ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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[2017年 覚醒する早春 ] 「正直なミス」を消していく ~ 踏ん張るゴルフのインナースキルとアウタースキル

2017年03月25日 | ゴルフィーライフ<気づきとアイデア>

覚醒する早春へ。

はじめて眼鏡を買ったのは、30歳になるかならないかの頃。
およそ20年間使い続けた、その眼鏡を買い換えたら、時を同じくして、ゴルフの方にも開眼するような気づきが生まれてきました。

(まじめな話、パットを決まって右に外すのは、右眼の視力が悪いガチャ眼のせいなのかもしれない。
 両眼では帳尻が合うように左右の眼から入る映像を修正する働きが脳にはあるらしいのだが、
  狙いを定める時の見え方や感覚に、偏りのようなものが生じているのかもしれない。)


まずは、音楽の本から気づきを得た、インナースキルを醸造してゆくための心がけ。

理屈や言い逃ればかりで成長の伴わない「不注意なミス」という、
ミスへの怠慢な対処の仕方をあらため、
それでも起きてしまう「正直なミス」を正していく。
ちょっとした習慣や意識の持ち方で、時間の経過を味方にできるかどうか、が変わってゆく。
[2017年 眠れる早春] ゴルフは醸造するが如く (インナースキルを発酵させてゆく)

私はたぶん、ミスをうやむやにする傾向があるのだと思う。
ポジティブもいいが、それは往々にしてミスに対する自覚の無さや対処をしない怠慢となり、
改善の手立てとして利用する機会を失ってしまう。
だから、いつまでたっても変わり映えしない。

たとえば、スコアカードにショット記録をつける時、「正直なミス」ショットに印をつける。
(これまでは、刹那的なグッドショットに印をつけていた。)
その「正直なミス」に向き合い、ミスを消していく努力をする。
(ゴルフは一発の華美さを求めるのではなく、ミスを最小化してスコアを作っていくスポーツなのだから、
ミスを消していくというのが正しく効果的な努力の仕方だ。)

アウタースキルの面では、右軸への気づきのさらなる技法化です。

1)まずは「4スタンス理論」で、自分のタイプを知ること。

4スタンス理論では重心の使い方を大きく4つに分けるのだが、
自分のタイプに合わない動作では、本来の身体能力を活かすことができないという。

自分がどのタイプに該当するのか、診断方法は様々で、判定しにくい所はあります。
そもそも日常的な身体使いが、自分の本来的な身体使いではなく、習慣化されてしまっただけという場合もあるので注意が必要だ。

私の場合は、概ねB2タイプ(野球でいうと松井選手や大谷選手がこのタイプ)のようなのだが、
靴の擦り減り方からも納得のいく診断のように思える。
(右足に限らず、両足共に、かかとの外側が擦り減っている。)


B2タイプの場合、よく言われる「チャーシューメン」のリズムが合うのだという。

2) 後ろ重心から前重心への移動、そして腹筋のふんばり

右足かかとにぐりぐりと重心を乗せていく意識はあったが、前重心への移動はあまり意識していなかった。

腹筋に力を入れるとは、地面に圧をかけるように踏ん張り続けて、前傾角度(スパイン・アングル)をキープすることだった。

インパクトが安定せず、伸び上がったような動きが出るのは、腹筋の緩みへの意識が足りていなかったのだと思う。

以前に開眼ポイントだった「右肩を引く」動き。

飛ばしには有効だが、意識が過ぎると、
動きが過剰になって、インパクトが不安定になってしまうのが難点だった。

上半身への過剰な意識を防ぐために、
右肩を静かに引いて後ろ踵に体重を乗せた後は、
つま先への重心移動と、腹筋を緩めずに、地面に対して圧力をかけ続けることに、意識のポイントを変えてやる。(動きとしては連動している。)

意識するポイントに柔軟性を持たせることで、力みを防止する。

いずれにせよ、つま先体重で、しっかり腹筋をふんばることが、強く安定したインパクトの要になる。

 

3) さて、上半身はどうするのか

右軸が良いのは分かるが、下半身の話が多い。
上半身を力ませずに使うにはどうしたらよいのだろう。

 

これだと思います、右腕を脇腹を擦るように降ろす「アンダースロー」

打ちにいくスポーツだから、どうしても、野球でいうと打者をイメージしがちなのです。
(右軸(後ろ足軸)打法だと、バリー ボンズとか松井選手とか。)

ただ遠くへ飛ばすのではなく、
スピードや威力と、コントロールを両立させるためのイメージとしても、
バッターではなく、むしろピッチャーへと、イメージや意識の切り替えが必要だと思うのです。
右へのプッシュアウトもきっと右腕を使えていないから。

(逆にチーピンを出さないためにも、クラブを寝かせたらダメ、立てて振ることに気をつけよう。)

手本になるような、画像や映像があまりないのが残念。

でも、ラウンドというのは、バッターのイメージで振り回してOBを叩くよりは、
18ホールを任されて、「正直なミス」に対処しながら、ふんばり続ける、ピッチャーのイメージのほうがよいのかもしれません。

攻める気持ちを持ちながらも、ミスを消していく気持ちも兼ね備えていく。

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[2017年 眠れる早春] ゴルフは醸造するが如く (インナースキルを発酵させてゆく)

2017年03月18日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

睡眠は単なる休息とか、お休みではなく、ひと晩寝かせてカレーを美味しくするような行為なのだと思う。

醸造工程を経てこそ美酒が出来上がるように、
時間の経過によって、発酵現象が起きるのだと思う。

ピアノでも、まるで弾けなかったフレーズを前の晩に繰り返し練習しておくと、次の日にあらあら弾けた!みたいなことが起こる。
前の日の練習が酵母のような働きをして、ひと晩の間にもスキルの熟成が進んでいるのだ。

「春眠 暁を覚えず」という通りで春は眠い。
ロングスリーパーでいることは、時間の使いみちとしては勿体無いことのように思えるのだが、
単なる休息ではなく、何かを育み熟成させるための時間だと捉えると、勿体無いどころか大切な時間になる。

休むが勝ち、なのだ。

さて、次男の受験がひと息つくまで控え気味にしていたゴルフだが、
この日はパッティングぼろぼろ。

( ↓ ) 最終18番ロングホールがこの日を象徴している。ショットは悪くないが、集中力を欠いたパッティング。
ふざけている訳ではないのだが、どこかで、もういいや、ってなってしまう心の性のようなもの。

70cmのバーディーパットを外すと、あらあらの5パットで、ありえない8叩き。


その前、ゴルフを解禁した日の芝刈はわるくなかった。
(序盤戦の3番ショートでティーショットを2度の池ポチャ。ここは苦手意識のないホールなので予想外のつまずき。
パッティングが悪くてダボだらけだが、ショットは悪くない。)




ピアノの本だが、物事を習得するにはアウタースキルとインナースキルがある、ということに励まされる。

表には顕れにくいが、内部で熟成され、育まれているインナースキル。

ゴルフだってピアノだって、それほど自分に向いているとは思えない。
ひょっとしたら、もっとモノになりそうなことがあるのに、わざわざ遠回りばかりしているのかもしれない。
(それを言い出すと、どれもこれも向いてなくて、ついには人間失格になってしまうかもしれないですが。)

でも、インナースキルをつける、という面では、良い趣味だと思う。
何にだって共通する部分があると思うし、向いていないからこそ、足しになる余地も大きい。

私たちは体の動き、グループ経験を通して、もっと意識的に、もっと確実に、
インナースキルを成長させることができる。
そして、インナースキルとアウタースキルを一体化させることができる。

だが音楽の世界では、毎年数えきれないほどのアマチュアが、行き詰まりを感じ、
どうせ自分には才能が足りない、あるいは本来備わっている音楽的な生命力を養う前に、
レッスンをやめてしまう。

練習でうまく問題を解決できる人になれば、それだけで元気になる。
音楽だけではなく人生のあらゆることを学ぶには、自分だけの「正直なミス」を利用するのが最良の方法になる。
私たちはみんな、それぞれ自分のやり方で学ぶので、
ひとりひとり必要となるミスには、それぞれ異なるパターンがある。

練習時間を最も効率的に使う方法として、「正直なミス」をできるだけたくさん、意図的に生み出すことがあげられる。
(「正直なミス」は不注意では起きない。十分な注意を払っていたのにミスが起きてしまったなら、それはたぶん「正直なミス」だ。
「正直なミス」は、きちんと正しいものに直したいと感じるものだ。
注意を払わず、まじめに受け止めず、対応するのを怠ったなら、それは「不注意なミス」だ。

「正直なミス」は、とても役に立つ。
真実を映し出し、純粋で、具体的な情報を多く含んでいる。
今この瞬間に自分がどこにいるか、次に何が必要かを、その場ではっきり示してくれる。
正直なミスには、たいていの場合、特定の問題の具体的で隠れた理由 ― 意識的には思いつかないような理由 ―
を明らかにする高度な才覚がある。
「正直なミス」が実証しているのは、身体が、意図をもった気持ちとは異なる意味で賢い、という点だ。
何が正しいかを理解するには、何が悪いかを完全に経験しなければならないことがあり、
「正直なミス」はそのための唯一の方法になる。
「正直なミス」は、学習という行為に質感(テクスチャー)を加える。

ほとんどの大人にとって、「正直なミス」のアプローチを受け入れるのは、それほど簡単なことではない。
起きる出来事をなんとかコントロールして戸惑わないようにしたいという、強い感情に押し流されてしまう。

少し長くなるが、引用を続けよう。すごく思い当たる部分があるからだ。
少なくとも、まずは「不注意なミス」を肯定してしまうことを、やめにしたい。

「不注意なミス」は、理屈をつけ、言い逃れて終わってしまうミスだ。
それは、どのようにミスをして、どのように対処するかの怠慢だ。
集中力に欠けていて、弾き終えた後の評価も漠然としているなら(” たった二週間前に始めたにしては悪くなかった・・")
その後の混乱の土台を築いたようなものだ。
意図がはっきりしないから、ミスの一部には気づきさえしない。
気づいたミスも、そのまま放置して処理しないので、何の情報ももたらさない。
なおすチャンスを逸したミスは、後になって残念な癖になってしまうだろう。

・ ただ集中力が欠けていただけだ
・人間だからミスするのは仕方がないと、不用意に片付けてしまう
・ 全体としてはまずまずだ
・ 完ぺきに出来ているのに、なぜあんなに緊張したのかわからない

これらの考え方が、どれだけ自己陶酔に陥っているかに気づいてほしい。
どれも自我に囚われ、自分を良く見せたいために言い訳ばかりし、
目の前に在る有用で客観的な証拠を無視している。

突き詰めるなら、コントロールできるという自意識過剰な錯覚を捨てることで、
もっと深い、もっと穏やかなコントロールを手にする。
そうすればより深く学習できるようになる。
はじめは矛盾しているように見えるかもしれないが、これが実り豊かな練習に関する最も重要な洞察だ。
そしてこの原則は、音楽の領域をはるかに超えた意味を持っている。

 そうか、私は「不注意なミス」だらけで、そのミスへの対処を怠っているのかもしれない。
ミスに対して十分な注意を払い、それでも起きてしまう「正直なミス」を正していく、というプロセスに乗らずにいるから、伸び悩み、同じような所をぐるぐる回っているのだ。


たとえば、きちんと最後の1mまで、十分な注意を払って、そのホールを終える。
ティーショットの時だけ、気持ちを新たにするのではない。
思うように行かなかった後こそ、バカまじめに、気持ちを正して、決して気持ちを切らさない。
敬意を忘れず、熟達しない自分に謙虚でいる。

しかし、私は、残念ながらそれほどまじめに出来ていない。
どこか問題を抱えた、好ましくない性(サガ)を抱えている。
人生は、人に、いろいろな問題を投げかける。

ポールですら、ありとあらゆるクソを投げつけられた気持ちは分かると言っている。
([ピアノ弾きおじさんへの道] 断片的弾き歌い ~ フォー ノー ワン)

( ↓ )咆哮する声に共鳴し共振するバイブレーション。
    しかし、性(サガ)は不変の法則ではない。変えられるはずだ。

TWIST (世良公則) 『性(サガ)』

( ↓ )飲む時ばかりではなく洗い物をする時に、野菜の効果を思い知る。
スロージューサーに残っている野菜の繊維質などの残滓が、僅かばかり混ざるだけで、食器の油汚れがサラリと落ちる。
なるほど、身体の中をキレイにしてくれるはずだ。

水の冷たさも緩み、日に日に朝の陽射しが明るくなってくる早春を、毎朝のスロージューサー習慣で感じます。
咆哮の夜が明けて目覚めの春、となるのかは分からないが、
アウタースキルを急ぐことなく、インナースキルを発酵させながら。

(亡くなった渡瀬恒彦さんが出ていたのは、たしか愛情物語のほうでした。)

 原田知世 早春物語

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[ピアノ弾きおじさんへの道] 発表会は難曲 レディ マドンナに挑戦することに。

2017年03月11日 | ツールとしての音楽

ピアノ教室に通い始めて一年たった年の暮れに取り組み始めたのがレディ・マドンナ。
龍のいる谷間にて ~ 第一夜 )

ポールの来日に合わせて完成させようと、「イエスタディ」の弾き歌いをつま弾いたり、
日本語の曲の弾き歌いもと、甚く感動した吉田拓郎さんの「流星」をYouTubeではなく楽譜からやってみたり、
とうとう、自分には手が届くまいと思っていたエルトン ジョンの「ユア・ソング」まで始めたりしています。(これは時間をかけて、分散コード奏法をマスターする足掛かりにしたい。)

そして、昨年に続き、春のGWの前辺りで、”大人のピアノ発表会”の開催案内がありまして、
レディ マドンナで先生とアンサンブルをやってみる提案を頂きました。

左右のリズムの合わせ方や、歌の乗せ方まで、
私にとっては手ごわい曲なので、” むずかしい~ ” と言ってたら、
歌メロ部分を、先生が楽器で埋めながら、一緒に演ってみるのはどうかというのです。

やりたいのは弾き歌いなので、歌なしってどうだか、と思ったのですが、
音楽って、アンサンブルするものでもあり、先生とアンサンブル出来る折角の機会なのでご提案に乗ってみることにしました。

ピアノはバラード系の曲が多くなりがちなのですが、これはクールなロックナンバー。
マーサ・マイ・ディアにも似たオクターブ奏法の左手ベースの動きとか、ピアニスティックな感じで弾いてて愉しい。
しかし、アンサンブルとなると、
曲中でばらばらになりがちなテンポを揃えるのは勿論、全体的にもっと丁寧な演奏をしなくてはなりません。
先生曰く、次の音を探したり考えたりしながらでも演奏がストップしない速さで、ゆっくり、まずは弾いてみるのがいいとのこと。

私は、コードチェンジの部分で一息ついてしまうことが多いので、
冒頭のA⇒Dの進行をひと塊のフレーズだと捉え、切れ目を入れずに弾いたり、工夫してみることにしました。

一息ついてしまったり、緩慢にしか弾けない箇所があると、
そこが演奏の速さ上、ボトルネックになってしまいますが、
この曲では、間奏の部分のテンポをキープするのが難しい。

しかし、ここでも効果的なアドバイスが !

右手がCE ⇒ EG ⇒ ACと上昇する箇所があるのですが、
指を1・3 ⇒ 3・5 ⇒ 3・5で弾くと、3・5でA・Cをヒットせずに外してしまう不安がある。
確実に3・5でA・Cをヒットするために、5の指を途中で使わずに温存しながらつなげていく方法があるのです。
たとえば、1・2 ⇒ 2・4 ⇒3・5と弾く。
跳躍する音の間がつながって、どこかギャンブルめいていた、音をヒットする感覚が、安定感を伴ってくる不思議。

( ↓ ) まだ間奏は修正できていませんが、歌メロが乗るようになってきた。

  これからアンサンブルを意識した練習をすることで、これまでとは違う音楽的な訓練になるかもしれない。

Lady Madonna 20170311

Paul McCartney Lady Madonna

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祝 ~ 春はまたいつだってやって来たよ。

2017年03月07日 | いいことも起きるにきまってる旅行記

先日のアカデミー賞の授与式では作品賞の発表を誤る前代未聞のハプニングがありました。

はじめに作品賞として読み上げられたのは「ラ・ラ・ランド」でしたが、、

作品賞の発表を誤る前代未聞のハプニングがあった。作品賞は「ムーンライト」が受賞したが、プレゼンターのウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイが封筒を開けて一瞬けげんそうな間を置いた後、「ラ・ラ・ランド」と読み上げた。

ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20170227/k00/00e/030/182000c#csidx3cedb44efa622baba42d02fae443e93
Copyright 毎日新聞
作品賞の発表を誤る前代未聞のハプニングがあった。作品賞は「ムーンライト」が受賞したが、プレゼンターのウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイが封筒を開けて一瞬けげんそうな間を置いた後、「ラ・ラ・ランド」と読み上げた。

ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20170227/k00/00e/030/182000c#csidx97fe42af272c9fc9689ea205e1b2560
Copyright 毎日新聞
作品賞の発表を誤る前代未聞のハプニングがあった。作品賞は「ムーンライト」が受賞したが、プレゼンターのウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイが封筒を開けて一瞬けげんそうな間を置いた後、「ラ・ラ・ランド」と読み上げた。

ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20170227/k00/00e/030/182000c#csidx97fe42af272c9fc9689ea205e1b2560
Copyright 毎日新聞

Ryan Gosling & Emma Stone / City of stars / Lyrics  

その後訂正、受賞作は「ムーンライト」でした。

( ↓ ) ムーンライトは、これじゃありません。 しつこくてごめんなさい。m(._.)m

この時のことを思い出しました。ここで読み上げるの間違えてたら大変なことだったでしょう。

 

2020年東京オリンピック開催が決まったのは2013年9月のこと。

その年(2013年)の4月に病名を宣告されてから間もなくの時期でもあり、
5年生存率が4%とも言われるなかで、2020年のオリンピックを本当に見れるのだろかという思いの反面、
せめてそこまでは頑張ろうと励ましをもらえるようなニュースでもありました。

「闘病生活記(いいことも起きるにきまってる旅行記)」を副題に掲げながら、
このカテゴリーでの記事を書いたのはもう一年も前のことです。(神々の山嶺
” がん患者であることに一生懸命にならない。” 旨からすれば自然なことなのですが、
あらためて見返してみると、その時の気持ちの持ち様と言うんでしょうか、
自分で書いたことに自分が励まされるようなことが起こる。

次男が中三、長男が高三、
ダブル受験だった年のおつかれさま会をしたのは2014年の3月のことでしたが、
その時は、剣ヶ峰だった一年を乗り越えて、
二人の子供がそれぞれ中学校と高校を卒業するところまで来れたことを素直に喜びました。

病気の始まりの頃は、夜も眠れないほどの腰の痛みに苦しんだので、
背中や腰の痛みを抱えながら職務にあたったというJFKの本を読み返したりしていました。

(これはミッションだ。ウラ目の法則を活かしていこう。)

当時は、縁起でもないことを言ったり書いたりするのはよそう、という気持ちが強かったので、
振り返ることのできる今だから言えるのですが、
JFKって、当時の私と同じ46歳で亡くなっていて、不遜にも重ね合わさるように思えたり、なんとバカなのでしょう。

 

あれから1年が経ち、さらにもう3年が経って、
今度は次男の大学合格を祝うことができました。
高校三年生になったばかりの頃は、どこから勉強に手をつけたらいいかも分からない状態で、
いっしょに予備校探しをしていたというのに、それなりに頑張ったと思います。

自慢できるような難関とかそういうのではなくて、
受験のさなかに、つまが言っていた言葉が印象的でした。
” 劣等感ではなくて、自信を持って、胸を張って生きていける所に行ってほしい。”
いいこと言います。

アドラーの本にもありました。

自分の置かれた場 ー 空気や環境、時、人 ー を否定したり抗ったりするのではなく、そこにこそ幸福を見つける。

現状を肯定すること=絶え間ない向上を諦めること、 この図式が幸福感を遠ざける。

もっと、現状を肯定すべきなのです! そこから絶え間ない向上を目指せばいい。
(自分だってそうだ。)

長男も春から大学三回生、
ふたりがまだ中学生と高校生だった頃に父親を失くすようなことは可哀相で、あってはならないと思いましたが、
なんとか最低限のラインまではサバイブできたように思えます。

小学生の頃は、道頓堀に住みたいと言っていたので、都内では知る限り一番ではないかという大阪の味を。

ところで、次男もますかけ線に近い手相ですが、
長男は片手だけでなく両手共にますかけ線、一万人に一人と言われる手相なのです。
掴んだ運は離さない、百握りと呼ばれる強運の持ち主と言われ、
信長、秀吉、家康やアインシュタインといったような人たちがこの手相だったと言われています。

 

嬉しい気持ちでありながら、どこか溢れるような元気が湧いてくるわけでもないのは、
少し張りを失ったせいなのかもしれません。

そして、自分ではなく、自分の子どもたちが、大学生になるほどに時間が経ってしまっているのだということ。

三寒四温、春はまたいつだって確実にやって来るのです。

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