ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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芸術とはナニモノなのか

2012年11月03日 | 読書ノート

 「前衛」とは何か、「芸術」とは何なのか、

これは宇宙とは何か、生命とは何なのか、にも似て、答えを見つけるのがむずかしいテーマだと思ってましたが、
かの有名なダーウィンの「進化論」に、そのヒントがあったのですね。

スルドイ指摘のある本が、新しい視点を与えてくれる。

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)
西岡 文彦

新潮社

曰く、

今日の私たちにはわかりにくいことですが、ダーウィンの進化論が登場する以前、
変化や刷新というものは、基本的にネガティブな意味しか持っていませんでした。

 

神が最初に全宇宙を創造したとするキリスト教の世界観に従えば、
真なるものや美しいものは、太古にその理想型を与えられていることになります。
従って、真なるものや美しいものに到達するには、
太古の黄金時代に回帰し、古来の聖典を参照することによってしかなされないわけです。
「新しい」ということや「変化する」ということに、今日のような肯定的なニュアンスはまったく含まれていなかったのです。

今の常識的な世界観は、進化論によって根拠づけがなされている。

すなわち、変化することが「向上」することを意味し始め、
「生存競争」に生き残るために変化してゆくことが正義と同等の意味を持ち始める、、

芸術もまた、革新的であることが、時として「美しい」ということさえ凌駕し、「前衛」という価値観になってゆく。

~ 「芸術が生き延びるためには美が死ななくてはならない」という倒錯した論理に、「科学的」な根拠が与えられることになったのです。

逆説めいていておもしろい !
「新しいこと」に対する、進化論を跨いだ時代間での認識の断絶。

ここにも、「切断された知」の厚みとして残っていく人類の歴史がある。
透明にすることによって隠蔽されたもの、そして賦活させるもの
美術やアートというものは、自由な発想が求められるが、科学や他の分野の人類の知見と無関係な訳ではない。ダヴィンチの時代には芸術と科学が一体であったように。

進化論という科学の根拠づけによって、美術は進化してアートになったのか、、

芸術というものが本来の美しさ(美術)とは違った新しい視点で捉えられるようになって、「前衛」が評価されるようになったのだな、とふむふむする。

かつて、教会にあれば神の威光を表し、宮殿にあれば王の権威を表し、市民の家庭にあれば暮らしを美しく彩るという、
それぞれの場面で実用的な目的を持っていた美術が、
「用途」から切り離され、「純然たる美」=「芸術」としての価値を云々されるようになってゆく。
そして、それはフランス革命後に登場した「美術館」という施設がもたらした変化だといいます。
~ 美術が実用性を放棄し、むしろ実用的で機能的であることを軽蔑するようになってゆく。

美術という「美しさ」を追求するはずの世界において、そのわからなさに破格の評価が与えられているピカソの芸術は「美術館」的なものであって、
それを、「美」を本来のありようから切り離すものとして批判的に捉えると、ピカソを偉大とする審美眼や美術観はおかしい、ということになり、
逆に「美術館」を、人類の美的遺産を個別の文化や宗教の拘束から解放するための人文的な資産として不可欠なものだと考えると、ピカソこそ美術館にふさわしい偉大な画家、ということになる、という指摘。

著者は、このどちらの立場をとるかは、「美術館」を是として成立している私たちの社会や文明に根ざした問題であり、
自分の全思想と美意識をかけて検討するに値する問題だ、といいます。

どちらがどう、と決着をつけるモンダイでもないように感じましたが、「美術館」という具体的な箱のあるなし、という論点の立て方がおもしろい。

ピカソ芸術の持つ「わからなさ」を「大芸術」として崇める現代芸術のわからなさ、
をこれほど端的に解きほぐしてくれる文章にはあまりお目にかかったことがありませんでした。

出自を忘れてしまいましたが、以前読んだ本のなかにも、「芸術」とは何か、「美」とは何か、について鋭い指摘をしているものがありましたので、併せてご紹介。

~ 偉大なる芸術に、そうとは知らずに日常のありふれた光景の中で遭遇した時、世の人々はどう反応するだろう?

ほんの二、三日前にボストン・シンフォニー・ホールでコンサートを開いたヴァイオリン奏者が、
同じ楽器、愛用のアントニオ・ストラディヴァリを持って地下鉄の構内でジーンズ姿で野球帽を被って演奏をする。
通り過ぎた人々は1000人以上、稼ぎは32ドル。

音楽に限った話ではなく、あらゆるパフォーマンスにおいて周囲の状況が極めて重要な役割を担う。
コンサート・ホールで演奏される音楽と、野球帽を被ったみすぼらしい男が地下鉄の駅で演奏するそれはまったくの別物なのだ。
有名な絵画でも、それが実は贋作となれば、至宝から紙くずへまっさかさまだ。
重要なのは出自なのである。
出自や希少価値が物のクオリティを変えることはないが、同じ絵でもピカソの真筆だと分かると、数段に優れて見える。
こういった異なる反応は、俗物根性と集団思考と知的怠惰が入り交じった人間の欠点をさらけ出す。

しかし、数学や物理の世界ではあるまいに、純粋な美的基準による評価なんてあり得るのだろうか。

来歴や状況へのこだわりは、俗物根性や集団思考とは別物だ、とする著者の意見に賛成です。

私たちが芸術から得る喜びの多くは、創作の根源に人間らしい来歴があるという認識に根ざしている。
これが芸術の本質なのである。

来歴や状況へのこだわりは、そこにある温もりや安心感や愛情といったものに人が喜びを感じるから、なのだと思う。
温もりや愛着のようなものは、純粋な美、ではないかもしれないが、それらを排除した測り方はむずかしいと思う。

そもそも、美や芸術というものは、透明で公明正大で純粋なものではなく、不純物を含んでいるがゆえに輝きを増すようなことすらあるように思えるし、
純粋な美的基準なんてあるはずがない。
神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す

不純物はキタナイばかりでもない。芸術に資しているのだ。

( ↓ ) へんなおじさん、ではない。 おじさんはヘンでないとだめなのだ。(自分のなかに毒を持て

「芸術は爆発だ!」「何だ、これは!」  岡本太郎は何者? 1/2

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