ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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透明にすることによって隠蔽されたもの、そして賦活させるもの

2012年08月18日 | 読書ノート

これはまた深い鉱脈に行き当たったような気がする。
そういう感情の鉱脈こそが、実は豊かに太くて、大きいものであったりするのではないか。

~ 漢字の成り立ちには、歴史や日常生活を映すだけではない、天と人との交感が生み出した深遠な物語が潜んでいる。
   漢字の持つ「世界模型」としての性格から見たアジアの宇宙論、
  「呪術機能」、「遊行」、「「狂字論」といっためくるめくようなモチーフが次々と提示される。

漢字の起源を解明することで、逆に言葉、すなわち文明の起源が忘却されてしまったこと、
ひいては古代人と我々の間には大きなミッシングリンクが存在していることを見出した白川 静という人。

もっと、漢字辞典的に専門的な内容かと思っていましたが、そんな無味乾燥で表面的ものではなく、
少し入ってみただけで、そこに詩があることを感じました。
(天と地の交流、天人合一の世界観のような壮大なものとしての詩、です。)

生身の有限の世界において生きながら、おのれを超えた存在を思い、遥かな宙宇と呼びかわす
― こうした世界が詩でなくて何であろう。

白川静読本
五木 寛之,松岡 正剛,宮城谷 昌光,立花 隆,内田 樹,町田 康,押井 守
平凡社

抜き書きを続けながら。 

中国最古の文字資料・甲骨文は約3500年前の古代国家・殷で亀甲(きっこう)や獣骨に刻まれていたもので、
続いて青銅器に刻まれるようになった金文とともに、漢字・漢語の源流を示す最古の資料。
しかし、これらは司馬遷の時代(前145年~前86年頃)にはすでに地下に埋もれて忘れ去られ、漢字・漢語の多くは本来の意味からかけ離れていった。

 隠蔽された世界、透明な世界、がすべてだという史観をあらためるべきだ。
   人間にとって言葉は、世界を分節化して世界を世界として認識する、言葉=人間といってよいような存在。
   私たちが感じる世界というものは、言葉の持つ性質に、思っている以上に依存している。
   かつて、言葉は「言霊」としての重みを持ち、呪いや祈りのための「武器」として用いるものだった。

~ 漢字が古代の象形文字から形声文字(表音文字)へとして振る舞うようになって、
  漢字固有の呪的起源は忘れられ覆い隠されてしまった。
  表音文字、文字のアルファベット化は要するに世界を軽くしたのだ。透明にしたのだ。
  だが、逆説的というほかないが、透明にすることによって何かを隠蔽したのである。

「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばの持つ呪的な機能をそこに定着し永久化することにあった」

 古代人が漢字に込めた詩や物語を具体的にいくつか追ってみます・・

甲骨文におけるサイ(サイ)という文字は後漢の「説文解字」以来「口」と解されたが、白川先生は甲骨文字を分析することによって、単なる身体器官としての「口」ではなく、「祝詞、神からの言葉を入れる器」であったと読みかえた。

初めに甲骨文におけるサイに言霊を入れたのは誰なのか、それを呼びだすのは誰か。
入れた方を巫祝王(ふしゅくおう)とか絶対王といい、呼び出したほうを巫女といったわけです。
文字は目で見ると同時に音を聞くことによって言霊というか、呪能というものを発揮する。
甲骨文におけるサイという容器についても、歌としての言霊が入っているとみなした。
しかし、それはみだりにポピュラーになるものではなくて、しばしば封印しなきゃいけない。
相手を害したり倒したりする力もあるために、歌の一部は容器に入れておかなくてはならない。

~ 話す言葉としての形声の造語体系への移行によって、膨大な文字が生み出され
(「口」の意味に転化した呼ぶ、叫ぶ、咬む、吐く、や、河口、閉口、人口など)、「知の切断」が生じた。
世界を認識するその認識の仕方を変えたのである。
この「知の切断」によって、漢字固有の呪術的起源は忘れられ覆い隠された。

「道」という字は「首」に、「しんにゅう」を書く。

異族の人間の首を刎ねれば、当然、殺された人間の側には呪いがあります。
「首」にあるその呪いの力で、道に潜む邪霊を祓い清めながら進むのが「道」という文字なのです。

「眞」は、倒れた死者の姿。

「上部は化、すでに化したるもので、その下の県は倒さの首、頭髪が下になびく死者の頭である。」

~ 死、死者、それも行路病者、変死者、それが真実。
  そうした場においての祈り、愛、死者も含めての共生。
  「眞」という文字一字が、何と見事に語っていることか。
  しかも、わたしたちが日常使う文字のなか、現実生活そのもののなかにおいて。

~ 歴史とは出来事の線的な並列ではなく体験の層的な堆積である。 面が変容し、新たな層が形成されていく。

 人類の歴史は「切断された知」の厚みとして残っていくものだったのか。
  しかし、日常使う文字の中に、祈りや呪いがいちいち込められていては大変だ。
  切断した記憶としておいたほうが、よい場合もある。
  " 時間、それは流れない。それは積み重なる。"ってウイスキーのCMのコピーにあったけど、
  単なる言葉遊びではない、そこには、切断された豊かな知の鉱脈があるんだってことを教えられました。

最後は、呪いではなく、祈りの込められた「賦」で。
(爽やかな祈り、と書こうとしたが、妙な言い回しでそんなに爽やかでもない。これが真実なのか。)

「賦」というのは、例えば山の美しい姿を見て、そして山の茂み、あそこの谷の具合、あそこの森の深さ、とかいう風にね、色々山の美しい姿を描写的に、数え上げるようにして歌っていく。
これが「賦」なんです。
歌うことによってその対象の持っている内的な生命力というものを自分と共通のものにする。

( ↓ )「賦」にかけてみました。賦活するものを探せ、チャイコフスキーのバイオリン・コンチェルト。

Le Concert highlight

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