橋下大阪府知事が普天間基地の機能や訓練の分散移転について、関西での受け入れを検討すべきだとの考えを示している。「受け入れの優先順位が高いのは米軍基地のない地域だ。関西の優先順位が一番高い」というのがその理由と伝えられているが、それで思い出したのが伊丹空港がかって米軍基地であった頃の今は昔の話である。
私が大阪大学理学部に入学したのは昭和28(1953)年4月である。理学部と書いたが当時は前期の2年間を教養部で学び、その後理学部に進学してから2年間、専門教育を受けることになっていた。教養部は北校と南校とに別れており、前者は旧制浪速高等学校の、後者は旧制大阪高等学校の校舎を使っていた。私の通ったのは教養部北校で豊中市の待兼山にあり、三宮から阪急神戸線で十三まで行き、宝塚線に乗り換えて急行の停まる石橋で下車して待兼山まで歩いて登った。神戸の自宅から阪急三宮駅まで市電だったので、登校に片道2時間はたっぷりかかったと思うが、自宅から通える国立大学、というのが親から与えられた進学の条件だったのでこの通学も苦にはならなかった。なんせ朝鮮から身一つで引き揚げてきたサラリーマン家庭で、私は5人兄弟の一番上だったのである。
入学したときの記念写真が残っている。待兼山の一画なのだろうか、男子学生のほとんどが制服?に角帽姿の時代であった。
ここに大阪大学豊中キャンパスの地図がある。ただし昭和28年当時、この図の右斜め下半分の建物は存在しなかった。
⑨の説明に「大学教育実践センター 共通教育本館(イ号館)」とあるが、これが当時の北校校舎であろう。「ウィキペディア(Wikipedia)」で「浪速高等学校 (旧制)」の項目にこの建物の写真が掲載されており、「旧浪高高等科本館(現・阪大「イ号館」)」と説明されているからである。
ほとんどの講義はこの校舎の教室で受けたが、課目によってまれにバラック建築のような文科系の校舎でで聴講したような覚えがある。5月に入ると本館正面口に通じるスロープの両側にはツツジが咲き乱れ、あまりの立派さに大学に入った喜びをあらためて実感したものである。だんだんと暑くなるにつれ、教室の窓は開け放された。ところが講義の最中にジェット機の轟音が容赦なく入り込んでくる。窓を閉じても効き目はない。近くに飛行場のあることは分かっていたから、お互いに顔を見合わせては「しょうがないな」というような表情を交わすのである。もちろん講義は小休止であった。考えてみるとわれわれの世代は空襲の警戒警報で避難するのに慣れていたから、ジェット機の轟音をやり過ごすぐらいは屁のカッパ、こんなものだと諦めてうるさく騒ぎ立てることもなかった。なんせ日本は戦争に負けてしまったのだから仕方がなかったのである。
Google地図で見ると吹き出しのかたまっているところが大阪大学豊中キャンパスで、空港とはきわめて近いことが分かる。直線距離で2~4キロといったところである。その頃の空港の様子を紹介しているサイト、1950年代の大阪(伊丹)国際空港のよると、この伊丹空港は昭和20(1945)年9月に米軍に接収され、13年後の昭和33年に日本に返還されて大阪空港と改称されたことが分かる。従って私たちが北校に通っていた頃、伊丹空港が紛れもなく米軍基地であった。
豊中キャンパス図の明道館(学生サークル棟、22番)は、名称こそ昔のものであるが、元の場所より左斜め下に移動しているように感じる。昔の明道館の右斜め下あたりが運動場であったと思う。教養部であったから体育実技があって、この運動場で球技などをした。この運動場を見下ろす小高い丘があり、現在の地図で見ると刀根山寮(学生寮、24番)の辺りであろうか。ここが米軍キャンプになっていて全体が金網で区切られ、家族宿舎であろうか緑の芝生に明るい瀟洒な感じの家が建ち並んでいた。運動場から見上げると後年、黒澤明の「天国と地獄」で描かれたスラムを見下ろす高級住宅街の趣があった。暑い頃ともなると芝生の上に広げられた組み立て式のプールであろうか、そこではしゃぐ子供たちの声が風にのって届いたものである。10年経つかたたないうちに私たち家族がその米国本土に留学し、夢のような生活を送ることになろうとは思いもつかなかった。阪急宝塚線石橋駅の一つ手前に、普通しか停まらない蛍池駅がある。好奇心にまかせてそこから周辺を歩き回った。駐留米軍兵士相手の飲み屋が目立って、いかにも基地の街という雰囲気を感じた。もちろんこのような場所は神戸にもあり、今の南京街あたりの路地の至る所にこのような店があってとっくに探検済みであったので、それと同じ匂いを嗅いだのである。
私は日本からは米軍基地のすべてを追い出すべきであると思っている。しかし「ヤンキーゴーホーム」の意味がもはや通じない世代が大勢を占める今の日本で、米軍基地撤廃の声が一つに纏まることはまずあり得ないような気がする。国民の気持ちが一つになり得ないのは、やはり沖縄だけがその不条理の被害を被るだけで国民のほとんどにとって、他人事となってしまっているからであろう。占領下の情況を駐留米軍に再現して貰い、本土の人間が占領下にある屈辱を今改めて実感するようになれば、ひょっとすると「ヤンキーゴーホーム」の声がまとまって大きくなるのかも知れない、なんて破れかぶれに思ったりする。橋下大阪府知事がそこまで考えているのなら、米軍基地を再び関西に、という誘致案も一考に値するというものだ。かっての国体のように全国都道府県回り持ちで順番に基地を引き受けるともっと効果が上がることだろう。
私が大阪大学理学部に入学したのは昭和28(1953)年4月である。理学部と書いたが当時は前期の2年間を教養部で学び、その後理学部に進学してから2年間、専門教育を受けることになっていた。教養部は北校と南校とに別れており、前者は旧制浪速高等学校の、後者は旧制大阪高等学校の校舎を使っていた。私の通ったのは教養部北校で豊中市の待兼山にあり、三宮から阪急神戸線で十三まで行き、宝塚線に乗り換えて急行の停まる石橋で下車して待兼山まで歩いて登った。神戸の自宅から阪急三宮駅まで市電だったので、登校に片道2時間はたっぷりかかったと思うが、自宅から通える国立大学、というのが親から与えられた進学の条件だったのでこの通学も苦にはならなかった。なんせ朝鮮から身一つで引き揚げてきたサラリーマン家庭で、私は5人兄弟の一番上だったのである。
入学したときの記念写真が残っている。待兼山の一画なのだろうか、男子学生のほとんどが制服?に角帽姿の時代であった。
ここに大阪大学豊中キャンパスの地図がある。ただし昭和28年当時、この図の右斜め下半分の建物は存在しなかった。
⑨の説明に「大学教育実践センター 共通教育本館(イ号館)」とあるが、これが当時の北校校舎であろう。「ウィキペディア(Wikipedia)」で「浪速高等学校 (旧制)」の項目にこの建物の写真が掲載されており、「旧浪高高等科本館(現・阪大「イ号館」)」と説明されているからである。
ほとんどの講義はこの校舎の教室で受けたが、課目によってまれにバラック建築のような文科系の校舎でで聴講したような覚えがある。5月に入ると本館正面口に通じるスロープの両側にはツツジが咲き乱れ、あまりの立派さに大学に入った喜びをあらためて実感したものである。だんだんと暑くなるにつれ、教室の窓は開け放された。ところが講義の最中にジェット機の轟音が容赦なく入り込んでくる。窓を閉じても効き目はない。近くに飛行場のあることは分かっていたから、お互いに顔を見合わせては「しょうがないな」というような表情を交わすのである。もちろん講義は小休止であった。考えてみるとわれわれの世代は空襲の警戒警報で避難するのに慣れていたから、ジェット機の轟音をやり過ごすぐらいは屁のカッパ、こんなものだと諦めてうるさく騒ぎ立てることもなかった。なんせ日本は戦争に負けてしまったのだから仕方がなかったのである。
Google地図で見ると吹き出しのかたまっているところが大阪大学豊中キャンパスで、空港とはきわめて近いことが分かる。直線距離で2~4キロといったところである。その頃の空港の様子を紹介しているサイト、1950年代の大阪(伊丹)国際空港のよると、この伊丹空港は昭和20(1945)年9月に米軍に接収され、13年後の昭和33年に日本に返還されて大阪空港と改称されたことが分かる。従って私たちが北校に通っていた頃、伊丹空港が紛れもなく米軍基地であった。
豊中キャンパス図の明道館(学生サークル棟、22番)は、名称こそ昔のものであるが、元の場所より左斜め下に移動しているように感じる。昔の明道館の右斜め下あたりが運動場であったと思う。教養部であったから体育実技があって、この運動場で球技などをした。この運動場を見下ろす小高い丘があり、現在の地図で見ると刀根山寮(学生寮、24番)の辺りであろうか。ここが米軍キャンプになっていて全体が金網で区切られ、家族宿舎であろうか緑の芝生に明るい瀟洒な感じの家が建ち並んでいた。運動場から見上げると後年、黒澤明の「天国と地獄」で描かれたスラムを見下ろす高級住宅街の趣があった。暑い頃ともなると芝生の上に広げられた組み立て式のプールであろうか、そこではしゃぐ子供たちの声が風にのって届いたものである。10年経つかたたないうちに私たち家族がその米国本土に留学し、夢のような生活を送ることになろうとは思いもつかなかった。阪急宝塚線石橋駅の一つ手前に、普通しか停まらない蛍池駅がある。好奇心にまかせてそこから周辺を歩き回った。駐留米軍兵士相手の飲み屋が目立って、いかにも基地の街という雰囲気を感じた。もちろんこのような場所は神戸にもあり、今の南京街あたりの路地の至る所にこのような店があってとっくに探検済みであったので、それと同じ匂いを嗅いだのである。
私は日本からは米軍基地のすべてを追い出すべきであると思っている。しかし「ヤンキーゴーホーム」の意味がもはや通じない世代が大勢を占める今の日本で、米軍基地撤廃の声が一つに纏まることはまずあり得ないような気がする。国民の気持ちが一つになり得ないのは、やはり沖縄だけがその不条理の被害を被るだけで国民のほとんどにとって、他人事となってしまっているからであろう。占領下の情況を駐留米軍に再現して貰い、本土の人間が占領下にある屈辱を今改めて実感するようになれば、ひょっとすると「ヤンキーゴーホーム」の声がまとまって大きくなるのかも知れない、なんて破れかぶれに思ったりする。橋下大阪府知事がそこまで考えているのなら、米軍基地を再び関西に、という誘致案も一考に値するというものだ。かっての国体のように全国都道府県回り持ちで順番に基地を引き受けるともっと効果が上がることだろう。