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ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

暗から明へのシンフォニー ~ 佐村河内守&チャイコフスキー

2013年04月14日 | お気に入り♪(クラシック)

これは私見かもしれないが、何時の間にか、身の周りからベートーベン的なものが少なくなっているような気がする。
苦悩を克服した先にある歓喜、のような物語性を持ったものは、重厚長大に過ぎて、コマーシャルになかなか乗らないのかもしれない。
私が子供だった1970年代には、ベートーベン的なものがもっと尊重され、巷に溢れていたような気がする。 
スマートでないものを抱えたまんまの、めんどくさい人がもっと多かったような気がする。

大河ドラマ「八重の桜」の音楽を手がけているのは坂本龍一氏。
ドラマの要所々々で、チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレ辺りを意識したのではないか、というような美メロが登場する。
(八重の桜 ~ 2013年の磔刑(たっけい))

( ↓ ) 
お茶の間に迎合しないという面において前衛的であり、意欲作であったがために、低視聴率に終わった前作の平清盛の音楽を手がけていた吉松隆氏のコメントが興味深い。
現代音楽というフォーマットではなく、心を打つ音楽として構成してくれたということに、″はじめて同時代の作曲家として嫉妬を感じた″。

この佐村河内守という方のドキュメンタリーをTVでやっていたのですが、 まるでベートーベンのようです。

聴覚を失うという音楽家にとって絶望的なほどの苦悩のクオリアの中にあってさえ、
" 僅か1%の晴れ間を押し広げ、99%だった曇天の世界を晴れ渡った美しいアルファの世界に変えていく " 、

そのような志向を持ったものに、共感を抱くようになった。 がん患いが私に与えてくれた恵みなのかもしれない。
4分過ぎから登場する豊穣な響き、魂を揺さぶる音楽。   

交響曲第1番《HIROSHIMA》 / 佐村河内守

これもまた、「暗から明へのシンフォニー」。
チャイコフスキーの交響曲といえば「悲愴」の名前ばかりを聞くような気がしますが、5番シンフォニーの第2楽章にはチャイコフスキーのキャリアのなかでも特筆すべき美メロが2つも登場するといいます。あれほどのメロディメイカーはなかなかにいないくらいなのに。

チャイコフスキー:交響曲第5番 第2楽章/Tchaikovsky:Symphony No.5
 

ホルンがなぞる、ほの暗いトーン、
愛でているのはメロディというより、そこに立ち上がる空気そのもののような気がします。

私は肺患いの身となってしまいましたが、呼吸や身体のトーンを、慈しんでは撫で上げるようなのをクリップ。
たとえ、ほの暗かろうと美しい。

 

FBで知ったのだが、西洋音楽の歴史を一気に俯瞰できるような動画がありました。
ポールも敬愛するMonteverdi(モンテヴェルディ)、顧みられることは殆ど無いように思えるが、この動画の中では、バッハ以前の時代に確りした立ち位置に居たように思える。
(モンテヴェルディについて: 一番先に浮かんだ言葉は使わないこと。)

5万年におよぶ音楽の歴史を7分で見渡せる動画
 

音楽は勉強するようなものではないようにも思えるが、新しいアプローチや視点を与える助けとしては面白かったりする。

十二音階の狭間に在る音

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一番先に浮かんだ言葉は使わないこと。

2012年10月28日 | お気に入り♪(クラシック)

一番先に浮かんだ言葉は使わないこと。たぶん、それは「自分の癖」だから、いつも同じ事を言っていることになる(大村はま)

他にも国語の教師としての実地体験に基づくような珠玉の言葉がたくさんあるのですが(「大村はま 優劣のかなたに」 )、

話し言葉に限らず、書き言葉でも、自分の使う語法というのは、どうしても癖のようなものがついて回るのではないかと思えて、ふむふむと頷いてしまいます。
" 感動した "って言葉を多用するな、とか言われることがありますが、よく似たことを言ってるのかもしれない。
" 感動した "と言わずに、どうやって、感動を伝えることができるか、そこに工夫が生まれるようなこと。

そんなに技や語彙のバリエーションを持ち合わせているわけではないので、自ずとカベや限界のようなものはあると思うのですが、そこを押し拡げることは大切なことなのかもしれない、と思ったり。
(昨日の「秋桜」は、巧拙は置いといて、そのような試みみたいな感じ。コスモスを見て、写真に撮って、オー!ビューティフル!! で済ませないようにしよう、みたいな。)

( ↓ ) 私の場合、ここから抜け出すことは非常にむずかしいのですが、バッハをよく聴いたと語るポールも一番好きなのがMonteverdiだ、って言ってます。シンプルなコードなんかが60年代初期のビートルズみたいだからって。
嗜好はなかなか変わらないけど、視点を少し変えてみよう、というマインドは大事だと思う。

Paul McCartney talking about classical music and composing

モンテヴェルディ、知りませんでした。

もののけ姫の米良美一さんと同じくカウンターテナーの美声の持ち主、Jarousskyが歌うこの曲、クラシックというジャンル分けは適切でないように思える。
管の音色とか、どことなく夕焼け酒場風だけど、エンディングでは上質な酒の酔いみたいな後味になる。

IdS (14) - Monteverdi: Ohime・ ch'io cado - Jaroussky (Pluhar)

 

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巨大イシナギと、冬の木枯らしに似つかわしいブルッフを。

2012年01月22日 | お気に入り♪(クラシック)

開高 健さんがアラスカ ベーリング海でオヒョウ(巨大カレイ)を釣りあげてその場で食す、の図が思わず頭に浮かんだ。
父の日に思い出した方々
淡白で大味なイメージを想像していたが、歯ごたえがあって、ほのかな甘みの上品な味の魚だった。

面白いことが書いてあった。
" 団塊の世代 "、" 新人類 "、" バブル世代 " うんぬんと世代を括ってタグ付けするのがいけないと。

年金問題をはじめ、世代間格差はたしかに存在するが、悪意のひとなどそうはいないのだ。
みんな それぞれにリッパだし、同時に、ヘボくてみっともない、というのが ほんとうのところなのだと思う。

非難することは本当に恐ろしいことだ )← 人さまの記事だが印象的だった。
ジェラシーの存在に気づくこと

崇高な音楽のようにタグ付けされがちなクラシックだって、感情を突き動かす劇化作用をもった音楽だ。
ひたすらにキレイなばかりではなく、憑依に取りつかれたような激情ぶりに魅せられることが多くて、
このブログでもそのような、狂気との狭間のようなやつを見つけては採り上げる。
決して博物館的な置物ではなく、ナマモノとしての音楽。

世代を超えて同じ地平に立つ、指揮者と演奏家の魂の交歓。
(6:10過ぎなんて、そこだ! ジャイーヌ! もっといけ! って声が聞こえてくるようであっぱれだ。)
寒さの厳しい冬に似つかわしいブルッフ。

Janine Jansen-Max Bruch,violin concerto

 好きな第3楽章では一気に春めいて終わる。

一見すると動きに乏しいようでも、地面の下や木々の幹の中では春に備えて変化が起き始めているという。
1月にカエデの木を折ると、すでに春に備えて水を吸い上げ始めているために、樹液がにじんでくるそうだ。
晩冬は静から動へ、1年のうちでもっともダイナミックに変化が起きる季節なんだとか。

この時季は、コニファーの紫がよい。
気温によって、その日その日で、色の感じが違うように思える。
(左はブルーチップ。銀青色から冬には渋い紫に色を変える。 右は雨露の残るブルー・カーペット。)

 

ブルッフは意外なほどに数の少ないイギリスの作曲家。
ロンドン・オリンピックのある今年、春へ向けて根はそろそろ動き始めているはずだ。

ポールが、キャリア初のヴォーカルに専念したアルバムを出すようで待ち遠しい。
よしといたほうがいい、と言われて、しばらく封印していたが、これは歌いまくってしまいそうで、こまったものだ。(・。・)
ポール・マッカートニーが5年振りの新作『キス・オン・ザ・ボトム』を2月8日にリリースすることを発表。

 

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あわい ~ エルガーの弦楽セレナーデ

2011年10月09日 | お気に入り♪(クラシック)

「翻訳=写経」論。(グレートギャッツビーとサン・フェリー・アン)(小さな竜巻(Warterspout)

クラシック音楽は、これに似たようなところがあると思う。
作曲家の「テクスト」に敬意を表しながら、その高みににじり寄っていこう、とする営みがクラシックの演奏、という行為のような気がする。
必ずしも敬虔で神聖なものでなくともよい。
むしろ、教科書的で偶像崇拝的な解釈よりは、一種の狂気や憑依を感じるようなパフォーマンスに惹かれる。

「あ、これは翻訳者が実際に自分の体液みたいなものを注ぎこんでいる訳文だな」、
この感覚に相通じるものがあるように思う。
厳然と存在するテキストに、このような生々しさを与える行為。

音の群れが、世界の「あわい」を行き来するような第1楽章(3分過ぎまで)、
静かなメロディに生めかしい生気のようなものが注ぎ込まれゆくよな感じ(7分過ぎから)、
こういうのを弦楽セレナーデっていうのか、と思わせる、深く揺らぎながら響く9分過ぎからの最終となる第3楽章。

ジャイーヌ・ヤンセンのエルガーの弦楽セレナーデ、秋から冬へと向かう季節のあわいに似つかわしい。
はらはらと散る落ち葉の不安感のような佇まいを見せる音の饗宴。
Janine Jansen & Friends - Serenade for strings in E minor, opus 20 [ E. Elgar ]

クラシック音楽とは決してエスタブリッシュメントな敷居の高いようなものではないと思う。(Eleanor Rigby
人を遠ざけるばかりのようで、かえって、もったいない。どうして、そんなことにしてしまうのか。
そんなツンと澄ましたものではない。

村上春樹氏が小説について語ったくだりなのだが、諸事にあてはまるような気がする。

~ 人間の知性の質っていうのはそんな簡単に落ちないですよ。
  ただ、時代時代によって方向が分散するだけなんです。
  この時代の人はみんなばかだったけど、この時代の人はみんな賢かったとか、そんなことはあるわけがないんだもん。 

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング
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Elgar. Nimrod.

2011年09月11日 | お気に入り♪(クラシック)

ダイナミックではないが、この曲は今日の日に似つかわしい。

イギリスの作曲家エルガーのエニグマ(ギリシア語で「謎」の意味)から9番目の曲、ニムロッド。

それぞれの曲にはエルガーの友人の愛称や呼び名がつけられたという。

ニムロッドと一緒にベートーベンについて語った夜の思い出に捧げられたそうだ。

空気中に漂う目にみえないエーテルのような波動のような存在を感じずにはいられない。

音楽には、そのような霊性的で粒だった目に見えない存在の波動と、瞬間々々に共鳴しながら、
粒粒を汲みあげては顕現させる力があるように思える。

ニムロッドと呼ばれた人の意識は粒となってきっと今も存在する。(石や木や水と私たちの関係について

Elgar. Nimrod.

3.11から6カ月を経た9.11。これは前日、運動会の日に中学校の校庭から見上げた空です。

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弦のコラージュ、そして「倍音」の魅力

2011年08月23日 | お気に入り♪(クラシック)

弦楽器のみだが、メインのメロディーだけでなく、不協和音のような別のフィーリングが後方で渦巻いている感じがよい。

Paul McCartney - Love in the open air (strings only)

ガブリエルのオーボエ」、
なんと深いところに届いては響いてくる音楽なんだろう、
ヨーヨーマの演奏でこの曲を聴いた時に、そう感じました。
静かな曲なのだが、最高にエモーショナルだ。

裏磐梯で、また聴きたくて持っていこうと思ってたら、Chiki Serrano という方の演奏におもわず耳がとまりました。
ソロ演奏と共に、その後方、あたかも幽玄の彼方から、横溢してくるような響きのなんと豊潤なことか。
歓びも哀しみも、様々な感情が織り込まれたかのように、
幾層にも重なって聴こえてくる音のタペストリーから、
時々せきを切ったように流れ出ては音の形を与えられる感情の粒の群れ。

Gabriel's Oboe-Ennio Morricone-Chiki Serrano cello-Musica y Ceremonias

(生まれて初めてYouTubeにコメントを書いたが、感激のあまり、fineをfoneとスペルミスした。)

深い森と湖のなかに顕現する光と影。
この映像をみると、裏磐梯でなぜこの曲が聴きたくなるのかイメージが重なり合う。
The mission / Nella Fantasia instrumental flute

スイスにも1ヶ月ほど滞在していたことのある家内は笑うが、
映像の途中に出てくるマッターホルン、どことなく裏磐梯側の眺めに似ている、と思う。

今年2011年1月に神戸女学院を定年退職されたフランス思想家であり、武道家でもある内田樹先生の
最終講義六講を収録した本。
内田先生の本には、これまでも非常に影響を受けたのだが、この最終講義のなかに
「倍音」というものについて宗教的、音楽的立場から見解を述べられた箇所があります。

最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)
内田 樹
技術評論社

荘子の言う「天籟(てんらい)」、「天の奏でる音」、
これは聴く者ひとりひとりによって違う音として聞き届けられ、
そこに何を聴き取るかは、その人の霊性的成熟度に深く関わってくる、といいます。

天から自分に向かってまっすぐに降り注いでくる、
その人が最も聞きたいと思っている当の音、それが「倍音」。
ひとりひとりの霊的成熟度に合わせて、聞こえる音が変化し、
おそらくその段階において最も相応しい音、自分が聞きたいと思っている当の音が聞こえてくる。
音楽の魅力は倍音の喜びだという言葉があるくらい。

仏教の読経の声明も、
「う」「お」「あ」「え」「い」の五音と「ん」というハミング音の六音を順に繰り返し、
円座を描いて、皆で声を出し、四、五十人もいるときれいな倍音が出るといいます。
注意して聴いていないと、自分が何の音を聴いているのかわからなくなるため、
この倍音声明は瞑想法にも使われる。
倍音声明で自分に聞こえる音は、ひとりひとり違うと言います。
日本に限った話ではなく、イタリアなどでは、あの「グレゴリオ聖歌」もまた「倍音」。

(以前撮ってきた天台声明 → 京都大原での神秘の夜 

さすが、内田 樹先生だ。
私が、その時々に応じて聴きたくなるのは、きっと、この「倍音」を欲しているせいなのだと気づかせてくれた。
「倍音」を求めるこころ、それは、音楽に限ったものでもないと思う。

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こうでありたいひと ~ ケイト ロイヤル

2011年07月02日 | お気に入り♪(クラシック)

Standing Stoneの石の佇まいとは、また趣きの異なる美しき佇まい。

季節性の風邪のようなものなのか。
同じような時季に、またケイト ロイヤルに会いたくなった。 ( Ecce Cor Meum/MccartneyとKate Royal

しなやかに逞しく、美しく。ケイト ロイヤルふたたび。

Ecce Cor Meum -Paul McCartney & Kate Royal

本番ライブとは違った、普段着での録音の様子。何ものかを追い求める、真摯な雰囲気。

手元の、足元の、葉っぱや水たまりに映る光に宿る真理

こうでありたい。そこに、あまり性別は関係ない。

Paul McCartney Kate Royal Ecce C

 

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抑えめな気持ち、上ずらない気持ち ~ アヴェ・ヴェルム・コルプスとセレブレイション

2011年07月02日 | お気に入り♪(クラシック)

フォーレ/ラシーヌ讃歌の音の行間に漂うような、調べを聴きたくなった。

モーツァルトの「Ave verum corpus(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」、
モーツァルト晩年の傑作とされるこの曲にも同じようなものを感じる。

派手さはないが、聴き取ろうとすると聴こえてくる たえなる調べ。

フランス的クラシック生活 (PHP新書)
ルネ・マルタン
PHP研究所

筆者はこう言う。

たった四六小節の小さな曲だ。しかし、こんなにも静謐で、胸を震わせるように美しい音楽を、ぼくはほかに知らない。
病気がちだった妻コンスタンツェを世話してくれた合唱指揮者に贈るため、モーツァルトが心をこめてつくった曲。
そこには、かぎりないやさしさと赦しがあります。
このような飾り気のない曲に潜むたえなる調べこそ、
苦しみを通り越して、何にも感じないくらい打ちひしがれたときにでも、音楽があなたを救い上げてくれる。

Mozart Ave Verum Corpus por Leonard Bernstein

ポールが癌に侵されたリンダ マッカートニーの晩年に作曲した交響詩 standing stone。
マッカートニー風の豊かなメロディをあえて抑え目にしながら、
平穏な佇まいを大切にしようとしているようにも感じられる。
Standing Stone ~ 長い風雨を経て、そこに立っている石、その有り様に尊厳を込める。

そのような音楽の表現、感情の表現に、共通するものを感じた。

単に退屈なものとして片づけてしまうのか、
そこまで筆者に言わしめる、取りに行かないと決して味わうことのできない気持ちの有り様があるのか。

Paul McCartney Celebration


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シューマッハの仏教経済学

2011年02月27日 | お気に入り♪(クラシック)

 シューマッハーを続けよう。

現代経済学に対して「仏教経済学」というと、なんだそれ?って向きもあろうと思うが
仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、
「変わり者のどこが悪いのだろうか。
 変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。
 私はその小さな革命家だ。それは褒め言葉なのだ」とシューマッハは応じたそうだ。

なんで今さら70年代の本なのだ、と思われるかもしれないが、
前文にあるように、シューマッハのような人間を、
彼らが生きた時代状況に固定してしまうのはどうかと思う。

彼らのような人間は、新たな現象が起これば、新たな解決法を発見して、
「この瞬間に生きる」術を実践し、他人にもそうするよう励ましただろう。

シューマッハーは、自分に合った持続可能な「中道」を発見するようにすすめた。
未来を資本やエネルギー多消費型の技術にあずけるのではなく、
民衆の力と自分自身の精神と肉体の創造力に頼るよう呼びかけた。
このメッセージは今日依然としてもっとも幅を利かせている経済政策への挑戦だ。

『 持続可能性 』という考え方は大切だと思った。
シューマッハは、市場型の消費社会の未来と価値に疑問を投げかける。
少なくとも、日本経済は右肩上がりの経済成長から過渡期に入っていると思われるし、
日本の大手企業が将来の海外分野(もちろん中国やインド、といった新興国でのビジネスを指すのであろう)に向けた採用を増やすとのニュースも伝わってくる。
子を持つ親としては気がかりなこと。
私が東京、関東で住まうことなど考えもしていなかったように、
自分の子供たちが就職する頃にはアジア圏が赴任地というのが当たり前になっているかもしれない。

現代経済は、永続的な財産を徹底して過小評価しているとシューマッハは指摘する。
同時に、束の間の財が、まるで永遠の用に供し、いつまでも続くものであるかのように洗練され、贅沢に製造されてもいる。

生産の量と一人当たりの所得が同じ2つの社会があるとする。
1つの社会は「束の間の財」が豊富にあるが、「永遠の財」は乏しく、
不潔で醜悪な不健康な環境の中で、飲み、喰い、娯楽にふける。
もう1つの社会は、「束の間の財」は質素だが、「永遠の財」に恵まれており、
豊かな雰囲気の中で、少量で簡素な消費が行なわれる。
2つとも単に量的な接近法では経済的には同様な社会であり、どちらがよいか、という問いは出ない。

経済計算がところかまわず行なわれているが、実際のところはこんなものなのか、である。
シューマッハの推測では(たぶん誰もが同じような感想を持つと思うが)、
産業革命以前の社会の多くは、「永遠の財」(すぐに使い切られるモノではなく、長きにわたって役立つことが想定されているもの―文化的財産や設備、教育)に重点を置くことで素晴らしい文化を創造することができた。
現代世界の文化遺産の多くはこうした社会に由来している。

ローマのように大都市が成長の限界までいった例が歴史上数多くあったが、
成長をおしとどめたものは食料の供給。
巨大化した都市は周囲に食料の供給を頼って生きており、距離が遠くなりすぎて輸送が対応できなくなり、それがボトルネックとなった。
近代社会は19世紀になって石炭、石油を開発して、この壁を突破したが、
稠密度の高い生活形態は燃料の多消費によってしか維持できなくなってしまった。
そして今や世界の豊かな社会が追求しているのは、経済代謝を高めてGDPを増やすことである。
燃料不足や物資不足で一層の成長ができなくなったり、経済活動を一とすほかなくなったら、
貧窮が待っていると恐れられている。

しかし、すべてこれらは経済代謝率を生活水準と同等とする混乱した考えに起因する。
生活水準は本当に、財やサービスを壊したり使い尽くす率によって決まるようなものなのだろうか。

そもそも、工業社会にとって理想的な構造が、
当たり前のことだがさまざまな場面で理想的な構造であるわけがない。

しかし、人を管理するより機械を管理する方が常に楽であるから、
経済計算は常に小規模よりは大規模なプロジェクトを優先し、規模の経済を重視する。
組織は肥大化し、手に負えなくなった「不経済」なものは、感傷や現実感覚の乏しさとして排除され、個人は数に還元される。

そのようなシステムが人類の到達点であろうはずがない。

シューマッハが提唱するのは「適正規模」、「中道」である。
「中道」は物的なものも、富も敵視しない。それに執着することを諌める。
大規模なものが全て悪いというわけではなく、大規模が悪魔の仕業とされるならば、反対意見を推してバランスをとらなければならないとも言っている。
量的な扱い方は一定の力を持っており、それは誤りではないが、異質で大事なこととのバランスをとることが前提条件だと言っているのだ。 

スモール イズ ビューティフル再論 (講談社学術文庫)
F・エルンスト・シューマッハー
講談社

ブラームスのような風貌の方である。
ベートーベンの10番シンフォニーとも称されたブラームスの1番シンフォニー。
たしかにベートーベンの9番、歓喜の歌の続編のような第4楽章。
Brahms Symphony No1-4mov(5/5) Bernard Haitink-S.K.Dresden

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グレート・マダムの弾くバッハ。

2010年10月17日 | お気に入り♪(クラシック)
バッハのバイオリン・ソナタ2番のアンダンテ。
バッハのバイオリン曲はPreludeをはじめ、深くて豊潤、コクがある。

~ Great Madame Ida Haendel !!!

宮崎駿のアニメに出てきそうなおばあさん、かと思いきや、
痛みを感じやすい心のひだに届いて来て、寄り添ってくるような音色。

私にとっては、バイオリンのフジコ ヘミングに出会ったような感じ。
これ、2009年9月の映像です、歴史じゃない、、。

J.S. BACH A MINOR SONATA Andante IDA HAENDEL VIOLIN
 

2009年9月ってラベルを貼らなかったら、時間なんてあんまり関係なくなる。
時間は見方によっては、C系列、配列として只在る、ものにもなる。
時間や世代を跨いで、自分が寄り添う気になれば、生き生きとしたものになって感じられる。
坂本龍馬だって、そう。
我々人間の系、マクロの世界で時間は流れていくが、
それは人間の勝手な認識であって、本当に真理なのかは分らない。

もっと若い頃のマダムを見てみたい、惚れてしまうかもしれぬ。

( ↑ エラそうなこと書きながら時間に囚われている。だって私は
ボケナスですからなぁ。)

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ラフマニノフ  ピアノ協奏曲第2番からラスト

2010年09月23日 | お気に入り♪(クラシック)
こういう雨の日によく合うのは、実はピアノ コンチェルト。

以前にもlang langが弾くチャイコフスキーのピアノ コンチェルト1番の冒頭を採り上げましたが、
本日は再びのラフマニノフ、しかも前とおんなじ、ピアノ協奏曲第2番のラスト。
(他の楽章もいいのですが。)

気に入った演奏をクリップしておいたのですが、
YouTubeの音像は後で見ると、削除されていたりして悲しい思いを味わうことがあります。

いいのをまた発見したので、再投稿。

一見、ここは体育館か~、みたいに思いましたが、
ギルバート オサリバンみたいなGeorgi Cherkinっていうピアニスト、冴えてます。
録音が良くて、オケはクリアにふくよかに鳴り響き、タメのきいたダイナミックなピアノの音が空間に弾けます。
エンディングにかけて、椅子から跳びはねてますが、つられて跳びはねてしまうくらいの快演。
甘美な雨よ、どうぞどうぞ、
ぴっちぴっちチャップチャップらんらんらん、って気になるでしょ。

Rachmaninoff Concerto N. 2 - III. Allegro scherzando (2/2)

<初稿 2009/2/9>
フィギュアスケートなんかで、すっかりポピュラーになったラフマニノフのピアノコンチェルトNo2。
若い頃のアシュケナージ盤のCDを持ってて、ピアノはダイナミックだし好きなのですが、
もっとオケや録音がクリアな演奏がないか、といつも探してるようなところがある曲。

こんな人気曲なのに、お気に入りの演奏に出会うのって なかなか無いです。

ところが、これはクリアでエモーショナルな素晴らしい演奏。
イコライザーで音圧を上げてもっと響かせたくなるような気になります。
2009年の演奏ですが、YouTubeのコメントも、

  これはすごい!!!
  聞き惚れるね

  途中から泣いて涙と鼻水まみれになった
  素晴らしい

  他のラフマニノフも聴きましたが、
  ピアノ奏者でここまで変わるのですね。
  レイフ・オヴェ・アンスネス氏、ブラボー!

と大絶賛。

この曲、おどろおどろしく始まる1楽章から好きなのですが、
3楽章の後半、ラストの部分をクリップしました。
エンディングでぐっと盛り上がって、なおかつオケが混然とならずにクリアに響いてフィナーレ。
こんなの、はじめて。

指揮 : ジャナンドレア・ノセダ 
ピアノ : レイフ・オヴェ・アンスネス

N響アワー ラフマニノフ  ピアノ協奏曲第2番 第3楽章 2/2


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村治佳織さんのアランフェス協奏曲

2010年09月21日 | お気に入り♪(クラシック)
以前に艶っぽいのを取り上げましたが、村治佳織さんの演奏にはいいのがいくつかあります。
Sixty Singersと共演したボロディンのPolovtsian Dances (ダッタン人の踊り)なんかは、
神さまの声を感じると言っていいくらいのフェイバリット。
ギターは独奏よりもオケやコーラスと共演した方が良さが引き立つように思います。

これは有名なロドリーゴ作曲、アランフェス協奏曲。
(なぜかタルレガ作曲の「アルハンブラの思い出」と混同しがち。。)

ギターのためのムード音楽みたいに思ってたのですが、
この演奏には深いものを感じました。オケもまるで大河ドラマの如く朗々と鳴って、
ギターのメロディばかりが前面に出てくる演奏とは一線を画しているように思えます。

Kaori Muraji - 村治佳織 - Concierto de Aranjuez

(↓) 音圧がやや低いがゆえに、ギターとオケの上品で繊細な音の絡まりをついつい耳で追いかけてしまうバージョン。
    ドラマチックさでは先の演奏ですが、甲乙つけがたい。

Kaori Muraji - Concerto De Aranjuez Adagio

演奏によって、曲のイメージというのはほんとに変わる。

(↓)マイク オールドフィールドがプロデュースしているMoonlight Shadow。
  彼は、アルハンブラの思い出をアレンジして、映画キリングフィールドに使っていました。

Mike Oldfield- moonlight shadow (with lyrics)
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モーツァルト交響曲 No. 40 ~ 悲しみのシンフォニー

2010年09月08日 | お気に入り♪(クラシック)
シューベルトはこの曲を聴いて、
"神の声が聴こえる"と言って涙した、といいます。

モーツァルトの曲の中で、最も好きな第40番シンフォニー。
よくある端正なモーツァルトとは趣きが異なっていて、
深い悲しみを内包しながらも、ある種の優しさを感じさせてくれる曲です。

人間に必要な3つの幸福で書いた、ぎりぎりのつらさ、があったとしても、
何とか持ちこたえる勇気が見えてくるような曲。

有名な冒頭のメロディーが2回目に少し形を変えて出てくるところを聴くと、
シューベルトの気持ちが分かるような気がしてきます。

 シューベルトの「楽に寄す」は、このブログのテーマ曲にしたいくらいのお気に入りの一曲。

Mozart: Symphony No. 40 / Pinnock Berliner Philharmoniker


<初稿 2009/8/20>

<第2稿 2010/9/8>


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ベートーベンに聴く / バイオリン協奏曲

2010年05月30日 | お気に入り♪(クラシック)
大河の一滴になったかのような感覚になる曲。

ダレンボイム指揮のアイザック スターンによるバイオリン演奏盤のLPを
中学生の頃、父の友人から頂いて愛聴していました。
(CDフォーマットが主流になってから買い直したほど。)

冒頭2分過ぎには現れる主題のメロディが通奏テーマのように繰り返し現れて、
徐々に、静かに、大きなうねりのように高まっていく第1楽章が殊のほか素晴らしいと思います。
(長いので、途中までですが…。)
(↓)バイオリン演奏はパールマン。指揮は同じ、さらに円熟みを増した後年のダニエル・バレンボイム。


I.Perlman - Beethoven Violin Concerto, 1st mov (1)


のだめカンタービレのおかげで、運命や合唱だけでなく、7番シンフォニー辺りもポピュラーになりましたが、
ベートーベンのバイオリン協奏曲もそれほど日本で知名度が高いようには思えないのが不思議。
こんなにロマン溢れる親しみやすい曲なのに。
それにしても、中学生にこんなシブいチョイスのLPをわざわざ選んでくれた審美眼の高さも不思議と言えば不思議。
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エレーヌ グリモー~ 憑依のピアニスト

2010年05月08日 | お気に入り♪(クラシック)
アットホームのお手本で初めて目にしたHelene Grimaud、
気になって映像を探してみました。

(↓)女性版グレングールドとでも、言ったらいいのでしょうか。

清楚な雰囲気の女性ピアニストながら、グレングールドのように歌い、呻きながらピアノで音を探している感じ。

音楽の世界に没入し、魂を委ねるかのような集中力を感じます。
クラシックならではの、ある種の憑依に導かれていくような、情熱と狂気の間。


音の世界と一体化しようとする姿勢、
そして、インスピレーションを研ぎ澄ましたような視線、
そこにある空気感、
惹きつけるものがあります。

Helene Grimaud masterclass


(↓)日本語版の映像を見つけました。
   そこにあった枠組みの中では、収まりきらない才能と情動。   

Helene GRIMAUD on Japanese TV



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