サチコのときどきダイアリー

お茶をいっぱいの気分でお立ち寄りくださいませ

長野県「内山峡」から 山梨県「旧渋沢村」まで

2024年08月05日 | 
8月3日 今日はまず嬬恋の山荘に滞在中の友人・芦原伸さんをお訪ねします。芦原さんは旅行記やノンフィクションをたくさん書いていらっしゃる作家で、近く津田塾大同窓会群馬支部で講演会をしていただくことになったそうです。

 

ツネオさんの運転で出発。お天気でよかった。左はキャベツ畑。こんな広大なキャベツ畑、初めて見たわ。緑の中に、かわいい山荘が点在する中に、芦原さんの山荘があります。


緑いっぱい、空気おいしい、冬は寒そう。ここにこもったら、執筆はかどるでしょうね。冬は雪だから、山荘の屋根はみんなコビトのお家のように、三角にとんがっています。

   

芦原さんは最近、バルカンの4国をまわっていらっしゃったそうで、バルカンの話がはずみました。冷たい麦茶をいただいた後、みんなでランチに。土日しかやっていないというイタリアンに行きました。

 

スパゲッティとピザをたのみました。私とアキコさんはカルボナーラ。おなかいっぱい、おしゃべりもいっぱい。レジでキュウリが20円、ズッキーニ50円で売っていたので、面白半分買いました。ここで、芦原さんとお別れして、内山峡へ。


   渋沢栄一の漢詩碑を見に佐久の「内山峡」へ


若かりし日の栄一は従兄の尾高惇忠といっしょに、家業の藍玉のセールスのために、信濃を歩いていましたが、佐久にあった漢詩人・木内芳軒(1827~1872)の漢学の塾を訪ねるのを楽しみにしていたそうです。榮一は芳軒に剣を教え、芳軒から漢学を教わっていました。漢詩「内山峡」は栄一が19歳のとき、内山峡の景観に触れて詠った長詩。詩碑は栄一没後の昭和15年、芳軒の孫の木内敬篤氏が有志らと建立したものです。


うわ~、この漢詩碑です、私が見たかったのは! 勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征 日亭未稗達絶頂 四望風色十分晴

大河ドラマ「青天を衝け」というタイトルは、この詩のこの部分からとったものです。詩碑は峩々たる岩壁に張りづくようにセットされています。一時、落石の危険から、立入り禁止になっていましたが、工事が終わって、いまは碑の近くまで行かれます。

 

詩碑をバックに写真撮ってもらって、ご満悦のサチコです。栄一が「青天を衝け」の意気で、絶頂に達したのは10月でしたが、8月の今日も、昔日同様、青空、白い雲。

    

榮一は、9歳上の従兄であり、友であり、学問の師でもあった尾高惇忠(藍香-写真右)と「巡信記詩」を合作しました。栄一作の「内山峡」はその中の1作です。


   次は山梨の旧渋沢村へ

渋沢一族は、かつては甲斐の武田家の配下にあったが、勝頼が自刃し、武田家滅亡後、落武者となり、佐久、富岡を経て、利根川の畔の深谷市血洗島に定住し、帰農した・・・というのが、最有力説となっていますが、かつては山梨県北巨摩郡に渋沢一族が住む渋沢村があったのです。いまは「山梨県北杜市長坂町渋沢」となっていますが、「渋沢」という地名はいまも残っています。澁澤一族の痕跡はなにも残っていないと聞いてはいたけど、遠い先祖の地「渋沢」の土を、一度踏んでみたかった。


いまの渋沢にあるのは、山梨県指定の天然記念物「渋沢のヒイラギモクセイ」だけです。ヒイラギモクセイはキンモクセイとヒイラギの雑種だそうですが、立て札によると、この木は、樹齢はわからないが、かなり古く、根まわり3.3m,枝張り東西7.8m、南北7.3m、樹高8.0m。


こんな美しい白い花が咲くようです。


ヒイラギモクセイの木は、この古いお家の庭の一隅に生えています。入口に「柊木犀を見たい方は此処からご自由に」と書いてあります。いかにも旧家の感じなので、お家の方がいれば、かつての渋沢村のことなどうかがいたかったのですが、お留守のようでした。
 今夜はツネオさん・ヒサコさんの八ヶ岳の山荘にお泊りです。


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