ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
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大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。

2010年07月04日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

にわか雨に濡れた日曜の午後。
RolexのCM曲で知ったLang Lang(郎朗)の演奏による、チャイコフスキーのピアノ コンチェルト1番の第1楽章。
ドラマチックな曲調、打ちつける雨や雷を連想させる弾け感が、なんだか梅雨や夏の激しい夕立に感じる天体の響きのよう。
そして、はじまりはいつもボケナス。

Lang Lang - Tchaikovsky Piano Concerto No.1, Part 01

私の身体は頭がいい―非中枢的身体論内田 樹新曜社このアイテムの詳細を見る



さて、こちらの本は最終章が唸るような文体で見事でした。

最終章に至るまでの納得感があってのことなので、ここだけ抜書きしてもあまり意味がないかもしれませんが、めくるめくような恍惚感を文章を読んでて感じることもそうそうあることではないので。


終章 響く身体 ~

いろいろな呼吸法、練功法を試みる。ねらいはひたすら「身体を細かく割る」ということ。

謡の発声のときにも、「身体を割って声を出す」ということを考える。
正しい謡の声は朗々と響く、「肌理(きめ)の立った声」。
大きい声でもないし綺麗な声でもないが、声帯ばかりでなく骨も神経も筋肉も、身体のすべてが謡の音に唱和している交響楽のような声だ。
一人の人間の声がこれだけ多様な微細音を同時に発することができるということを私は謡を習うまで知らなかった。

舞も同じ。序の舞のような緩慢な動作に美的な緊張を感じるのは、わずか一歩出るすり足のうちに大量の運動が潜在的に含まれていることを私たちが感知するから。
シテは多起源的・多声的な力を「ただ一歩の運足」のうちに込めなければならない。
全身から集められた微震動のエネルギーによってシテの身体の内圧は高まり、
シテの身体は無限の細片に「割れていく」。

美とはつきるところ「肌理(きめ)の微細さ」のことである。
武道における勁さ(つよさ、ケイ)もおそらくこれと同じところに収斂する。
私が稽古していることはすべて「他者から送られる響きを聴きとる」というただひとつの身ぶりに集約される。



や合気道の稽古を通して修練を積んでいる著者が50歳を過ぎてようやくものの理(ことわり)が分かった、と感じたというくだりです。


「響き」というのは「割れる」ことでしか発生しない。
静止したソリッドな単体から何の響きも生まれない。
単体に亀裂が入り、異化が始まり、中枢的に統制されたシステムが"非中枢的に自律する"システムに変容し、
身体各部にズレや温度差、密度差、時間差が生まれるときに、はじめて「響き」は生まれる。
複数の震動体や発音体が、それぞれ決して互いを、否定せず、阻害せず、統制せず、
ただ互いの音を受け止め、享受し、装飾を与え、支え、「我を忘れた」ときに発生する、
「誰の所有にも帰属しない和音そのもの」のことである。
「響き」を聴く者は、その響きを経由してはじめて、己がどのような仕方で和音に参加しているかを聴きとる。
ある音を聴いていると、自分の身体が共振し始める。
そのときにはじめて共振する「響き」の自分もまた一個の構成要素であったのだということを知らされる。
そのような形で、主体性とか私とかいうものは事後的に確定されるのである。
端的に言えば、生きているとは、「響きを発し、響きを聴く」、ただそれだけの動作に集約される。

そのためには「割れ」なければならない。「割る」というのは、同時に微細な震動を発することである。
割れが細かければ細かいほど、発される震動音は深みを増し、厚みを加え、肌理(きめ)が立ってくる。

能楽では、それは朗々とした、また纏綿(てんめん)たる音声的な肌理として、
あるいは強烈な内圧を凝集したかすかな動きとして、総じて美的感動として顕現する。

武道では、囚われない融通無碍(ゆうずうむげ)の動きとして、また圧倒的な勁(けい)のエネルギーとして顕現する。

そういう「ことの理路」が、この歳(50歳過ぎ)になって、だんだんと分かってきた。
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。
哲学も舞楽も武道も、その帰するところはおそらく一つである。
こういうことは誰の本にも書いてない。だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。



ずいぶん難しい物言いをするなぁ、という風にも感じますが、
始まりは以下の通り、ボケナスから、なのです。
でも、真摯に、学術的に論じることが難しい領域について、
自分の腑に落ちるように、
自分の言葉で、なんとか理解しよう、語ろう伝えよう、とするところに共感を覚えます。

「身体を割る」、といった身体感覚、研究中。


世に三面六臂の活躍をしている人は沢山いるけど、そういう人ほど「おおらかな人柄」と言われる。
おおらかとは、言い方を変えれば「ボケ」ということである。
活躍している人ほど、お会いするとフツーすぎるくらいフツーの人であり、どこかぬけていてチャーミングだったりする。
ようするに、「本当の私はボケナスであるほどいい」というわけで、私は心から安心してしまう。
そうだ、私はボケナスでよいのだ。これでいいのだ。

虚をおのれの中心に据えること、自我の中心にあるのはボケナスである。


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