然や宇宙の断片に神を見ていたのだと思う。
神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す

ジョージはFriar Parkという広大な地所を1969年に買取って、あるひとりの男の精神世界と出会うことになる。
屋敷の建物をデザインし、庭園を作りあげた、Sir Frankie Crisp(フランキー・クリスプ卿)である。
この高名なヴィクトリア朝時代の准男爵のことを、ジョージはいつもまるで生きているかのように語るのだ。

~ サー・フランクのおかげで、ぼくの内面の世界はより広く、そして深くなった。
この屋敷に移ったことで、どんなものに対しても感性が鋭くなり、言葉での表現もより豊かになった。すべてが進歩したというか、高められたというか、そんな気がしたのだ。
いずれにせよ、ぼくはサー・フランクがあちこちに書き残してくれた言葉のおかげで、いつまでもネガティヴな見方をしてはだめだと考えるようになった。 

~ 本当にそれでいいのですか

― この本のインタビュアーと同じような疑問を持つのは自然なことだと思う。
ビートルズの喧騒の後とはいえ、庭師だなんて、三十そこそこの若さでそんなのでいいのか。
そんな風に人生を切り換えることなんてできるはずがない。仙人のようになるなんてあり得ない。

しかし、自分にも立ち位置を変えざるを得ない状況が訪れていることを自覚し始めると、見る目や聞く耳が変わってくる。
仙人のようになるというのは極端だが、自分の意識を書き換えて、
新しい境遇やパラダイムを受け容れて、より幸福に充実感をもって過ごすための工夫みたいなものは、どこかのタイミングで必要になってくる。
それは誰しも同じだ。

一方で、ビジネス後のパラダイムに携えていく志、みたいなものについて、教えてくれたり書かれたりしているものが、思いのほか少ないことに気づく。
まるで、そんなことは個人の問題だ、勝手に考えろ、と言わんばかり。
(本来は、そういうときの為に哲学や芸術があって然るべきなのだが、哀れなほどにビジネスタームでの発想に取り憑かれてきたので、そういう資質が十分に涵養できていないのです、残念ながら。)

しかし、ジョージですら、迷い悩んでいる。
現状をふまえ、日常の度量衡(時間や空間認識)を書き換えていくためには、
書き換えようと意識付けすること、すなわち「修行」を愉しむ期間が有効なのかもしれない。

あの頃のぼくは、インドのほうが居心地がいいと感じていたのだが、やはりギターに戻るべきなのかもしれないと強く思うようになっていた。
ギターの腕はちっとも進歩しておらず、かといってシタールで大成する見込みもなかった。
一流のシタール奏者になるには少なくとも15年は早くレッスンを始めなければいけなかったのだ。

それでもシタールを学んだことは、本当に役に立った。
ぼくのシタール時代は何もかもが素晴らしかった。ヨガもだ。インドでやってるのと同じように、朝起きたらまず沐浴し、ヨガの稽古をし、瞑想をして、シタールを練習し、それから朝食をとる。
ぼくにとっては、すばらしい修行で、絶対に必要なことだった。

文化というものを考える出発点にもなった。 

社会生活を送るうえで必要な知識やノウハウを教えてくれる機会はたくさんあるが、
もっと本質的なメッセージ、誰もがふと思うであろう存在や生命についての根源的な問い― わたしは何処から来て、何処へいこうとしているのか ―
については、不確かな情報が錯綜しているばかりで、自分で取捨選択しながら、掴み取っていくしかにように思える。

― 学校では決して教えてくれないことがあると思っていた。学校が人生の全て、人生の最終目的ではないとわかっていた。だから、学校にそれほど悩まされずにすんだのかもしれない。(ジョージ ハリスン)

学校だけでなく、社会に出てからの教育の機会をも包含しても、経済効果的な度量衡を基準にした学びがほとんどを占めているように思う。
ウチダ先生が「修業論」のなかで指摘されていたように、教育などの経済原理を本来持ち込むべきでない分野にまで、費用対効果のような議論が当たり前に行われている。
修業論 ~ 無敵とはなにか

修業のように、到達点まで行ってみてはじめて新しい地平を獲得できるような体験にすら、
到達点が事前に一覧的に把握でき、事前にその効果や効能が分かりやすく示されることを、私たちは消費者の権利のように要求する。
ばかになってるのかもしれない。

大成する見込み、とか、投資効率とか、みみっちい一覧性を求めることはよそう。

ころがっている断片をじっと見ること。
ユニットを丁寧に見ていくのです。
夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~
がんさんの女房 - 楽観を生む勝利のユニット

” そうだ、修行しよう " なのだ。

シタールならぬピアノ修行、今週はやや停滞中。。

( ↓ ) ギタリストであったジョージは、一曲まるごとというよりも、断片のきらめきを大切にするところがあるように思える。

 

( ↓ ) 深い森のなかに居るような世界観、より一層の深淵へと向かってゆくような断片のきらめき。

( ↓ ) なにげなく立ち顕れるきらめく断片のような何かが、誰よりもわたしを強く惹きつける。 

それが全体をなし得るのかは分からない。

The Beatles - Something - Take 37 Quality Restored!!!

Something in the way she moves 
Attracts me like no other lover   
Something in the way she woos me

You're asking me will my love grow
I don't know, I don't know
You stick around now, it may show
I don't know, I don't know

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左手(逆さま)の修業論

2013年08月11日 | ツールとしての音楽

レットイットビーをまずは「この一曲」にしました。

基礎練習の工程にあっても、覚えた技を曲のなかで試してみたり、歌に乗せて楽しんだりするための曲。

一見複雑なコード進行でも、右手の指は意外に簡単。

セブンスコードの右手は、3和音コード上では2つ先のコードの指使いになるので、(Dm7ならF(ファラド)と同じ指使い。)
その転回形を弾けば良いから、右手のバリエーションはシンプルになってくる。

ラドファ(1●2●●5)とソドミ(1●3●5)を行き来できれば、F,C,Dm7,Cの部分も弾けてしまう。

ここをじっくり練習すればよい。

 

ギタリストとベーシストのためのポピュラー・ピアノ入門 (CD付)
宮脇 俊郎
リットーミュージック

しかし、、右手のコード弾きでは、レットイットビーの雰囲気が感じられません。

ベース部分のリズムや響きが足りないのかもしれない。。

右手と同じように、左手も、はじめはスムースに動かなくても、ゆっくり、じっくり、練習すればいいや、と思い直しました。

指の動きに意識を向けて、じっくり静かに意識を通してゆくという作業は、単なるピアノのお稽古だけでもないように感じられます。
意識の至らなかった抹消への意識を通していくことで、末梢神経からフィードバックを受ける。(自然体の作り方

これはきっと、一種の修行なのだと思います。

そもそも、瞑想するようにピアノを弾く、という発想でしたから、あまり先を急ぐ必要もない。
瞑想のツールのように音楽にさわってみるというアイデア/ツールとしての音楽
運指が思うようにいかなくても、そのロングトーンに濁りがないか、ハーモニーにはどんな音が混じっているのか、を感じてみる。
ピアノを弾くという指先の動きばかりに気をとられないようにしてみる。

 さてさて、そうは言いつつ、先へ先へと、左手への意識を高めていくことに。

左手はオクターブを一緒に弾いてもいいし、単音でルート音を弾くだけでもいいのですが、
本格的な伴奏が弾ける「指替え」というテクニックに、じっくりと反復トレーニングでもって、取り組んでみたいと思います。

 

「指替え」をマスターしておくと応用が利くようになるらしいです。
いろいろ書かれていますが、音階を降りる動きと上がる動き、
これをオクターブの感覚をキープしながら反復練習することです。

” 左手の指替えをマスターすれば、弾語り的な伴奏スタイルの基礎は出来上がりです 。”

左手を見ないで弾けるようになり、どんなコード進行でも自由に左手の音域を決めることができるようになります。

左手のリズムを自由に引くことができるようになって、どんなコード進行でもリズミカルなコード伴奏が弾けるようになります。

最初はぎこちない動きになって、リズムにも乗せられないと思います。
でもゆっくりと続けていると、ふとした瞬間に急にできるようになるものです。

 まさに「修業」そのものです。(修業論 ~ 無敵とはなにか

ふとした瞬間に、思ってもみなかったような身体使いができるようになっている。

修業は、その結果として新しいステージに跳ね上がるところにその特質があるのであって、単に強化するとか、鍛えるというのとは意味が違う。

修業の成果とは、今の度量衡を書き換えることだから、修業の成果は今持ち合わせているモノサシでは測れない。 

修業とは、タイムや距離といった数値的な測定値の向上を同じ度量衡で追い求めるだけではなく、
「身体を細かく割って使えるようになった」、「動きに甘みが出てきた」、というような運動の質の変化を追い求めること。
結果として、それまで経験し得なかったような新しいモノサシがあることに気づく。

( ↓ ) 左手の音階を降りる動き(C→F)、上がる動き(F⇒C)を鍵盤紙上で分かりやすく書き表せないかと思った。
   (指の形をしたタブ譜みたいなのだと情報量がムダに多すぎて、流れが分かりづらい。)

シンプルすぎるが、自分の手でイメージを湧かせながら書き出してみると、
下がる動き(C→F)で小指(5の指)を軸にして親指(1の指)を戻してくるニュアンス、
上がる動き(F⇒C)で中指(3の指)を1の指まで戻してから1と5の指でオクターブを移動するニュアンス、
を紙の上からでも感じることが可能になる。

この上昇と下降のニュアンスを掴んでから、「指替えを使った実践トレーニング」(下)を、何度も、ゆっくり時間をかけて練習しよう。

右手との絡みが難しいようなら、右手は全音符で一度鳴らすだけにして、左手だけを集中的に練習しても良い。
(書き出してみると、オクターブの低い方と高い方(5と1の指)を押さえるリズムは、「5111」か、「1511」の2パターンだけ。)

 ( ↓ ) 「指替えを使った実践トレーニング」

 ( ↓ ) 左利きのポールのピアノは低音部がよく鳴っている。

ポールが身近なものを題材にしてラブソングを作る時、
歌のモチーフは実際の恋愛などではなく、例えば音楽であったりするんぢゃないか、と思う。

考えてみれば、ふつうに恋愛物語を描くより、ほかにモチーフを求めて擬人化したりするほうが、見方が変わって新鮮な視点が与えられるはず。
気まぐれなコードのふるまいや、すれ違ってゆくカウンターライン、といったモチーフは十分に宇宙的。
日常をそのまま題材にしていては凡庸なラブストーリーしか描けないところが、思いがけずに深みや驚きが生まれることだってあるかもしれない。

この曲にある" 自分でも理解できない何かに取り憑かれた、寂しい男 "ってフレーズも、自身の心理描写だけで生まれるような生半可な奥行きではないように思える。

Baby I’m a man and maybe I’m a lonely man
Who’s in the middle of something
That he dosen’t really understand

自分の内面観察の結果、『得体のしれない何ものかに取り憑かれた』というフレーズを思いつくというのでは、
そのような表現のできる芸術家は常にどこかしら狂っていなければならなくなる。
そうではなくて、音楽の仕事が好きでそれに没頭している自分を、狂おしいものとして表現してみせたのだとしたら合点がいく。
モチーフを別の場所からもってくる、というのは素晴らしいアイデアかもしれません。
Maybe I'm Amazed (Piano and Vocals only)
 

これは、" 結果的に新しい度量衡が発見される "という「修業の特質」とは逆の発想です。

わざと始めから度量衡を違えてみる、
違ったモノサシで語られるはずの別世界のモチーフを持ち込んでみる、という、修業によって得られる結果を先取りした、逆さまの修業論。

天才と狂気は紙一重だという一面はあるのかもしれないが、そればかりではないと思います。
天才は天才らしくあってほしいというのは、現代のお伽話か都市伝説みたいなもので、ことはそんなに画一的なものではないように思います。
表現のダイナミズムの振幅が、狂人度合いによって決定されるなら、際限なく狂わなくては良いものは生まれないということになる。嘘くさい。
別のモチーフを持ち込める人を天才と呼ぶのではないか。狂ってるかどうかというモノサシではなくて。

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修業論 ~ 無敵とはなにか

2013年08月09日 | いいことも起きるにきまってる旅行記

別に武道をしていなくても、普通に生活人であってもよい。

 「道場は楽屋、生活が本番の舞台」、むしろ生活のほうがエライのだという逆転的着想。

   稽古はあくまでもおけいこ、ということなのか。

道場での稽古は時間が来れば終わるが、生活は終わらない。

道場での稽古というものは、技を磨くという一事に集中することが許された特権的な時間と場であって、
本物のいくさは、いつ、どんなかたちで、どんな文脈で襲ってくるかわからないもの。

もともとの武術は戦技であって、
試合のある、この日のこの時間帯に、身心のピークが来るように準備する、というようなことは本来の武道ではありえない。

生活即稽古、稽古即生活、 
日々繰り返されるルーティン ― 呼吸、起居、食事、歩行、着衣、会話、かつての侍はすべてのふるまいを稽古として行ったはずである。
常住坐臥(じょうじゅうざが)、日々の生活そのものが稽古であるような生き方を工夫しなければならない。

修行とはふつうの生活のなかにある、そういうものだと思えてきました。

詩人の在り方にも通じます。

~ 詩人とは必ずしも詩を書く人、というものではなくて、
  音楽や演劇をやってる場合もあれば、絵を描いたり、家庭で料理を作ったり、野菜を作っていたりする場合もある。
  別に何をやっているのでもかまわない。
  (詩人という生きかた)

内田 樹先生の最新刊、修業論。

″噛めば噛むほど味の出るスルメのような本ですから、手元において、「あれってこれのことかな」と思ったら読み返して見て下さい″と後書きにあるが、その通りなのです。

ユニット化などの技を磨きながらの毎日、いくばくか修行のような趣きもあるし、生活の質というか手触りのようなものも変わってきたかもしれない。

がんさんの女房 - 楽観を生む勝利のユニット
夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~

「無敵の主体の誕生」。

武道家の身体能力をもっとも確実に損なうのは、加齢と老化なのだが、
加齢や老化を「敵」と捉えていたのでは、生きていること自体を敵に回していることになる。
このような心の構えを、″無敵と隔たること、もっとも遠い態度"として、正す。

無傷で完璧な状態の私、あるべき理想的な私、を「標準的な私」と惜定し、
今ある私がそうでないことを、(体調が不良であったり、気分が暗鬱であったり、ガンを患っていたりね)
敵による、侵入や妨害などの否定的な干渉の結果だという語法で説明してしまうことを諌める。

風邪をひいたら、生まれてからずっと風邪をひいていたかのようにふるまい、
雷撃に打たれたら、生まれてからずっと雷撃に打たれ続けてきたかのようにふるまい、
子どもを亡くしたら、生まれてからずっと子供に死なれ続けてきたひとであるかのようにふるまう。

(私の場合だと、生まれてからずっと当たり前にガンでした、というようにふるまう。)

因果論的な思考が敵を作るのであって、敵を「存在してはならないもの」とは捉えないこと。

"因果関係のなかに身を置かない"、"継起的なプロセスに即して出来事を見ない" というのは、日常感覚から離れた見立てなので、殊更に修業化する事なくしては、そのような見立てができるようにはならないと思う。

そして、それはつまり、「時間意識を書き換える」ことにつながるのだという。

時間意識の書き換え、というのは、心的現実性によるリアリティの書き換えと共に、ユニークな考え方だと思います。(心的現実性こそが重要である
たとえば、老年になったら、晩年=終わりの方なんて考えるのではなく、時間のモノサシの幅を大きくとって、豊かな時間がたっぷりあるかのように考えてみる。
あるいは直線的に流れる絶対時間ではなく、時間サイクルの廻るイメージで過ごす。
言葉を持った、多分に観念的な人間にとっては、ワーディングや意識付けのチカラは侮れないと思うのです。

そうか、ひとは主体的に時空を書き換えることが出来るのか。これがきっと、無敵の極意なのだということが、これを書きながら分かってきました。

意識的に書き換える、というのとはちょっと違う。修業の結果として、思いもよらなかったけれども、自分で主体的に書き換えることが出来てしまった。

「トレーニング」なら、同じトラックを走り、努力の成果がタイムや距離として数値的に考量可能なかたちで示される。
でも「修行」はそういうものではありません。
走っているうちに自分だけの特別なトラックが目の前に現れてくる。また新しいトラックに切り替える。
そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそも「どこに向かう」かが違う。
はっと気がつくと、誰もいない場所を一人で走っている。もう同一のトラックを並走している競争相手はどこにもいない。
修行とはそういうものです。
エクササイズの開始時点と終了時点で、計測する度量衡が違ってしまっているというダイナミズムは、
「鍛えた」とか「強化した」とか「向上した」という言い方では測れません。

それは「昨日の私」が目指していた場所とは別のところに「今日の私」はたどり着いてしまったということであって、
喩えて言えば、「アメリカ目指して船を漕いでいたら、竜宮城に着いてしまった」ということです。

ウチダ本には、日曜の晩に太刀魚の塩焼きあたりでちびちび飲るのに似たような愉悦があります。

カワハギの肝付のちびちびさ、とその滋味にも共通するものを感じます。

(年明け、1月に食したカワハギが夏でも美味しかった。一年中が旬なのかな、不思議です。
 そして、宵にしてこの明るさ~、の右の写真は、先日、7月終わりの頃。)

  

「人間って意外に強いもんやでー、そんなかんたんに死なへんでー」 、か。

( ↓ ) 生まれてからずっと死んでるかのようにふるまい、生まれてからずっと悲しくて、生まれてからずっと生まれていないかのようで、、

ちょっと違うが、凡人にはなかなか思いつかないフレーズだ。

 

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転回形の3パターンをコード進行させて揺らぎながら上手くなる

2013年08月04日 | ツールとしての音楽

前回記事で発見した、転回形の3パターン(1●3●5 /1●●3●5 /1●2●●5)を使って、鍵盤上のコードを行き来する作戦です。
(どのコードにも共通する転回形のフォーム(型)を覚える)

実際にコードをつなげて弾いてみるときには、同じCであっても、「ドミソ、ソドミ、ミソド」と鍵盤上での位置が変わります。

さらにCコード以外のコードも同様に、別の音階で鍵盤上で3つの位置を取り得ます。

ならば、各コードに共通な指の形「1●3●5、1●●3●5、1●2●●5」を基本の型として覚えて、
鍵盤上を揺らぐように行き来する、という感覚で弾いてみてはどうかというアイデアです。

そして、その揺らぎをパターン化して俯瞰できるように、鍵盤紙なるものを自作してみた。
(たったこれだけのものだが、ありそうでない。でも、五線譜やコード譜より分かりやすいかもしれない。)

鍵盤上の指のフォームを一音ずつ図示していうようなコード譜的なものが多いが、全体像がわかりにくくなる。
和音(コード)を表記するには、鍵盤と、そこを押さえる指の形(1~5指)の情報がシンプルに書き表されていればよい。

分かりやすさを求めるのは初学者だから、そこには初学者ならではの気づきがあるのかもしれぬ。

私なりに解釈を試みながら、工程表に添って理解をすすめていきましょう。

1. 4和音(セブンス)のコード

ピアノという楽器は、ギターよりも音の押さえ方の自由度が高く、音数が多くなっても響きが濁りづらいそうです。

ピアノなら7度(セブンス)の音もフォローし易い。

CM7(シーメジャーセブンス)はC△7とも書く。
Bm7(♭5)は難しい名前になってる(ビーマイナー・セブン・フラット・ファイブ)が、あまり気にしなくてよいそうです。シ、ファ、ラのコード(Bm)は難しい名前になるんだな、くらいでいいらしい。ポップスやロックではそんなに使わないが、ジャズでは頻繁に使うコードとのこと。

和音が4つに増えても、左手でルートを押さえて、右手はセブンスを加えた残り3つの音を弾くだけです

3和音と同じように平行移動で弾けます。

気になるのは、右手で弾くコードの構成音が本来の音階から移動すること。
例えば、Cのコードなのに、右手は、ドミソではなく、ミソシ(Em)を弾いている。
だから、右手側を転回形で弾くときも、ミソシを転回形で弾くことになる。

 2. 4和音の転回形

平行移動になるのは、1●3●5の指使いの時だけではないことが、書き出すことでよく分かるようになった。
1●2●●5や1●●3●5の時も、平行移動で各コードは弾けるようになっている。
(上の1●3●5の場合と同じように、1●2●●5についても、C△7→Dm7→Em7→とたどると順に平行移動している)

そして、先ほど書いたように、右手は" Cのコードなのに、ドミソではなく、ミソシ(Em)を弾いている "から、
4和音の転回形を弾くことは、3和音で二つ先(CならEm、DmならF、EmならG)の転回形を弾いているのと同じ、ということになる。

3. 4和音の転回形を使ったコード進行

C(ドミソ)を弾きながら、C△7ではEm(ミソシ、ソシミ、シミソ)のように弾く。

 コードを弾くときはどこを意識するのだろうか。

構成音だと思っていたが ------- CなのにEmの構成音を感じながら弾くというのもへんなハナシだ

指の形(フォーム)なのか ------- (指の形も構成音もバラバラで気まぐれな)コードネームに惑わされずに、鍵盤上を一定の形とパターンでもって揺らいでいるのがいいのか、 

この辺りの素朴な疑問は音楽をやりながら解決していきましょう。

4. 分数コード

C/Dだったら、C(ドミソ)に低音のD(レ)を加える。分母が低音部を表す。

いろいろなコード進行を、左手はあまり動かさずに、右手で転回形を使いわける形で弾いていく練習として、
4和音と分数コードは一括りにしてマスターしておきたいと思いました。

4和音で、3和音の二つ先のコードを弾きながら3和音のコード弾きも併せて覚え、分数コードを混ぜることで左手の練習を重ねる、、
一石三鳥的レッスン法です。

右手に集中できるよう、左手の動きをしっかり覚えてチャレンジしていくのがよいそうです。

ひとつの形や答えを教えてはくれない、
転回しながら、位置を変えながら、鍵盤の上を揺らぎながら漂っている、、
 

そう、揺らぎは自然の姿。

ゴルフは気まぐれな風と遊ぶものだったが、音楽もまた気まぐれなコードと遊ぶものなのかもしれない。 

自然を意のままにできないのと同じように、音楽もまた意のままにできるものなどとは思わない方が良いのかもしれない。

まるで、気まぐれコードが語りかけてくるかのような歌だ。

I never give you my number    オレは答えを教えないよ
I only give you my situation     立場を説明するだけだ
and in the middle of investigation  そうやって調べてるうちに
I break down                ボクはまいってしまう

The Beatles - You Never Give Me Your Money - Early Quality Restored!!!

このくだりはまるでドミナント・モーションだ。 魔法にも似た半音への憧れ。

But oh, that magic feeling, nowhere to go あの魔法のフィーリング、どこへ行くあてもない
Oh, that magic feeling
Nowhere to go
Nowhere to go 

 

ドミナント:
主音(トニック)に対して完全5度上の音であり、属音とも言う。
この音をルートとしたコードをドミナント・コードといい、ドミナントと略される。例えばキーがCであればドミナントはGである。
トニックへ進行しようとする力が働き、たいていフレーズの終わりや曲の終わりでは、ドミナントからトニックへ進行する。
また、ドミナントはセブンスを伴うことが非常に多く、この場合トニックへの進行感がより強くなる。

トニックへの夢が叶って、セブンスまで昇ったら、良い子はみんな天国へ。

One sweet dream came true... today
Came true... today
Came true... today...yes it did
One two three four five six seven,
All good children go to Heaven

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ヤマハの電子ピアノ P-105

2013年08月03日 | 日記

座して苔むした屋根を蹴ってる、

何処かうじうじした印象のあるYour songですが、実はこざっぱりとした歌なのではないか。

Now that it's done ,  これがキーフレーズのように聴こえてきた。

~ こうなってしまったからには、もう気にしないで。 

実にいさぎよい。 めめしいどころか、達観している。そういえば、冒頭から、自分の内面的感情をファニーだとすら言っている。

~ 太陽はしばしの間暖かく、この世はかくも素晴らしい。

彼が素晴らしいと語るのは、あなたの居る世界であり、

自分の記憶すらあてにできなくとも、色を忘れてしまっても、あなたの瞳がかつて見たなかで一番美しかったと語る。これは無私の歌だと思う。

Elton John - Your Song (live)

音楽は話としても面白い。音楽は自然であり、宇宙そのものだと思うから。

理屈を追っているのが好きなのか、少なくとも私のような人間には、ミステリーを読んでるよりこっちのほうがいい。

そして、理屈だけでは追いきれない何かがある。

しかし、実際に鍵盤に触らないことには、ピアノなんて上手になるはずがないのですから、やっぱり買おうかと思ってます。

先日、楽器店で見かけたこの電子ピアノに目が止まりました。スタイリッシュに持ち運びできるヤマハのPシリーズ。

何やらスポーティーでカジュアルです。

 体を動かすようにピアノで遊べばいいのよ。指も腕もついてるんでしょ、誰でも遊べるわ。

ウッディで格好いいP-155だと、サイズはW1334 × D351 (スタンド設置時 430)× H140mm(スタンド設置時 748)。

わたしの隠れ家部屋に入れるには少々大きい。。重さも18Kg以上あります。

でも、コンパクトなものを求めるにせよ、キーボードでは得られない鍵盤を押すピアノタッチと、低音域をカバーするための88鍵、は外さないほうがよさそうに思えます。

~ ・ ~ ・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~ ↓ ↓ コンパクトボディのP-105にしました。 ↓ ↓ ・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~・ ~

 

シンプルでスタイリッシュなデザイン 

 

Pシリーズは、コンパクト・スタイリッシュピアノのベストセラーとして、長く親しみ続けられているシリーズです。
P-105は、前モデルのP-95からさらにピアノ品質を高め、機能も充実させた新モデルです。

 

12kgと軽くて、W1,326× D295 × H163mmと手頃な大きさ、コストパフォーマンス高し。(特に奥行がスマートに感じられました。)

ピアノ教室の無料体験に行った楽器店に、半ば、KorgのSP-170Sの購入を決めてから行ったのですが、(本稿のタイトルもKorgのSP-170Sになってましたので、只今書き直しています)
Korgより、スタイルも鍵盤のタッチも引き締まってて、よりフィットするように感じられたので、こちらのヤマハP-105に決めました。

スタイルという自動伴奏機能 も楽しそうだし、曲データ(MIDI)や楽譜をダウンロードして活用する機能も、ピアノに触る楽しみの幅を拡げてくれそう。

ピアノが来るのをキッカケにして、本が積み重なって崩れそうになっていた隠れ家部屋の断捨離を敢行。

古い本をサッパリBOOK OFFへ持って行きました。(土用丑のうなぎ代くらいにはなりました。)

 

 

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ジュリアス

2013年08月02日 | ツールとしての音楽

ジュリアス・シーザーが割って入ったJuly(七月)も終わり、オーガスタスが月の間に入り込む。八月の始まりだ。

「1」~「10」を表す音楽用語、そして古代ローマのエピソードがそこに絡むことによって「1月」~「12月」の呼び名になったという件がおもしろかった。

(※シーザーとオーガスタスが自らの権力の保持のために月の中に自分たちの名前を入れてしまったために、月名の呼び名と数字の語源がずれてしまったという。)

1:Unoとかmono、solo。

2:Du. デュエット、デュオと言ったりする。

3:TRI(トゥリー)。トリオ、トリプル、トライアングル、

4:カルト。カルテットは四重奏。

5:ペンタ。ただし、五重奏のことはクインテットと言う。

6:ヘキサ、またはセクス。セクステットは六重奏。

7:セプター、セプテットは七重奏。(*JulyとAugustが入ったので9月がセプテンバーに)

8:オクター、オクテットは八重奏、オクトパスは八本足のタコ。(*10月がオクトーバーに。)

9:ノナ。ノネットは九重奏。(*11月がノヴェンバーに)

10:デカ(DEC)。(*12月がディセンバーに)

( ↓  ) 作曲や楽典の読み方の入門書として、これほど分かりやすく、親しみやすいものはなかなか無いのではなかろうか。

        (復刻版ゆえなのか、単行本なのに買うと3500円もする。)

    短いメロディを思いついたら、鼻歌でも全然かまわないから記録に残すべしというくだりとか勇気づけられる。

やさしい作曲入門すぎやまこういち
すぎやま こういち
復刊ドットコム

ペンタ・スケール(ファとシ=4と7の音を抜いた、いわゆるヨナ抜き音階)は、ドレミソラの5音から成る音階で演歌の音階ともいわれ、
雅楽と能について
ペンタ・スケールの音階にファやシの音が入ると何となく違和感が出て、統一感がなくなってしまうといいます。

沖縄音楽の音階は、レとラのない、ドミファソシドの音階でできていて、この音階を使って適当なメロディを弾くと、急に沖縄の風土の香りのするものになるという。

短調と長調もなぜにそれが悲しく感じられたり、明るく感じられたりするのかは分からないが、音階にもそのような不思議がある。

そして、ブルース音階は、ドレミファソラシドの、ミとシが半音下がった音階。
黒人がミとシを半音下げることによって、長調の音階に短音階的なニオイを持ち込んだことによるとされている。
ラグタイムやスタンダードナンバーにもよく聴かれる音階で、
ビートルズで言うと、ゲットバックは、ブルース音階の典型的な作品とのこと。
たしかに、アメリカ的な雰囲気がよく出ている。

あのイエスタディは歌のバックで出てくるたった一箇所のブルーノートが素晴らしい効果をあげているといいます。

~ 7月が過ぎて気づいたこと。 これは7月の歌だってこと。
The Beatles - Julia Lyrics  

シンプルだが強力なモチーフだ。この曲の世界観が凝集されている。

half of what i say is meaningless  ぼくの言うことの半分は意味が無い 

but i say it just to reach you ,Julia    でも ただ君に近づきたくて言ってるんだ、ジュリア。

 

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