熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ディスタンス」

2011年11月06日 | Weblog
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのは1995年3月20日のこと。当時の勤務先は都内数カ所に本社機能が分散しており、そのひとつの最寄り駅が地下鉄茅場町駅で、事件当時、サリンがばらまかれた列車のなかで最大の被害を出した日比谷線(上下線合わせて死者9名、重傷者約3,000名)の停車駅だったので、当時の同僚のなかにこの被害に遭った人もいた。「ディスタンス」が制作されたのは、その5年後の2000年のことだった。さらにそれから11年が経っているが、サリン事件の実行犯のなかには未だに逮捕されていないのがいる。映画のほうはカルト教団によって東京の水源に新種のウィルスがばらまかれ、多くの死傷者を出したということになっていて、その実行犯5人は教団の手によって殺害され、彼等の灰が信州の湖に投げ捨てられたという話になっている。この作品は、その殺害された加害者の遺族たちの1日を描いたものだ。

登場するのは殺害された5人のうち4人の遺族。彼等と加害者との関係としては、以下のようになっている。
アツシ:姉が加害者、姉は2つ上、独身、花屋に勤務
マサル:兄が加害者、兄は医師、独身、学生
ミノル:妻が加害者、妻は専業主婦、今は再婚して1歳半ほどの子供あり、建設会社勤務
キヨカ:夫が加害者、夫は教師、子供がいるが自分の親に預けている、予備校講師

この4人が命日とされる日に遺灰が捨てられたとされる山奥の湖に集まって供養をする、という設定だ。舞台となるのは3回目の供養の年。4人のうちミノルとキヨカは鉄道でJR小海線の八千穂駅まで来る。そこで車で来たアツシとマサルと合流する。車はアツシのRVで、彼は渋谷でマサルを乗せてそこまで来た。あとは車で湖まで行く。湖といっても山奥の池のようなもので、周囲には何も無い。林道の路肩のような場所に車を停め、そこからしばらく山のなかを歩いて湖畔まで行く。湖については具体的な場所を示すものは作中には登場しないが、特典映像によると長野県の雨池だ。この日は湖に先客がいた。路肩にバイクが停まっている。4人は供養を済ませ、山道の途中にあるベンチで弁当を広げ、帰ろうとして林道まで戻ると車が無くなっていた。先客のバイクも無くなっている。この先客はそのカルト教団の元信者で、事件の実行犯に選ばれながら、犯行直前に潜伏場所から逃亡した。その潜伏場所はこの湖に近いロッジ。移動手段を失った登場人物たちは、とりあえずそのロッジで一晩過ごすことになる。

そこは警察の家宅捜査も行われ、事件から3年経過しているとはいいながら、その後は空き家になっており、実行犯たちの生活の痕跡が感じられる。しかも、彼等と事件直前まで生活を共にしていた元信者が共同生活の様子を尋ねられるままに話す。遺族は否応なく亡くなった人やその人との時間を想うことになる。

4人は年に一度こうして集まるだけで、普段は交流が無い。むしろ、故人にまつわる記憶の扱いに苦慮しており、できることなら故人とかかわるようなことからは距離を置きたいと考えている。それでもこうして縁があるのだから、人として当然抱く相手に対する好奇心はあり、それを封印するほどかたくなではない。そういう4人と元信者という5人が山奥のロッジというある種の密室で一晩過ごすことで、改めて自分と故人との関係やその破綻について、それぞれに思い巡らすことになる。配偶者や肉親という自分に近いはずの相手が社会に敵対するに至るということは、それを止めることができなかった自分も同罪なのか。それとも、近いとはいいながらも本人ではないのだから、そういうことになってしまったことに巻き込まれてしまった自分は、むしろ被害者なのか。単純に白黒のつくことではないが、当事者にしてみれば一生背負わなければならない思い苦悩だろう。同じ苦悩を抱える者どうしがこうして集まったところで、それを分かち合うわけにもいかず、互いの関係を扱いあぐねている。

この4人の苦悩を象徴するかのような存在がアツシなのではないか。彼の姉が実行犯のひとりということになっているが、それは姉ではなく恋人か何か別の関係だろう。作品の冒頭で彼が入院中の老人男性を病室に見舞う場面がある。その老人のベッドには「田辺康太郎」とある。看護師もアツシを老人の息子だと思い込んでいる。しかし、アツシは田辺アツシではない。彼が湖を訪れたときに、水面に供える花も象徴的だ。それはヒナギクで、「姉さんが好きだった」花だという。それを自分が勤める花屋から持ってくる。花屋で買ったものなので、透明のビニールが巻いてある。ロッジで一晩過ごすことになったとき、窓辺に乾燥したヒナギクの匂い袋を見つけ、それを他の人に「たぶん姉さんが作ったんだと思う」と語る。彼の回想シーンのなかで、亡くなった彼の「姉」である夕子と日本橋を歩く場面がある。そこで夕子はビニールに巻かれたヒナギクの花束を手にしている。橋の袂でふたりは何事かを語り、夕子は手にしたヒナギクをばらばらにして川に落とす。ところが、警察の事情聴取のときには、彼女が好きなのはユリだと言う。ユリは教団のシンボルでもある。命日の後、彼がひとりで湖を訪れる場面がある。そのとき彼が手にしているのはユリだ。ビニールには巻いてない。作中で線路の脇の崖の上にヤマユリが咲いている場面がある。彼が手にしているのは、途中で摘んだものではないだろうか。たぶん、花屋で買ったヒナギクにも道中で摘んだユリにもそれぞれに意味がある。元信者によれば、夕子には弟がいたが何年か前に自殺してしまったと語っていたという。彼が本当は何者なのか、最後まではっきりとはわからないのである。彼にまつわるシーンのなかで、古いアルバムの写真を焚き火で燃やす場面がある。そのアルバムは冒頭の病院のシーンで老人と一緒に眺めていたものだ。燃える写真がアップになる。それは両親と姉と弟らしき4人が並ぶ家族写真だった。

自分が何者なのか、ということは実は誰もわからないのではないだろうか。自分というものの座標軸が決まらなければ、相手との距離も決めることができない。多くの人はとりあえず「自分」という確たるものがあると思い込んでいる。座標軸があり、その中心もわかっている、つもりになっている。しかし、その座標軸は勝手な思い込みにすぎない。だから、自分が想定している相手との距離と、相手が思い描いている自分との距離が一致しない。最愛の相手であると思っていた人がカルト教団にのめり込んでいくのを止めることができない、というのは極端な例であるとしても、人間関係にまつわる誤解は日常茶飯事だろう。そこには、他人のことはわからない、ということもあるが、それ以前に自分の座標軸の設定に問題があるということなのだろう。そんなものが決められるわけはないのである。刻々と変化を続ける状況のなかで、人の意識という形の無いものに枠を与えるということ自体が所詮は不可能なのである。しかし、便宜上、そういうものがないと関係性というものが落ち着かないので、そういうものを空想しているだけなのである。つまり、絶対というものは無いのである。無いものを在ると思い込むことに狂気の源泉がある。逆に、無いままに浮遊し続けていても、そうした不安定に耐えるほど人の精神は強くない。自分の座標軸をどのように設定するか、そこに身の回りの関係をどう位置づけるか。社会生活はそういう位置づけの絶えざる調整の連続であり、それを続けることができなくなったとき、精神が破綻するということなのではないだろうか。