日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「いじめ」はいじめる子が悪い

2006-11-03 15:40:31 | Weblog
新聞、テレビなどでしばらく「いじめ」の報道が続いた。

昨日(11月2日)朝日新聞の夕刊に出ていた記事の導入部分はこうである。

《岐阜県瑞浪市立瑞浪中学2年の女子生徒(14)がいじめで自殺した問題で、学校側はいじめを原因と認めて謝罪するまでに、見解を二転三転させた。背景には、学校側のいじめに対する認識や、実態把握の甘さがあった。》

この件でマスメディアの報道姿勢も同工異曲、いつものことながらの学校側の対策・対応非難と云って良いだろうか。

この報道では学校側がいじめを女子生徒の自殺の原因と認めて謝罪したとのことである。しかし私は事件が起こってまだ10日も経つか経たないうちに、そのような結論が出たことに驚く。こういう調査の専門家でもない中学校の教員が、このような短期間に事実関係の調査、そして因果関係の解明をやってのけたとは私には思えないからだ。事件を報じるマスメディアの熱気と、それに刺激された父兄の言葉による圧力に、学校側が屈したのであろうか。

いじめによる自殺が事実であったとすると、悪いのはいじめた側の生徒ではないか。元来はいじめた生徒、そしてその生徒そのように躾けた親を責めるべきである。学校側が認めたことになっている因果関係が本当なら、この生徒は加害者である。この加害者を厳しく矯正しないことには、また別の相手に同じようなことをするに違いない。今回の事件でもこの四人とされる加害者の両親が自殺した女子生徒の両親に謝罪したと報じられている。それはそれでよいのだが、四人の加害者も両親に付き添われて謝罪に訪れたのかどうか、報道ではわからない。自分の子供が悪いことをしたと本当に認めるのなら、子供が嫌がってもむりに引っ張っていき相手に謝罪させるのが親というものではないのか。親が代わりですむという問題ではない。

この中学校で開かれた保護者への説明集会の様子が一部テレビなどで流れた。「人が一人死んでいるんですよ」との怒声が耳に入ってきた。前後の事情が分からないだけに、この人が何故このようなことを声高に言っているのか、その相手が学校側なのか保護者なのかが気になった。

常識的に想像すると、この保護者たちは自分の子供がいじめの被害者になっては大変との思いで事情を聞きにこの集会に参加したのであろう。いじめを察知できず、またそれを防ぎ得なかった学校側へのいらだちが、学校側への責任追及となったのであろうか。

保護者に望みたいのは、自分の子供が被害者になることを恐れるよりは、いじめの加害者にならないよう、日頃から子供に説いてきかせるということである。人の嫌がることをしてはいけないとか、悪い言葉で相手をののしってはいけないとか、そんなことは小学校に上がるまでに躾けておくべきことである。その躾が出来ていないことが今回の事件の背景にあるのだろう。学校という場でいじめを防止する責務は学校側にもあるだろうが、いじめをするような子供に育て上げたのは親の責任である。

同じ新聞はこうも報じている。《PTA総会で保護者の不満が噴出した。「先生は、言葉だけで子供が死ぬことがあると思わないんですか」。そう問いかけられ、その場にいた教員全員が「そう思う」と手を挙げた。》

教師に詰め寄るのもいいが、自分の子供にこの言葉を拳々服膺させるほうが先決だ。