現代経済学に対して「仏教経済学」というと、なんだそれ?って向きもあろうと思うが
仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、
「変わり者のどこが悪いのだろうか。
変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。
私はその小さな革命家だ。それは褒め言葉なのだ」とシューマッハは応じたそうだ。
なんで今さら70年代の本なのだ、と思われるかもしれないが、
前文にあるように、シューマッハのような人間を、
彼らが生きた時代状況に固定してしまうのはどうかと思う。
彼らのような人間は、新たな現象が起これば、新たな解決法を発見して、
「この瞬間に生きる」術を実践し、他人にもそうするよう励ましただろう。
シューマッハーは、自分に合った持続可能な「中道」を発見するようにすすめた。
未来を資本やエネルギー多消費型の技術にあずけるのではなく、
民衆の力と自分自身の精神と肉体の創造力に頼るよう呼びかけた。
このメッセージは今日依然としてもっとも幅を利かせている経済政策への挑戦だ。
『 持続可能性 』という考え方は大切だと思った。
シューマッハは、市場型の消費社会の未来と価値に疑問を投げかける。
少なくとも、日本経済は右肩上がりの経済成長から過渡期に入っていると思われるし、
日本の大手企業が将来の海外分野(もちろん中国やインド、といった新興国でのビジネスを指すのであろう)に向けた採用を増やすとのニュースも伝わってくる。
子を持つ親としては気がかりなこと。
私が東京、関東で住まうことなど考えもしていなかったように、
自分の子供たちが就職する頃にはアジア圏が赴任地というのが当たり前になっているかもしれない。
現代経済は、永続的な財産を徹底して過小評価しているとシューマッハは指摘する。
同時に、束の間の財が、まるで永遠の用に供し、いつまでも続くものであるかのように洗練され、贅沢に製造されてもいる。
生産の量と一人当たりの所得が同じ2つの社会があるとする。
1つの社会は「束の間の財」が豊富にあるが、「永遠の財」は乏しく、
不潔で醜悪な不健康な環境の中で、飲み、喰い、娯楽にふける。
もう1つの社会は、「束の間の財」は質素だが、「永遠の財」に恵まれており、
豊かな雰囲気の中で、少量で簡素な消費が行なわれる。
2つとも単に量的な接近法では経済的には同様な社会であり、どちらがよいか、という問いは出ない。
経済計算がところかまわず行なわれているが、実際のところはこんなものなのか、である。
シューマッハの推測では(たぶん誰もが同じような感想を持つと思うが)、
産業革命以前の社会の多くは、「永遠の財」(すぐに使い切られるモノではなく、長きにわたって役立つことが想定されているもの―文化的財産や設備、教育)に重点を置くことで素晴らしい文化を創造することができた。
現代世界の文化遺産の多くはこうした社会に由来している。
ローマのように大都市が成長の限界までいった例が歴史上数多くあったが、
成長をおしとどめたものは食料の供給。
巨大化した都市は周囲に食料の供給を頼って生きており、距離が遠くなりすぎて輸送が対応できなくなり、それがボトルネックとなった。
近代社会は19世紀になって石炭、石油を開発して、この壁を突破したが、
稠密度の高い生活形態は燃料の多消費によってしか維持できなくなってしまった。
そして今や世界の豊かな社会が追求しているのは、経済代謝を高めてGDPを増やすことである。
燃料不足や物資不足で一層の成長ができなくなったり、経済活動を一とすほかなくなったら、
貧窮が待っていると恐れられている。
しかし、すべてこれらは経済代謝率を生活水準と同等とする混乱した考えに起因する。
生活水準は本当に、財やサービスを壊したり使い尽くす率によって決まるようなものなのだろうか。
そもそも、工業社会にとって理想的な構造が、
当たり前のことだがさまざまな場面で理想的な構造であるわけがない。
しかし、人を管理するより機械を管理する方が常に楽であるから、
経済計算は常に小規模よりは大規模なプロジェクトを優先し、規模の経済を重視する。
組織は肥大化し、手に負えなくなった「不経済」なものは、感傷や現実感覚の乏しさとして排除され、個人は数に還元される。
そのようなシステムが人類の到達点であろうはずがない。
シューマッハが提唱するのは「適正規模」、「中道」である。
「中道」は物的なものも、富も敵視しない。それに執着することを諌める。
大規模なものが全て悪いというわけではなく、大規模が悪魔の仕業とされるならば、反対意見を推してバランスをとらなければならないとも言っている。
量的な扱い方は一定の力を持っており、それは誤りではないが、異質で大事なこととのバランスをとることが前提条件だと言っているのだ。
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スモール イズ ビューティフル再論 (講談社学術文庫) |
F・エルンスト・シューマッハー | |
講談社 |
ブラームスのような風貌の方である。
ベートーベンの10番シンフォニーとも称されたブラームスの1番シンフォニー。
たしかにベートーベンの9番、歓喜の歌の続編のような第4楽章。
Brahms Symphony No1-4mov(5/5) Bernard Haitink-S.K.Dresden
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