ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

レプリカズ ~ キアヌ リーブスという生き方

2019年05月18日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

映画「マトリックス」で有名なキアヌ・リーブス。

スティングの多幸感」にマトリックスの持つ世界観について書きました。

 

人間は年齢と共に、三界(「現実界」・「想像界」・「象徴界」)の位相を変えていくのかもしれません。

現実界にこだわらなくても、象徴界が豊かになり、それが仮想界にも反映されていく。

年を重ねるというのは、きっとそういうことだ。

愉しみ方や価値を置く世界が、位相をずらすように変わっていく。

私たちの認識する世界は相対的なものであって、それぞれなのだ。

誰もが同じ絶対的世界の下に生きているのではない。

キアヌ・リーブスは54歳、武田信玄が没したのが53歳ですから、

7月に53歳を迎える私と丁度同じ年回りです。

( ↓ )甲府開府500周年の信玄公祭りへ突然誘われて馳せ参じました。

学生時代を彷彿とさせるような誘われ方。まだ平成の4月6日のことです。

 

( ↓ ) 私はキアヌのことを尊敬しています。きれいごとだけではない正直さがあるから。今週公開になったばかりのレプリカズ。

多少境遇が悲惨なものに感じられても、人は所詮おんなじようなものです。

必要以上にメゲル必要などありません。

キアヌのようなスターであっても、要は価値観次第です。

他人と較べることにあまり意味なんて無いのです。

 

私は、たとえば時計や服を買いたくなったときに、

本当にそれはなくてはならないものなのか、

おまえの(時計をはめれる)腕は一本だぞ、とか、服を着る身体だって一つしかないぢゃないか、って自問自答してやめることが多いです。

彼は人間っぽい神のようです。

流星ひとつ、そしてシンギュラリティの時代へと。

僕は誉める 君の知らぬ君について

フューチャー・オブ・マインド (神様到来の前夜あたり)

どうすれば人を創れるか

 

キアヌ・リーブス、暴走が加速する天才科学者に/映画 『レプリカズ』予告編

 

映画「レプリカズで」マインドのアップロードがテーマになる位に、

AIが人間の知性を超えるシンギュラリティの近づきがリアルに感じられるようになって来た令和の時代。

誰もが同じ絶対的世界の下に生きているのではない。

愉しみ方や価値を置く世界は、人其々に、位相をずらしながら、変えていけばよいのだし、変わってゆくものなのだ。

I'm only sleeping - The Beatles (LYRICS/LETRA) [Original]

私もそろそろ、パラダイムをシフト・チェンジしていけばよいのだと思うのです。

いつまでもビジネス・タームに固執するのではなく、その時々の適応の仕方があると思うのです。

 

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新元号(令和)は梅の香りのように

2019年04月06日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

梅が清々しく香る頃」を過ぎ、
 4月1日になって、新元号「令和」が発表になった。

出典は万葉集とのことだが、
初春に清々しく香る、あちらでの母の名前にもどこか似ている。

初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、
梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす

 

”自分の感情を理解し、マスターしようとする人にとても役立つと思います。”
という序文に惹かれた。
”ものごとの見方を変え、たとえ打ちひしがれている時でも、
気分を改善し、生産的に振る舞えるように訓練を行います。”

 1980年にこの本が出版されて以来、
認知行動療法とその背景にある感情障害の理論が世界中の研究機関で主要なテーマになっているといいます。

認知療法(Cognititive Therapy)の核心となる大原則は、
感情とは人が自分自身に与えるメッセージから生じるものであるとのこと。

実際、思考は多くの場合、人生における現実の出来事よりも、
はるかに我々の物の感じ方に大きく関わり、

思考が感情を生み出していることに変わりはありません。

うつ病者の自己評価、期待と実際の業績(たいていは素晴らしいものです)との間には
大きなギャップがあることが明らかになりました。

ー まるでPCIDSSのギャップ分析みたいだが、
 ギャップ解消ではなくギャップを生まないようにすれば尚良い。

哀しみは、当たり前の感情であり、
優しく望ましいもので、人生に深みを与えるもの。

しかし、凍りつき、そのまま留まり、”もうおしまいだ”って風になって、
自分が哀れでどうにもならなくなるようになると、
人はうつへと陥れられる。
哀しみとうつとを分けるものは、歪んだ考え(思考)で自己評価を下げてしまうこと。

歪んだ考え方だけが、あなたから希望や自尊心を奪う。

自分の意見、知性を尊重できれば無価値ではない。もし人が褒めてくれれば儲けものだ。

うつ病が個人のダメさ加減に対する罰であると考えることは
肺炎がそうであるように、「本当の自分」とは何の関係もなく、道理に合わないことなのです。

成功と幸せは同一のものでない。成功は幸せを保障しない。
中年期、あるいは初老期には幻想が崩れてくるので、治療を求めるケースが増えるのだという。

歪んだ考えを直す方法として、この本では、自動思考の日常記録を勧めています。

書くことによって、あなたを挫折させている根拠のない考えは、論理の灯にさらされます。
そして、考えの歪みを正確に見極め、助けとなる答えを引き出すことができるのです。

あなたが完全主義的で、非現実的で実現不可能な、自分だけの標準と暮らしているのなら、
モンダイは行動の中にあるのではなく、それを測るモノサシの方にあるのです

成功ではなく、あなたの考え方こそが気分を決める鍵。
あなたは自分「自身」とか、自分の「価値」を失ってしまうことを怖がっているのではないですか?
何を怖れているのですか。どんな怖いことが起こるというのでしょう。
大切なのは向き合い行動することであって、
「本当の自分」とか「個人の価値」という
まやかしの蜃気楼ではないのです。

だから、成功によって自尊心を満たそうなどと
空中楼閣を追うのはやめるべきです。

Some folk's got a vision of a castle in the sky
And I'm left stranded, wondering why.

 1997 McCartney Making of Flaming Pie Part 3/4

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七つの会議

2019年02月03日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

友人にすすめられたロッキーシリーズの最新作「クリード」を観に行こう、と
つまに言ったら、封切されたばかりの「七つの会議」が観たいというので、
それ程興味もなく付き合ったのだが、
時を忘れてしまう程に没入した。

気づいた時にはエンディングを迎えていて、
主人公の野村萬斎演じる八角係長の、心情を吐露するかのような独り語りで幕を閉じる。

 池井戸潤作品といえば、およそ一年前にも陸王を読んだのだが(陸の王、そして、空と海と)、
濃い内容を手元に置いて再確認できるように、パンフに加えて原作も購入。

七つの会議」予告
 

 立身出世的ヒーロー物語は、もはや時代にマッチしなくなってきたのかもしれない。
(我が身大事の保身家が序列上位を占めるような時代には、そこには讃えるべきヒーローがいなくなっているから。)

パワーハラスメントはそれだけに留まらない。
パワハラ土壌がモラルハラスメントを生み、投げつけた者勝ちになって、環境や人を混乱させる。
何が正しくて、何が間違っているのか。( Paul McCartney - I Don’t Know )

大統領がそんなにエライのか?否!、
トランプ大統領がそれを象徴している。
(政治的ヒエラルキーが全てを順位づける訳ではないのに、
一方向的パワーを持つから注意が必要だ。)

( ↓ )主題歌にはボブ ディランが使われていたが、私にはジョン レノンのNobody told meがピッタリに思えた。
もしくはポール マッカートニーのLive and let die(死ぬのは奴らだ)とか。

Nobody Told Me - John Lennon

Everybody's talking and no one says a word 誰もが喋ってはいるが、意味ある言葉は言っていない
Everybody's making love and no one really cares 誰もがセックスしてるが、本当に愛し合っている訳でもない
There's Nazis in the bathroom just below the stairs 階段を下りたバスルームのとこにはナチスが居るんだ


 

 

 

( ↓ )よくある自己啓発本とは趣を異にする。

荘子(タオ)の世界観がマッチするようになった。

流星ひとつ、そしてシンギュラリティの時代へと。

老子・荘子の考え方や生き方をタオイズム、それに従おうとする人をタオイストと呼ぶ

西洋を経由して再発見されたタオ(Tao)

( ↓ )これもまた、荘子の影響を受けたような内容。

” 無駄なプライドがひとをダメにする。”
” 常に淡々と楽天的であれ。”

 

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★★ 神スクワット ~ これまでとは違った自分の感覚への対し方★★

2018年06月09日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

今春(2018年3月)の入院以来、血管新生阻害剤(アバスチン)の副作用である高血圧に悩まされるようになって、
自分ではコントロールしようのない自律神経について、何か工夫できることはないかと考えるようになりました。

どこで読んだのか分からなくなってしまいましたが、
自分がどういう感覚でいるのか、どう感じているのか、微細にまずは観察することが大事。

私は、嫌な感じがあると、敢えて観ようとせず、それを味わうこともしてこなかったように思う。
(「★★『心は自分ではない』★★」というのも、やり方を間違えると、それに少し似ています。)

嫌な感じは、プラス思考的に上書きするとか、
半ば強引に、良い側面ばかりを観るような態度を取る傾向がある。

しかし、マイナス思考や嫌な気持ちになった時には、
一旦それを受け容れてから、観察するように味わってみると良いらしいのです。

そうすると、その嫌な気持ちがどの程度のものか、大そうなものでもないというような事が分かるようにもなるし、 
分かったうえで対処の仕方を覚えると、それはスキルにもなる。

( ↓ ) 横田真一プロは、自律神経のなかの「交感神経」と「副交感神経」の働かせ方について
   順天堂大学医学研究科の大学院で学ばれたそうです。

たとえば、「手のひらに熱い赤い点をイメージする。」
人間は温かくなると副交感神経が優位になって、眠くなり緊張感を和らげることができる。
同時に”熱い=赤い”ものをイメージすることで、交感神経を上げて、集中力を高めることもできる。

手のひらに集中することで、一点を見たり、立ち止まったりして、
交感神経、副交感神経を同時に高められるのだといいます。

私も、血圧をコントロールするような自律神経の働きが、自分本来のものではなくなっているのだから、
まずはその相手とするものに向き合って、ちゃんと相手を知る、ということが大切だ。
そうすれば、これまでとは違った自分の感覚への対し方も分かってくるはずだ。

 さて、王選手のルーティーンには、学ぶべき点が二つあるのだが、
前稿「
[2018年6月] 短くクラブを持って、振り遅れないタイミング重視のゴルフを。
で採り上げた一つ目に続き、
二つ目を本稿では少し深堀りしてみようと思います。

(貼り付けた映像は前稿と同じですが、同じ映像に二つ目のエッセンスも存在する。)

 一つ目 ~ 世界的なホームランバッターでありながら、打席でバットを短く持ってのルーテイン。
 (自分のタイミングでボールを捉える確認のためのルーティーンだ。)

 

 二つ目 ~ 大きな筋肉がある土台となる下半身を、丁寧に意識するルーティーン。

王貞治(巨人) 756号世界新記録

 

( ↓ ) 足をバットで叩きながら、安定した下半身の構えを整えています。 
   (これも、前稿と同じく、昔子ども時代にバッティングが得意だった頃、真似ていたルーティーンです。)

 

真髄・打つ 王貞治

( ↓ ) 重心をかけるのは、拇指球か、踵(かかと)かといったような話がここでも。
   (上半身背中側の大きな筋肉を覚醒するために踵(かかと)使い、
    そして前傾姿勢(スパインアングル)をキープして、球を捉えるために拇指球で踏ん張る力、
    双方が大切なのだと思うようになりました。)


 先日、友人に聞いたのですが、万歩計で測定すると、ほとんど歩いていない日であっても2000歩程度にはなるという。

 凄い数字だ。
  腕立て伏せだったら、せいぜい数十回レベルなのに、二千回とは (@_@。
  それほどに脚の筋肉は日常的に使って、知らず知らずのうちに鍛えているということだ。

( ↓ )私は凡そ5年前から、毎朝のスクワットを習慣にしているのだが、(夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~
   この「神スクワット」に、ドローインを組み合わせたりする工夫を始めた。(30秒ドローイン/腹を凹ます最強メソッド

王選手の一本足打法にも似た「ワンレッグ・バランス」。

これをやると、自分の安定感、スタビリティの弱い部分を自覚する。

私は左足一本のほうが右足一本よりもバランスが悪い。
腹斜筋や内太腿の筋力が均等にバランスよくついていないのだろうか。

これもまた、上述した自分の感覚への対し方と同じく、
自分の弱い部分を知り、向き合い、対していくことのように思えます。

 

「神スクワット」の基本は「ワンレッグ・バランス」や「ニーホールド・ランジ」にあると思うのだが、
 すみずみまで、鍛えることができる。
 鍛えるだけでなく、身体を柔軟にする効果もありそうだ。

 

そいえば、王さんが再婚された。


生涯一人の女性だけしか愛すべきではない、
というのはどこか偏狭で、美しい嘘を含んでいるように思う。

(ポール マッカートニーにしてもそうだ。)
そこがタガになって、他の女性に一所懸命になれないというのは、 何かが間違っているような気がする。
世界には愛の量が減ってしまう。
愛はそんなに道義的・社会的なだけのものではないはずだ。

Lady Linda McCartney

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神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す(再掲)

2017年08月13日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

神が宿る風景、このビデオとそこに添えられたメッセージに倍音を感じた。(アデルの倍音
自分ひとりではなかなか見つけられない、鉱脈にがつんとあたったような感動。

~ 僕は、祖母の手を握って笑う赤ん坊の無邪気な笑顔を神と信じる。
遠くでベンチにうつむいて座ってる人の風景を神と信じる。
コーヒーカップ片手に信号が青になるのを待ってる­人の何気ないしぐさを神と信じる。
路地に咲く花が揺れる瞬間を神と信じる。猫の目の瞬きを神と信じる。
道路に舞う茶色の木の葉を神と信じる。さりげなくめまぐるしい雲を神­と信じる。
月や海や夕暮れのような自然を神と信じる。人々の、さりげない笑顔を神と信じる。

自然な光景、それは二度と、永久に同じようには繰り返されない奇跡で、そのどれもが目を覆うような輝きに満ち溢れてる。
そして僕は、そこに神がいると心から信じてる。

Nujabes / Luv (Sic) pt.3 feat Shing02

人間はかなしみが本質であり、土台。
自分のなかにかなしみがあるのと同様に、他の人もかなしみを持っていることに目を向けてください。
そのかなしみに敬いの気持ちを持つことです。
それが人を敬うということではないでしょうか。

人を敬う、ということの明快な答えが示されているように感じた。(攻めの養生 ~ 声に出して身心を調える

この映像とメッセージ、生物学者の本川達夫先生にも重なるものがある。

生物学的文明論 (新潮新書)
本川 達雄
新潮社

「かけがえのないものに価値を置く発想を取り戻すために、私の範囲をとらえ直しませんか。」

生物学的に言えば、子供は私であり、孫は私。
私、私、私、と私を伝えていくのが生物であるはず。
(生殖活動によって生物は続くようにできているのだから、この利己遺伝子の欲求から逃れることはできないのだが、
私一人の私、という利己主義だけが本来の生物の生態ではない。)

科学が数式を使った客観性を重視して、質ではなく量で物事を測定するようになり、
貨幣経済は、質の違いを値札という量に置き換えて、物事を評価するようになった。
(この考え方に現代人はすっかり飼いならされてしまっている。)

より速く、より便利にという社会の要請に応えて発達したのがクルマやコンピューターといった文明の利器であり、
エネルギーを使って時間を速めることで便利さが増してゆく。

質(かけがえのない多様性)を量に置き換える、便利な考え方が行きすぎてしまっているのではないか、
本来、人類を幸福にするためのものであった技術の目指すべき方向が、
このままでよいのかを考えるべき時期に来ているのではないか、という生物学者からの提言。

地球温暖化も資源エネルギーの枯渇も、元々は石油をどんどん燃やして、時間を速めているのが原因。
人間の身体の時間はどの生物も15億回で心臓が止まるようにできていて変わらないのに、
社会生活の時間ばかりが桁違いに大きくなっていき、そのギャップが現代人にとって大きなストレスになっていると指摘する。

時間を環境問題としてとらえる、なるほどそういう見方もできるのかと思いました。

利己遺伝子の欲求を抑えることはできなくとも、
自分の身体が占める空間(環境)と、自分の身体の一生という時間、
それ以外は私ではないと捉えるのではなく、もっと私の見方を変えて、もう少し広く私をとらえること。
私をとりまく物や人といった環境は、私という生物にとってかけがえのないものであり、私の一部。
そして、自分という個体の命だけが私ではなく、次世代へと受け継がれ継続していく命もまた私の一部。

生物にはそのような回って続く時間があることを、現代人は見落としてしまい、
万物共通の絶対時間に、ただただ押し流されていくしかないという感覚が私たちの生きる上での重荷になっている、と言います。

そもそも仏教的な廻る時間という概念ではない
一方向に真っすぐ流れるニュートン力学的な絶対時間というのは、
神がこの世を創った時から世の終末まで、絶対的な神の時間が流れる、という信仰の産物であり、
古典物理学は世俗化したキリスト教とも言える一面を持っている、と。

時間とは実に興味深いテーマだ。
 

 <2012.131初稿>

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人生はライブである ~ ゲンスブールの違和感とビロードの滑らかさ

2015年10月24日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

「不安なんて幻想」なのだが、
不安情報社会では、何かが欠けていると「あなたは人間として失格なんじゃないの?」的な煽りの表現で、不安が増長されていく。
本当は沢山のものに満たされているのに、
他との比較で足りないものの不安に苛まれ、尖ったものを探し、足りないものを満たすことに大半の時間を費やす。 
太宰治人気は、人間失格という現代人を煽るワーディングにあるに違いない。

人生はライブだ、ライブ感を感じることが大切だ。
「不安なんて、大体は脳が生み出した幻想」なのだから、
今この瞬間に集中して力強くライブ感を持って生きることが、人生を切り拓く大きなきっかけとなる。

別にセルジュ・ゲンスブールの言葉ではなく、
彼は ” 人生は酒と煙草とセックスが描く三角形 ”だと言ったのだが、
安定した円さではなく、不安定な三角形的日常を肯定してみせるライブ感に、ゲンスブールらしさを感じるのかもしれない。

 

脳はそもそも不安を感じる場所で、
さらに不幸なことに、不幸せな状況であっても、現状維持をしようと働く。
よほどストイックでない限り、行動を起こせないのはむしろ当たり前で、行動を起こせない自分を責める必要はないし、
逆に不安を埋めようとする働きが、マーケティングや行動につながっていく。
武士は用事のないところには出かけない」というのは、詭弁でもないのだと思います。
決して無頼派を気取っているわけでもなく、不安を行動の動機としない構えのことを言っている。

「世界はそうやって動いているのだ」ということをわかったうえで、
「感じる力」を取り戻さないと、不安情報社会の奴隷になってしまうとの箴言。

誰かへの憧れと何かとの比較で今の自分自身をはかりながら、良い悪いを判断し、一丁前に落ち込んでみたりするが、
そもそも、自分の尺度を持ってないことのほうを恥ずかしく思ったほうがよい。

Serge Gainsbourg je suis venu te dire

trailerとして、よく出来た映像だと思った。
他の多くのビデオと違って、画像が綺麗だし、キッチュでプラスティックな世界感も似合ってる。

ジュテーム(ジェーン バーキンのコンサートには昔行ったことがある)で有名な、
” ウッフン、アッハン”も、やがてクリスマス・ジングルのように聴こえてくる。
ある意味、とてもライブな曲だが、車でボリュームあげて聴ける類の音楽ではない。
リビングでも聴きづらい。
バッキングのギターはリリカルで美しいが、 ゲンスブールは、ヘッドホン限定、あるいは密室の閉じた世界の音楽なのか。

Pull marine - Isabelle Adjani (piano solo)

ゲンスブールの作ったPull marine(ポールモーリアではない)の美しいピアノのシークエンス。
(フランス語で弾き歌うことはできそうもないが、滑らかな指使いの練習曲みたいにこれを弾けたらいいのに、と思った。
Tuto Piano: Pull Marine - I. Adjani Part. 1/3

この曲を聴いたら、
アインシュタイン・ファクターのメソッドに倣って、ゲンスブールと一直線に並んで、同じ視点には立てないものかと思えてきた。
(いつか日本語の詩をつけて弾き歌ってみたいのは)

女優のイザベル・アジャーニとの共作とされる歌詞(⇒ 「マリンブルーのセーターPull marine」)は、
まるで海の底に落ちていくレティシアのような世界感が、怖いほどに耽美的。(愛しのレティシア/太陽がいっぱい)
美し過ぎると怖くなるとはこういうことなのでしょか。
やはりゲンスブールはただのおじさんではない、純粋芸術のなり損ないなんかではない。

”水の底だけで輝くのではないマリンブルーの瞳を、視線もくれずに見分けてやって来る”というのは、どこかユア・ソングに似ている。

太陽はしばしの間暖かく、この世はかくも素晴らしい。
彼が素晴らしいと語るのは、あなたの居る世界であり、
自分の記憶すらあてにできなくとも、色を忘れてしまっても、
あなたの瞳がかつて見たなかで一番美しかったと語る。これは無私の歌だと思う。
(ヤマハの電子ピアノ P-105)

ジャスト・アイデアだが、Pull marineを弾いてから、Your songを歌えば、このうえもなくロマンチックだと思う。
瞳つながりのメドレーだとは、誰にも分からないと思うけど。

Isabelle Adjani - Pull marine + sous-titres

” 私はずっと、この残酷な世界でのアウトサイダーだ ”と彼は言ったが、
自らをアウトサイダーだと言ったゲンスブールの精神こそが純粋で、頽廃しているのは世界のほうかもしれない。

ゲンスブールが醸す頽廃の美学みたいなものは、
あまり実用的に役立ちそうにないから、敬遠しがちだが、
「ストーリーへの」期待感を持つことをやめる、という一点においては役に立ちそうに思える。

歳を経ると、いつまでもストーリーにしがみついてはいられなくなるものだと思う。
いつまでも成功譚ばかりではないし、起承転結の後はどうしたらいいのだ、ということになる。
ライブ感を持て、にも通じる。

成熟は、あなたが期待なしで生きはじめたときに起こる。
期待は幼稚なものだ。
期待を未来に投影しなくなったとき、あなたは成熟する。
実のところ、いかなる未来もなくなったとき、
ただ瞬間を生きるようになったときに、あなたは成熟する――
なぜなら、それは存在する唯一の現実だからだ。

すべての望みを落としなさいと言うとき、
私は未来の必要などなくなるほど、強烈に瞬間に在りなさいと言っている。

そのとき、そこに変化が、変容が起こる。
あなたにとって、時間の質そのものが変わる。
それは永遠のものになる。

  (「成熟は、あなたが期待なしで生きはじめたときに起こる」より))

私たちは、知らず知らずのうちに、自然と「聞き慣れたストーリー」や「分かりやすいストーリー」に惹かれていく傾向にあるらしい。
私たちは、多くの場合、安心したいと思っているので、
理解できること以外はなるべくなら受け付けたくないと思い、瞬時に楽なほうへ、楽なほうへと向かってしまう傾向にある。

そして私たちはすごい人のストーリー、完全な人のストーリーが好きだ。
太古の昔から、古代文明の中にも完全な存在を求めて神をつくってきた。
太古だけの話ではなく、カルト的な新興宗教にハマったり、タレントに強烈な憧れを抱いたりして、ヒーローやヒロインをつくりあげる。
私たちは、「完全なるものを求める生き物」という性(サガ)を持っている。

誰かが作ったストーリーが、どんどん大きくなっていくと、
「誰かの夢」や「誰かの価値観」に自分自身をも近づけようとして、
自分との比較で足りないものの不安に苛まれ、足りないものを穴埋めすることに大半の時間を使ってしまうようになる。
「ある」ものを見て何かを発展させていくのではなく、「ない」ものを求めながら、
勝手に自分で掘ってしまった穴を埋めようとしているのである。

こうして、私たちに内在している性や本質が、無意識のうちに思考力や行動力を蝕んでいくということが起こる。
自分の意思で選択しているように見える価値観と言うのは、
実は盲目的に思わされているだけで、楽なほうを選んでいるだけだったりする。

なんとなく違和感を感じる部分に、きっと自分に足りないところや弱さがある。

「ビロードのような滑らかさのゲーム」
――― 身体全体で”ビロードのような滑らかさ”を感じさせる。
     問題の部分があったら、その感覚に名前をつけてみて、どんな感じなのか意識に上げて、
     一、二分、深く滑らかに呼吸をして、体をなめすように、ゆっくりとそれを味わい、楽しんでみる。

「マスターマインド」
――― ナポレオン・ヒル博士がやっていたように、
     自分が尊敬したり、学んでみたい人たちと、一緒にいるという想像力を働かせてみる。
     彼らに備わったそれぞれの素晴らしい要素に敬意を表して、
     イマジネーションの中で意識を分かち合う。
     脳は独立したモジュールのような構造を持っていて、一人の人間であっても、
     複数の人間を調和させた「マスターマインド」を持つことができる。

「ミーム」を育てて行こう。

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筋膜(Fascia)ライフ

2015年08月23日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

” 筋肉や骨などの構造だけを見ていても十分ではありません。"

目鼻口耳といった感覚器官を含めた、身体構造の全体を支える「筋膜システム」の鍛え方。

武術やスポーツでは、感覚器官はどちらかというと鍛えようのない急所や弱点とされ、
骨や筋肉に比べて、ないがしろにされている感があります。
しかし、スポーツのパフォーマンス向上やメンタルの安定化のうえでは、要となる急所。

心身一如と言いますが、感情にもっとも働きかける感覚器官を含めた身心調整の技法として、
これほどに統合化され、具体化されたメソッドは初めてかもしれない。
以前、腰割や能の身体運用についてのメソッドを受講しに伺った安田登氏が推薦文を寄せているのにもびびっと来ました。

(心の時代の次へ ~ あわいの力)
(能をやっていて一番よかったと思えるのは、自分の成果を気にしなくてよくなったということ)

 

米国生まれのボディワークである「ロルフィング」をベースにした身心調整法の探求。

「ロルフィング」のことをあまり信じようとしていませんでした。旧ソビエト軍のシステマに似た匂いがするような気がしたからです。 世界最高峰の技術は得てして軍事産業から生まれるが、身体操法についてもそうなのか。 東洋の古武術にある累々とした教義の重なりが、システマチックにノウハウ化されるものなのか。筋肉や骨の使い方ばかりを追い求めるが、目鼻口耳や皮膚といった感覚器官とそれらを含めた筋膜全体で捉えることが大事らしい。

 「普遍的でありながら共有されにくいところ」を技法化する、素晴らしいアプローチだと思います。

毎日の腰割やスクワットに取り入れて、感覚器官や筋膜システムに意識的にスイッチを入れる習慣を持とうと思います。

( ↓ )   ~ This is Life ~

生命体のありとあらゆるものを包み、つなげている筋膜(Fascia)。 ~ 筋膜とは

身体全体に張り巡らされたネットのようなものが筋膜で、
身体中のあらゆる組織(筋肉、骨、内臓、血管、神経など)を繋ぎ、
ネットの張力で身体の構造全体を支える。
筋膜を、個々のミクロな構造体やポケット状の単体の組織としてではなく、
分断された筋肉群や骨格を、一つのhuman-beingとしてつなげ、生命構造を支えているシステムとしてとらえる。

(字幕オンにすると、作者の驚きがピュアに伝わってくるよう。)

FTM 2014 June - Views of the living Fascia

身体をグレープフルーツにたとえた映像が出てきますが、筋膜はゆで卵の殻むきにも似ているように思います。
全体を包む薄膜の扱いは、少々のコツでうまくいく。

身体の縦の繋がりを感じる

鼻の奥にある篩骨(しこつ)という立方体の骨は、匂い(嗅覚)の通り道になっていて、
この篩骨から尾骨までの筋膜は一繋がりになっている

筋膜はちょうど布団のシーツのようになっているから、
シーツの隅からでも、離れた場所にある筋膜のシワ(癒着)に働きかけることができる。

ロルフィングでは、「重力」との調和を取り戻すことによって身心の質を変えていくが、
身体の縦の繋がりに重力はダイレクトに働く。

「からだが適切に機能すれば、その中を重力の力が流れます。」(アイダ ロルフ博士)

未だ十分に解明されていない重力というフォースを侮ってはいけない。

地球環境の中で、どこへ行っても、何時も変わらない、唯一つ不変の力。

少なくとも私たちは、重力の中で生きる、重力に適応した生命体だ。

鼻はセンサーであり、洞窟である

左右の上顎骨を指で押さえ拡げながら鼻呼吸すると篩骨にスペースができて、篩骨周辺を意識しやすくなり、
そこから縦方向の膜の繋がり全体が反応し、尾骨の動きを感じ取れるという。

(この縦の膜の繋がりは、胚子の段階で形成される原子線条と呼ばれる中心線に由来し、身体全体の正中線のセンサーになっているという。
篩骨は空間の中における方位磁石のような働きをし、「鼻筋の通った動き」というような正中線の通った堂々とした身心の方向付けを担う。)

鼻を鼻筋や鼻孔(鼻の穴)だけではなく、鼻腔全体に拡がる洞窟だと意識することで、
目がスッキリしたり、呼吸が深くなって、お腹が動き出すということが起きる。

鼻をそんな風に捉えたことがなかった。
(鼻の絵を描け、と言われて、空洞だらけの鼻腔の絵を描くひとはまずいないと思う。)

鼻の奥の空洞を意識して刺激を与える、というのは、口角への刺激や、倍音声明、
顔の中心線で意識を整える「ひふみ体操」に通じるものがあります。
(夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~)
(骨ストレッチ×倍音声明 ~ 體使いへの道)

魑魅魍魎とした「感覚」を掴むためのヒントが沢山。


「筋膜システムをオンにする」3つのプロセス

1)手を体に置いて、その重さが「沈んで」くるのをイメージする。
2)手を置いた場所の少し深いところが溶けるように緩んでいく「流れ」を感じる。
3)筋膜を介して他の部位との繋がりが拡大し、緩んだ筋膜のシートが大きくなり、
  そのシートの弾性が引き出されて自発的な動きや衝動が起こる。
  たとえば前屈時に臀部の筋膜シートを拡げることで、前屈が自然と深くなったりということが起きる。
  筋膜のシートをもっと広い空間に「拡げて」いくことで、動きの質がダイナミックで自由なものに変わる。


 

 内田樹先生の言う「動きに甘みが出てくる」とはこのような動きの変容を指すのでしょうか。
(「倍音声明」体験へ)

沈む感覚を手掛かりに筋膜を活性化するメソッドの他に、ぜひ取り入れてみたいと思ったのは「目」や「視線」をつけるメソッド。

「視線をつけて」動きの質を変える。空間の捉え方を変える。

( ↓ ) バレエには「首をつける」という表現があるそうで、視線で空間を切り開いて、その方向に腕を伸びやかに導いていく。
    視線を使わないで行った腕の動きと比べれば、違いは歴然だといいます。
    必ずしも、目で見ることができない体の部位であっても、視線をつける意識を持つことで動きが変わる。

1ミリ動くのに数秒かけるくらいのつもりで、じっくりと自分の身体の中で起こっていることに注意を向けると、
身心の中で起こる緊張のパターン(身心のクセ=ホールディング)に気づき、徐々にその緊張を手放すことができます。

この時、緊張が特に多くあるのが、首から上、目鼻口耳に集中しているのに、そこが盲点になりがち。
目の動きの他にも、たとえば、足上げ腹筋(ニーアップ)の時に、口や鼻を連動させて、お腹のコアを緩ませる。
実際には無理でも、膝のお皿に舌を伸ばして舐めるイメージを持つと、表面の筋肉が緩んで、自然と膝が上がってくる。

 

目鼻口耳や皮膚などの感覚器官を意識的に使い、筋膜システムをオンにして、
新しい身体の使い方や感じ方を身につける”、
”自分自身とからだとのつながりが深まり、精神的・肉体的により統合された状態へと変化していく。” 

 故障でロング休暇の後半一週間お休みでしたが、休暇明けの明日から野菜の酵素パワー習慣も再開します。

 

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「借り物の時間」のなかで「分人」を生きろ。

2015年07月18日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

「借り物の時間」のなかで「分人」を生きろ。
確固たる自己などというものはなく、その時々や関係性のなかで生まれてくる分人を、どう育てるか、それが問題だ。

Borrowed Time (Acoustic) - John Lennon

英語のborrowed timeという表現には、どこか、” 主体的に生きる自分という固定観念と矛盾をきたす ” 感じがある。
でも、「時間も身体も心も借り物だ」という感覚を持つようにしてみると、呼吸の仕方や、感情の発生の仕方まで変わってくるようにも思えます。
一方向にただただ流れる絶対時間に従うだけではなく、
時間や感覚と、自分との関係を、「分人」として場面ごとに切り分けていく。時間意識を書き換える。
(
修業論 ~ 無敵とはなにか)
(心の時代の次へ ~ あわいの力
)

 

学校での分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。
それならば、その放課後の「分人」こそを足場にして、生きる道を考えるべきである。
それを多重人格だとか、ウラオモテがあるとか言うのは、
放課後まで学校でいじめられている自分を引きずる辛さを知らない浅はかな人間だ。
学校での自分と放課後の自分とは、別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?
自分を愛されない人間として本質規定してしまってはならない。それはあくまで、その人間との関係の問題だ。
もし、新しい分人が自分の中で膨らみ、自信が持てるようになったなら、そこを足場にして、改めて過去の分人と向き合ってみればいい。
「人格は一つしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。
私たちは、人や環境との関係の中で、新たに分人化する。

「個人」という単位で自分を捉えるのではなく、「分人」という単位で捉えていく、「個人主義」ではなく「分人主義」。

啓蒙書の挿絵風になってしまったが、日帰り会津の猪苗代湖畔。 

確かに社会に対して個人というのは、政治や経済を考える上では有意義な考え方だった。
唯一絶対の神に向かい合うのは唯一本当の自分であり、
個人という概念は信仰と論理から導かれた、いわば人工的な人間観だった。

でも、もうそろそろ良いんじゃないか。
もっと現実に即した、新しい概念を基準に、自分のこと、他人との関係を考え直しても良いんじゃないか。
すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
日常生きている複数の人格とは別に、どこか中心となる「自我」が存在しているかのように考える。
複数の人格は表面的な「キャラ」や「仮面」に過ぎず、「本当の自分」は、その奥に存在しているのだと理解しようとする。
この矛盾のために、私たちは思い悩み、苦しんできた。
たった一つの自分など存在しない。

対人関係ごとに顕れてくる、それぞれの自分(分人)がすべて「本物の自分」である。

この「分人」という概念を、単に気分を紛らわすためのものではなく、
もっと積極的に採り入れてみても良いのではないかと思わせるエピソードも紹介されていた。
言葉を通して人は考えるから、言葉は想像している以上に人間を規定する。
「分人」という言葉は、規定された世界観から、多様性を引き出す可能性を秘めているように思える。

~私は大学生の頃、二年間ほぼ毎日のように、アパートの近所のコンビニに通っていた。
そこでいつも顔を合わせる店員は、私と大して歳も変わらないくらいの大学生だったが、
彼とは会話らしい会話をただの一度も交わすことなく、そのまま私は引っ越してしまった。
もし、人を介した飲み会ででも出会っていたなら、私たちは、お互いに、別の分人を生じさせていたかもしれない。

どんな「分人」を生じさせるのか、
どういう関係や環境を生じさせていくのか、それは相手次第なのだが、
それは自分次第でもある、ということを考えさせられるエピソードです。
育てきれずに消えていく「分人」のなかに、育てるべき「分人」が沢山いるのではないか。

( ↓ ) 「借り物の時間」にいるのだと思うと、身が軽くなる。
    前から気になっていたサバイバーシップ・ラウンジに参加。(治験ホールアウト)
    会社とは違った形での社会参加、育てるべき分人を引き出そうとしているのかもしれません。

 

( ↓ ) ジョン レノン×アル パチーノという、私的には夢のような組合せ。
     「自分の出演した作品を観て、初めて泣いた(アル パチーノ)」。

9.5公開 映画『Dear ダニー 君へのうた』予告編

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ニュートンがリンゴを見ていて気づいたように

2015年02月21日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

さて、主体的に時空を書き換えるためには、対象である空間をどう認識するかということが大事なのでした。
物理的な世界は変えようがなくても、自分の認識する世界をコントロールすることならできる。
(イマジンの世界観

空間をどう捉えるか、というテーマについて、
能や武道、バレエといったものは、頭だけではなく身体的実感として、空間を認識したり制御したりする方法の宝庫だと思う。
バレエに関して言えば、能や武道以上に日本人男子の私には親しみのないものだから、かえって気づきに溢れているかもしれない。
(バレエがデフォルメするものをエトワールに学ぶ)

一方で、この映像を見ていると、東洋的な、阿修羅像の動きを見ているようでもある。

Nicolas Paul / Pierre Rigal / Edouard Lock - Trailer

ニーチェは「踊っている時にだけ最も高いところの物のシンボルを読み取ることができる」と言っている。

自分の本を「譜面」と呼んだというニーチェは、ショパンのピアノ曲を愛し、
” 作品の世界を耳から入れながら、自分の音叉を叩き、それが自分の身体に合うものかどうか、
  自分を強くするものかどうかを確かめた。"

ニーチェやサルトル、バルトといった哲学者はピアノを弾くという習慣によって、
三人それぞれに「世界に対する何らかの姿勢」を身につけたといいます。
哲学というと、頭でっかちな論理や理屈ばかりを連想しがちだが、本当はとても身体的なものなのだと思います。

「ピアノを弾く哲学者」にあった美しい文章、
人の姿勢のようなものについての示唆を含んでいる。

三人とも独自のリズムを追い続け、そのリズムが其々の気分と解決法によって世界のリズムともつながっていた。
そうした姿勢があったからこそ、三人は世界について人とは違う考え方を持つことができた。
人とは違う方法で世界にリズムをつけ、世界を聴き、世界に触れることができた。

バロック音楽の癒しについての竹下節子さんの本から。
一定のイメージを強要されると、人は窮屈に感じるようになる。

多様性の海の中で溺れたり、漂流したりする人が多い今の時代に、バロック音楽がバロックバレエと共に再発見されたことは大きな意味を持つ。
マニュアル化された生き方とか、メディアによって与えられる理想の体型とか、若さと健康のファシズム、
克服すべきストレス、癒されるべき落ち込み、などという言葉に囲まれていると、
「他者とは違う自分」を認めて、工夫し、しかも他者といっしょに何かを共有したり創造したりできるという楽観主義をたたえたバロックのエスプリにほっとさせられる。

そして、その後になって綴られる文章の美しさは、共通するものを含んでいる。
あっちこっちがほころびていても、手元にある、ありあわせを都合よく組み合わせて、
”若さと健康のファシズム”なんかにめげることなく、なんとか格好つけながら生きていく。

私たちの存在を規定し、縛る、時間と空間の檻。その扉が放たれ、
外の空気も匂いもざわめきも流れ入ってきて、見上げれば、どこまでも高い空が広がっている。
そこにはリズムもメロディもハーモニーもありそうだ。
それを知ったから、私たちは、それぞれの時間と空間をやっぱり背負い直して、
調子が狂ってきしむ弦や、思うように動かない指をかかえながら、
少し歩き、少し停まって少し踊り、笑い合っては、遊び続ける。

  

フランスでは「キネジテラピー」と言われる、一種の整体のような運動エネルギー療法がポピュラーらしい。
人間の体をホーリスティックにひと繋がりの全体とみなして、筋肉や骨格のエネルギーの流れをつかんでいく。
キネジテラピーはとても実用的で効果的なものと認知されていて、" 舞台活動での困難に出会う音楽家 "のストレス管理に使われているそうなのです。

心身統合的なバレエの動きは、座禅というよりはむしろ気功に近く、「動き」の中でたえず脳と体の間のフィードバックを確かめる。
『作用と反作用』という関係性の中で全体をとらえる。

バレエというものは静的で「没我型」のメソッドではなく、動的で「関係性」に立脚したメソッドなのでした。
たとえば、禅でいう虚空のイメージとは違い、相手との関係性のなかで、空間を濃淡を持ったようなイメージで捉えている。

聴衆との関係でストレスがある音楽家には、スパイラル・テストというものを試してみる。
自分と聴衆の関係を螺旋でイメージして、その螺旋を観ながら、
どのあたりに聴衆がいるのか、

その螺旋は震えているのか、どうあれば自分は満足なのか、と質問を重ねていく。
演奏家は螺旋の形を修正しながら、自分と聴衆とのエネルギーの流れやコミュニケーションの関係の全体をイメージしていくのだ。
聴衆とのコミュニケーションがうまくいってない演奏家に、どんな空間で演奏してみたいかと聞くと、
安心感のあるピラミッドや閉じこめられた球体の中だとかいう答えが返ってくる。
ピラミッドの向きを変えたらどんな感じがするのか、球体に穴をあけてみるとどんなイメージになるのか、
ホールの中で不安を感じる歌手には、どのあたりが怖くて、そこに明かりをつけたらどうなるのか、と質問していく。
ベースには人とのコミュニケーションを願っているわけだから、必ず自発的に殻は破るようになる。
自尊心やエゴイズムに立脚した小手先の技術であってはならない。
演奏の場を自分のエゴに閉じ込めないで、
観客やホール全体と一つの体だとイメージして、その中でのエネルギー配分を感じさせるのだ。

私の範囲を広げていく、という考え方にも近いような気がします。
(神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す
(螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪

バレエの身体使いを意識しながら、揺れる電車の中でバランスの取り方に気をつけながら立っていると
まるで、ニュートンが重力の中で落ちていくリンゴの振る舞いにハッとしたように、
 揺れる電車の慣性モーメントの中で、バランスよく力を込めることのできる足使いにハッと気づくものがありました。

運動神経にはいくつか種類があるかと思うのですが、
私はその中で、どうもバランス感覚があまりよくないのではないかと思っています。
よくつまずくし、揺れに対する耐性が弱くてバランスを崩しやすい。いわゆるstabilityに欠ける。
そんな私ですが、内股気味に股関節を入れると、電車が揺れてもよろよろせずに、揺れに対応できる。
ちょっと爪先を内側に向けるとバランスの良い箇所を探しやすくなる。

(ゴルフに置き換えてみます。)

ゴルフのスタンスはふつう爪先を外側に向ける。
爪先を外に向けた、がに股気味のアドレスが普通ですが、
それだと足裏の拇指丘に乗る感覚が掴みにくい。
しかし、爪先を内股気味にしてみると股関節から足先への裏筋に力が漲って、拇指丘に自然と体重が乗る。

逆にいつもやるように、踵に体重を乗せるためには、爪先をどう向けたらいいか、とモソモソやっていると、
これは骨ストレッチ、股関節のストレッチ、にもなっていることに気がついた。
毎朝取り組んでいる腰割スクワットでは想定しない動きであり、歩き方のバリエーションを広げる工夫にもなる。

(骨ストレッチ×倍音声明 ~ 體使いへの道)
(螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪)



さて、バレエの動きを見ていると、一見優雅に見えて股関節への衝撃は半端でなく、股関節のヒンジ部分には疲労が蓄積していくんではなかろうかと思う。
テニス肘があるなら、バレエ股がありそうに思えるくらい。

長年続けても股関節を磨り減らさずにいるというのは、
あの動きのバリエーションが逆に、股関節への偏った一方向からの衝撃を防いで、股関節を均質に使い、
動きそのものが股関節のストレッチになっているのではないかと思えてくる。

ゴルフのアドレスにしろ何にせよ、固定した型を求めると、どうしても、静止系の空間の中での振る舞いをイメージしがちだが、
たとえば揺れる電車の中は静止した空間ではなく、慣性モーメントという目に見えない力の場が存在する。
そこで良好なバランスを取る足使いには、がに股ではなく内股気味の違った型のほうが馴染みが良かったりする。
これはまさしく、足使いを通じて、空間からのフィードバックを受け取っているという体験そのものではないか。

歩くときに、爪先を内側に向けたり、外側に向けたり、ローテーションしながら歩くと、
漫然と歩く時間が、よいトレーニングの時間に変わりそうです。
足の筋肉の表筋と裏筋をバランスよく使ったり、股関節の可動域を拡げる下半身の骨ストレッチという側面だけではなく、
歩くことを通して、空間からのフィードバックを受け取り、自分の音叉を叩き、空間を制御することを学ぶという側面がありそうです。

( ↓ ) 空間との対話。暗闇や静寂のことを歌っているが、見えるものも聴こえる音もある。

   ニーチェの音叉で測って私を強くするものかどうかを確かめると、意外にも強いメッセージだった。

no one dared to stir the sound of silence
だれも無音の音をかき乱そうとはしなかった
"Fools" said I,
”このばかちんども!”と私は言った。

Simon And Garfunkel - The Sound Of Silence (with lyrics)

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バレエがデフォルメするものをエトワールに学ぶ

2015年02月15日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

『ひとは主体的に時空を書き換えることが出来る』、
『空間を歪ませたり、撓ませたりすることで、「間」の世界を作り出す』、というが、
そのためには、対象となる時空や空間というものを、確りと認識し、把握することから始めないといけないのではないか。
学ぶためには、学ぶ対象について意識的であることが重要です。

普段とは違う非常時にも似た特別な「間」の世界を作り出して、異界へ接する足掛かりにする。
緊急時にならないと発動しない人間の無意識領域までも動員して、別の段階の次元へと飛翔する。
(「倍音声明」体験へ

馴染みのない世界に多少なりとも触れる、ということは、
何も知らないだけに、知るものや得るものが多いように思います。

フランス・バロックやバレエの世界というのは新鮮です。
目指す高みには分野に関係なく共通するものがきっとあると思うのですが、
武道やゴルフ、能楽といった切り口ではなかなかにクローズアップされてこない部分があったりするような気がします。
たぶん、其々に、強調されデフォルメされている部分が微妙に異なっている。

フランス語環境に育つ人の耳は1000~2000Hzの音を選択的に聞くが、
英語環境の人は2000~12000Hzを聞く。
フランスのアルフレッド・トマティス博士によれば、選択的可聴音域がもっとも広いのはロシア語で、
これがスラヴ人が外国語を簡単に習得できる理由らしい。
音の聞こえ方の不思議を見ていくと、人の生き方の充実にも、きっと色々なレベルがあるのだろうとつい考えてしまう。

ひとは選択的にデフォルメされた部分の情報を意識や無意識に入れる。
そのレベルは人によって違う。訓練することで、意識的になることによっても、違ってくる。

恥ずかしながら、エトワールがパリ・オペラ座の最高位のダンサーのことだってことも知らなくて、
せいぜいお菓子かパン屋さんの名前に冠される美味しさの称号みたいなものか程度にしか思っていませんでした。
そもそも、オペラはイタリアが本場ではなかったか、パリ・オペラ座って何よ?ってくらいに無知。

Trailer - Les Étoiles du Ballet de l'Opéra

ヨーロッパのバロック音楽の中で、いわゆる「歪んだ真珠(バロック)」として揶揄されてきた部分はフランス・バロックで、今日のクラシック音楽に直結する整然とした古典主義の部分がイタリア=ドイツ系のバロックだと言います。
イタリア=ドイツ系のバロックは、アルペジオや上昇音階だの下降音階だのといった、基本になる音楽の秩序や和声を、部品のようにつなげたり繰り返したりして、音楽の純粋な論理に従う構築物を作るようになった。

興味深いのは、今日のクラシック音楽的な秩序のベースにある平均律は、近代が神や神学を捨てた「割り切り」による「人工的スタンダード」だという見方。
ピタゴラスは「音楽の問題を解決するものは宇宙の問題を解決する」と言ったが
音楽にはハーモニーのようにシンプルな振動の整数比の関係ばかりではなく、
シンプルな美しい数字を与えることができないというフラストレーションが存在する。
人間の情緒や快不快に影響を与える原因になっている音と音の関係を、
天球の音楽の如く、大宇宙と照応させようとしても美しい数学的解決にはならない。
(十二音階の狭間に在る音
(グレゴリアンのように倍音声明を謡おう
(「倍音声明」体験へ

円のような完璧な美しさをたたえた図形の円周率や、
自然界の至る所に見られる黄金比のような、神による創造の調和の秘密を、
明快でシンプルな「割り切れる」整数比で説明できないというジレンマ。
(パイ(π)は宇宙のすべてを知っている
(生命に宿る黄金比とらせんエネルギー

平均律という「割り切り」によって、心と体、知性と感性が動員されるという「心身統合的な」音楽観は次第に欠落していき、
ロマン派のように精神性の高みを求める音楽、プリミティブな体感を求める音楽、という風に分化し、
移調や大量コピーが可能になった音楽が近代以降に溢れるようになったが、
演劇的な踊りが優先されたフランス・バロックは、
近代化から取り残される一方で、古来音楽の中にあった身体感覚を失わなかったのだといいます。

おぉ、これはロマン派とプリミティブの狭間にあってあまりにフランス的だ。

Le Parc - Aurélie Dupont

歌として独立して磨かれ、豊かで親しみやすいメロディを持った、むしろイタリア的なものに惹かれるのですが、
(太陽がいっぱいのニーノロータ然り、ニューシネマパラダイスのエンリオ・モリコーネ然り、フランス映画であっても、イタリアの音楽がついてるのがよい。)
共感覚的な、色彩感覚や不協和音を音楽に持ち込んだ、フランス音楽の分かりにくさの理由は、「五感の統合芸術」だったからなのです。
「歌のイタリア、踊りのフランス」と言われるくらいで、イタリアの歌のような表情豊かなメロディではなく、音についても印象派的でどこか掴みどころがない。
たぶん、音楽に限らず、フランス的なものには、一体化した身体性が及んでいるのだと思います。

今やロックやポップスは言うに及ばず、ロマン派や近代以降の芸術に浴することがほとんどすべてなので、
ロマン派以前の、感性と知性、心と科学が分離されていない身体性や心身統御のテクニックに再発見するものは多そうです。

~ ロマン派風な個々の人間の感情や感性の表現ではなくて、人の感性のメカニズムに注目するのだ

~ クラシックのように「完成」していないので、自分が参加して作っていけるところがいつも半分は残っている。
演奏に楽器やテクニックの部分が大きくなく、作曲者の感情や感傷を垂れ流す必要もないから、
ロマン派風の、「心をこめて」、の至上命令に従わなくても済む。
一点のミスも許されない力業で大建築を仕上げるわけでもなく、
たえず不均衡が生まれてはそれが解消されていくことが一種の生命の脈動になっている。

安定せず、作用と反作用が平衡を作り、有機的だ。
「ズレ」や「溜め」をうまく扱わねばならないので、脳と体の間で常にフィードバックがある。

なんだか、ロマン派がぼろぼろに言われています。
私はロマン派の音楽は好きなので、諸手をあげて賛同もしにくいのですが、少なくとも、ゴルフにロマン派的なものは不要だと思います。

「作用と反作用」やフィードバックによるコミュニケーション辺りは肝です。

学ぶところはやはり多そうです。(続きます)

Elton John - Someone Saved My Life Tonight

”僕を救ったプリマドンナ”

プリマドンナはオペラの女性歌手、バレエでは女性プリンシパルはプリマ・バレリーナ、またはエトワール(星)であって、プリマドンナとは呼ばない。知らなかった。

~ ところが僕の耳に、素敵な自由がささやいたんだ

” 君は蝶々  蝶々は自由に飛ぶ

 飛び立つんだ 空高く バイバイ”

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バッハの少し前までは、中の三本指しか使っていなかった

2015年02月08日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

西洋文化にも、東洋的な心身調和の時代があった。

バロック時代のフランスには、東洋のヨガや瞑想などにも通じる「心身の統一理論」のひな形が存在した。

それが「バレエ」。

Sting - Prelude From Cello Suite. No. 1 (G Major)

フランスのバロック音楽は、バレエという体の動きと音楽との関係を通して、
歌い踊り、泣いたり、失神したり、
心身体験を自由に引き起こす知的な喜びであり、「心身統御」の機能を持っていたという。

「我々が書物の中で不思議な冒険を読んだり、芝居で観たりする時、それは我々に悲しみだの喜びだの、愛だの憎しみだのを喚起する。
しかし、我々はそのようなパッションが生まれることを喜びと感じる。
それはパッションから得られる知的な喜びであり、悲しみからさえも得られるのだ。」(デカルト「情念論」)

悲劇を観て涙を流しても、本当に悲しいわけではなく、人は満足して劇場から出ていく。
そこではパッションは受動的ではなく能動的なもので、
心身体験であるパッションは、内側から人工的に、自在に作り出せるのだから、
心身体験はトレーニングするように学び得るものだということになる。

ロマン派的な慟哭や個人的な感情の噴出でなく、能動的に湧き上がるパッションをコントロールする。
アクシデントのような感情に翻弄されるのではなく、感情をパッションとして予め想定する。

" 世界と自分の体と知覚とを同時に発見しながら、この世を細部まで充全に生きることの心地良さをたえず確認していくという手続き。"

意外にそんなことを言う人はいませんが、感情を体験し学ぶ場としての芸術、と言うと芸術の効用が分かりやすくなる。
(別にそんな分かりやすいものにならなくてもよい、とも思いますが。)

( ↓ ) 今回は主に竹下節子さんの本から引いていますが、古今東西の多くに取材した内容の濃さは、勇崎賀雄さんの「阿修羅の呼吸と身体」にも通じます。バレエの動きと阿修羅の姿にはどことなく重なるものがあります。     

バロック音楽についての本なのですが、ヨガの手印(ムドラ)にまで話は及びます。
下図は、音楽の演奏家のためのキネジテラピー(運動エネルギー療法、整体の一種)として紹介されているムドラ。
帆のように立てた小指と軽く曲げた親指で中三本の指をはさむ形を作り、
”私のアートは私のエゴと深い部分の私とをつなぐ橋だ。私はせせこましい理屈から自由になって表現のすべての可能性を追求するぞ”
と表明することで表現力が高まる。

この本では、マリー・ジャエル(ビリー・ジョエルに似てる)という
ロマン派の時代に生きた女性作曲家・ピアニストによる先駆的なピアノメソッドについても紹介されているのですが、
面白いことに、そのメソッドの教える手のポジションにこのムドラが似ている。

マリーのメソードは、親指と小指をその両端に弦を張った弓のように構えよ、という。
親指と小指は緊張して引き合うが、安定していて、硬直はしない。
人間の体は硬直すると疲れるけれど、逆に完全に弛緩しても休まるわけではない。単なる弛緩は死につながる状態だ。
親指と小指を固定して筋肉に緊張を与えておくと、それは運動させておくのと同じように力の源泉になる。
意図した静止はこわばりとは違い、深い思考が育まれる場所なのだ。

さらに言えば、これは親指と小指で骨の節々を押さえる「骨ストレッチ」にも似ています。
(骨ストレッチのゴルフ ~ ゴルフの真髄へ

親指と小指は本来弧を描いて支えるようにできている。
この二つの指の間に正しく自然な緊張が保たれていれば、残り三本の指は安定したまま自由に動ける。

~ それまで一種の格闘技のように無理やり従わせていた指が、本来のバランスを取り戻して有機的に動き始めた。
これまで機能も形も違う五本の指を同一のハンマーのように動かして弾いていた打鍵は、親指と小指に支えられた間でドミノのように連なって往復する波動となる。
事実、この方法を応用すると、今までピアノの習得が困難だった人、まったく楽器をさわったことのない大人、各指の運動分離がうまくできない子供、指が自由に動かない高齢者などにも、ある種の曲がたやすく弾けるようになる。
独立性の低い小指を無理に引き上げなくとも、
手首や腕全体を動員できるし、中三本の長い指だけでメロディを作ってもよい。
実際、バッハの少し前までは、オルガン奏者は中の三本指しか使っていなかった。

五本の指を均等に使わなくてはいけない、というのも思い込みなのでした。
五本の指の独立や分離ばかりに気を取られるのは本末転倒です。

「私は完璧に弾く権利がある。私は完璧に弾ける。私は完璧に弾くことを自分に許そう。」

これです、「私の定義の範囲では完璧です。」

ゴルフにも使えそうです。
五本の指が使えない奴に完璧なゴルフをしたなんていう権利はない、という発想ではありません。
三本しか使えなくても、完璧なゴルフをする権利を、少なくとも自分の定義としては認めてあげる。

JAËLL Marie - Sonate en la mineur pour violoncelle et piano

「無意識の領域を含めた自己実現が大切だ」(河合隼雄)

といいますので、そこのところの鍛え方を具体的に知りたいのです。

 マリーは68歳でソルボンヌの物理、生物学、植物学、数学の講義に出席している。
「芸術と科学は、無意識の世界と戦う、という共通の目的を持っている。」

いわゆる芸術家の直感や霊感というのも実は意識下の理性の働きなのだ。
知性を鍛えることで無意識の世界に分け入り、ひいてはそこに基盤を持つ「心」も広げることができる、とマリーは考えた。
マリー・ジャエルのメソッドは、フランス・バロックの心身統一理論の伝統の上に咲いたもっとも魅力的な花の一つである。

書き足りませんが、「言葉」(キュー・ワード)を使った心身統御法や、呼吸法については、以前読んだ「ジュリアードで実践している演奏者の必勝メンタルトレーニング」にも共通する部分が多いので、またジャンル横断的に記事にしてみようと思います。

 

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「倍音声明」体験へ

2014年12月31日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

今年の2月、成瀬雅春先生の「倍音声明」について書きました。(キラキラ光る倍音とは
本の付録に付いていた倍音声明の様子が録音されたCDを車中でかけて聴いたりしていました。

  

内田先生は、倍音声明の効用についてこう語っています。
~ 20年前、成瀬先生に倍音声明を教えていただいてから、ずっと合気道の稽古に取り入れています。
  響きが身体に染み込んできて、じゅうぶんに振動を与えてから技に入ると、動きに甘みが出てくるんです。
  
よく呼吸を練り込んでおくと、動きに甘みと粘りが出てくるんです。  (内田 樹)

私の場合、タルセバの副作用であるしつこい下痢が見事に治まったので、これはすごいかもしれないと思って、
以来、朝の野菜ジュースを作っている間などの空き時間を使って、” ウー・オー・アー・エー・イー”という母音を小声に出しては、
倍音声明を毎日の習慣になるだけ取り入れるようにしています。

倍音声明の良いところは、「声に出さないさらに強力な倍音声明」という方法があること。
いちいち、声に出すのでは、時と場所を選びますが、声に出さなくてよいなら、隙間時間を利用して手軽にできます。

ヨガの世界では師から弟子が、マントラ(真言)をもらい、
そのマントラは、生涯声に出してはいけないとされているために、弟子は誰にも言わず、誰にも聴かれないように、
生涯、頭の中で大切にマントラを唱え続けるというのです。
そして、実際に、ウーオーアーエーイーと頭の中で唱えることで、体内に振動が起こるのがつかめてきて、
そうなれば、その倍音声明は、声に出すより遥かに強力になるというのです。

そして、年も押し迫った師走の週末、とうとう成瀬先生の倍音声明を体験してきました。
講義の中でも成瀬先生は、瞑想に集中するための手がかりとして声を利用してもよいし、
倍音の出し方は、声に出す、息にして発する、意識で発する、どの方法でもよいと仰っていました。

50-60人が集まって、日本語の母音(ウー・オー・アー・エーイー)を発声すると、
人間の身体は楽器であり、共鳴体なんだなということが実感として分かります。
CDで聴いたように、高音の周波数帯のキラキラするような倍音も聞こえてきます。
人は、そこに、(聴いている高音の周波数帯の倍音に)、自分の聴きたい音を聴くといいます。

私の場合、讃美歌の女性コーラスのような声やジョージの「Long,long,long」のエンディングの悲鳴のような声、
ポールが「Glasses」で録音しているグラス・ハープのような音が聴こえてきたりします。

Tommorow never knowsのジョンレノンは、まさに倍音声明を聴いていたのではないでしょうか。
4:35過ぎに曲の一部が現れますが、”四千人の僧侶が丘の上から呪文のようなものを唱えているような音”、
高音を中心とした様々な音響が、1コードのみの和音で鳴っている。
「密息(みっそく)」と呼ばれる身体の上下動をなくした呼吸法によって視線が安定し、
焦点を合わせるスピードや画像の明瞭度が上がり、見えにくかった「横の線」が浮き上がってくるように、
リズムや旋律、ハーモニーといった音の要素の上下動がなくなることで、倍音や音響などの別の要素が立ち上がってくる。

今もヒマラヤ修行を続けている空中浮遊のヨーガ行者というと、どんな方なのかと思われるかもしれませんが、
エキセントリックなとがった感じを受けない、気さくでフランクな印象の方でした。

Naruse Masaharu

ウ・オ・ア・エ・イの母音を発するときに、どこに意識を向けたらよいのでしょうか、という質問をしてみましたら、
自分が心地いいと感じる場所を探すんですよ、みたいな回答をいただきました。
ジュリアード音楽院でのメンタルトレーニングに採用されている「センタリング」(いわゆる下丹田のきめ方)や
「阿修羅の呼吸と身体」に見られる呼吸法などにも通じる、確信を持てるような答えを期待していたのですが、
マニュアル的でインスタントな回答はたぶん本物の回答ではないのです。

~ 哲学も舞楽も武道も、その帰するところはおそらく一つである。
こういうことは誰の本にも書いてない。だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。
(大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。)

  

であれば、習い覚えては、自分なりの言葉で語ってゆくことが大切だ。
(できれば、感覚的なものを技法として共有化できるくらいに具体的に。)
そうして習い覚えるべきことを書き出し、習い覚えてはまた書く、という作業をこのブログを通して続けていきたいと思います。

~ 「倍音」とは具体的に何なのでしょうか ~

倍音や共鳴といった音の成り立ちは、大宇宙を取り込んだ小宇宙の観を呈していて、
振動する大宇宙と同期して暮らしている人間が、身近に引き寄せた宇宙が音楽である、という説明があります。

 

倍音とは、簡単に言えば音響のこと。

私たちがある楽器の音を聴くときには、絶対音感が指すような「純音」(たとえばある音階の「ド」) だけを聴いているのではない。
様々な振動数の音を一緒に聴き、それを音色や響きとして感じている。

音の振動数が2倍、3倍、4倍と整数倍になったのが「自然倍音」。
かつては、この自然倍音(整数次倍音)のことを「倍音」と呼んでいた。

私たちが「基音」である「ド」を聴いているとき、自然倍音が含まれている音ほど、弦や管が自然に共振している状態なので、きれいで音楽的な音に聞こえる。
(ちなみに、オクターブ違いの「ド」以外の音でも、自然倍音は「ドミソ」の和音になっている。)

そして1オクターブ(自然倍音の1倍~2倍の間)の間にも振動数が整数比になっていて、協和音(ハモる音)になっている音がある。
他の音階(ドーリア、エオリア、イオニア、といった協会旋法など)がある中で、
振動数の整数比でならべた音階であるが故に、最強の並び方(ハーモニー)を持った音階として「ドレミファ」が今に君臨している。
キリスト教的にも、唯一絶対の神「ド」を基音として、完全な布陣で並んだ音階ということになる。
西洋音楽は、ドレミファソラシドの7つに半音(黒鍵)の5つを加えた12音階がベースになっている。

 倍音には、上述した整数次倍音のほかに、非整数次倍音と呼ばれる音
- 弦がどこかに触れてビリビリした音を発したり、不規則な振動によって生起する倍音
があって、母音が子音に比べて優勢な日本語は整数次倍音を多く含んでいる、ということになるそうです。
逆に子音を多く含む外国語は非整数次倍音が多く、雨や風、小川のせせらぎといった自然の音も、主に非整数次倍音でできているとのこと。

(以前、「十二音階の狭間に在る音」で取り上げたように、1オクターブの間を12個の半音で積み上げた音階の狭間の音階があるということだ。)

~ なぜ「倍音」の振動が瞑想に効くのか~

チベット密教の修行僧は、滝に自ら発声する母音をぶつけて、
滝の音と自分の声が混ざり合うことで、強い倍音を生じさせた状態で瞑想を行なうといいます。
その修行を続けていくと音を視覚化できるようになり、
目を閉じた状態で目の前に映像を描き出す「観想法」と呼ばれる術が、チベット密教の倍音声明の完成なのだといいます。

中村明一さんの著書「倍音」を読んで、「音を視覚化する」、ということの意味が分かりました。

携帯電話が鳴って、どこで鳴っているのか分からないということがありますが、
あれは倍音を含まないデジタル的な「純音」が鳴っているからで、倍音のように音響を伴わないために、方向性を特定する情報が少ないのだそうです。
一方、倍音に含まれる様々な周波数の音が、壁面や天井などの障害物に反射したり、吸収されたりすると、
音の響き方で、その空間がどのような形なのか、どのような状況なのかを耳で捉えることができる。

尺八奏者である中村氏は、
”洞窟の中で倍音を多く出して、遠くの胴にまで尺八の音が届くようにすると、遠くからの響きが返ってくる。
逆に純音(倍音を含まない基音のみの音)にすると、私の感覚は眼前の一点に凝縮します。空間があってないような不思議な感覚です。”
と述べられています。

” 音の出し方により空間が変容する ”
” (音響を聴くことは)空間を聴いているとも言えます ”
” 倍音を増やすと、私の感覚も膨張していく ”

音を視覚化する、とは空間の認識の仕方を言っていたのです。
視覚にばかり依存していては、出てこない言葉であり、空間の捉え方、です。
(裏返しの宇宙 ~この世の空間構造

私たちの身体の中では、そうした「間」の感じ方というものが、
時間は時間、空間は空間、音高は音高、といった独立した形で入っているのではなく、
それらが統合した形で、つまり時間も空間も音質も音量もお互いに侵食して、相互作用している様態として感じられているのではないでしょうか。
(中村明一)

大きな倍音の変化によって、空間を歪ませ、異界への感覚の扉を開いていくのが能の世界だといいます。
(ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方

倍音声明がなぜ瞑想に効くのか、という問いに対する答えは、そこにあるのではないでしょうか。
瞑想した時に感じとる空間を、意識的に倍音の変化によって歪ませた変容した空間にすることで、
普段とは違う非常時にも似た特別な「間」の世界を作り出して、異界へ接する足掛かりにする。
緊急時にならないと発動しない人間の無意識領域までも動員して、別の段階の次元へと飛翔する。

「無意識の領域を含めた自己実現が大切だ」(河合隼雄)

そのための足掛かりを見つける。
『ひとは主体的に時空を書き換えることが出来る』、そのための日常生活的修行。(修業論 ~ 無敵とはなにか)

大晦日らしい記事になりました。

ベートーベンの第九「歓喜の歌」のサビの部分、
普通なら高音域に持っていくのが自然な音階で、ベートーベンはあえて低音域を用いて曲を作っているのだそうです。
建物から石畳の道まで、音響のよく響くヨーロッパの石の空間では、
高音域の倍音は反射のたびに吸収されて聞くことが難しくなるため、
並行面により定常波となって増幅される低い倍音の音響を大切にした。
そして、当時画期的な試みだった人の声を交響曲に使用するというアイデア。

耳の聞こえなくなった晩年のベートーベンは、
倍音声明的な、身体を通した共鳴や音響の中に、空間を聴いていたのかもしれません。

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Hope For The Future (未来への希望)

2014年10月13日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

なぜに72歳にもなるポールに「未来への希望」を与えてもらえるのか。(ポールの新曲、Destiny(運命)のテーマ)

「Hope for the future」のメロディをなぞっていく歌詩や弦のうねりに感じる恍惚、
ノアの箱舟に搭乗したとして、感じているうねりはこんな風ではないかと思えるほどだ。

We will build bridges up to the sky  我らは空に向かって橋を架け
Heavenly light surrounding you and I 天上の光が僕らを包み込む

Paul McCartney - Hope For The Future - 'Destiny' Video Game

『誰かに触れて、何かを感じる。それは私のなかにも同じカケラがあるということだ。
同じカケラが他者に共鳴しているということなのだ。』

田口ランディさんは女性なのだが、同じカケラがあるのでしょうか。
共鳴するところがずいぶんあります。
その行動力たるやすごいのですが、決して”馬鹿なエッセイスト気取り”ではない、彼女の視点には感じ入るところが多い。
オネストだ。そして、旅人というと松尾芭蕉みたいになってしまうが、
少しストレンジャーな心持ちも似ているような気がする。
私も大体において郷に入っていく立場のほうだから、
旅人というと聞こえはいいが、旅の自由と引き換えにする避けがたい代償のことは分かるような気がする。

ずいぶんといろんな場所を旅して、旅慣れた気分になっていた。
私はいつのまにかとても傲慢になっていたなあ、と思う。旅人の心得を忘れていた。
旅人は柔らかな心と体をもたねばならない。
郷に入れば郷に従い、主体性などみじんも感じられぬほど受け身でなければならない。
土地と人に対して謙虚でなければならない。
およそ人間が住んでいるあらゆる場所には、その場所独自の文化と価値観がある。
出されたものは食べねばならない。
その土地の風習、宗教、人間関係に干渉してはならない。
旅人の瞳はいつも子供のように澄んでいなければいけない。

まったく軟弱だなと思う。軽率だなと思う。
それでも、私はどうしようもなく、旅人でありたい。
罰当たりでも、死ぬまで旅を続けたい。遠くへ、近くへ。外へ、内へ。

この本で紹介されていた「マヤ文明 聖なる時間の書」の下り、
時間論にかかる現代科学の知見が既に古代マヤ人の考え方に織り込まれていたことに驚きました。

「マヤ暦が2012年に終わる」というので、預言のように、運命論的な採り上げ方をされているが、
マヤのシャーマンは本書の中で「運命は存在しない」と断言し、
未来には無数の選択肢があって、人間は行動することによって未来を選び取ることができると語っていると言う。

まるで、ポールの「New」に出てくる歌詞のようでもある。
(ポールの新作、そして栄光の11月がやって来る)

「ドン フェルミン(マヤのシャーマン)、あなたにとって時間とは何なのですか」
「時間とは空間の持つ可能性のことだ」
「それはどういう意味でしょうか」
「空間はそれ自体としてはもう変えようがない。ただ一つ残されている可能性が時間なのだよ」

マヤのシャーマンたちは口々に「時間はエネルギーである」と語るのだそうだ。
それは、「もし時間がなければ、ものは変化しない、動かない」ということであり、
時間や空間といったものにエネルギーを感じ、時間を「生命の瞬間の連続であり、生命の源である」と考えた。

「私が生きて変化するから時間が生じるのだ」という現代人的感覚とも違う。
(時間は流れない、世界が流れる - She's Leaving Home)
デカルトやニュートンの絶対時間でもなく、相対論の時空の概念を持っている。

田口ランディさんがうまいことを言っています。

類い稀なる天文知識と時間哲学を持った彼らが、その科学的叡智を決して人間存在から切り離すことがなかったことに感動してしまう。
生命も現象である、電気も現象である、その二つは本当に違うものなのか。
私たちは科学的な思考もできるけど、同時に超越的な存在について考えることもできる。
目に見えないもの、知覚できないものの存在を感じ、森羅万象に命を感じることができる。
そもそも科学とは「わからないこと」を明らかにするものであって、「わかること」を証明するためのものではない。
「わからない」が前提だったはずなのだ。
マヤの「科学(理性的叡智)」は、宇宙における人間的存在を包括するようなものであった。
そこでは人間と科学と倫理は調和していた。シャーマンであり科学者であることは矛盾しない。

西欧のダイナミックな歴史をつくり上げたもとになっていたのはキリストの磔刑像。
ヨーロッパやアメリカにおいて、政治を実行するひとたちの正義の源としてあったのがキリスト教であり、
キリスト教はあまたの音楽や絵画、あらゆる西洋芸術のインスピレーションの源泉でもあった。

(八重の桜 ~ 2013年の磔刑(たっけい)
「わからないこと」、エビデンスがないものを、科学的でなく宗教めいたものと否定してかかる態度は
むしろ科学的でなく、単なる思考停止だと思うのですが、
一方で内田樹先生が言っていたように、
『あちらの世界のことを「こっち側」と「あっち側」の「あわい」でどう振る舞うかということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。』

スピリチュアルというと、なんだか宗教がかってくるし、多くの人はそれを嫌う。
エビデンスに依拠しない「科学」、「理性的叡智」と呼んでみたら、もっと知りたい、というひとが出てくるかもしれない。
(もっといいネーミングがあるといいのに。)

たぶん人は、好むと好まざるにかかわらず、自分の知覚や感受性によって規定された世界に閉じ込められている。
気がつくとその世界にいるので、それがすべてだと思ってしまう。
だけど、実は世界は無数にある。
ただ、一つを認識したら同時に複数の世界を認識することはできない。
人間は一つの認識しか持てない。なぜかそのようにプログラミングされている。

世界の成り立ちは、過去とのアクセス方法、未来とのアクセス方法によって異なる。
今まさに生きている世界は、過去と未来の間にあって、過去とどんな配線で接続されているかで、
今ここの世界の成り立ちは人によってすごく違う。

マヤ人のいう時間のエネルギーとは、 過去や未来との接続の仕方によって生じる電位差のようなものなのか。
このフォースについて学びたい。

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未来の自分とのつながりを強化していくこと ( one of these days ) 

2014年09月23日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

未来の自分が立派にふるまうことが本当にあてにできるのなら、未来の自分に高望みするのもよいでしょう。
でも、たいていはその未来が実際に訪れると、
理想の自分などどこにも見当たらず、いつもの自分が決断を迫られることになります。
~ケニー マクゴニガル

「平均値という現実」に対処していく方法を説いている「ロジカルゴルフ」に考え方が似ていることに気がつきました。

スコアが良くなっていかない「停滞ゴルファー」は、
"偶然のナイスショットを実力と勘違いして、魔法的レッスン情報を生涯探し続ける"考え方をする。

戦略や技術なしで得られるラッキーな結果は、
神様からのプレゼントであって、実力ではないと考えることが、レベルアップに必要な思考技術。

ゴルフ技術は平均値にこだわり、課題や意味を明確にして練習することで、技術を体得するしかない。

「スタンフォードの自分を変える教室」、少し前のベストセラーですが、いかにも自己啓発本にありがちな題名が気に入らなくて、興味が向きませんでした。
しかし、原題は「意志力の科学」。
心理学や脳科学、経済学などの科学的成果を持ち込んで、
精神論ではなく、具体的な、「意志力を強化するための技法化」へのアプローチに共感を覚えました。

そういえば、意志の力、Will powerについては、音楽家のバレンボイム氏も力説しています。
どうやって、Willの力をインテグレートするかが大事だと。
(クレシェンドの瞬間は教えることができない

 

現在の自分と未来の自分というと、薄らぼけた茫洋としたイメージを抱きがちですが、
下図にある「将来の自分とのつながり」という指標
 ― 将来の自分と現在の自分を同じ自分としてどの程度重ね合わせて認識しているかを測る指標 ― として捉える考え方は、

2つの円の重なり具合を視覚的にイメージすることで、未来の自分とのつながり具合がイメージしやすくなる。

多くの人は、将来の自分は、「自分 2.0」という未来にいる別の自分であるかのように錯覚しがちなのだといいます。

未来の「あなた 2.0」は常に現在のあなたよりパワーやエネルギーがあって、
意志力が強いことになっています。
少なくとも、私たちが未来の自分を想像するときはそんな感じです。
未来のあなたには不安もなく、現在のあなたより痛みにも耐えることができます。
未来のあなたは現在のあなたよりもマメでやる気もあるので、
大変なことはぜんぶあなたの未来に任せるのが得策というものでしょう。

以上は不可解ながら、いかにも人間らしい、ありがちな思い違いです。
私たちは未来の自分のことをまるで別人のようにとらえています。

逆に将来の自分とのつながりが強い人ほど、
つまり、2つの円の重なる部分が大きい人ほど、
将来の自分を密接に感じ、先のことを考えた行動をとるようになるそうです。
たとえば、クレジットカードの負債額が少なかったり、貯蓄の習慣を持っていたりすることが、統計的にも明らかになっている。

ある人が、この2つの円が示すどのパターンに当てはまるかは、想定する場面ごとで違ってくるのでしょうが、
少なくとも、たとえば、ゴルフの場面においては、
「停滞ゴルファー」から「上級ゴルファー」へと自分を変えていくヒントを与えてくれているような気がします。
得てして「自分 2.0」を過大評価しがちなところを、現在の自分との重なり具合で捉えていこうというイメージが持てそうに思えます。

なんでもかんでもゴルフに投影するような考え方はどうかとは思うのですが、、
予定調和的なスコアから脱却するコツのようなものを体得できたなら、
それは人生における大発見につながるような気がするのです。
たまたまゴルフを相手にしていますが、
いにしえの昔から、多くの人が主題化しようと試みながら、なかなかに共有化されにくい、核心的な術理を含んでいるように思える。
(ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方

 

遠い先のことではない、丸い円を見つける話。


One Of These Days             近いうちに
When A Job Just Takes Too Long   仕事がちょっと長引いた時に
I'm Gonna Sing My Song And See    歌を口ずさみながら 思いを巡らせよう
See What's Right, See What's There 何が正しいのか そこに在るのは何か、
And Breathe Fresh Air, Ever After  そして新鮮な空気を呼吸するんだ ずっといつまでも
It's There, It's Round           それは そこに在る、すぐ近くまで来ている
It's To Be Found               それは見つけられるために在る
By You, By Me                  君や僕によって
It's All We Ever Wanted To Be     それは僕らがなりたいもののすべて

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

未来の自分とのつながりを、2つの円という視覚的なイメージによってアプローチしようとする試みは、
瞑想を技法化するために、想念の途切れをイメージ化する成瀬雅春氏のアプローチにも似ている。
(一瞬を捉える鋭い洞察力を涵養する、基礎練習としての瞑想

気持ちが常に前に行っていて、気持ちの焦点が「いま」に合わなくなる、
"現代人は意識の焦点がズレている人が多い″との指摘は、
2つの円のズレのことを言っている。

(がんさんの女房 - 楽観を生む勝利のユニット

自分があるとき、ある場所にいて、何かをしている時には、
「私が今ここにいることは、宇宙が始まって以来、宿命づけられていた必然の出来事である」と断定する。
「俺はここでこんなことをしてていいのだろうか」なんて思わない。
ここでこんなことをしている自分と、未来の自分をつながるためにも、この2つの円は有効だ。
(胆力とは断定することなのです。

( ↓ ) Kelly Mcgonigal氏のプレゼンテーション、英語字幕をオンにすると、気軽な英語の聴きとりトレーニングとしてもいいと思います。

 

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我が人生はうるわし ~ デュフィの青

2014年07月12日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

「私の耳は貝の耳、海の響きをなつかしむ」

と言ったのは、ジャン コクトー、

私と誕生日が同じでしたが、これまですれ違い続けていました。しかし、彼のブルーは素敵です。

時々、艶かしくなりますが、彼の描くスケッチはポールが描くやつに似ている。

なんだか、倍音声明や骨ストレッチにも似ている。
( キラキラ光る倍音とは、 骨ストレッチ×倍音声明 ~ 體使いへの道

共鳴する器官である耳、骨の響きが貝殻となって、海へと響く。うー。

倍音声明にほら貝の音色を聴くのは、耳がむかし海にいたから。

 

ジャン コクトー然り、デュフィーにもまた、いわゆる気難しい芸術家という風ではなく、フランスらしいというか、機転を感じる。

どうか成長しても本物の大人をうまく演じられるようになってほしい。
どうか、自分と親しくして、ただの気まぐれではなく、自分の本当の欲望を育み、
未来形や過去形では語らず、妥協をすすめる気難しやの言うことには耳を傾けるな。
理性の命令などに屈服するな、自分らしい人生を歩め。
そして現実なんて存在しないのだということを忘れるな。大切なのは君のヴィジョンだけだ。
ああ、世間にあまり傷つかないように。(ぼくの小さな野蛮人(アレクサンドル ジャルダン)

(2:34の緑をメインに据えた紫、この夏はこれを探したい)

「30年、薔薇色の人生」の印象が強いためなのでしょう、デュフィといえば、バラ色のイメージがありますが、

(色彩の話/モネとデュフィ)

 晩年のインタビューで「青はそのすべての段階において、本来の個性を保ち続ける唯一の色彩である」と語っている。

青はデュフィーにとってもまた特別な色だったのです。

(イエスタディ ~ どこまでも逃げ去る色 、 The ロング・アンド・ワインディング・ロード 、青い水平線)

こんな部屋で、うー、と声に出して倍音声明ができれば、身体まで紺碧のブルーに染まっていくのだろうという気がします。

そして、不思議なのは、ブルーのこの部屋のほうが、バラ色よりも開放的で、閉じた感じがしないこと。 

 鳶色とか浅葱色とか、様々な色の呼び名に現れる日本人の細やかな色彩感覚に感心していたのですが、フランスの色彩感覚も多様で細やかなのです。

デュフィーは同じ角度からみた部屋の光景を様々な色彩で描いてみせた。

部屋に置かれた楽器によって、そこに顕れる色彩もまた変化する。

音や色の周波数や振動によって世界は違ってみえるということだ。(ソルフェジオ周波数とは

今回の展示は右の、バイオリンが黒いほう。

こうして並べてみると、同じアングルから睡蓮を描き続けたモネのように、
デュフィーもまた、同じアングルから同じ室内を描き続けたことがわかる。それは退屈とは言わないのだ。

デュフィーはいわゆる名画の括りで語られることは少ないように思えますが、それはテキスタイルのデザインに始まる、多分に工芸的でデザイナー的なセンスに依るところが大きいように思えます。
アートというよりはデザイン、心をえぐるのというよりは、快適さをよしとする。

それでいて、水彩画であることを忘れさせるような鮮やかで濃厚な色使い。

さきの動画につけられた音楽もそうでしたが、ドビュッシーやモーツァルト、バッハも良いけど、ランディ ニューマンの音楽が似合うような感じ。

美しいでしょ、どうかしましたか、ってとこ。

Dear, you don't seem to realize  親愛なる皆様、 分かっていないようですね

My Life Is Good         我が人生はうるわし、
My Life Is Good         私の人生は美しく、素晴らしいのです、 こんちくしょう。
My Life Is Good, you old bag
My Life, My Life         私の人生、私の人生。

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