熊本熊的日常

日常生活についての雑記

やまとことば

2011年07月19日 | Weblog
3月の連休に国立民族学博物館を訪れて以来、梅棹忠夫という人のことが気になって仕方がない。たまたま「考える人」の最新号が氏の特集で、それを買いに立ち寄った書店で、文藝別冊の「梅棹忠夫」をみつけて、それも買って読んだ。氏の著作は書かれてから何十年も経ているのだが、今読んでも全く色あせたところがない。以前にも書いた通り、私にとって初めての梅棹体験は、高校生の頃に読んだ「知的生産の技術」なのだが、若い頃には少しいかがなものかと感じられたことが、今はそうかもしれないと思うところもある。そうしたもののひとつが日本語をローマ字で表記するというものだ。今回購入した雑誌のなかの写真にローマ字で書かれたものの写真があり、それを読んでみたのだが、やはり読みにくい。しかし、近頃は自分が書くものも他人が書いたものも9割方がパソコンで書いたものだろう。そうなると頼みもしないのに漢字かな混じりの文章ができあがる。漢字というのはややこしいものが多く、読めるのに書けない、とか、そもそも読めない、というものに出会うことが当たり前になっている。果たして、自分で書くことのできない文字で表現されたものは、自分が書いたものということになるのだろうか。と、思った。漢字というのは表意文字なので、読んだり書いたりできなくても、その姿を見ればなんとなく意味するところが想像できるものもある。日常生活のなかの意思表示を全て説明可能なものにしなければならないとなると、何もできなくなってしまいそうだが、それほど何の考えもなしにしていることが多いということでもある。そこで、少し反省した。ローマ字というわけにはいかないが、かな表記で文章を書くということをたまにやってみようと思うのである。それで自分のなにかが変わるものなのか、何も起こらないのか、少し楽しみだ。