ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

僕は誉める 君の知らぬ君について

2018年10月13日 | 読書ノート

生活には関係ないから、ちゃんと見ずに伏せておく、みたいなことはありませんか。”
朝のTVでそんな語りと共にこの曲が紹介されていた。
中島みゆきさんの書く詞には、ちゃんと見ずに伏せていることに気づかせるチカラがあるように感じます。
( 石や木や水と私たちの関係について )

近ごろ鼻唄アプリでまた曲を作り始めたが、曲が浮かぶことはあっても、こんな風な歌詞は書けない。

あのささやかな人生を良くは言わぬ人もあるだろう
あのささやかな人生を無駄となじる人もあるだろう
でも僕は誉める 君の知らぬ君について いくつでも

あのささやかな人生はもしかしたら僕に似ている
あのささやかな人生はもしかしたら君だったのか
通り過ぎる街の中で そんな人を見かけないか

【中島みゆき】瞬きもせず
feat.鏡音レンV4X【だんぴーるRemix】

 

( ↓ ) こちらは以前作ったマトリョーシカっていう、曲というか短いフレーズ。
( 「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観る、脱力を極める。 )
上のマイアルバムに入っているのも、曲というよりは、その時々に思いついた短いフレーズの断片ばかり。
そんな断片でもストックしておくと、いつかちゃんとした曲のモチーフ位にはなるかもしれない。
でも、別にそういう目的でやっているわけでもない。


(「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観る、脱力を極める。)

( ↓ ) あまりよくは知らないのだが、ボカロや初音ミクは2007年に始まって10年以上になる。
  VR(Virtual Reality)やAR(Augumented Reality)の世界が悪いというわけでもない。 
  狭い世界だけに生きるよりは。

こういう世界の拡がり方もあるのか。⇒ おじさんの心に芽生えた「美少女」 VRがもたらす、もう一つの未来

「男という外見が束縛してきたもの」から解放され、
「今、おじさんたちが続々と「美少女」へと変わり、
「美少女の心」を感じるまでになっている、らしい。

アバターに心を移植する時代はもうすぐそこまで来ているのかもしれない。
(フューチャー・オブ・マインド (神様到来の前夜あたり))

【解説付き】時代を創ったボカロ曲サビメドレー



スマホがそうであったように、
優れたハードウェアが現れればそれはOculus Riftなのだろうか)、
VRは一気に普及するに違いない。
VR(仮想現実)というよりはAR(拡張現実)のテクノロジーであったグーグル・グラスが流行らなかったのは、
常に映像と音声を記録し続けられるという不気味な機能に人々がうんざりしたせいだと言われているが、
VRは人類史上、最も心理的に強い効果を持つメディアであり、
これまでにない強い力で、我々は仮想現実の世界に引き込まれることになるという。
VR以外の電子メディアは、我々が現実を味わう時に頼っている「全感覚」のほんの一部を再現しているに過ぎないが、
VRというメディアが我々をその中に包み込んでしまうようになると、
我々の脳はデジタル信号を現実だと錯覚し始めるというのだ。
一方で、AIが労働市場を奪うかのように喧伝されているが、
VRは、交渉力やスピーチ、楽器やスポーツに至るまで、経験と学びを必要とするスキルの獲得に役立つという。
”メディア経験は日々の食生活と同じだ。人は自分が食べたもので出来ている。”

スキルだけではない。
相手の立場に立って「視点交換」を行なえる余裕のある人が減ってしまった現代社会では、
ニュースは情報であって、慣れっこになった情報は感覚を伴わないが、
他人の視点に立って同じ感覚を味わうVR経験は、共感する力をも増強する。

( ↓ )  先日意識を失って初めて救急車搬送されたこともあって、意識の在り方に関心が向かう。
  ( LIPAとリバプール大聖堂と夏の終わり


  

話は本稿冒頭部分に戻る。

作曲家や物書きは、毎回新しいテーマを見つけては、
たいがい自分にとって新しいもののように感じているが、
それは忘却のなせる業であって、異なる想像力による記憶の再構築なのだ。

記憶は延々と構築され、再構築される。
記憶には単純で機械的な復元はない。
それは「あらゆる価値の再評価」という大きな転換のためにも、定期的に繰り返される人生の一部なのだ。

ピアノで久しぶりにHey JudeやYesterdayを弾いていると、復元ではなく、再構築に近い感じがする。
手が覚えている感じも残ってはいるが、以前とは違った「視点交換」のような感じがある。

( ↓ ) 経過音途中のC7で左手Cが入るタイミングとか、
  やはり経過音が次小節のF7冒頭の音になっていたりとか、
  前よりも細やかな視点を得ることができている。
  片やイエスタディはちゃんとした弾き歌いができなくなっている。(汗)
  ( [ピアノ弾きおじさんへの道] Yesterdayに寄せて )

ヘイ ジュードはキーを高くキープすると歌に力がなくなるような気がする。
落ち着いたキーでの歌いっぷり、そして終わり方がかっこいい。

 

Beatles - Hey Jude (cover)


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カズオ・イシグロの世界に呼吸を合わせてみる

2017年10月22日 | 読書ノート

私が小説を読むのが不得手なのは、小説のテンポやタイム感にうまく適応できないからだと思う。

いわゆるビジネス書等の類ならさっと内容を掬い取りにいけるのに、
小説、それも長編小説だったりすると、その世界が発する、まったり悠々とした波長のようなものと、呼吸を上手く合わせられないような気がする。

ノーベル賞を取ったカズオ・イシグロを読んでみようと思った。
映画やドラマにもなった「わたしを離さないで」(ラブストーリー的なタイトルであるが、臓器提供という使命を負ったクローン人間をメタファーにした小説)が有名なようだが、
イギリスかぶれするのに丁度いいかもしれない、と読み始めた最新作は、
アーサー王亡き後のブリテン島を舞台にした「忘れられた巨人」。

人々を包む「奇妙な霧」が記憶を片っぱしに奪い取っていく世界。すべてがあいまいで断片的。
悠々として、霧のかかったような薄ぼんやりした空気感に馴染むのにはちょっとしたコツが必要だ。

 

 併せて読んでいる呼吸法の本にヒントを得たのだが、
「息を止めてみる」・「呼吸を減らしてみる」と、「今ここ」に意識を留めやすくなる=他者の呼吸(この場合の小説の波長)を感じるモードへの切り替えが
スムーズになることに気づいた。

カズオ・イシグロをさがして

示唆に富んだドキュメンタリーだと思う。
小説というものは、それ自体だけではなく、物語の背景に迫ることで豊かさを増す。むしろ、そちらの方が魅力的であったりする。
あとがきを読むのが一番愉しみだったりする。

海洋学者であった父がピアノや音楽を好んだこと、
自身がシンガーソングライターになりたくて歌っていたこと、
こんな風な落ち着いた大人でありながら振れ幅のある人は魅力的だ。
1時間過ぎ辺りでは、日本人としてのアイデンティティを望みながら諦めた経緯についても語られる。
マジョリティに属しているとは到底言えず、もはや出自不明なひとみたいになってきたせいなのか、
移民的な感情への処し方みたいな部分にも共感してしまう。
イングリッシュマン・イン・ニューヨークならぬジャパニーズ・イン・イングランド以上のものがある。
(エイリアンだったか)

28分辺りからは、カズオ・イシグロの小説のテーマである「記憶」について語られる。
50分過ぎでは、「記憶を固定しておきたいという強い想い」が小説家になった動機だと語る。
記憶はその人にとってのリアリティであり、現実であるから、人生そのものになる。

しかし記憶は時に変容し、自分自身も騙してしまう。
一方で、
「霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか」
と主人公のアクセルは言う。

記憶や現実と幻想との境い目を、不鮮明な視界と思考をもたらす霧に重ねて物語るところがイギリスを舞台にした小説ならではだ。

ジョージ ハリスンが言っていたことを思い返させるテーマでもある。
(断片のキラメキとはそういうことだったか ~ 断片にある真実と祈りについて)

たとえば、1943年の家族の風景は、ほんとうに現実だったのだろうか。
その時の風景は誰が認識していた現実なのか、その家族以外の誰かが認識していた現実なのか。
その認識は今も生きた視覚として残っているのか、幻想だったんじゃないのか。

現実とは、一定の共通認識のもとにあるもので、そうでないものは幻想かもしれない、
そんな風に考えていくと、多種多様に展開されている世界中の現実はどこまでが現実なのか、よくわからなくなってくる。

現実というのはひとつの観念だ。どんな人にも、その人固有の現実がある。
だがほとんどの場合、だれかにとっての現実なんて、ただの幻想にすぎない。
いつのまにかみんな「この身体こそが自分である」という幻想を持たされてしまっている。
ぼくはジョージではない、本当にジョージではない。
今はたまたまこの身体を借りているだけなのだ。
その身体だって変化を遂げている。
赤ん坊だったり、若者だったり、そのうちに年老いた姿になり、やがては死んでゆく。
でもその奥に何かがある。それこそが唯一の現実なのだ。
誰かが元ビートルたちは現実から切り離されている、と思っていたとしたら、
それはその人の個人的な観念に過ぎない。
誰かが思っているというだけでそれが真実だとは限らない。
そうした観念が集まると、いくつもの層をなした幻想になる。

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「見えると思えば見える」らしい。

2016年06月02日 | 読書ノート

「右手を前に出そうと思えば右手は前に出る」のと同じように、

「見えると思えば見える」のです。

「見える」と強く考える行為は、眠っていた「見える」という記憶を呼び覚まし、見るための身体感覚まで蘇らせる。
脳の命令で手の筋肉は動くのですから、目の筋肉や神経が動くことも当たり前のことなのです。

視力のような感覚器官が脳に伝える情報というものは、脳からすれば多分に受動的なもので、
センサーとしての感覚器官が伝える情報を、脳がどう感じるかという解釈自体をコントロールする発想はあっても、
脳が自ら能動的に感覚器官の感じ方をコントロールするという発想はなかなか浮かんできません。

脳がどう感じるかという話ではなく、
実際に「見える」という感覚的なレベルを脳によってコントロールできる、というのはちょっとした驚きです。

脳を使って、「見える」と強く考えれば、視力は回復する。

(そんな視力回復法はあんまり聞いたことがない。)

 

 身体の賢さとか、潜在意識の大きさとか、意識できない部分にばかり目が行ってたかもしれない。

(眼が人を変える
(大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。
)

ちょっとした頭の働かせ方みたいな意識の部分を疎かにしてはいけないのだ。
身体も賢いが、脳も賢い。もっと頭や意志の力(ウィル・パワー)を使え。

(未来の自分とのつながりを強化していくこと ( one of these days ) )

 

I've Got my Brain!  もっと「頭」を使おう。もっと「脳ミソ」を使おう。

 Nina Simone - Ain't Got No___I've Got Life(日本語字幕入り)

上掲のジーン・D・コーエン氏(ジョージ ワシントン大学 加齢健康人文科学研究センター所長、同大学 健康科学・精神医学部教授)
の著書にあった、「脳の持つ様々な能力についての誤解」についても、併せて抜き書きしておきます。

年をとることについて月並みな否定的見解や思い込みは無数にあります。
これまでの脳研究の多くは、加齢によって生じる「問題」に焦点を当ててきたために、
加齢の否定的側面ばかりが強調されてきました。

脳は加齢に伴う変化を受けないというわけではありません。
複雑な数学の問題を解く速度や、物事に反応するまでの速度、短期的な記憶力といったものは、衰えていきますが、
しかし、こういった否定的要因が、加齢に伴う脳のすべてではありません。ましてや最重要事項ではありません。
加齢に伴う現象と考えられていた知的能力の低下は、ほとんどの場合、加齢それ自体ではなく、
軽い脳卒中や、アルツハイマー病、うつ病など、特定の病気が原因なのです。
健康な年長者の脳は、実は広範囲の作業において、若年者の脳と同等かそれ以上の能力を持っているのです。

脳は私たちの想像以上に、加齢に対して弾力的で、適応性に富み、私たちが考えていた以上の能力があることが分かってきたらしい。
専門的な話は著書に譲るとして、
後半生における人間の可能性について、楽観的になれる四つの能力が発見されているという。

1) 経験や学習に応じて、脳は自ら変化を続ける

2) 新しい神経細胞が、生涯にわたって生成され続ける

3) 感情を司る脳回路は、年齢と共に成熟し、バランスがよくなる

4) 年長者は、若年者よりも脳の多くの場所を同時に使う

脳の持つ機能や可能性を正しく理解すれば、年長者こそが持ち得る「発達性知能」、
― 現実の人生を受けとめる力、より高い次元での自分本位の意識 - を持てる。
(心理学的要因だけではなく、年齢を重ねることによる生理的・化学的要因によって、
そのような「発達性知能」を持ちうることが分かってきている。)

人間は快適さや安全といった基本的なものを求める動機よりも、
精神性や芸術表現など、人間としての発達という「高次」の衝動で個人差が出る。
とにかく創造的なことをしたいという衝動に駆られる人もいれば、誰かのために尽くしたいという人もいますし、
精神世界を見つけたいという思いに駆られる人もいます。
以上三種類の衝動をすべて同程度に抱える人もいるでしょう。

中年期をミッドライフ・クライシス(危機)の時期とみるか、「探求」の時期とみるか、その見方の違いで、
中年期に起こりやすい、価値観の変化、自身や人生への再評価が変わってくる。
そうすると、他人の目が以前ほどには気にならなくなり、新しいことを学んだりすることにもオープンになれる。

「今さら誰かに自分の能力を示す必要もない。いいじゃないか、それがどうした、奴隷解放のようなものさ。」


I want to come homeの歌詞を反証しているみたいだ。(ポールの最新曲 再び ♪)

~ Every day I spent trying to prove  I could make it alone   ( 毎日 なんとか自分の力を証明しようとしていた)

残念ながらこれには収録されないみたい。


でも、渋すぎる選曲を見つけました、「Don't let it bring you down 」

ポールのファンですら、あまり注目することのないナンバーではないかと思う。
地味なアルバムの中の地味な曲で、シングルにもなっていないし、キャッチ―だとも、ポールらしいとも思えないのに
選に漏れた数多くの有名曲を置いといて、こいつを持ってきた、しかもリマスターで。

聴き込むほどに好きな曲でもないのに、なぜか、寄り添ってくるような歌とでもいうのか、
タフだな、辛いな、というような時に、自然と口をついて出てくる曲ってあるでしょ。

Though some things in life are hard to bear 耐えられないくらいに辛いことが いくつかあっても
Don't let it bring you down            そんなことで自分をだめにするなよ
Should the sands of time run out on you   時間が君の前でたとえ尽きてしまいそうに思えても
Don't let it bring you down            そんなことで自分をだめにするなよ   

Paul McCartney & Wings - Don't Let It Bring You Down
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1%の戦略

2014年10月05日 | 読書ノート

何十%も生き方を変える、とか、身につけてしまった考え方やライフスタイルを変える、 というのは難しい。

でも 『1%だけ、変えてみる』。

たとえば、1%は、自分のためではなく誰かのために生きてみる。
生きてみる、というと大げさだが、いつもの習慣にプラスして、1%を加えてみる。
100%捧げることを求めるのは偽善か傲慢のように思えるが、ささやかな1%が変えていく力になる。

1%だけだからといって、「がんばらない」的な生ぬるいメッセージではない。
100%に満足しないで、100%を超えていく、
ゼロ%とはまったく違う、凄みのある数字。有りや無しやでいうと100%有り。

(「がんばらない」ことをメッセージ化したものが身の回りに溢れていますが、すこし苦手。「逃げろ!」とかいう方が面白い。
鎌田氏自身が書いているように、私たちは本来的に利己的に出来ているうえ、資本主義という競争社会に生きているのですから、「がんばらない」というのは方便なのだと思います。
鎌田實氏には14年前に「がんばらない」という著作があるのですが、本書が自身の最高傑作だと自賛されています。)

1%の力
鎌田 實
河出書房新社

1%に重きを置く。
時間的長さや、多い少ないの問題ではない。
信頼を置く場所をどこにするか、という話。

似ている。→  (★★『心は自分ではない』★★)

~さわやかに晴れ渡ったアルファの心の状態であることがたとえ1%であっても、
濁ってぐちょぐちょした曇天なベータの心の状態でいることが99%を占めていようとも、
1%のアルファの方が本来の自分だと捉えてみる。
時間の長さの問題ではない。

99%の曇天のベータを1%のアルファが変えていく。

 毎朝のタルセバの減薬に成功しました。
   当初150mgだったものを治験終了後の6月から100mgに減らし、
   およそ3ヶ月を経た一昨日から50mgへと減薬です。

そんなタイミングで手にしたのがこの本ですから、何かしら自分に向けられたメッセージがあるに違いない。

「あと1%」「まず1%」「1%だけ」「1%なら」「たった1%」云々、、
医師である鎌田氏の数々のエピソードは著書の方で、ここでは1%の不思議を、不遜な心に沁みさせるための抜書を。

ほぼ完成と思った時、「あと1%」何かを加えたら物語が生まれた。
仕事の時でも、100%に満足しないことが大切。
100%を超えていこうとする時に、新しい世界に出会えるのです。

1%には人生を変える力がある。
困難の中にいる時、100%のことをしようとすると身がすくんで動き出せないことがある。
1%なら心と体が動き始められる。

とにかく格好だけでもいいので、1%誰かのために生き出せば、この1%はものすごいパワーを発揮します。
「たった1%」だからこそ、意表をついたり意外性があったりして、そこから次々におもしろいことが起きるのです。
1%って、うまく出来ているような気がします。

利己的な生き物の僕らが、資本主義という競争社会に生きるのだからむずかしいのです。
丸ごと自分のために生きて良い。
その上に1%、誰かのために生きる。
1%でも相手の身になってみると、空気が変わることが分かりました。
イラクの戦場に行き始めた時も、みんなにバカだなぁと言われた。
「1%主義」だと、バカになれた。
全人生をかけるなんて思わず、1%と思うと、飛びやすいのです。

1%だけ事態を好転させてみる。
「1%主義」には持続力がある。
1%だと肩に力が入らないし、応援される方も暑苦しくない。
1%だからこそ、広がっていきやすいのです。
僕はこれを「1%のカラクリ」と言ってきました。「1%の戦略」なのです。

1%というのは不思議な数字です。
ゼロと比べた時、凄みのある1%なんです。
100%と比べれば、ほんの僅かな1%が、
実は無限大の力を持っている可能性があるということです。

本当はエピソードや体験に絡めて語られるところに説得力や凄みが出てくるように思うのですが、すべて書くこともできませんので、参照するための手立てを講じておこうと思います。

面白い引用を見つけました。身も蓋もないようなカフカの言葉ですが、
これもまた1%、歩けなくとも、つまずくことはできる。
「変身」の本質は、歩いて行った地続きの今の延長にあるのではない、とカフカは言っているのでしょうか。

未来に向かって歩くことは僕にはできません。
将来に向かってつまずくことはできます。
一番うまくできることは倒れたままでいることです。

月曜日限定ベジタリアン(Meat free Monday)を勧めるポール、これも少しばかりの変化から始めようというメッセージだ。

まるごと月曜日は菜食主義者になる、ということはないけど、
毎朝の私は人参と小松菜のジュース、あとはバナナ程度だから、朝食ベジタリアン。

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地謡(じうたい) ~ 能の舞には意味がない

2014年01月29日 | 読書ノート

能の中でも夢幻能といわれる能楽の中心をなす演目では、
異界に住まう「シテ方」が面をつけて亡霊を演じ、「ワキ方」と呼ばれる現実の世界に住む人間が異界と人間を結ぶ「あわい・あはひ(間)」の存在となって、シテの思いを晴らすまでを描く。

つまり、能について語ることは、異界の神や霊について語ることを意味するといいます。

″人が自分の言葉で神様の話をすると聞く人は引いてしまうのに、能の説明として神様の話をすると有り難がって話を聞く″、というのは、
どこか聖書を引きながら神様について話をする場合にも通じます。

人は、科学的に解明がされていない異界の話を聞く時、信頼に耐えうる、歳月の洗練を受けた聖典のような根拠を求めるからなのだと思います。

能においては、時間は独特の流れ方をするという。

シテとワキが出会うと、ワキが生きるこの世の順行する時間と、あの世から来たシテの遡行する時間が交わります。
シテとワキの会話が徐々に盛り上がっていき、やがて「地謡(じうたい)」というコーラスに引き継がれたときに、
ふたりの生きる二つの時間が渾然一体となります。

しかし、そこで謡われるのは、シテの思いでも、ワキのこころでもありません。そこで歌われるのは、風景なのです。
心象風景というのともちょっと違って、ただただ風景そのものなのです。
すなわち、ふたりの思いが風景に流れ出し、心も体も風景も、すべてのものが渾然一体となる。それが謡われるのが最初の「地謡」です。

そのとき、「いまは昔」の現象が生じ、「いまここ」が昔になってしまう。
かたや「昔を今になさばや」と、
昔を「いまここ」に呼び込んでしまう。
そして、今も昔も一体となって時制が消滅する。

ちょっと、難しい話になってしまいますが、能がただのエンターテイメントとまったく違っているのは、
能は、私たちがとらわれてしまっている「時間」や「時制」という枠組みから自由になり、その束縛から解放させるものであるということ。

武士が能を好んだのは、「時間を知ってしまった人間の心」が生み出した負の側面(未来への恐れや過去に対する後悔や悲しみ)をリセットする働きが能にはあるから。

★★『心は自分ではない』★★」にも通ずる、心に囚われず、心の表面的で感情的な部分を希薄化しておくような技能なのだと思います。

来日時に大相撲に懸賞金を出すなど、日本固有の文化に理解を示していたポール、
「今は昔」的な日本的な時制感を思わせるタイトルの「Once upon a long ago」、

ざざざざざぁ♪ザザザザザァ♪ってバックコーラスも
シテとワキの反対方向の時間が互いに寄せては返すようで、どこか地謡的です。

PAUL McCARTNEY - Once Upon A Long Ago - TRADUÇÃO

「能の舞いや振り、に人間に理解できるような意味はない」、というのは目から鱗でした。
能は、人間ではなく神様に捧げる芸能だから、人間に意味が理解できる身振りである必要はないのです。
大相撲の土俵入りの型とか、どういう意味があるのだろうか、と考えることも同様にあまり意味がないのかもしれません。

この曲の映像で見られる巨大岩石の上での演奏も、神に向けられたものであるかのようです。
岩や空や海と共鳴し合いながら、自然の中で執り行われる神事。

意味がないと言えば、歌詞もそう。地謡のように意味のない対象が謡われる。

Picking Up Scales And Broken Chords    音階のスケールと壊れたコードを拾い集める
Puppy Dog Tails In The House Of Lords   上院議員の建物にある仔犬の尻尾たち
Tell Me Darling, What Can It Mean?       ダーリン教えて、それに何の意味があるんだい
Making Up Moons In A Minor Key           マイナーキーで月を作り上げる
What Have Those Tunes Got To Do With Me?   そのチューンが僕に何の関係がある?
Tell Me Darling, Where Have You Been?         

意味や筋を追うばかりが正解ではないのです。私の本の読み方に多少通ずる話がありました。
(だから、わたしは小説を読むのが不得手だったのです、こんな風でもいいのです)

何となく、この辺にこんなことが書いてありそうな気がする。
そして、本をぱっと開く。
その時にたまたま目に飛び込んできたフレーズは「ご縁があったフレーズ」なので、それを引用する。
何となく世阿弥も横に多種多様な古今の文献を置いて仕事していたような気がするんです。
でも、その書物を頭から体系的に読んだわけじゃないと思うんです。
おお、これが出典か、ってメモしておいて、それを曲の中に適宜はめ込んでいった。なんだか、そんな気がするんです。
でも、そういう種類の本の読み方ってあるんですよ。
アルベール カミュなんかも多分そうなんですけど、体系的に本を読まないんです。
なんとなく「本に呼ばれる」ということがあると、ぱっと開いてみる。
すると、自分がまさに読みたかった当のフレーズがぴたりと出てくる。
それを素材にして書く。

「あわいの力」にもよく似たハナシが。

夏目漱石は、小説というのは「おみくじを引くように、ぱっと開けて、開いた箇所を漫然と読むのが面白いんです。(草枕)」といいます。
小説は筋なんて読むものじゃない。
一方で、ヨーロッパの物語には、アリストテレス以来の「ミュートス(筋)」を重視する影響が色濃くあります。
日本の物語は筋ではなく、読んでいるいま、開いているいまが大切なんですね。

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shape of my heart ~ 秘密と水仙と

2013年03月20日 | 読書ノート

検査の待ち時間が長くて、手持ちの本を読み終えてしまったので、病院の売店でめずらしく読み物系の本を購入。

今さらではありますが、つまが面白いと言っていたので。

スキーバスの事故で死んだはずの平介の妻 直子の心が、生き残ったはずの娘の藻奈美の肉体のなかで生きている。
5年、9年、、ひとには信じられない現実が、流れ去っていく物理的な現実のなかで二人の秘密として生き長らえていく。
しかし、時間を経て、その秘密は、成長し変化し続ける物理的現実との間で、いつしか徐々に歪んでいく。
現実を見ろよ、というやつだ。

そして、秘密は現実との間で交換を迫られ、永遠の秘密となる約束が交わされる。永遠の秘密を認める首肯によって。

 

「心は自分ではない」、もうひとつの心を「ナチュラル」に生きてゆくと決めた直子のWill、
いわゆる" 鉱脈 "に触れる物語だと思う。
(アデルの倍音)

目に見える現実とのトレードオフを余儀なくされた心的現実は、永遠に秘密の約束となり、現実世界との折り合いをつけることになる。
現実というものの線引きを巡る、切なくも深い物語。
(心的現実性こそが重要である)

なぜか、StingのShape of my heartが聴きたくなったら、ありました。
「all this time」に収められていたお気に入りのバージョンが。(前はなかった。 ジャン・レノ& Shape of my heart

「翻訳は良い趣味である」 ~ 内田 樹

以前、断念してた翻訳を試みてみることに。 

 

He deals the cards as a meditation  彼は瞑想に耽りながらカードを配る
And those he plays never suspect   彼のふるまいには疑念の余地も無い
He doesn't play for the money he wins 彼が欲しいのは金ではない
He doesn't play for respect          尊敬を集めたいわけでもない
He deals the cards to find the answer  彼はただ答えを見つけようとしていた
The sacred geometry of chance        偶然の中にさえ神聖な幾何学が潜み    
The hidden law of a probable outcome   目に見えない法則が結果を必然的なものにする
The numbers lead a dance            数が我々の営みを支配しているのだ

I know that the spades are the swords of a soldier       スペードは戦士の剣
I know that the clubs are weapons of war          クラブは戦いの武器
I know that diamonds mean money for this art        ダイヤはすべてが金であることを意味する
But that's not the shape of my heart               けれど、私のハートはこんな形はしていない

He may play the jack of diamonds     ダイヤのジャックが手に入ると

He may lay the queen of spades       スペードのクイーンが置かれる

He may conceal a king in his hand            手にキングを隠し持ったまま
While the memory of it fades         思い出は消えてゆくのだろう


And if I told you that I loved you     もし私が愛していたと言ったなら
You'd maybe think there's something wrong  あなたはそれは違っていると思うのだろう
I'm not a man of too many faces         そんなに幾つもの顔を持った男ではないよ
The mask I wear is one             被っているマスクは一つしかないのだから
Well, those who speak know nothin'   誰もがいろいろなことを口にするが、何も分かっちゃいない
And find out to their cost            いつか失ったものを知ることになるのだろう
Like those who curse their luck in too many places    様々な場面で不運を嘆き
And those who fear are lost                      失うことを恐れていたとしても

お彼岸、義母にもうちに来ていただいて、体験談もあれこれと。

ははが好きだった水仙、今年は花を見かけないなと思っていたら、つまが庭に咲いてるのに先に気づいた。
梅を見るのはどうも気がすすまなかったが、水仙を見たら嬉しい気持ちになった。
去年も水仙は、再出発を後押しするように咲いてた花だったので。

 

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芸術とはナニモノなのか

2012年11月03日 | 読書ノート

 「前衛」とは何か、「芸術」とは何なのか、

これは宇宙とは何か、生命とは何なのか、にも似て、答えを見つけるのがむずかしいテーマだと思ってましたが、
かの有名なダーウィンの「進化論」に、そのヒントがあったのですね。

スルドイ指摘のある本が、新しい視点を与えてくれる。

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)
西岡 文彦

新潮社

曰く、

今日の私たちにはわかりにくいことですが、ダーウィンの進化論が登場する以前、
変化や刷新というものは、基本的にネガティブな意味しか持っていませんでした。

 

神が最初に全宇宙を創造したとするキリスト教の世界観に従えば、
真なるものや美しいものは、太古にその理想型を与えられていることになります。
従って、真なるものや美しいものに到達するには、
太古の黄金時代に回帰し、古来の聖典を参照することによってしかなされないわけです。
「新しい」ということや「変化する」ということに、今日のような肯定的なニュアンスはまったく含まれていなかったのです。

今の常識的な世界観は、進化論によって根拠づけがなされている。

すなわち、変化することが「向上」することを意味し始め、
「生存競争」に生き残るために変化してゆくことが正義と同等の意味を持ち始める、、

芸術もまた、革新的であることが、時として「美しい」ということさえ凌駕し、「前衛」という価値観になってゆく。

~ 「芸術が生き延びるためには美が死ななくてはならない」という倒錯した論理に、「科学的」な根拠が与えられることになったのです。

逆説めいていておもしろい !
「新しいこと」に対する、進化論を跨いだ時代間での認識の断絶。

ここにも、「切断された知」の厚みとして残っていく人類の歴史がある。
透明にすることによって隠蔽されたもの、そして賦活させるもの
美術やアートというものは、自由な発想が求められるが、科学や他の分野の人類の知見と無関係な訳ではない。ダヴィンチの時代には芸術と科学が一体であったように。

進化論という科学の根拠づけによって、美術は進化してアートになったのか、、

芸術というものが本来の美しさ(美術)とは違った新しい視点で捉えられるようになって、「前衛」が評価されるようになったのだな、とふむふむする。

かつて、教会にあれば神の威光を表し、宮殿にあれば王の権威を表し、市民の家庭にあれば暮らしを美しく彩るという、
それぞれの場面で実用的な目的を持っていた美術が、
「用途」から切り離され、「純然たる美」=「芸術」としての価値を云々されるようになってゆく。
そして、それはフランス革命後に登場した「美術館」という施設がもたらした変化だといいます。
~ 美術が実用性を放棄し、むしろ実用的で機能的であることを軽蔑するようになってゆく。

美術という「美しさ」を追求するはずの世界において、そのわからなさに破格の評価が与えられているピカソの芸術は「美術館」的なものであって、
それを、「美」を本来のありようから切り離すものとして批判的に捉えると、ピカソを偉大とする審美眼や美術観はおかしい、ということになり、
逆に「美術館」を、人類の美的遺産を個別の文化や宗教の拘束から解放するための人文的な資産として不可欠なものだと考えると、ピカソこそ美術館にふさわしい偉大な画家、ということになる、という指摘。

著者は、このどちらの立場をとるかは、「美術館」を是として成立している私たちの社会や文明に根ざした問題であり、
自分の全思想と美意識をかけて検討するに値する問題だ、といいます。

どちらがどう、と決着をつけるモンダイでもないように感じましたが、「美術館」という具体的な箱のあるなし、という論点の立て方がおもしろい。

ピカソ芸術の持つ「わからなさ」を「大芸術」として崇める現代芸術のわからなさ、
をこれほど端的に解きほぐしてくれる文章にはあまりお目にかかったことがありませんでした。

出自を忘れてしまいましたが、以前読んだ本のなかにも、「芸術」とは何か、「美」とは何か、について鋭い指摘をしているものがありましたので、併せてご紹介。

~ 偉大なる芸術に、そうとは知らずに日常のありふれた光景の中で遭遇した時、世の人々はどう反応するだろう?

ほんの二、三日前にボストン・シンフォニー・ホールでコンサートを開いたヴァイオリン奏者が、
同じ楽器、愛用のアントニオ・ストラディヴァリを持って地下鉄の構内でジーンズ姿で野球帽を被って演奏をする。
通り過ぎた人々は1000人以上、稼ぎは32ドル。

音楽に限った話ではなく、あらゆるパフォーマンスにおいて周囲の状況が極めて重要な役割を担う。
コンサート・ホールで演奏される音楽と、野球帽を被ったみすぼらしい男が地下鉄の駅で演奏するそれはまったくの別物なのだ。
有名な絵画でも、それが実は贋作となれば、至宝から紙くずへまっさかさまだ。
重要なのは出自なのである。
出自や希少価値が物のクオリティを変えることはないが、同じ絵でもピカソの真筆だと分かると、数段に優れて見える。
こういった異なる反応は、俗物根性と集団思考と知的怠惰が入り交じった人間の欠点をさらけ出す。

しかし、数学や物理の世界ではあるまいに、純粋な美的基準による評価なんてあり得るのだろうか。

来歴や状況へのこだわりは、俗物根性や集団思考とは別物だ、とする著者の意見に賛成です。

私たちが芸術から得る喜びの多くは、創作の根源に人間らしい来歴があるという認識に根ざしている。
これが芸術の本質なのである。

来歴や状況へのこだわりは、そこにある温もりや安心感や愛情といったものに人が喜びを感じるから、なのだと思う。
温もりや愛着のようなものは、純粋な美、ではないかもしれないが、それらを排除した測り方はむずかしいと思う。

そもそも、美や芸術というものは、透明で公明正大で純粋なものではなく、不純物を含んでいるがゆえに輝きを増すようなことすらあるように思えるし、
純粋な美的基準なんてあるはずがない。
神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す

不純物はキタナイばかりでもない。芸術に資しているのだ。

( ↓ ) へんなおじさん、ではない。 おじさんはヘンでないとだめなのだ。(自分のなかに毒を持て

「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」  岡本太郎は何者? 1/2

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透明にすることによって隠蔽されたもの、そして賦活させるもの

2012年08月18日 | 読書ノート

これはまた深い鉱脈に行き当たったような気がする。
そういう感情の鉱脈こそが、実は豊かに太くて、大きいものであったりするのではないか。

~ 漢字の成り立ちには、歴史や日常生活を映すだけではない、天と人との交感が生み出した深遠な物語が潜んでいる。
   漢字の持つ「世界模型」としての性格から見たアジアの宇宙論、
  「呪術機能」、「遊行」、「「狂字論」といっためくるめくようなモチーフが次々と提示される。

漢字の起源を解明することで、逆に言葉、すなわち文明の起源が忘却されてしまったこと、
ひいては古代人と我々の間には大きなミッシングリンクが存在していることを見出した白川 静という人。

もっと、漢字辞典的に専門的な内容かと思っていましたが、そんな無味乾燥で表面的ものではなく、
少し入ってみただけで、そこに詩があることを感じました。
(天と地の交流、天人合一の世界観のような壮大なものとしての詩、です。)

生身の有限の世界において生きながら、おのれを超えた存在を思い、遥かな宙宇と呼びかわす
― こうした世界が詩でなくて何であろう。

白川静読本
五木 寛之,松岡 正剛,宮城谷 昌光,立花 隆,内田 樹,町田 康,押井 守
平凡社

抜き書きを続けながら。 

中国最古の文字資料・甲骨文は約3500年前の古代国家・殷で亀甲(きっこう)や獣骨に刻まれていたもので、
続いて青銅器に刻まれるようになった金文とともに、漢字・漢語の源流を示す最古の資料。
しかし、これらは司馬遷の時代(前145年~前86年頃)にはすでに地下に埋もれて忘れ去られ、漢字・漢語の多くは本来の意味からかけ離れていった。

 隠蔽された世界、透明な世界、がすべてだという史観をあらためるべきだ。
   人間にとって言葉は、世界を分節化して世界を世界として認識する、言葉=人間といってよいような存在。
   私たちが感じる世界というものは、言葉の持つ性質に、思っている以上に依存している。
   かつて、言葉は「言霊」としての重みを持ち、呪いや祈りのための「武器」として用いるものだった。

~ 漢字が古代の象形文字から形声文字(表音文字)へとして振る舞うようになって、
  漢字固有の呪的起源は忘れられ覆い隠されてしまった。
  表音文字、文字のアルファベット化は要するに世界を軽くしたのだ。透明にしたのだ。
  だが、逆説的というほかないが、透明にすることによって何かを隠蔽したのである。

「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばの持つ呪的な機能をそこに定着し永久化することにあった」

 古代人が漢字に込めた詩や物語を具体的にいくつか追ってみます・・

甲骨文におけるサイ(サイ)という文字は後漢の「説文解字」以来「口」と解されたが、白川先生は甲骨文字を分析することによって、単なる身体器官としての「口」ではなく、「祝詞、神からの言葉を入れる器」であったと読みかえた。

初めに甲骨文におけるサイに言霊を入れたのは誰なのか、それを呼びだすのは誰か。
入れた方を巫祝王(ふしゅくおう)とか絶対王といい、呼び出したほうを巫女といったわけです。
文字は目で見ると同時に音を聞くことによって言霊というか、呪能というものを発揮する。
甲骨文におけるサイという容器についても、歌としての言霊が入っているとみなした。
しかし、それはみだりにポピュラーになるものではなくて、しばしば封印しなきゃいけない。
相手を害したり倒したりする力もあるために、歌の一部は容器に入れておかなくてはならない。

~ 話す言葉としての形声の造語体系への移行によって、膨大な文字が生み出され
(「口」の意味に転化した呼ぶ、叫ぶ、咬む、吐く、や、河口、閉口、人口など)、「知の切断」が生じた。
世界を認識するその認識の仕方を変えたのである。
この「知の切断」によって、漢字固有の呪術的起源は忘れられ覆い隠された。

「道」という字は「首」に、「しんにゅう」を書く。

異族の人間の首を刎ねれば、当然、殺された人間の側には呪いがあります。
「首」にあるその呪いの力で、道に潜む邪霊を祓い清めながら進むのが「道」という文字なのです。

「眞」は、倒れた死者の姿。

「上部は化、すでに化したるもので、その下の県は倒さの首、頭髪が下になびく死者の頭である。」

~ 死、死者、それも行路病者、変死者、それが真実。
  そうした場においての祈り、愛、死者も含めての共生。
  「眞」という文字一字が、何と見事に語っていることか。
  しかも、わたしたちが日常使う文字のなか、現実生活そのもののなかにおいて。

~ 歴史とは出来事の線的な並列ではなく体験の層的な堆積である。 面が変容し、新たな層が形成されていく。

 人類の歴史は「切断された知」の厚みとして残っていくものだったのか。
  しかし、日常使う文字の中に、祈りや呪いがいちいち込められていては大変だ。
  切断した記憶としておいたほうが、よい場合もある。
  " 時間、それは流れない。それは積み重なる。"ってウイスキーのCMのコピーにあったけど、
  単なる言葉遊びではない、そこには、切断された豊かな知の鉱脈があるんだってことを教えられました。

最後は、呪いではなく、祈りの込められた「賦」で。
(爽やかな祈り、と書こうとしたが、妙な言い回しでそんなに爽やかでもない。これが真実なのか。)

「賦」というのは、例えば山の美しい姿を見て、そして山の茂み、あそこの谷の具合、あそこの森の深さ、とかいう風にね、色々山の美しい姿を描写的に、数え上げるようにして歌っていく。
これが「賦」なんです。
歌うことによってその対象の持っている内的な生命力というものを自分と共通のものにする。

( ↓ )「賦」にかけてみました。賦活するものを探せ、チャイコフスキーのバイオリン・コンチェルト。

Le Concert highlight

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雅楽と能について

2012年07月29日 | 読書ノート

大阪四天王寺で催される雅楽の演奏会に 行くことになったのでにわか仕込み。

扱っているテーマが広大なのに、この本は読みやすい。

雅楽楽器の説明から声明や大正唱歌、さらには武満徹の音楽まで、幅広なのだが対談形式なので、とっつき易く読める。
論点は、日本語や西洋音楽との対比、総合芸術としての能や歌舞伎等、まで縦横無尽。
琴とは思えない豊かな音色に驚いたことのある野坂惠子氏の二十弦琴や二十五弦琴まで話題に出てきて実に興味深い内容でした。

日本音楽がわかる本
千葉 優子
音楽之友社

友人がやる篳篥(ひちりき)。
雅楽のリード楽器であるにも関わらず、清少納言はくつわ虫の音みたいでやかましい、と枕草子に書いているという。
発弦して音が消えていくような、わび、さびの世界とはまた違った、持続する音。
日本文化の根っこのすべてに、わび、さびが流れているというわけでもない。

「雅楽を楽しむ」 楽器の紹介その一「篳篥」

音の高さが正確に分かる規則正しい振動音、ピアノやヴァイオリンの均質な音を追求してきた西洋音楽とは音の捉え方がそもそも違っていたという。
逆に、西洋的な平均律に慣れてしまった現代の日本人が、伝統的な日本の民謡を聴くと調子はずれに聞こえることもあるらしい。
(野坂惠子氏のつま弾く琴の音職や音階の豊かさが良いなぁ、と感じたのはそういうわけだったのか。)

( ↓ ) ロンドン・オリンピックの開幕式でポールが歌ったHey,Jude。
    東儀秀樹さんの篳篥(ひちりき)、新しい日本人の耳にも馴染む日本民族の情緒。
  (野坂惠子氏さんは演奏だけでなく、琴という楽器自体も変えていったのだからすごいなぁ。)

   富国強兵の時代には、長音階の4度、7度(ファとシ)を抜いたヨナ抜き長音階の歌が推奨された。
   大正時代になると、無識で軍歌調な旋律への違和感からヨナ抜き短音階が生まれた。
  (ヨナ抜きになったのは、当時の日本人がうまくファとシの音が歌えなかったためらしい。)
   Yesterdayの翳りはヨナ抜き短音階の童謡、故郷のよう。
Jude and Yesterday with Japanese instrument

リズムに関しても、
一拍の長さが自在に伸び縮みする「伸縮自在な拍」と、
伴奏のリズムに遅れてシラブルが発せられるような「不即不離の原理」(演歌なんかで少し遅れて最後の締めのフレーズが出てくるようなやつね)が日本音楽の特徴にあるのだという。

「間」と「リズム」は違う。
伸び縮みする拍が日本のリズムの真骨頂。
絶妙の間の芸術としての能、序奏部・露の手・登場部から成る、乱序という能の音楽にその真骨頂があるといいます。
~ 日本の音楽では、曲の出だしとかがそろわないのは意外と平気なんだけど、
    ある肝心な部分では、とても鋭いタイミングの一致を要求するし、
   そのひとつの音の入るときの勢いがとても重要だったりする。

( ↓ ) 能に対する理解が少し深まった。
    獅子が登場する前の大太鼓と小太鼓が長い間合いを保ちながら交互に小さな音を奏で合う「露の手」の部分。
~  序奏部での規則正しい拍節感がなくなり、長い空白の間が深山幽谷にしたたる露を連想させる。
    音の空間に無限の表現を託して、深々とした神秘的な静寂を表現する。
    そして精神的な緊張感を最高潮にまで高めたあと一転して躍動的な獅子囃しへ流れ込み、対照の妙を見せる。

 

還暦になって、国立能楽堂を、個人で素人で、借りて、大好きな能を舞った方がいました。

情熱は人を動かす~父の能舞台

秀吉は自ら太閤能を作り、自ら舞ったと言うが、かくも能は人を惹きつけるものなのか。

とても真似はできそうにないが、「情熱が人を動かす」、まっすぐな行動力はびっくりを突き抜けて感動的ですらある。

コメント (8)
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千日回峯行と親鸞

2012年04月01日 | 読書ノート

現代において、なおもこのような修行が存在していることに驚く。 
生き葬式を済ませてから臨むほどの覚悟を伴う修行。

百寺巡礼 五木寛之 比叡山 延暦寺 千日回峯行

これを見たら、現代人であっても、
修行はいらぬ、ただ南無阿弥陀仏を念ずれば弥陀の本願によって救い摂られる、と教えることがいかに困難であったかを感じるだろう。
難行苦行に挑む意志と勇気、それをやってのけたという事実には、有無を言わせぬものがある。
人の意志の力を思い知ると同時に、
畏敬の念を持つことが、かえって束縛感や閉塞感を生む場合があることにも気がつく。
親鸞の生きた当時、平安末期~鎌倉時代は、なおのこと今とは比べものにならない濃密な空気感があったはずだ。

母がよく言っていた言葉がある。
" 子どもには上手に負けてあげるのよ "
自由と意志を持つための真理だと思う。m(_ _)m

五木寛之氏の「親鸞」、小説であるがゆえ、史実にはない登場人物が出てきたりもするようだが、範宴(はんねん、叡山修行時の親鸞の名前)の居た時空のなかに身を置いているかのように読める。
ちょうど、当時、範宴の周りの人たちが、聖徳太子のことを、
"歴史上の人物を語る感じではなく、あたかも懐かしい祖父や祖母を語るように、懐かしく、慕わしく感じていた"ように。
聖徳太子もまた、高い身分を持ちながら、「世間虚仮(せけんこけ)」と、ため息のような言葉を残した、かなしい人だった。

"音もなく落ちる椿の花のように範宴に体を預けてきた"當麻御前(たいまごぜん)の悲しい最期、亡骸はむかし河原坊(かわらぼう)がやってたように川に運ばれてそのまま流される。
おさえきれない嗚咽や、あとからあとからあふれてくる熱いもの。

歴史を歴史としてしかとらえられないようでは、意味がないのだ。

必要以上にドラマに仕立てることはないが、そこに体温のようなものを感じることができるかどうか、
それは歴史や芸術、数学や物理の世界にいたるまで同じことだと思う。

親鸞 (上)
五木 寛之

講談社

親鸞 (下) (五木寛之「親鸞」)
五木 寛之
講談社

 

図解雑学 親鸞 (図解雑学シリーズ)
仙波 芳一
ナツメ社

親鸞―不知火よりのことづて (平凡社ライブラリー)
吉本 隆明,石牟礼 道子,桶谷 秀昭
平凡社
わが家の仏教 浄土真宗
池田 勇諦
四季社

~ 身分の高い人びとが尊ぶのが和歌。今様(いまよう)はそれとちがって、卑しきわれらの好む巷の流行り歌だ。
   世態人情、男女(せたいにんじょう、おのこおみな)の妖しき思いを歌うのが今様の本領じゃ。
   しかし、なかにはみ仏の深い心を讃嘆する歌もある。

洋の東西を問わない仏性のようなもの。
この組合せはどうよと思ったが、なんだか通ずるものがあった。
宗教もまた、遠ざけるべきものではないと思う。
アプローチは多彩であってもよい。
For You And I- 10cc

 

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天上の月、水上の月 (1Q84 その2)

2011年10月22日 | 読書ノート

歴史は夜作られる、というが、
この本に
はポルノ小説か、と思えるようなシーンが多々でてくる。
大事なものを撫で上げている下りで、大事なことが語られたりする。
ほんとうは、そんなところにあるのだ、たぶん。
日常生活的には、建前を装うスーツが汚れてはいけないから、避けられる水溜まりのようなものになってしまうが、
そこに世界が映っている。

そのような水溜まりをよけながら、書き出したところで味気ないような気もするのだが、
差し当たりブログ上の目的には差し障りがない。
(水溜まりでちゃぷちゃぷするには本物を読んだらいい。)

アインシュタインは晩年になって、インドの大詩人タゴールに
" 誰も見ていない時は、空にかかる月は存在しないのでしょうか。 "と言ったらしいが、
量子力学が検知したミッシング・リンク
ここでは月が二つ存在する世界が描かれる。

夜になって空に浮かぶ二つの月、
もう一方の月は小さく、緑色がかっていて、二つの月は重なりあうことはない。
ここはここではない世界だな、と分からせてくれる しるし。
そんな風景が、青豆の世界にも、天吾の世界にも現れる。

<青豆の章から>

空には月がふたつ浮かんでいた。
世界がどうかしてしまったか、あるいは私がどうかしてしまったか、その どちらかだ。
瓶に問題があるのか、それとも蓋に問題があるのか?

その夜も月は二つだった。
青豆はブランデーのグラスを手に、その大小一対の月を長いあいだ眺めていた。
もしできることなら、彼女は月に向かって問いただしてみたかった。
どういう経緯があって、突然あなたにもうひとつの緑色の小さなお供がつくことになったのかと。
もちろん月は返事をしてくれない。
月は誰よりも長く、地球の姿を間近に眺めてきた。
おそらくはこの地上で起こった現象や、おこなわれた行為のすべてを目にしてきたはずだ。
しかし月は黙して語らない。冷やかに、的確に、重い過去を抱え込んでいるだけだ。
そこには空気もなく、風もない。
真空は記憶を無傷で保存するのに適している。
誰にもそんな月の心をほぐすことはできない。

ダウランドのラクリメを聴きながら、老婦人のタマルが、青豆にこんなことを語るシーンがある。
「服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。
人間というのは結局のところ、遺伝子にとってのただのキャリア(乗り物)であり、通り道に過ぎないのです。」

何度か引用するが、私は「電子コーディネーター説」を実におもしろい考え方だと思っている。
石や木や水と私たちの関係について
つながってきた ~ 真実への目覚め
世界の総量は変わらない。
物質化(現実化)するのは電子を伴った場合であって、
電子を伴わない陽子や中性子は物質化(現実化)しないから、この世に存在しないように思われるが、
電子を伴ったときには、再びこの世に姿を現す。
私たちは、そのようにして物質化した生命体であるが、
私たちを構成している有機物も、さらに細かい中性子や陽子レベルまでいけば、
太古から宇宙に存在していたのと同じもので、その組合せが無限に異なるだけのリサイクル、再生品だ。
私たちの意識や心は見えないし、
空っぽな無であるはずの真空でさえ(ポテンシャル)エネルギーを持っている(宇宙の始まりのタネ)が、
物質化(現実化)しない陽子や中性子の存在で、それらの不思議を説明することができる。
人間に共通の心のあり方や、理性や欲望についても、
もとの粒粒が同じなのだから、根本的なところでは同じなのだと納得がいく。

<天吾の章から>

ガールフレンドはその世界についてしばらくのあいだ考えていた。
「ねぇ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知ってる?」
「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい点まではわからない。」
「insaneはたぶん、うまれつき頭に問題のあること。
それに対してlunaticというのは、月によって、つまりlunaによって、一時的に正気を奪われること。
十九世紀のイギリスでは、lunaticであると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。
その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で、
信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。
つまり、月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ。」
「それで私が言いたかったのはね、月が二つも浮かんでいれば、人の頭はますますおかしくなるんじゃないか、ってこと。
潮の満ち干だって変わるし、女の人の生理不順も増えるはずよ。まともじゃないことが次々に出てくると思う。」

月というのは、特に西欧では魔物的なイメージでとらえらえるようだ。
ベートーベンの月光ソナタも、美しいがどこか不気味な雰囲気をたたえている。
前に、狂気めいたラインが印象的な
Monkberry Moon Delight ( 尽きせぬ悦び )を採り上げたが、
今日は、有史以来、連綿と続く叡知の粒粒を称える歌、水上の月。

Paul McCartney & Wings - Warm and Beautiful (1976) (Remaster w/Lyrics) [1080p HD]

A love so warm and beautiful / 温かく美しい愛、
stands when time itself is falling, / 時が流れ落ちても そこに在る
A love so warm and beautiful , never fades away. / 決して消えて失くなりはしない 
Love, faith and hope are beautiful / 愛、誠実さ、希望、この美しきもの
when your world is touched by sadness, / あなたの世界が悲しみに襲われたときであっても
To each his own is wonderful, / それぞれが、持っているものの素晴らしさを知る
love will never die. / 愛が死ぬことはない
Sunlight's morning glory / 太陽光の溢れる朝の栄光は
tells the story of our love, / 私たちの愛の物語を告げ
Moonlight on the water / 水上に映る月光は
brings me inspiration ever after. / 私に永遠のインスピレーションをもたらしてくれる
 
 

1Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社
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1Q84 

2011年10月22日 | 読書ノート

この本はダブル・ファンタジーのように青豆という女性の物語と、天吾の物語が、交互に対になって流れていく。

小説は前から後ろへ、登場人物とストーリーの展開に沿って読んでいくもので、
飛ばし読みや、拾い読みでさらっと読了にしてしまっては意味がないといわんばかりのフォーマットを感じさせるのだが、
このように主題分けがなされて、章立てされると、ここには何が書いてあるんだろ、もぞもぞ、と読みたくなってくるから不思議だ。

天吾はどことなく冴えないやつだが、
青豆はジョン レノンのShe said、she saidみたいな女性で、自分の欲望に忠実でいながら、インテリジェンスに溢れている。

ことに及んで、このようなセリフをいう女性がいるだろうか。
「そうすることが必要なの。生身の人間としてバランスをとっておくために」
「チベットにある煩悩の車輪と同じ。車輪が回転すると、外側にある価値や感情は上がったり下がったりする。でも本当の愛は車軸に取り付けられたまま動かない」
 

1Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社

青豆のキャラクターにも興味を持ったが、
Amazonの書評をみて、これは私宛のメッセージを持った本だと感じた。
視点が、物の見方、切り口がおもしろい。

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。
そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。
心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、
「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

4:30過ぎに聞こえてくるマイルスのトランペットのような咽ぶような音を発見したとき、これは凄いと思った。
ジョージ ウェルズの1984にインスパイアされて作られたというポールの1985。

Paul McCartney Nineteen Hundred and Eighty Five lyrics

~ たとえばこんな風に考えてみることはできないだろうか
  - 問題があるのは私自身ではなく、私をとりまく外部の世界なのだと。
  狂いを生じているのは私ではなく、世界なのだ。
  どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。
  つまり、今ここにある私の意識はもとあった世界に属しているが、
  世界そのものは既に別のものに変わってしまっている。

~そこでおこなわれた事実の変更は、今のところまだ限定されたものでしかない。
  新しい世界の大部分は、私の知っているもともとの世界からそのまま流用されている。
  だから生活していくぶんには、特に現実的な支障は今のところほとんどない。
  しかし、それらの「変更された部分」はおそらく先に行くにしたがって、
  更に大きな違いを私のまわりに作り出していくだろう。誤差は少しずつ膨らんでいく。

(「Book1 第9章(青豆)風景が変わり、ルールが変わった」より)

 ゴルフとおんなじだ。
インパクトでの僅かな誤差が200~300Y先では大きなブレ幅となって、時には致命的なOBを招く。

ここには量子論を押し広げたパラレル・ワールド的な不思議な世界観がある。
現実として選択されなかったが、現実になる可能性を持っていた世界がいくつも枝分かれして宇宙を形成しているという多世界解釈的な考え方。

~ もちろんすべては仮説に過ぎない、と青豆は考えた。
  しかし今のところ、私にとってはもっとも強い説得力を持つ仮説だ。
  この仮説に沿って行動しないとどこかに振り落とされてしまいかねない。
  そのためにも私が置かれているこの状況に、適当な呼び名を与えた方が良さそうだ。
  かつての世界と区別をつけるためにも、そこには独自の呼称が必要とされている。
  1Q84年 ― 私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう。青豆はそう決めた。
  QuestionのQ。疑問を背負ったもの。
  好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。
  私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。空気が変わり、風景が変わった。
  私はその疑問符つきの世界のあり方に、できるだけ迅速に対応しなくてはならない。
  その場所のルールを一刻も早く理解し、それに合わせなくてはならない。

図書館で借りてきたBook1を読了したが、Book2は貸出中、Book3は発売されてそんなに間もなくて、まだ図書館に入庫もないみたい。
この本、きわどいポルノまがいの描写も多くて、文庫本ならまだしもハードカバーをでんと本棚に置いておきたくはない。

しかし、内田樹先生に感化された(アデルの倍音)のか、
現実の世界とは違う「異界のひと」たちが語る言葉は何か私たちの世界の成り立ちについての重要な情報を含んでいるような気がしてくる。
たとえ、合理的な意味などそこになくても、
「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さや
「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかえがえのない快楽を見出すことができる人、
になるためのメッセージを探す愉しみがあるような気がする。

というわけで、感化された感のある私は、少なくともBook3まで、このテーマを取り上げて、
メッセージを探し続けることになると思う。

 冒頭のシーンに続き、「1Q84年」というテーマが提示されるシーンにも、
ヤナーチェクのシンフォニエッタの音楽についての下りが登場するが、あまり似つかわしい音楽でもない。

同じファンファーレ的小品で、あまり一般的には知られていないであろう、
アルフレッド・リード作曲のA Little Concert Suit からIntrada。
これを始まりのファンファーレとして添えておこう。
(好きな東京佼成ウインドオーケストラのクリアで端正な演奏にこれは近い。)

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グレートギャッツビーとサン・フェリー・アン

2011年10月08日 | 読書ノート

内田樹先生は翻訳が趣味だと言う。

~ ほんとうにわずかでも、好きな作家の数ページだけとか、そういうのを写経的に翻訳する。
  週末になると"写経"する。今日は誰それの短編をひとつ訳しました、というね。
  すごくいい趣味だと思います。
  
 (小さな竜巻(Warterspout)

~ 「翻訳は写経である。」そして写経というのは、つまり「テキストに対する敬意」。
   ロジカルで明快な文章なら頭だけでスラスラ訳せるが、
   本当に訳し甲斐のあるものは、身体を使って写経しないと入ってこない。

理解できない時、それは自分の修行が足りないから理解できないのであって、
さらなる精進を積めばわかるようになるのではないか、という姿勢でテキストに向かう謙虚さ。
自分の頭をもってしては、他人の頭の中で起きていることを、「意味」に「言語化」して理解することができないなら、
「意味以前」のノイズでも受信することのできる身体でもって受け止めるべきなのだ、と言う。

私たちは言語化(広い意味で)されたものでないと理解することが難しいので、
共通理解の基準をそこに置くが、
しかし、それだけでは" 一番高いところににじり寄りたい " というレベルのところにはたどり着けない。
「こんな高いところがあるんですねー」ということを感じることなく、
本当のスケールを縮減化したところで、わかったような気になってしまう、と警告してくれる。

硬直化した干物みたいなオリジナルのテキストに、
生身の人間が自分の体液みたいなものを沁み込ませることで、乾物が生モノに変わってゆく。
翻訳とはそういう作業にもなりうる。

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング


村上春樹氏はスコット・フィッツジェラルドが書いた「グレート・ギャッツビー」を四十年以上に渡って宝玉のようにいつくしんできたという。
そして、内田樹先生もその物語の底流にある「フェアネスに対するこだわり」を評価する。

自分が一方的に善で向こうが悪で、
こちらが傷つけられるという物語に落ち着いちゃうと、世界の見通しはよくならないけど、
少しでもフェアネスを取り込んでいって、
不条理と思える出来事の中に、ひとすじの条理を見たほうがいいんじゃないかという姿勢。
それがあるから、読んだ瞬間に体温がスーッと下がる感じがする。

そのような" フェアネス"を感じたくて読んでみる。

 文体やところどころにそのようなものを感じるのだが、以下のAmazonにあった書評が私の感想を言い得ている。 

「グレート・ギャツビー」は劇的な感想は抱けないものだと思います。しかし、じわじわとくる印象があります。読者が経験することによって、「こういうことだったのか」という不思議なシンパシーめいたものを感じることの出来る作品だと思います。想像以上に深い作品だなと改めて思い知りました。
 でも、この作品の本質というか、全体的な「これはこういうことだ!」という感想が抱けないんですよね。
これは決して悪いことではありません。逆に可能性を感じるくらいです。
それは作者、訳者の責任ではなく、読者の責任でしょう。この作品をちゃんと理解できるようになりたいです。

~ 「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。
   「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
   父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、
   多くを語らずともわかりあえるところがあった。
   だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。
   (「グレート・ギャッツビー」冒頭部より抜粋)

You've got a lot,   君は沢山持ってるね  
And from what you've got, I'd say you're doing well, dear.  そしてその割にはうまくやってる
Bressed like a dream,  夢のように恵まれて
Anything you what they seem, you're looking swell, dear.  欲しいものは何でもあって
 見るからに素敵だ
Your little man   あの男は
didn't drink it when you can do,  he can't stay, dear.  君みたいに飲めなかったし、長くはいなかったよ
That's very well,  たいしたもんだね
But in fire or shiny shell, you dance all day, dear.  火の中だろうと 輝く貝殻の中だろうと 君は日がな踊ってる
So go, be gay,    陽気にいくんだ
Let your feelings leap away into the laughter.    感情を跳躍させて、
笑っていればいい
San ferry anne,  サン・フェリー・アン、
and the world keeps turning happy ever after.  そうすれば世界は永遠に幸せに廻り続ける

Paul McCartney & Wings - San Ferry Anne (1976) (Remaster w/Lyrics) [720p HD]

この週末も、翻訳トレーニング(写経)。
私の頭のなかにも、夏が終わって行方を探すカモメたちが飛んでいるようだ。
ジョナサンの夏休み ~ 憧れのマスカラス
ホワイトドライバー、かもめが飛んだ日

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サガンはお好き? ~ セーヌのカフェテラス

2011年06月04日 | 読書ノート

フランス人には、人間の一生なんて働かずにノホホンと暮らせればそれが一番だと考えるところがあるという。
フランス人は男女の愛についても道徳的に寛大なところがあって、日本とは事情がずいぶん違うようだ。

私が好きな内田 樹(たつる)氏もフランス思想が専門である。

― こんな生き方、こんな考え方もあるのか ―

そのような発見や気づきを与えてくれるものは、これまで見落としていたもののなかにあるのではないか。

フィガロブックス サガン 疾走する生 (FIGARO BOOKS)
マリー=ドミニク・ルリエーヴル
阪急コミュニケーションズ

フランソワーズ・サガン、1950年代に18歳で「悲しみよ こんにちは」でデビューしたフランス人作家。

人間の暗部(真実には当然、毒や悪も含まれる)を表現可能な、公然として社会的に認められたフォーマットが小説やフィクションならば、
小説の類をほとんど読まない私は、実は人間世界の深さや広さに触れるチャンスを逃し続けているのかもしれない、、

芸術とは、驚きという形で具現化されるもの。
普段は気にもせず、ただ刻々と過ぎていく瞬間をきちんと捉えなおし、
ある種の感情を呼び起こす特別な時間に変えること。
芸術にとってリアルかどうかを問うても意味がない。
いわゆるリアリズム小説ほど非現実的なものはないし、あんなのは悪夢だ。
(肩越しの回想/サガン)

「悲しみよ こんにちは」はおろか、サガンはどの作品も悲しいことに読んだことがない。
で、手にしたのがこの本である。
サガンなのに小説をチョイスしない、悲しい性(サガ)。。(-_-メ)

サガンのこんなインタビューが紹介されていた。

"どうして やっつけ仕事で小説を書くのですか"
「怠け者だからです。」
"でも作家というのは真面目な仕事でしょう"
「ええ、私は真面目に怠けているんです。」

"あなたにとって知性とは?"
「さぁ、ひとつの質問に対して、できるだけ多くの視点から考えられること。
 視点を変えて考え、学ぶことのできる能力かしら。」

 ~サッカーでも文学でも音楽でも「フランス的」と称されるのは、知的な敏捷性や遊び心のある娯楽性である。
そして、サガンはまさにフランス的なフランス人作家なのだ。
サガンは「親切」ではなかった。聡明すぎたのだ。だが、彼女には思いやりがあった。
二人とも(晩年のサルトルと、ずいぶんと年齢は離れていたが親交のあったサガンのこと)、絶対音感ならぬ絶対知性を持っていたのだ。
変えられないものに無用に腹を立てたりしない。
他人の粗探しをする眼力ではなく、一歩引いたところから眺め、理解しようとする知力。それが優しさになるのだ。

なんだか、サガンには共感するところがある。
日本は文明開化以降、もっぱらアメリカやイギリス、ドイツから多くのものを取り入れて
インフラが出来上がっているように思える。
日本社会は、社会的な通念、道徳的・思想的なインフラ基盤が偏っているのかもしれない。

 Interview de Sagan par Desproges

 美人ではないかもしれないが、個性的でスタイリッシュ。
シャイだけど自由奔放な彼女を時代は憧れの対象にした。

 

サルトルと親しかったサガンは「ブラームスはお好き?」って小説も書いた。
エルトンの「ブルースはお好き?」は、これをもじっていたのか。(なんで、人がこれをブルースっていうのか分かった
サガンには、おじさんの気持ちがわかるのだ。

( ↓ ) これはメロディアスなブラームス弦楽六重奏曲第一番の2楽章。

Brahms String Sextet n.1°/2nd mvt

そういえば、我が家のリビングにあるのはモネの絵と、
無名の画家の描いたモンマルトルの丘の絵。

そこだけはフランス好みだ。

さすがにモネは複製だが、こちらはワン・アンド・オンリーの油彩画、なんで有名にならないのだ、DIMARIさん。

左手のカフェの看板の文字がMcCartneyに見える。。

Paul McCartney & Wings - Cafe on the left bank

セーヌの左岸(サガン)で、
Ordinary wineでContinental breakfastを食べ、
English speaking peopleはGerman Beerを呑んでいる、
このちゃんぽん感、ある意味日本的だ。

サガンだけでいくつかダジャレをちりばめることに成功した。
touching all the girls with your eyes, というのもおじさんっぽい。
夜になったらモンマルトルから南下して、アルルのカフェの絵に変わってると、もっとよい。

 

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自分のなかに毒を持て

2011年03月07日 | 読書ノート

岡本太郎氏の本、
以前にさらっと読んだ記憶があるのだが、生誕100年ということでTVドラマがあったりと賑わしいなか、
読み返してみると、今度は喰いついてきたので抜き書きしておこうと思った。

とかく素人は玄人の真似をしようとして絶望し、私は不器用だから、などと言って尻込みしてしまう。
大人になると、みっともないと自分で卑しめてやめてしまう。
とんでもない。
むしろ下手な方がよいのだ。笑い出すほど不器用であれば、それはかえって楽しいのではないか。
平気でどんどん、生活を豊かにひらいていく。そうすべきなのである。
それが自分を再発見し、自由を獲得する大きなチャンスなのだ。

下手でいいじゃないか、ゴルフのスコアなんて。(-。-)y-゜゜゜

才能や情熱があるからできるのではない。逆だ。
何かをやろうとするから意志もエネルギーも噴き出してくる。
自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬、ひたすらやってみる。
それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。
意思を強くする方法なんてありはしない。
そんな余計なことを考えるより、ひたすら一瞬一瞬に賭けてやってみる。
そうすると、はたから見れば、あの人はなんと意思の強い人なんだろうということになるんだ。
世の中の一般の人は、あの人は意思が強いから、これだけのことをやったんだと評価するかもしれないが、順番を取り違えているんだ。
うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいいんだ。結果とは関係ない。

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)
岡本 太郎
青春出版社


なにをそこに読み取るかが問題なのだ。(-。-)y-゜゜゜

Optical Illusion (Mind trick)

岡本太郎氏は、モンテスキューの唱えた司法・立法・行政の三権分立ならぬ、芸術(人間)・政治・経済の三つが関係性を持った世の中が大切だと説く。
どことなくシューマッハーの仏教経済学に似た、
量重視の現代社会から抜け落ちてしまった質(= 人間らしさ)の復権。

『今までの自分を蹴飛ばしてやる。』

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだが、ぼくは逆に積み減らすべきだと思う。
本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命をひらくのだ。
捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
今までの自分なんて蹴トバシテやる、そのつもりでちょうどいい。 
自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、格好にとらわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやる。
そうすれば、逆に猛烈に自分が開け、モリモリ生きてゆける。
自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。
失敗したっていいじゃないか。人間の大部分の人々が成功しないのが普通なんだ。
今日の社会システムの中で、安全に生活することばかり考え、
自分を大切にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。

 『自己嫌悪で自分を甘やかすな。』

最悪の敵は自分自身。自分をぶっ壊してやる、というつもりで。
自己嫌悪なんていういい加減なところで自分を甘やかしてないで、自分をもう一度外から眺めるようにしよう。
どんなに制約の有る所でも、
平気で明朗に表していけば、案外通るものなのだ。

『誰もが焦るものだが、無目的・無条件で結構なのだ。』

誰もが何かしなきゃいけないと思っている。
ところがその何かというのが、てんで分からない。
こういう悩みは誰もが持っている。それがごく一般的なのだ。
何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、
ちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるのだ。
人間本来の生き方は、無目的で無条件であるべきだ。

『滅びたっていいじゃないか。』

目先の利害得失にこだわる現代人のケチくささ、こんな群れの延長である人類の運命などというものは蹴飛ばしてやりたくなる。
どうして人は滅びたくないと考えるのだろう。
滅びたっていいじゃないか、永遠に滅びないとなどと考えるほうがおかしい。当たり前のこと。
未練がましくある必要はないのだ。
無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
ひとりひとり担う運命が栄光に輝くことも、惨めであることも、共に巨大なドラマとしていつかは消えるのである。
平然とこの世から去るとしたら、それが栄光だとぼくには思える。
 

すべてが合理的に目的化された現代社会では、生きることの非合理や猛烈な情感は顧みられない。
ほとんどの現代人は己の存在の中の芸術家を圧殺している。
だから人々は疎外され、知らず知らずに絶望しているのだ。
絶望しているということさえ知らないほど、深く、空しく。

Bring Me the Disco King-David Bowie (lyrics on the screen)

 

宮沢りえ Be TARO "岡本太郎"を朗読する [2/3]

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