今年の2月、成瀬雅春先生の「倍音声明」について書きました。(キラキラ光る倍音とは ) 本の付録に付いていた倍音声明の様子が録音されたCDを車中でかけて聴いたりしていました。
内田先生は、倍音声明の効用についてこう語っています。 ~ 20年前、成瀬先生に倍音声明を教えていただいてから、ずっと合気道の稽古に取り入れています。 響きが身体に染み込んできて、じゅうぶんに振動を与えてから技に入ると、動きに甘みが出てくるんです。 よく呼吸を練り込んでおくと、動きに甘みと粘りが出てくるんです。 (内田 樹)
私の場合、タルセバの副作用であるしつこい下痢が見事に治まったので、これはすごいかもしれないと思って、 以来、朝の野菜ジュースを作っている間などの空き時間を使って、” ウー・オー・アー・エー・イー”という母音を小声に出しては、 倍音声明を毎日の習慣になるだけ取り入れるようにしています。
倍音声明の良いところは、「声に出さないさらに強力な倍音声明」 という方法があること。 いちいち、声に出すのでは、時と場所を選びますが、声に出さなくてよいなら、隙間時間を利用して手軽にできます。
ヨガの世界では師から弟子が、マントラ(真言)をもらい、 そのマントラは、生涯声に出してはいけないとされているために、弟子は誰にも言わず、誰にも聴かれないように、 生涯、頭の中で大切にマントラを唱え続けるというのです。 そして、実際に、ウーオーアーエーイーと頭の中で唱えることで、体内に振動が起こるのがつかめてきて、 そうなれば、その倍音声明は、声に出すより遥かに強力になるというのです。
そして、年も押し迫った師走の週末、とうとう成瀬先生の倍音声明を体験してきました。 講義の中でも成瀬先生は、瞑想に集中するための手がかりとして声を利用してもよいし、 倍音の出し方は、声に出す、息にして発する、意識で発する、どの方法でもよいと仰っていました。
50-60人が集まって、日本語の母音(ウー・オー・アー・エーイー)を発声すると、 人間の身体は楽器であり、共鳴体なんだなということが実感として分かります。 CDで聴いたように、高音の周波数帯のキラキラするような倍音も聞こえてきます。 人は、そこに、(聴いている高音の周波数帯の倍音に)、自分の聴きたい音を聴くといいます。
私の場合、讃美歌の女性コーラスのような声やジョージの「Long,long,long」のエンディングの悲鳴のような声、 ポールが「Glasses」で録音しているグラス・ハープのような音が聴こえてきたりします。
Tommorow never knowsのジョンレノンは、まさに倍音声明を聴いていたのではないでしょうか。 4:35過ぎに曲の一部が現れますが、”四千人の僧侶が丘の上から呪文のようなものを唱えているような音”、 高音を中心とした様々な音響が、1コードのみの和音で鳴っている。 「密息(みっそく)」と呼ばれる身体の上下動をなくした呼吸法によって視線が安定し、 焦点を合わせるスピードや画像の明瞭度が上がり、見えにくかった「横の線」が浮き上がってくるように、 リズムや旋律、ハーモニーといった音の要素の上下動がなくなることで、倍音や音響などの別の要素が立ち上がってくる。
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今もヒマラヤ修行を続けている空中浮遊のヨーガ行者というと、どんな方なのかと思われるかもしれませんが、 エキセントリックなとがった感じを受けない、気さくでフランクな印象の方でした。
Naruse Masaharu VIDEO
ウ・オ・ア・エ・イの母音を発するときに、どこに意識を向けたらよいのでしょうか、という質問をしてみましたら、 自分が心地いいと感じる場所を探すんですよ、みたいな回答をいただきました。 ジュリアード音楽院でのメンタルトレーニングに採用されている「センタリング」(いわゆる下丹田のきめ方)や 「阿修羅の呼吸と身体」に見られる呼吸法などにも通じる、確信を持てるような答えを期待していたのですが、 マニュアル的でインスタントな回答はたぶん本物の回答ではないのです。
~ 哲学も舞楽も武道も、その帰するところはおそらく一つである。 こういうことは誰の本にも書いてない。だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。 (大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。 )
であれば、習い覚えては、自分なりの言葉で語ってゆくことが大切だ。 (できれば、感覚的なものを技法として共有化できるくらいに具体的に。) そうして習い覚えるべきことを書き出し、習い覚えてはまた書く、という作業をこのブログを通して続けていきたいと思います。
~ 「倍音」とは具体的に何なのでしょうか ~
倍音や共鳴といった音の成り立ちは、大宇宙を取り込んだ小宇宙の観を呈していて、 振動する大宇宙と同期して暮らしている人間が、身近に引き寄せた宇宙が音楽である、という説明があります。
倍音とは、簡単に言えば音響のこと。 私たちがある楽器の音を聴くときには、絶対音感が指すような「純音」(たとえばある音階の「ド」) だけを聴いているのではない。 様々な振動数の音を一緒に聴き、それを音色や響きとして感じている。
音の振動数が2倍、3倍、4倍と整数倍になったのが「自然倍音」。かつては、この自然倍音(整数次倍音)のことを「倍音」と呼んでいた。
私たちが「基音」である「ド」を聴いているとき、自然倍音が含まれている音ほど、弦や管が自然に共振している状態なので、きれいで音楽的な音に聞こえる。 (ちなみに、オクターブ違いの「ド」以外の音でも、自然倍音は「ドミソ」の和音になっている。)
そして1オクターブ(自然倍音の1倍~2倍の間)の間にも振動数が整数比になっていて、協和音(ハモる音)になっている音がある。 他の音階(ドーリア、エオリア、イオニア、といった協会旋法など)がある中で、振動数の整数比でならべた音階であるが故に、 最強の並び方(ハーモニー)を持った音階として「ドレミファ」が今に君臨している。 キリスト教的にも、唯一絶対の神「ド」を基音として、完全な布陣で並んだ音階ということになる。西洋音楽は、ドレミファソラシドの7つに半音(黒鍵)の5つを加えた12音階がベースになっている。
倍音には、上述した整数次倍音のほかに、非整数次倍音と呼ばれる音 - 弦がどこかに触れてビリビリした音を発したり、不規則な振動によって生起する倍音 があって、母音が子音に比べて優勢な日本語は整数次倍音を多く含んでいる、ということになるそうです。 逆に子音を多く含む外国語は非整数次倍音 が多く、雨や風、小川のせせらぎといった自然の音も、主に非整数次倍音 でできているとのこと。
(以前、「十二音階の狭間に在る音 」で取り上げたように、1オクターブの間を12個の半音で積み上げた音階の狭間の音階があるということだ。)
~ なぜ「倍音」の振動が瞑想に効くのか~
チベット密教の修行僧は、滝に自ら発声する母音をぶつけて、 滝の音と自分の声が混ざり合うことで、強い倍音を生じさせた状態で瞑想を行なうといいます。 その修行を続けていくと音を視覚化できるようになり、 目を閉じた状態で目の前に映像を描き出す「観想法」と呼ばれる術が、 チベット密教の倍音声明の完成なのだといいます。
中村明一さんの著書「倍音」を読んで、「音を視覚化する」、ということの意味が分かりました。
携帯電話が鳴って、どこで鳴っているのか分からないということがありますが、 あれは倍音を含まないデジタル的な「純音」が鳴っているからで、倍音のように音響を伴わないために、方向性を特定する情報が少ないのだそうです。 一方、倍音に含まれる様々な周波数の音が、壁面や天井などの障害物に反射したり、吸収されたりすると、 音の響き方で、その空間がどのような形なのか、どのような状況なのかを耳で捉えることができる。 尺八奏者である中村氏は、 ”洞窟の中で倍音を多く出して、遠くの胴にまで尺八の音が届くようにすると、遠くからの響きが返ってくる。 逆に純音(倍音を含まない基音のみの音)にすると、私の感覚は眼前の一点に凝縮します。空間があってないような不思議な感覚です。” と述べられています。
” 音の出し方により空間が変容する ” ” (音響を聴くことは)空間を聴いているとも言えます ” ” 倍音を増やすと、私の感覚も膨張していく ”
音を視覚化する、とは空間の認識の仕方を言っていたのです。 視覚にばかり依存していては、出てこない言葉であり、空間の捉え方、です。 (裏返しの宇宙 ~この世の空間構造 )
私たちの身体の中では、そうした「間」の感じ方というものが、 時間は時間、空間は空間、音高は音高、といった独立した形で入っているのではなく、 それらが統合した形で、つまり時間も空間も音質も音量もお互いに侵食して、相互作用している様態として感じられているのではないでしょうか。 (中村明一)
大きな倍音の変化によって、空間を歪ませ、異界への感覚の扉を開いていくのが能の世界だといいます。 (ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方 )
倍音声明がなぜ瞑想に効くのか、という問いに対する答えは、そこにあるのではないでしょうか。 瞑想した時に感じとる空間を、意識的に倍音の変化によって歪ませた変容した空間にすることで、 普段とは違う非常時にも似た特別な「間」の世界を作り出して、異界へ接する足掛かりにする。 緊急時にならないと発動しない人間の無意識領域までも動員して、別の段階の次元へと飛翔する。
「無意識の領域を含めた自己実現が大切だ」 (河合隼雄)
そのための足掛かりを見つける。 『ひとは主体的に時空を書き換えることが出来る』、そのための日常生活的修行。(修業論 ~ 無敵とはなにか )
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大晦日らしい記事になりました。
ベートーベンの第九「歓喜の歌」のサビの部分、 普通なら高音域に持っていくのが自然な音階で、ベートーベンは あえて低音域を用いて曲を作っているのだそうです。 建物から石畳の道まで、音響のよく響くヨーロッパの石の空間では、 高音域の倍音は反射のたびに吸収されて聞くことが難しくなるため、 並行面により定常波となって増幅される低い倍音の音響を大切にした。 そして、当時画期的な試みだった 人の声を交響曲に使用するというアイデア。 耳の聞こえなくなった晩年のベートーベンは、 倍音声明的な、身体を通した共鳴や音響の中に、空間を聴いていたのかもしれません。