木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

平家は壇ノ浦から喜界島、加計呂麻島に逃げ延びた?

2024-03-15 00:39:32 | 随想
日本各地には様々な伝承や痕跡があります。

今から9年前に奄美大島を関係者の皆様と
訪問して、桜マラソンの10キロの部に出場
してへばり、その後に奄美大島から20キロの
沖合にある喜界島に喜界島町長を表敬訪問しました。

その際に壇ノ浦の戦いで滅んだとされた
平家は、どうやら喜界島に逃げてきて、再起を
計っていたと知らされました。
ロマンが掻き立てられますね。

時空を遡る時間が魅力です。

以下、9年前の私のSNSでの投稿を転載し当時の画像を
掲載します。

(以下、2015年2月の私のSNS投稿転載)

喜界島の北部にある平家上陸の地の碑。
壇ノ浦の戦いで平家は滅亡したとなっていますが
表舞台から消えただけで、平家の船団は海に沈んだ
のではなく平資盛と平家の関係者200名は潮の
流れに乗って壇ノ浦からここ喜界島に辿り着いた
との事です。

喜界島に上陸した平資盛と200名の平家の武者達
は小高い場所に砦を構築して源氏が壇ノ浦から
追いかけて攻めてくる事を想定して警戒し防御体制
を整えていたそうです。

喜界島には平家森という小高い場所に木々が茂った
一帯がありますが、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一味
は喜界島に逃げのびて来てこの木々の茂みに
しばらくの月日の間、身を潜めたそうです。

歴史は中央で編纂されたり中央で語られる内容と
各地や各地方の現地に残って伝えられている内容
とが大きく違っている事例が多く、そのような
紐解きを見付けると最高に面白いですね。
壇ノ浦の戦いの後もまだ源氏との戦いに備えていた
平家の武者達がいたという事実は歴史の奥深さを
感じます。

壇ノ浦の戦いにより平家を中央から追いやり
武家政権を樹立した源氏の立場から見た歴史が
伝えられているわけで、源氏の立場から見れば
「平家は海の底に消えた」
という事でしょう。
しかし事実は平家は海の底に消えたのではなく
南西諸島に落ち延びて再起を計っていたという事です。

壇ノ浦の海に身を投げて果てたとされる安徳天皇
も身を投げたのは本人になりすました身代わりと
いう説もあり、安徳天皇ご本人はもしかしたら
平資盛らと共に南西諸島や喜界島一帯に船で逃げて
きて、ひっそりと血統を絶やさないように
生き続けたと見ても歴史の様々な事例を見ても
不思議ではありません。

昔は世の中的に死んだことにして出家した皇族や
武将の事例が少なくありません。
死んだことにして生き延びていたという歴史は
よくあります。

その後、平家の関係者は喜界島を去り奄美大島の
加計呂間島に移住したそうです。
この加計呂間島には今も尚、平家に関する伝統や
舞い等が色濃く残っています。
各地を訪れると様々な発見に出会えて良いですね。

       〜以上、当時のSNSでの投稿転載を終える〜

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1 コメント

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Unknown (三毛猫)
2024-03-16 03:19:26
今晩は。
安徳天皇は、宇佐公道の息子と入れ替わって海に沈んでしまったとされる公道の息子が、もしかしたら、加計呂麻島にたどり着いたかもしれないと思え、嬉しくなりました。
2021年松尾先生が開業した「加計呂麻ぐるぐる診療所」に行った事を長尾和宏医師が、「加計呂麻について書くならば、軽く一冊の本になる。でも、書く時間が無い。
尼崎市には、加計呂麻・奄美出身者が多い。」とブログに書いていました。
美しい景色を見に、一度は訪れてみたいと思っています。
ー宇佐市安楽院と宇佐公道ー
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