ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

花と緑のツツジたち

2014年04月27日 | 日記

足の爪先がどうにもならず、GWのお泊まりゴルフもキャンセル。

ですが、家で、近所で、のんびり過ごすと決めての休日もなかなかに心地よい。

家の前の坂道を上っていくと、紅のツツジがアクセントになった生垣があるのですが、今日はそこをパノラマ風に撮ってみました。

( ↓ ) ジョージ ハリスンの家の庭、フライヤーパークを思い出した。 (断片の煌き 其の壱 ~ 中途半端を恥じるのがみみっちいことかもしれない)

   庭や光のイメージに遊ぶ権利は誰にでもある、モネのように上手く表現できなくとも。

   天上の喜びのようなエンディング、幸せな休日の夕刻。

そうだ、ツツジでも見に行こう。

自転車に乗って、新緑の林のトンネルを抜けていくと、なんだか懐かしい感じがしてきます。

  

今日は、ドウダンツツジの生垣の緑が目に沁みるほどに。

まるでフランス式整形庭園風。保護樹木として市の指定を受けている生垣なのです。

 その先の小径を曲がると、ツツジが光の中でこぼれてました。

ほんとうに溢れてるんです。ぽろりというか、にゅわわわ~んというか。

これまた懐かしい民家の情景ですが、何げにこんなに高くツツジが咲いていました。

那須とか、ツツジの有名なスポットは他にもあるけど、こんな高い場所に咲いているのは見たことがないような気がする。

 

Come home. 遠くへ出かけずとも愉しいというのは贅沢なことのような気がする。

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ワーズワースと至福の時

2014年04月20日 | お気に入り♪(フォト×音楽)

イギリスの湖水地方をこよなく愛した詩人、ワーズワースの視点に立って心象風景を描くというアイデアが斬新だ。

その美しいフィーリングに敬意を表して、その美しみに溢れた部分から。

自然の方も、美しさに注目する者にはお返しに、ワーズワースによれば、わたしたち自身の内にある善きものを突き止めることに力を貸してくれる。

ワーズワースは読者に、いつもの物の見方を捨てて、しばらくはこの世界が他者の眼にどんなふうに映るかを考えてみたらと誘う。
人間の物の見方と、自然の物の見方との間を行き来してみたらと、。

なぜなら不幸は、たぶん、たったひとつの物の見方しかできないところに生まれるからだ。

幾たび、孤独な部屋で、街や都会の喧騒のさなかで
わたしはここにある美しいかたちの者たちに力を借りたことか。

誇張ではない。何十年経ってもアルプスは彼の中に生き続け、彼が呼び出すたびに、いつでも力を与えてくれるのだった。

わたしたちは自然の中で、人生を通じて自分の中に留まるような情景を目撃することがある。
その情景は、意識に入ってくるたびに、現在の困難を相対化し、救い手となってくれる。
彼は、そのような自然のなかの経験に「至高の時」という表現を与えた。

われらの存在の中には 至高の時がある。
その時はくっきりと際立ち 保つのだ
われらを力づける美徳を。
その時は われらを貫流し、堕落の時にあってもわれらを支え、
攀じ登る力を与えてくれるのだ。

自然のなかでのささやかだが、決定的な瞬間への信仰が、
自分の詩の多くにワーズワースが例のない特殊なサブタイトルのつけ方をする理由を説明してくれる。

たとえば、「ティンターン僧院」の副題、「旅の途上 ワイ渓谷の河岸を再訪して。1798年7月13日」は正確な年月日を明記する。

峡谷を見下ろす束の間の時が、人生でもっとも重大で有意義な時間の仲間入りをし、
誕生日や結婚記念日と同じに、正確に記憶すべき価値を持つものとなっている。

TwitterでフォローさせていただいているKAGAYAさんが、2013年の夏にアイスランドで撮影されてきた写真から。
映画「風立ちぬ」でも空の雲の色彩や描写の美しさに打たれましたが、この写真の雲や虹や空の奥行きのある立体感はどうでしょう。
なにも晴天の青空だけが美しいわけではないことを教えてくれる。厳しい嵐の後の天球の自然の美しさ。

よく晴れた昨日、めりはりのある寒暖のせいか、ハナミズキの花色が際立って映えているように感じました。
駅前にもう数十年もしたらすごい景観になるかもしれないって期待しているハナミズキ通りがあるのですが、
特に紅色のハナミズキの花色がどこか東洋風で、ユートピアに咲く異国の花のように思えました。

同じような花姿を求めても、曇天の今日は昨日の印象には遭遇できません。

ですが、曇天には曇天の風情、湖水地方だって雨の日や曇天の日が多いのです。

湿り気を含ませながら、花の季節は次のシャクナゲへと。

オーガスタにも負けない紅の印象、アザレア。

荒ぶる自然の力を下ろしてくるような、霧が立ち込めてくる光景。スコットランド風の地謡のようにも思えます。

原題は「キンタイア岬」なのですが、邦題の「夢の旅人」からして、どこかしら夢幻能の世界に通じるものがあるようにも感じる。

Paul McCartney Mull Of Kintyre Versions I & II 1977

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振動数とアセンションについて

2014年04月19日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

 ”スピリチュアルという言葉が、本当に適切なのかどうかはわかりませんが、より自然な生き方に世界が向かい始めている感はあります。”

社会学者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは、「生きている人間」の世界にしか興味がないからである。
霊能者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。

「こっち側」と「あっち側」の「あわい」でどう振る舞うかということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。
(内田 樹 ~ 「あわい」でどう振る舞うかということ ~ However absurd♪

宗教やスピリチュアルだけをやってる人の話にはあんまり興味が向かないのですが、
東大医学部の救急部 集中治療部部長や物理畑の人たちが語り出すと、これは面白い。

 

 

死後体験や輪廻転生にまで話が及ぶと、やりすぎの感じも出てくるのですが、
死という誰もが避けては通れないものに対する時、人は自分には関係なければいいのに、と目をそむけて、思考停止に陥ってしまう。

それでも地球は回ると言ったとされるガリレオ、近代科学の思考は、
人間の進化の邪魔をする「意識の壁」を随分と克服してきたのだと思うのですが、
有史以来二千年を経て、なおも明かされない生死のあわい。

  不思議なことに、ギリシャ時代から、死に対する人類の考え方というのは全然進歩していない。
  死というものについては実験ができません。再現性が成立しない。
  だからいつまで経ってもギリシャ時代と同じことを、延々と議論し続けてるわけです。

科学的な手法の限界ばかりでもなく、歴史的にみても、そろそろ観念してもよいような気がします。
"誰もが読んで、あるいは聞いて、なるほどねと腑に落ちるような書き方で、死を巡るさまざまな論点を解決した人はこれまで皆無"、なのですから。

決して超常現象や天変地異ではなく、誰もが遭遇する、どこからか生まれてきて、また死んでゆくという当たり前に100%の確率で繰り返される出来事について、何ら解明できていない。
これほどまでに無力ということならば、肉体的、物質的な人間の脳というものには構造的な限界があって、
決して人類脳的・科学的な手法では認識できない対象があるということなのではないでしょうか。
(裏返しの宇宙 ~この世の空間構造)

救急医という生死の第一線にいる医師がこのような死生観を持っていることに驚きを感じました。

肉体というのはある意味、スピリットから見れば重しみたいなものです。
それを持たされている中で、神様って本当によく考えていらっしゃるなぁと感心します。
つまり、ズルできないような仕組みを、いろいろ仕掛けてあるわけです。
たとえば、生まれてくる際、そのスピリットの過去世を忘れさせられることもそうです。
何らかの不具合バグとかで、それをメモリーしたまま生まれてくる人もいますが、通常はデリートされます。
また、成長するにしたがって、多くの邪心が生まれるようにプログラミングされています。
肉体を纏っている限り、本来自分が還っていく場所の良さを感じにくく、本能的に拒絶する仕組みも備わっていますから、いろいろと面倒くさいことが起こります。(矢作直樹)

生命にはプログラミングされた仕組みというものがあって、人間は、そうやって仕組まれた生命や脳を「持たされて」いるだけなのに、
自力で、科学的な手法でもって、世界の摂理を掌握できると考えてしまう。
その不遜さの対極にある、徹底的に謙虚な姿勢こそは、むしろ科学的な態度であるように思えます。
説明できない事象であっても、まずは受け入れる。感情的にシャットアウトしたりしない。

私は「振動」や「共鳴」がキーとなる考え方だと思っているので、いわゆる「アセンション」についての説明が非常に興味深かったです。

私たちの身体を構成する物質には振動数というものがありますが、アセンションと共に、その振動数がどんどん上昇していきます。
そもそもアセンションは「肉体の振動数を上げること」だという専門家もいます。
特に若い子たちはそういう現象に対して敏感で、それはむしろ当たり前だみたいな子供が最近増えています。
上の世代の価値観は今後も多分変わらないと思いますが、若い子たちの価値観はものすごく自由です。

我々の知っている範囲は、三次元とかいろいろな言葉で言われますが、要するに物質世界です。
物理学もその部分だけ、現象面でしか扱っていないのですが、将来はその上の非物質世界を扱えるようになると思います。
下の方に位置する物質世界は、振動数が低く、非物質世界は上の方に位置する振動数の高い世界です。
さらに非物質のエネルギーを物質次元レベルに下ろすということがあります。
非物質の世界でイメージしたものを具現化して物質化するわけです。
これらはすべて振動数を変えるだけの話です。
量子力学の研究者、あるいは電磁気がわかる方だと比較的イメージできると思うのですが、
物体の振動数が上がると突然見えなくなるとか、あるいは意思で動くという話になった際、
この世とあの世は重なっているという説明が成り立ちます。

人間というのは実はすごい装置で、上の方の振動数と下の方の振動数をつないでいるんですよ。
肉体というのは物質世界のものですから振動数が低いのです。
しかしながら人間の意識は、上の方とつながっています。
自分のイメージを使うことで、上の次元から低い次元へと振動数を下げることができるのです。
人間というのは、そういう能力を持っている存在です。素晴らしい能力を持っています。
そういう事実が今後、さらに研究されて判明するでしょう。(坂本政道)

荒ぶる自然の力の降ろし方、「ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方」でも採り上げた能楽の世界にも通じます。

「アセンション」とか「スピリチュアル」とか、そういったものは、切り口を変えれば、「能楽」であったり、日本古来の神道であったり、ヨガや気功や武道であったりするのです。山の頂としてはつながっているのだと思います。

( ↓ ) こんな感じで振動数を上げて「アセンション」できればいいのですが。

   デュワ! という発声は、倍音声明というよりはどこかフランス的です。梅子とかではなくアンヌですし。

ウルトラセブンの世界観は多分に量子的であったり、仏教的であったりすると感じるのは私だけでしょか。

 ( ↓ ) ウルトラセブンの最終回のバックに流れていたシューマンのピアノコンチェルトは、デュヌ・リパッティというピアニストによるものでした。

グレン グールドにも似たその音色。

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武士は用事のないところには出かけない

2014年04月13日 | お気に入り♪(マイナーなラジオ局編)

NIKKEI MAGAZINEでいい感じの人を見つけました。

佐藤オオキさんという私よりおよそ10歳も年下のデザイナーの方なのだが、

「いまそこにある不便をなんとか工夫して楽しく生活すること、それってデザインの原点じゃないですか」

「アートは人を不安にしてもいいけど、デザインは人を幸せにしなければならない。最終的には喜びや快適というプラスの価値を与えて、日常にしっかり着地しなければならない」

と語る。

多忙な日常にボーとした非日常を挟んで、
″ 休みの日には、ただ積極的に消極的になるよう努めてます(笑) ”
って、なんだか良いなあ。羨ましい感性です。

足の爪先やらを痛めて、あまり動き回れないということもあるのですが、こういう心持ちに憧れるのです。

旅先に行っても、ホテルで読書して、プールに入って、あとは心ゆくまで寝て過ごす、みたいな投資効果を無視できるようなマインド。

「武士は用事のないところには出かけない」、

 ~ 内田 樹先生が、師である多田 宏先生に教えていただいてから座右の銘にしているという、これまたある意味贅沢な精神性。

「武士は用事のないところには出かけない」、これを座右の銘として、僕は用事がない限り、まず家を出ません。
学校と家と道場を3点移動するだけの生活を長く送っていました。
だから、関西に在住して21年ですが、梅田にも、三ノ宮にも月に1度くらいしか行かない。
京都奈良なんか観光に行ったこともない。清水寺には20年前に1度行きましたが、金閣寺にも銀閣寺にも二条城にも行ったことがないんです(笑)

~ それは、すごい胆力の練り方だね。(成瀬雅治 -- 有名なヨガ行者 -- )

と、話が続くのですが、はげしく同意もできないにせよ、
退屈を恐れることをせず、あえてその逆の志向を断じてみせるところに、木鶏の如き魅力を感じます。

( ↓ ) 音楽もそう。 ハレの日や祝祭の歌も良いですが、奇特なものを追い求めずに身の回りの日常や自然に題材を採ったものは普遍的なような気がします。

グリーングラスを歌っていた女性デュオが、Tom Waitsの美しさを掘り起こしてくれます。

The bats are in the belfry , the dew is on the moor  コウモリは鐘堂で眠り  荒野には朝露の雫    
where are the arms that held me,  and pledged her love before  彼女の腕は私を抱擁し, 愛を誓った

It's such a sad old feeling、all the fields are soft and green なんて悲しくて懐かしいフィーリングだ、 草原は柔らかな緑
it's memories that I'm stealing                盗み出すのは思い出なのです
but you're innocent when you dream            夢見る頃のあなたはあどけないまま

Running through the graveyard、we laughed my friends and I  墓場を走り抜けて笑い合い   
we swore we'd be together until the day we died           ずっと一緒だと誓った 死が二人を分かつまで   

I made a golden promise that we would never part   私たちは固く約束した 決して離れないと 
I gave my love a locket and then I broke her heart   ロケットに愛を込めたんだが 私は彼女を傷つけてしまった

( ↓ ) オリジナルのTom Waits版だけでは分からなかったと思いますが、こんなに美しいフィーリングを内包している。
   よく見かける、枝振りの見事なサルスベリの木があるのですが、Tom Waitsになんとなく似ている気がする。
   花や葉っぱを落とした裸木の枝姿は、複雑怪奇にうねっているのですが、奇妙に美しい。
   そして、近づいてみてようやく気づく幹肌の美しさ。ごつごつしていなくて、すべすべしている。

これはサルスベリでなくてハナズオウなのだが、無骨にチャーミングな花。

桜よろしく緑が芽吹く前に鮮やかな花をつけるのだが、花のつけ方を勘違いしてる感じがする。

それでもきりっと正装を装ってる風な感じもする。

 

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チャンチン ( 香椿 )

2014年04月13日 | 日記

足先の爪へのタルセバの副作用攻撃。

このような先の硬い安全靴を買い求めて重宝していますが、通勤程度ならまだしも、長時間歩くのはこたえます。
ハイカットブーツみたいで足首で履けるから、爪先への負担がないようにも思えるのですが、靴の重さが爪にはジャブのように効いてきて、長時間歩いたり、夕方になると辛くなります。

もう少し、通勤に似つかわしいものはないかと、次を探していたら、ドクターアッシーに行き着きました。
試着してみたら、これまで敬遠しがちだった幅広シューズの快適さと、紐靴なのにジッパーつきという履きやすさ、
足先もゆったりしていて締め付け感もなく、軽い。
先日の出張で、さらに痛みが増した足にやさしい。

安物の杖まで揃えたら、ウルトラマンレオの頃のモロボシ・ダンになったような気分になりました。

そういえば、レオの歌はよかったなぁ。

何かが終わりを告げる時
誰もが勇気を忘れちゃいけない 優しい心を忘れちゃいけない

内田樹先生が、村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」についてこんな風なことを言ってます。

この本が面白かったのは、一生懸命にトレーニングすればするほど、マラソンのタイムが悪くなってゆくという話だからなんです。
ふつう、逆じゃないですか。努力して、鍛えて、走法を改善して、タイムが良くなりましたというのがふつうの成功譚(たん)です。
そうじゃないんですよ。
究極の結論を言えば、僕らが生きているということは、身体を少しずつ痛めているということなんです。
生きていること自体が身体に悪い。どうせ身体に悪いことをしている。(笑)
身体は不可逆に、どんどん劣化していきます。そういうものなんですから。
老いも病いもすみやかに取り除くべきものになってきてるけど、よけいに苦しくなるばかりだと思います。
文句を言わずに、恨まずに、機嫌よく、共に生きる。

成功譚には、一種類のパターンしかないと思いがちなのだと思います。

機嫌よく生きるということが出来れば、何よりの成功譚になるのではないのでしょうか。
ワンパターンの成功譚があふれているよりはいいと思います。

かつての私は、人の幸、不幸を、見た目で判断していましたが、
自分が今のような状態になってみてはじめてそれが誤りで、本人が自らの置かれた現実を受け入れ肯定していればそれでいいのだと知りました。
私は今、自分の置かれた世界のすべてを受け止めることが出来て、とても幸せです。

( ↓ ) スウェデンボルグ然り。心的現実をどこまで拡げることができるかでパースペクティブは変わる。
    科学的、現実的な目線は大切だが、摂理や霊性を示すには別の視点や捉え方が必要であることが語られる。

桜から新緑へ、季節のパースペクティブ。

春風にそよぐチャンチン ( 香椿 )。
本ブログを始めたばかりの頃にアップしたことがありますが、桜が終わった僅かな時季だけしか見られないピンクの新葉が美しい高木です。
(美樹のアップ写真です♪)

 

しだれ桜はまもなく御終いですが、

花の遅い八重桜はまだまだ花を残しています。
ほんのりした桃花と、一葉という名前の白い里桜がこぼれるように咲いていました。

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ひふみ祝詞

2014年04月06日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

「あらゆる音の中で、言葉がもっとも脳に訴える力が強い」のだそうだ。

だから、没頭して音楽を聴いていても、誰かに話しかけられると忽ち我に返ってしまうということが起きる。

言葉という振動を伴った息が、自分や自然のなかの、蠢く霊力「ち」を呼び覚まし、神と通じる力を持つことができるのだという。

「息」の霊(ち)が「いのち」であり、息や呼吸や声の振り(振動)を真似ることは、他者の「いのち」を真似ることにほかならない。

声に出すことによって、振動を合わせていく。

呼吸で自己の心を制御できることを知った古代の中国人が、
そのことを象徴的に表現するために、「自」に「心」をつけて「息」という字を作りだしたのではないか、との説もあるが、
息のバイブレーションは、自己を超えて他者の霊性にも通じることができる。

 

「倍音声明」から「528Hz(ソルフェジオ周波数)」まで、息や声の振動に着目してきました。

(キラキラ光る倍音とは)

「ひふみ体操」もそのうちのひとつで、”ハ行の音にはマイナスを消すバイブレーションがある″といった説明になるほどと頷いたりしていたのですが、
船井幸雄氏の本のなかに、「ひふみ」という言葉の持つ言霊性、マントラ性について言及されているのを発見しました。

声に出さないことによって倍音声明やマントラがより強力になるという話もありましたが、
3、5、7、のリズムで、声に出すことで、神様の息に合わせることができるのだそうです。
(自分でメロディをつけて口ずさんだりするのもよい、というので、早速Twitterで歌にしてみたり。)

ひふみ、よいむなや、こともちろらね、
しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、
うおえ、にさりへて、のますあせゑ、ほーれーけー

一二三四五六七八 九十百千万
 ヒフミ ヨイムナヤ   コトモチロ

「日月神示」は1930年代に完成をみたというのだから、比較的新しいものなのです。
(もっとも、「ひふみ祝詞」は、必ずしも、「日月神示」が原典というわけはなく、物部氏の史書である「旧事紀(くじき)」に、「ひふみ」十音の記述が見られるという。)

まるでスウェーデン ボルグの霊界通信の如く、岡本天明という方の自動書記によって書かれたものだそうですが、
語り口が優しくて、親しみが持てるのが不思議。

『一二三祝詞』は『日月神示』のエッセンスであり、最強の言霊配列だと言われているそうです。

先日の日経に、現代の天皇家は南北朝時代の北朝の系譜である、といった内容の記事が載っていて軽い驚きを感じましたが、
古事記や日本書紀の記述に一本化されることによって失われてしまった神代の時代の歴史があるのかもしれません。

日月神示が示す『一二三』に関する記述から。

『病あるかないか。災難来るか来ないかは、手届くか届かないかで分かると申してあろうがな。
手首の息と腹の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と
脊の息と手の息の八所十所の息合っていれば病無いのだぞ、
災難見ないのだから、毎朝拝みてから克く会はしてみよ、
合っていたら其日には災難ないねだぞ、殊に臍の息一番大切ざそ。
若しも息合っていない時には一二三唱へよ、唱へ唱へて息合ふ迄祈れよ、何んな難儀も災難も無くしてやるぞ』

神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、
生命助けてやるぞ、此の方信ずる人でないと誤るから知らすのでないぞ。
此の事早う皆に知らしてどしどしと安心して働く様にしてやれよ。
飛行機の災難も地震、罪穢の禍も大きい災難ある時には息乱れるのざぞ。
一二三祝詞と神の息吹と息と一つになりておれば災難逃れるのぞ、
信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ』

ひふみの祝詞の唱え方。

~ 祝詞は,読むのではなく,「のる(祝る)」のです。お経や念仏、和歌に至るまで歌を唄う様に唱える。

日月神示に登場する不思議なパワーに溢れたひふみ祝詞

ルシファーの呪文「ひふみ祝詞」

~ 天照大神を外に呼び戻す祈祷文であったり、神さまと息を合わせる方法であったりして、面白い。


Let it beだって、苦しみ悩んでたらマリア様が降りてきた、っていう霊界通信的な歌なのでした。

このバージョンは、降りてから間もなくのような、霊界通信ナマ中継的なリアルさがあってよい。

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