熊本熊的日常

日常生活についての雑記

本物の贋物

2014年02月28日 | Weblog

少し早めに家を出て、出勤前に職場近くにあるインターメディアテクに立ち寄った。2階から入って3階に抜けたのだが、3階ミュージアムショップの近くに古銭や古紙幣の展示があり、そのなかに赤瀬川源平の「大日本零円札(本物)」があった。噂には聞いていたが、サイズこそ違え、同じ寸法、同じ紙質、同じ印刷なら、あるいは本物の紙幣と見間違えるかもしれない。同じ展示ケースのなかにワイマール共和国の紙幣が展示されている。ゼロの数がやたらに多い割に印刷や紙質が租末な紙幣群だ。片や芸術作品であり、片や紙幣なのだが、どちらがより高い貨幣価値を持つかというと、本物の紙幣、とは断言しがたい。確かに、芸術作品というのは、それを購入しようという客が現れなければ貨幣価値は生まれないのだが、「作品」として認知され、「買った!」という人が現れればその購入金額から製造原価その他費用を差し引いただけの貨幣価値を生んだことになる。ハイパーインフレ下にある国家の紙幣は通貨として流通するとは言いながら紙切れ同然だ。ここで言う「貨幣価値」はあくまで流動性があることを前提にした市場価値のことであって、歴史的意義であるとか芸術的価値であるとか技術的価値といったものではない。

1988年の暮から1989年の正月にかけてドゥブロブニクで過ごした。当時、彼の地は年率200%とも300%とも言われるインフレ下にあり、街の商店の値札が毎日書き換えられているのを目の当たりにした。通貨価値が安定しないので、公共投資のような長期間に亘る投資案件を策定することができず、観光地であるドゥブロブニク旧市街とその周辺を除くと市民生活が疲弊している様子が窺えた。観光客は毎日その日に使う小遣い分だけ当時の通貨であったユーゴスラビア・ディナールに両替をしていた。果たして、その後、ユーゴスラビアがどうなったか、ドゥブロブニクがどうなったかは、歴史が示す通りである。ワイマール共和国がどうなったのかも、歴史が明らかにしている。

さて、貨幣とは何なのだろうか。このブログでも以前に何度か話題に取り上げた記憶があるが、貨幣というのは不思議なものである。それ自体は紙切れに過ぎないのに、そこにかかれてある金額分の価値があるものと社会に認知されると、その価値を持ってしまうのである。「千円」と書かれてあれば千円として、「壱万円」と書かれてあれば一万円として流通する。印刷物としては多少のサイズの違いはあるだろうが、10倍の価格差ほどの違いはないだろう。それでも、どちらかを選ぶとすれば「壱万円」を取る人が圧倒的に多いのではないか。なぜだろう?

偶然にも今日、仮想通貨の取引業者が65億円の負債を抱えて東京地裁に民事再生法の適用を申請し、即日保全命令を受けた。国家が管理していることになっている貨幣ですら、かなり怪しい存在なのに、どこのだれだかよくわからない組織が「発行」している「仮想」の通貨を使って経済行為を行う発想は、根底に国家というものに対する不信感がある所為かもしれない。国家が発行しようが、そうでないところが発行しようが、それが通貨として認知されているなら通貨として使えばいいじゃないか、ということなのかもしれない。あるいは、国家は信用できないがネットの住民は信用できるという人がかなりの数になって、現実の通貨よりも仮想通貨のほうが信頼できる、という時代になりつつあるということなのかもしれない。もちろん、単に…。

ところで、そもそも本物とは何だろう?


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