ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

アクロス・ザ・ユニバース ~ 祈りはコミュニケーションだった 

2017年10月29日 | ツールとしての音楽

自分で「もうここまでしか出来ない」という限界に突き当たるたびに、
「想像力の限界が、その人の能力の限界なのだ」ということを思い出すように、とのこと。

個人差があるとはいえ、生物学的にみて、
人間の能力や精神的・肉体的構造には、何倍も何十倍もの差があるわけではない。
鍛え上げられたアスリートの肉体と私たちの筋肉量が何十倍も違うというわけではないし、
思考を司る脳にしても、賢い人が何倍も大きいというわけでもない。

五十歩百歩程度の差でしかないのに手にする成果が大きく違ってくるのは、ひと言で言うと「想像力」の違いだという。
逆に言うと、「自分が成功するイメージ」が簡単に持てれば、成功は得やすくなる。
イメージの持ち方次第で世界は変わってしまう。
(イマジンの世界観)

Imagination is more important than knowledge.

Albert Einstein

 ( ↓ ) 軽いタッチの本だが、科学者・研究者が見えない世界(いわゆるスピリチュアル)を語ったものには興味が持てます。

ニュートンが言うように、科学や人間が解明できている真理は、大海を前にした海辺遊びのように部分的なものだと思うし、
単一のモノサシではなく、持てるモノサシを駆使して、曖昧模糊として遠大な、大海を分かりやすくしようというスピリットに共感するから。

” 私は、海辺で遊んでいる少年のようである。
ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。
真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。
I was like a boy playing on the sea-shore,
and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary,
whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me."

Isaac Newton

11月の休暇、神社参りに備えての読書。

「神さまはいるのか」から、「神さまとどうしたらコミュニケーションできるのか」へ。

祈りは自分の願いを神さまに伝えるだけではなく、「神さまの意思を受け取る」コミュニケーションであるといいます。

肉体を持たない神さまは、物理的な働きかけをするのに、私たち人間の助けを求めていて、
私たちを通して、現実社会への貢献が可能になるという説明が新鮮。

超人的な天上の絶対神といったイメージではなく、私たち人間は神と補完し合うような存在なのでしょうか。神のパワーを顕現させる為には、物理的な人間の存在が必要。

神社に参拝する時には、ちゃんと”私は○○県○○市1丁目○番地の、明治太郎です。”って、
住所と名前を名乗らないと、私が誰なのか、神さまには分からないそうです。
名乗るのは神さまへの礼儀でもあるとのこと。

神さまは何でもお見通し、と甘えるのではなく、礼儀を持ってコミュニケーションを取るようにしないと。

神さまが自分に頼みたいことと、自分の願いごとの接点になるのが、祈るという行為であり、

祈ることで、あちこちに散らばった思考がきれいに片付いて、神さまの意思を受け取るスキマができる。

 ( ↓ ) カズオ・イシグロの小説は、変容する記憶を持った、いわば「信頼できない語り手」が特徴だというが、
この歌もそんな部分がある。(弾き間違うので演奏はつなげた作り物だし、歌も不安定で信頼に足りない。)

”Jai guru de va om”と神々の名前を連呼した後に、
”Nothing's gonna change my world”(何物も私を変えることはできない)と歌われるが、
Images of broken light(粉々に砕けた光のイメージ)や
Thoughts meander like a restless wind(落ち着かない風のように とりとめのない思考)が象徴するような、
諸行無常の「信頼できない」宇宙に身を置いている不安定な語り手が、それほどに確信的な強さを持つとは思えない。
孤独だが不思議とそんなに淋しいわけでもない、静かな充足感がもたらす世界観なのでしょうか。

Across the universe(piano & vocal cover) 20171022

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カズオ・イシグロの世界に呼吸を合わせてみる

2017年10月22日 | 読書ノート

私が小説を読むのが不得手なのは、小説のテンポやタイム感にうまく適応できないからだと思う。

いわゆるビジネス書等の類ならさっと内容を掬い取りにいけるのに、
小説、それも長編小説だったりすると、その世界が発する、まったり悠々とした波長のようなものと、呼吸を上手く合わせられないような気がする。

ノーベル賞を取ったカズオ・イシグロを読んでみようと思った。
映画やドラマにもなった「わたしを離さないで」(ラブストーリー的なタイトルであるが、臓器提供という使命を負ったクローン人間をメタファーにした小説)が有名なようだが、
イギリスかぶれするのに丁度いいかもしれない、と読み始めた最新作は、
アーサー王亡き後のブリテン島を舞台にした「忘れられた巨人」。

人々を包む「奇妙な霧」が記憶を片っぱしに奪い取っていく世界。すべてがあいまいで断片的。
悠々として、霧のかかったような薄ぼんやりした空気感に馴染むのにはちょっとしたコツが必要だ。

 

 併せて読んでいる呼吸法の本にヒントを得たのだが、
「息を止めてみる」・「呼吸を減らしてみる」と、「今ここ」に意識を留めやすくなる=他者の呼吸(この場合の小説の波長)を感じるモードへの切り替えが
スムーズになることに気づいた。

カズオ・イシグロをさがして

示唆に富んだドキュメンタリーだと思う。
小説というものは、それ自体だけではなく、物語の背景に迫ることで豊かさを増す。むしろ、そちらの方が魅力的であったりする。
あとがきを読むのが一番愉しみだったりする。

海洋学者であった父がピアノや音楽を好んだこと、
自身がシンガーソングライターになりたくて歌っていたこと、
こんな風な落ち着いた大人でありながら振れ幅のある人は魅力的だ。
1時間過ぎ辺りでは、日本人としてのアイデンティティを望みながら諦めた経緯についても語られる。
マジョリティに属しているとは到底言えず、もはや出自不明なひとみたいになってきたせいなのか、
移民的な感情への処し方みたいな部分にも共感してしまう。
イングリッシュマン・イン・ニューヨークならぬジャパニーズ・イン・イングランド以上のものがある。
(エイリアンだったか)

28分辺りからは、カズオ・イシグロの小説のテーマである「記憶」について語られる。
50分過ぎでは、「記憶を固定しておきたいという強い想い」が小説家になった動機だと語る。
記憶はその人にとってのリアリティであり、現実であるから、人生そのものになる。

しかし記憶は時に変容し、自分自身も騙してしまう。
一方で、
「霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか」
と主人公のアクセルは言う。

記憶や現実と幻想との境い目を、不鮮明な視界と思考をもたらす霧に重ねて物語るところがイギリスを舞台にした小説ならではだ。

ジョージ ハリスンが言っていたことを思い返させるテーマでもある。
(断片のキラメキとはそういうことだったか ~ 断片にある真実と祈りについて)

たとえば、1943年の家族の風景は、ほんとうに現実だったのだろうか。
その時の風景は誰が認識していた現実なのか、その家族以外の誰かが認識していた現実なのか。
その認識は今も生きた視覚として残っているのか、幻想だったんじゃないのか。

現実とは、一定の共通認識のもとにあるもので、そうでないものは幻想かもしれない、
そんな風に考えていくと、多種多様に展開されている世界中の現実はどこまでが現実なのか、よくわからなくなってくる。

現実というのはひとつの観念だ。どんな人にも、その人固有の現実がある。
だがほとんどの場合、だれかにとっての現実なんて、ただの幻想にすぎない。
いつのまにかみんな「この身体こそが自分である」という幻想を持たされてしまっている。
ぼくはジョージではない、本当にジョージではない。
今はたまたまこの身体を借りているだけなのだ。
その身体だって変化を遂げている。
赤ん坊だったり、若者だったり、そのうちに年老いた姿になり、やがては死んでゆく。
でもその奥に何かがある。それこそが唯一の現実なのだ。
誰かが元ビートルたちは現実から切り離されている、と思っていたとしたら、
それはその人の個人的な観念に過ぎない。
誰かが思っているというだけでそれが真実だとは限らない。
そうした観念が集まると、いくつもの層をなした幻想になる。

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ヘリテッジを訪ねて(秋、可月亭)

2017年10月14日 | 旅と帰省とお出かけと

イギリスのことはあまり知らない。

コッツウォルズの街並みを湖水地方の風景と勘違いしていたくらいだ。

 

どこか会津や磐梯山の風景と重なる。 

まだ紅葉には少し早い五色沼。

 

鶴ヶ城近くにある山都そばの店に入ってみたら、おなじみの風景の絵が飾ってあった。 

丁度こんな按配の時季ではなかろうかと向かってみたら、半分その通りだった。。

麦畑ではなく田んぼなのですが、どこかスティングのフィールズ オブ ゴールドみたいだったりする。
([2017年 GW] 赤城 ⇒ 上毛 (いつか もっと うっとりを。))

ここ会津にもちょっとしたヘリテッジがある。

流行りのクラウドファンディングだが、まだ人を呼び込めるところまでは至っていないようです。

( ↓ ) 大正時代の頃

( ↓ ) そして平成の今。

ヘリテッジ的なところは、先日観た映画「ハウス」のようでもあり。

  

 

 

昔在った蔵元の名残り、徳利には清瀧の文字が。

庭でうねっているキャラ松と呼ばれる老木の姿もどこかおどろおどろしい。

 

 

ハウス的な光景が続きましたが、こちらは神っぽい白い御神体。

鯉の姿をしているが、それは戴冠するダビデ王のようでもあり。

レナード・コーエンの「ハレルヤ」の原訳で、Davidのことを旧約聖書に出てくるダビデ王のように訳しているものがあったが、
6世紀のウェールズに存在した聖デイヴィッドのこと。

歌の中に鳩(Dove)が登場するが、
彼の説教で場内が鎮まった時、デイヴィッドの立っていた地面が盛り上がり、
一羽の鳩(聖霊の力による雄弁さの象徴)が舞い降りて彼の肩に止まったと言われている。
この本にあった聖ディヴイッドの肩の上にも白い鳩がちゃんと描かれていた。

ハレルヤ(Audacity version)20171014

John Caleみたいにピアノで弾き歌いたくて練習を始めた曲。
コードをアルペジオで弾くだけなのですが、ノーミスで弾き歌うのって意外に難しい。
それに5番まである歌詞も通しでちゃんと歌わないから、断片的で、どこかハノン的な練習曲になってしまっていました。
そこでピアノを別録りしてからAudecityで歌を乗せてみました。
Audacityで形にするようにすると、漫然と弾いているより上達するように思えます。
(聴きかえしてみたら恥ずかしくて消したくなるほどだが、こうやって曲がりなりにも通しで曲として繋げてみると、
断片的で怪しかった歌詞や、コード進行のつまずき具合まで、一気に修正点として分かるようになる。
ポロンポロンと間違えながら断片弾きしてるだけで、繋がらずにうろ覚えの状態だったのが、ひと繋がりの曲として捉えられるようになる。
イエスタディの歌乗せのコツを掴んだのもAudacityだったし。

イエスタディ (Audacityバージョンの出来上がり。)

[ピアノ弾きおじさんへの道] Yesterdayに寄せて)

「喜びは絶望よりも深く心を流れる」
という言葉がありましたが、このハレルヤ(主を信じる)にはそういう感じがある。
喜びだけを歌うのではなく、苦しみや絶望に目をそむけずに歌うことで
その先にある喜びが一層リアルに見えてくる、みたいな感じ。
(「君の膵臓をたべたい」~ 喜びは絶望よりも深く心を流れる)

欲望や醜さのなかにいようと、唇や息に宿り、現出するハレルヤ。

( ↓ )まだ読んでませんが、太宰治好きのイギリス人作家による日本紀行。
   ワーズワースよろしく、イギリス行きを目指して書き溜めていこうかと思う。
   (ワーズワースと至福の時)

 hallelujah John Cale lyrics

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[2017年10月] ゴルフ肘が教えてくれた、新しいゴルフのパラダイム

2017年10月01日 | ゴルフィーライフ<気づきとアイデア>

夏の終わりに、ウィークからストロングへとグリップの改造にトライしてみたら、ゴルフ肘になってしまいました。

[2017年8月] 夏の終わりの晴れ上がり

もっともなような気がします。
ウィーク・グリップだと、左手小指側から腕の付け根まで裏筋の筋肉を使うのですが、
ストロング・グリップにすると、左手親指~中指側から表筋の筋肉を使います。
フェースが開かないようにあらかじめ捻じってグリップすることになるので、捻れた状態でインパクトの衝撃を加え続けた結果、肘を痛めてしまったのだと思います。

こういう時に効くのは、やはり鍼灸です。

業務用のパイオネックスという、自分でも貼れる円皮鍼(えんぴしん、貼ったまま置いておくので置鍼(おきばり)とも呼ばれる)も処方していただく。
(四日~一週間程度貼りっぱなしでもよいそうです。)

(肘のサポーターもいくつか試しましたが、勧められた『ドクター・エルボー』が一番痛みの軽減に効果がありました。)

 円皮鍼は、スケートの羽生結弦選手や、横綱の白鵬関も使っているようです。

 

シルバーウィークに予定していた、赤城への泊まりのゴルフも断念し、
慢性化させないように、じっくり約1ヵ月間を治療期間に充てました。

さらに、タルセバの副作用の爪囲炎(そういえん)が数年ぶりにやって来たのか、
左足親指にも痛みが。。

( ↓ )  テーピングと併せて、大山式ボディメイクパッドというのを足指に装着して、1ヶ月ぶりのラウンドに臨みます。

夏場から、冴えない天気の日が多かったのですが、祝福の秋晴れに恵まれる。

前回は、肘の痛みで途中から右手だけで打ったり、スコアもつけられないような按配だったので、
今回は、まずは18ホールをちゃんと完走すること、
痛みが酷くならないように、無理のない機能的なスイングで力みなくラウンドすることが目標。

グリップは元のウィーク・グリップというか、
松山英樹選手もそうだというスクエア・グリップにして、肘に負担のないニュートラルで効率的な動きに専念。

これまで、アドレスの都度、こんなに丁寧にグリップしたことはありませんでした。

左手親指を伸ばしたロングサムにして、フェース面をスクエアにします。

左手首を縦にコックすることで、インパクトの時に必ずトゥダウンを生じさせる遠心力を反力のようにも使えます。

 

アレクサンダー・テクニークという、演劇や音楽家向けとして有名なメソッドがあります。
身心の負担を軽減する「余計な力を抜く技術」であり、関節痛や身心のパフォーマンス向上にも効果的だというので、
自分なりに工夫しながら採り入れてみることにしました。

( ↓ )  私はかかと体重に過ぎる傾向がありましたが、
     やや前傾姿勢をとって、少し太腿の前側に体重をかけたほうが骨盤が立ってくるとのこと。
     スパインアングルを維持する緊張感も生まれるし、
     背中側の大きな筋肉とのカウンターバランスがとれるようにも思えます。

「体軸の骨を突っ張り棒のようにする」と、有利な姿勢になるのは、
上からの重力と下からの反力を、両端からの内向きの力として、体軸の骨を安定させ、
無駄なく、効果的にパワーを生み出すことができるから。

音楽とゴルフを繋ぐ試みにも思えたが、まさしくゴルフ・ライクである。
    

 

肘痛から学んだことは望外に大きかったと思います。

痛みが出ないように、丁寧にグリップして、
負担をかけない、スクエアで、機能的な動きを終始心がけていたら、
1ヶ月ぶりのラウンドでしたが、80台でラウンドできました。
(ドライバーをエピック・スターにした7月30日のラウンド以来、故障を挟んではいるものの、80台をコンスタントに出せる感じが出てきた。)

スコア以上に、確りしたゴルフが出来る手応えを感じましたし、、
パッティングまでつれて良くなる。

 

帰宅してからは、しっかりアイシング。 (矛盾するようですが、冷やして炎症を鎮めた後は、お風呂で温めて血の巡りを良くして、老廃物を流してやるとよい。但し、患部を手揉みするのはだめ。)

丁寧に労わりながら、ゴルフをすればいいのだ。

がさつさを逃れた、体の使い方。

[HD] Queen - Play The Game DTS 5.1 Remix

 

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