「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「匂いイリス」

2006-05-16 13:56:22 | 和歌


 昨日に続けてあやめのお仲間、この種類は
「匂いイリス」というらしい。

 昨日は「あやめ」「はなしょうぶ」「かきつばた」は誠に紛らわしいと、聊か日頃のウップンを晴らしたが、花そのものは、それぞれに難ぐせをつけようもない美しさで、妙齢のご婦人を前にした時と同じで、ただただウットリとするばかりだ。美しい花に出会うと、魂を吸い取られて痴呆状態におちいる虚庵居士である。

 「うつろ庵」の近くの遊歩道に、大輪の白あやめが咲いている。実は四月の初旬から咲いているのだが、早咲きの「一初」とは明らかに別種で、ハッキリしたことが判らずにうち過ぎて来た。最近になってやっと「匂いイリス(アイリス)」に辿り着いた。この花の根茎を乾燥させて、香料を抽出するらしい。そういえばギリシャ神話であっただろうか、香水「イリス」という名前を読んだおぼろげな記憶が甦ってきた。






             うつつ世に舞い降り給うや白妙の

             天女は衣手空にかかげて



             夕されば連れて舞うかも白妙の

             天女の姉妹の衣うかびて



             馨しき香りの凝る根と伝え聞き

             花探せども散るぞ悔しき






「あやめ」

2006-05-15 19:25:57 | 和歌
 
 「菖蒲・あやめ」 「花菖蒲・はなしょうぶ」 「杜若・かきつばた」


 不勉強な虚庵居士にとっては、誠に紛らわしい花達である。何故「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませるのであろうか? 端午の節句に飾るのは正真正銘の「菖蒲・しょうぶ」だ。「菖蒲・あやめ」の花を、「花菖蒲」と書くのかと思えば、これは「はなしょうぶ」で別物だという。学校の先生方は、子供達にどの様に教えておられるのだろうか? これでは「正しく読みましょう」などと、真面目な顔をして教えられない!

 「杜若」は「かきつばた」と読めという。常識的に読めば「とじゃく」だ。どう転んでも「かきつばた」とは読めない。手元にある漢和辞典で「杜若」を調べたら、『ツユクサ科の多年草、「やぶみょうが」の名前。俗に誤って「かきつばた」のことをいう』と書かれていた。「俗に誤って」とは申せ、言い換えれば漢和辞典に記載される程度に、一般的だということだろう。

 更にややこしいのは、花そのものの区別である。この花は、どうやら「あやめ」らしいが、ご先祖様は誠に罪作りな遺産を残されたものである。




             道行けばあやめの花咲く時節かな
             
             わたつみ越えて燕飛び来よ



             傘さして琴の音聴きつつ花菖蒲を
 
             去年(こぞ)は観しかな はやひととせを経て



             花菖蒲あやめかはたまた杜若

             区別はさておき花を召しませ






「薔薇の雫」

2006-05-14 18:57:01 | 和歌

 今年も紅の薔薇の季節になった。






 毎年のことであるが、香りたつ紅の花を律儀に咲かせてくれるが、ズボラな「うつろ庵」の主は愉しむばかりで、いっこうにお礼をしてこなかった。せめて今年は花時が終わったら、感謝の気持ちをこて、肥料をあげたり剪定をしてやらねばならぬと考えている。今のうちに、薔薇が気に入ってくれる労わり方を少しは勉強をしておかねばなるまい。

 何年か前に、「薔薇を娶らむ」という長歌と反歌をものしたが、その折はデジカメという文明の利器がなかったので、作品には写真を添えなかったが、今にして思えば、あの頃の薔薇はもっと滾るものがあって、虚庵居士に迫って来たように思われる。
今年は薔薇が咲き始めて以来、雨の日が多いためであろうか、この薔薇の自慢の香りが、何時もの年に比べて少なめのようだ。

 散り敷く花びらを篭に拾い集めて、生ポプリを今年も愉しみたいものだ。


   



           
           降る雨にうら悲しくも紅の
           薔薇は項垂れ香り立たずも


           芳しき香り凝るらむ薔薇の花の
           雫をグラスに受けて含めば


           薔薇の花に湛える雫を受けまほし
           滾る命の雫を呑みてむ





 



             『薔薇を娶らむ』  旧作

          あゝ せめて
          我が身の齢(よわい) いま少し
          若くしあれば 紅の
          かくも気高く 香りたつ
          薔薇の化身の 乙女をば
          魔法を解きて 現身(うつせみ)の
          滾り燃え立つ 美女となし
          手を取りあいて 
          娶らむものを


          狂おしく咲きたるばらは惜し気なく
          散りて尽くさむ残り香いとしき







「小手毬・大手毬」

2006-05-13 10:06:45 | 和歌

 この時節は何故か、白い花が目に付く。

 ご近所の「小手毬」と「大手毬」の花を、楽しませて頂いた。虚庵居士の侘び住まい「うつろ庵」の周辺は、それぞれのお宅の屋敷が道路から一段高いので、それほど背丈の高くない「小手毬」も、下から覗き込む普段見慣れない視線になって、思わぬ姿を見出した。下から見上げると、ビッシリと咲く小花の重みで、細い枝が殊のほか垂れ下がり、ゆったりと微風に揺れる姿には、どこか仕舞の所作を思わせる風情があった。







             白妙の小花連ねる小手毬に
 
             さ枝の仕舞を仰ぎ見るかも 




 雅号の通り浅学でうつけ者の虚庵居士は、「小手毬」と「大手毬」は、花の名前からも同類の花とばかり思い込んでいたが、植物学的には全く別の種類らしい。改めて比較してみると、花も葉も、それに木の姿もそれぞれに異なっているが、先人はそんなことよりも、手毬に咲く花を愉しむ術を心得ていて、粋な名前をつけたものだ。







             おさな児の大き手毬か何処より

             跳ね来たるらし葉に埋まらむとして



             百重(ももえ)なす小花の手毬をわが孫と
 
             つきて遊ばむ皐月の苑にて 





「白ばら」

2006-05-12 00:19:12 | 和歌
 
 瀟洒な佇まいの玄関先を飾って、白い蔓ばらが花を一杯に付けていた。





 一重の白ばらは、花びらと「黄金色のめしべ」とが絶妙なハーモニーを保ちつつ、散りばめられた花全体で、情感豊かなアンサンブルを奏でているように見える。白ばらの素晴らしい特性ともいえようが、住み人の溢れるセンスが窺がえる。





 体中が羽毛で覆われた黒い大きな蜂が一匹、蜜を吸っていた。恐るおそる近づいて写真をとったが、それには一瞥だにせず夢中であった。これを見て、「己を守る強力な武器を持つものは、多少のことにはビクともしない」ものなのかもしれない、などと独り善がりに理解した。
が、資料によれば、この蜂の夢中で花の蜜を吸う性格を活かして、農家は花の受粉用に飼育している種類だという。「クロマルハナバチ」が蜂の名前だ。







             黄金なる花芯を守る白妙の
 
             五弁の花びら気品を湛えて



             蔓に咲く白ばら程よく散りばめて
 
             風に奏でるアンサンブル聴く



             只管に蜜を吸う蜂受け止めて 

             心地よげなる白ばらなるかな






「苧環・おだまき」

2006-05-11 01:18:04 | 和歌

 「おだまき」が椿の根元の鉢に咲いた。

 どうしたものかこの花のイメージは、陽光が燦々と照らす世界ではなく、木漏れ日がさし込んで来る木影の雰囲気が相応しいようだ。虚庵居士が勝手に描くイメージの世界でのことだから、当らないと指摘する人もあろうが・・・。思えば、多分に静御前の歌による思い込みが、そうさせたのかも知れない。「しづやしづ賎のおだまき・・・」の歌は、この花とはかかわりもないが、「おだまき」と歌われた「糸取りの苧環」と、花の名前の「おだまき」がたまたま共通ゆえに、「おだまき=静御前=哀しみにくれる白拍子=木漏れ日」という観念の連鎖が、何時の間にか結びついたのかもしれない。





 それにしても、おだまきの花の木漏れ日を受けて咲く姿には、相見ぬ静御前の、気品ある舞姿が偲ばれる。



             義経を慕いて舞いつつ詠みたると

             伝ふる歌のひびきかなしも

  

             たまきわるいのちをかくごのうたなれば

             まいひおおぎもたゆたひなからめ



             木漏れ日を受けて咲くかもおだまきの 
 
             花の姿に 静御前見ゆ  




         

「君子蘭」

2006-05-10 10:40:53 | 和歌
 
 松の木漏れ日を受けて、君子蘭が咲いた。

 この君子蘭は、「うつろ庵」の松の剪定を任せてきた植木職人・定吉爺さんに貰ったものだ。定さんが抱えて来てから、かれこれ二十年は経っただろうか、鉢の数も七つ八つに増えた。
彼方此方で見かける君子蘭は、赤丹色のものが多いが、黄丹、或いは金赤と言おうか、落ち着いた色合いが好きだ。

 冬も暖かな横須賀では、屋外でも簡単な霜囲いをする程度で例年を凌いで来たが、今年は幾つかの鉢が霜害にあって、可愛そうなことをした。この鉢は、定吉爺さんが丹精込めて手入をしてくれた松の下で、無事に越冬した。







             今は亡き「定吉」じいの懐か
  
             松の木漏れ日 君子蘭 いだきて  



             この頃は行くさ帰るさその都度に  

             挨拶かわす君子蘭かも  



             抱き来て置きたる鉢は年毎に  

             君子蘭咲きじじ忘れめや  






「烏のエンドウ」

2006-05-09 00:05:16 | 和歌





             踏みしだく人とてもなき野の隅に

             「烏のエンドウ」稚けなく咲く  



             草ぐさを踏み分け行けばうちふるえ
  
             「踏マナイデ」との小花の声聞く    

 

             萌えいずる若芽わか蔓 紅の  

             小花の装いあやに清しき  



             草枕人の世の旅重ね来て

             草臥れ果てぬと人は見るらむ   




  

「たつなみ草」

2006-05-08 00:15:16 | 和歌

 近くのお宅の、道端の「さつき」の間に、白い可憐な花がまばらに淋しげに咲いた。

 手入れの行き届かない赤芽の生垣が生い茂って、足元のさつきには陽ざしが届かないので、弱々しく哀れだ。さつきの間に雑草然として生えていた「たつなみ草」が、数日前からまばらに咲き出した。日陰に咲く可憐な花は、風に揺れて淋しげだ。

 どの様な事情があるのか知らないが、このお宅ではご夫妻が離れて生活していて、ご主人とご子息だけが此処に暮らしていたが、大学を卒業されたご子息も、最近は殆ど帰宅されなくなった。奥様と娘さんは、余り遠くもない隣町にお住まいだと漏れ聞いていた。
そんな或る日、パトカーと救急車などがお宅の門前に停まり、慌ただしく人の出入りがあった。お気の毒にもご主人が事故で亡くなられたという。 ご葬儀は遠い生家にて執り行うとかで、ご近所の数人だけがお見送りする淋しいお別れであった。

 主を失った車は駐車場に埃をかむり、「たつなみ草」の白い花が揺れていた。







             生い茂る赤芽の枝の葉隠れに
  
             たつなみ草はひそと咲くかも  



             葉隠れに陽ざしを求めて白く咲く
  
             あはれたつなみ草丈のばして  



             しろたえのたつなみそうのはなゆれて 
 
             なげくをみればまうらかなしも 






「紫蘭」

2006-05-07 11:25:07 | 和歌
 
 「うつろ庵」の紫蘭が咲いたので、ご紹介するつもりでいたが、何時の間にか十日ほど過ぎてしまった。

 清楚でいて色気があって、手弱女の風情が何ともいえない。このような花時をやり過ごすと、上の莟も次つぎと開いて豪華にはなるが、虚庵居士は一輪だけが咲いた今の姿に、限りない愛着がある。今にも咲かむとする次の莟、古代紫の外套をまだまだ固く閉じて、じっとその日を待ち続けるトップの莟。それぞれの表情を見ていると何やら娘達の育ち行く姿を彷彿させる。
 
 庭の虫達にも好みがあるらしい。姿を見せないが紫蘭の花びらを好んで食べる不敵の輩もいて、油断がならない。自然の世界は想像以上に過酷なようだが、考えてみれば人間世界もご同様か・・・。






             年頃の娘を持つ身に相似るや

             そぞろ気を揉む紫蘭の虫食い


 
             お隣の娘御そっと並び立ち
 
             あら まだ背の丈 勝てないのネ !
  


             頬見ればニキビのひとつ吹きいでて
 
             恋そむ年ごろ明るく笑いぬ
  






「京都の筍」

2006-05-06 01:49:35 | 和歌

 クール宅急便で、京都から「たけのこ」が届いた。

 筍の毛皮は、まだ朝露が残って濡れている。朝露を踏んで掘り出して、その侭送り届けて下さったものであろう。筍と一緒に米糠も一袋添えられていた。






 虚庵夫人の「お琴」の旧友が、ご主人の転職に合わせて京都の田舎にお帰りになって久しい。京呉服の反物を車に積んで、ご夫妻で「うつろ庵」を訪ねて下さったことが、二・三回ある。サラリーマンの然るべきポジションを擲って転職されたというが、呉服を商う天性のセンスをお持ちであった。それ以来、気の置けない友人同士の気安さもあって、呉服は専らその友人夫妻のお世話になって来た。

 伺えば、ご先祖の土地を受け継いで居られるとか。呉服商の合い間に、竹林に分け入って堀り出して下さったものであろう、慣れぬ手つきが切り口からも偲ばれる。



             ずっしりと重たき筍手にとれば 
 
             香りたつかも朝露にぬれ  



             ずんぐりと太く短き筍に 
 
             友の夫妻の声を聴くかな



             わぎもこのさらいのことのねたけのこを

             たくかとともにしょさいにとどきぬ  






「次世代を担う若い力」

2006-05-05 00:44:17 | 和歌

 4月26日から28日にかけて、第39回原産年次大会が横浜で開催された。

 国内の原子力産業界の関係者をはじめ、22カ国・地域、3国際機関から約840人が参加した。「我が国の原子力産業の基盤強化と再活性化 - 未来のために、今なすべきこと」を基調テーマに、講演と活発な意見交換がなされた。







 今回の新しい試みとして、学生セッション「原子力産業への期待、若い世代から」が、日本原子力学会・学生連絡会の主催で開催された。虚庵居士は原子力OBの立場から、原子力工学を学ぶ学生諸君を支援し励ますボランティア活動を続けているが、今回のこのセッションについても企画段階から影で支援してきた。

 全国から集まった学生諸君が、先輩の若手技術者と率直に意見交換する姿に、虚庵居士は大きな期待を寄せ、会場でもOBとしての励ましの発言をした。人材育成と技術継承は、我国の原子力産業の大きな課題の一つであるが、次世代を担う学生諸君の活力が、産業界の活性化に繋がればと切に念じている。



             学生の輝く眼と率直に 
 
             思いをぶつける姿たのもし  



             学生と若き先輩 OBも

             熱気が満ちたりセションの会場



             次世代を託す若者初々し  
 
             思わず挙手して激励おくりぬ






「八十八夜」

2006-05-04 00:30:33 | 和歌

 大先輩のN様から、新茶が送られて来た。

 新茶を頂戴して、五月二日が「八十八夜」であることを改めて確認したが、それにしても八十八夜の当日に、新茶をお届け下さるとは・・・。名の通った茶司に予約して、一芯双葉の手摘み煎茶をお届け下さったものだが、ご進物に籠められた送り主の床しいこころ配りに、甚く感激した。最近の生活の中では、八十八夜など殆ど気に掛けないで過ごしているが、季節感に満ちた生活の潤いを頂戴した。

 「うつろ庵」の近くの観音崎・走水の海では、良質な海苔が採れる。昨年の十一月、新海苔の収穫を待って、昵懇にしている海苔屋さんからほんの少々お送りしたが、それへのお返しの積りであろう。こちらの気配りには、至らぬところが無かったであろうか。







             ありがたき心くばりの新茶かな
  
             八十八夜に送り給ふて
  


             ほどのよき茶の湯のぬくみに香りたつ
  
             新茶をふくむこの夕べかな
  


             かくまでもおもほしめすかしんちゃうけて

             いかにかこたえむきみがこころに
  





「河鹿鳴く」

2006-05-03 00:07:49 | 和歌

 河鹿の涼やかな鳴き声に、初夏の訪れをおしえられた。

 近くの友人を誘い、虚庵夫人を伴って伊豆・函南のホームコースでゴルフを楽しんだ。
箱根コースの十八番ホールには、グリーンの脇に岩清水が灌ぐ見事な池がある。普段はゴルフに夢中で、池の風物など目にも入らないが、グリーンに近づくと、思いもかけず河鹿の涼やかな鳴き声に迎えられた。 

 河鹿は五月から七月ころにかけて、清流の上流などで、ごく稀に耳にすることもあるが、ゴルフ場で歓迎を受けようとは、思いもよらぬことであった。隣の原生林から闖入したものであろうか、河鹿の鳴き声に助けられて、グロスは七十七であった。

(出雲市鰐淵小・猪目分校のホームページから、河鹿の録音を拝借した。
ここをクリックすると河鹿の鳴き声が聞こえます。






             石楠花の花散り初むる あしびきの
  
             函南山に河鹿なくなり



             函南の山の真清水 湧く池に

             たゆたい恋鳴く河鹿きくかも



             わぎもこはいかにかきくらむかはづなくを
  
             をとめをこふる せつなきうたを  






「NHK-チェルノブイル報道にもの申す」

2006-05-02 00:50:02 | 和歌

 数日前に、NHKスペシャル「汚された大地から:チェルノブイリ20年後の真実」を観ての感想を、コメント欄にチョッと書いた。これを丁寧にお読み頂き、率直かつ長文のコメントをお寄せ下さった方がおられるので、改めて筆者の思いを書きとめ、NHKへの抗議とする。






 正直なところ、あのTVを見ながら、虚庵居士は歯軋りをしつつも、涙が止まりませんでした。

 犠牲となった消防士は、ただひたすら消火活動に身を捧げて犠牲になりました。60万人(?)とも言われるリクビダートルは、放射線レベルや身に迫る危険性すら全く知らされずに、後始末に駆り出され、彼らの人生に悲惨な重荷を背負わされて生きてきました。被災者・被爆者とその家族の思いは、誠に身につまされます。何も知らされずに、いわば欺かれた「憤りの声」と、「悲痛な叫び」、訴えても訴えても聞き入れられない「モドカシサ」を思えば、悲憤の涙が止まりません。

 ヒロシマ・ナガサキの原爆と、チェルノブイル事故は、人類が二度と再び起こしてはならない大きな「過ち」です。チェルノブイル原子力発電所の事故、悲惨な犠牲者、広大な放射能汚染と莫大な被爆者の発生は、紛れも無い事実です。その事実を報道することに対して、虚庵居士は何ら異議を唱えるつもりはありません。二度の原爆被災を受けた日本人は、「原爆」と「放射能・放射線」に大きな「トラウマ・心的外傷」を負っています。ですから「悲惨な被ばく結果」だけを報道することは、とりもなおさず「原子力=放射線被ばく=癌多発=排斥すべし」との誤解を与え、短絡的な誤解を誘導することに繋がります。「原子力の平和利用」を否定する感情論の種を撒くことは、公な報道機関であるNHKには許されない行為です。

 何故あのような大きな「過ち」が起きたのかが、もっとも大切な点です。
人類が反省しなくてはならない、最も大切なことが一言も報道されず、一切触れられもしなかった点は、NHK自らが責を負うべきです。

 「原爆投下」は戦争という異常な事態における、意図的な戦闘行為ですが、戦闘員を対象とした戦闘行為の枠を超えて、何の抵抗手段すら持たない国民・婦女子を巻き添えにすることが予め明白であった「原爆投下」は、人道上決して許されてはならない「人類の過ち」です。

 「チェルノブイル事故」は、「やってはイケナイ行為」で発生させた「人類の過ち」です。
即ち、①原子炉自体が科学的・技術的にも、世界的に危険な原子炉であることが指摘されていたが、無視して運転した。②事故発生時の放射性物質の放出を防止する格納容器の無いことを指摘されていたが、無視して運転した。③危険ゆえに禁止されていた「低出力運転」を、意図的に継続して試験した。④禁止されていた安全装置を、意図的に外して試験していた。⑤ソ連政府と関係機関は、大事故の発生を直ちに公表せず、放射線被ばく・汚染地域の拡大を放置した。⑥事後処置に携わる者に、適切な被ばく防護知識を与え、措置を取らなかった。数々の「やってはイケナイ行為」の重畳が、大惨事を招きました。さらに、科学・技術・医療の国際的支援を早期に求めなかったことや、ロシア政府は歴史的大事故を、科学的・医学的に記録にとどめ評価する努力を怠ってきたこと等も指摘されています。

 「人の命」を犠牲にし、「人の尊厳」を踏みにじり、「人生」を台無しにして来た原因は何か! 
そのことを追求し、広く訴え、反省を求め、社会の木鐸たる任に当たるのが報道の公器”NHK”の勤めではなかろうか? 果たすべき役割を果たさず、徒に「放射能・放射線被ばくの恐怖」を煽るのは、許されない行為ではなかろうか。

 『人類のために、如何に「原子力」を活かして使うか?』については、別の機会に触れたい。