熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年7月

2019年07月31日 | Weblog

梅原猛『水底の歌 柿野本人麿論』(上下)新潮文庫

柿野本人麻呂がどのような人であろうと、特に関心もないのだが、昨年11月から今年5月にかけて受講していた万葉集講座の縁で「万葉集」をキーワードにして諸々本を読んでいる。本書もそのひとつ。内容には関心がなくても、梅原先生の書きっぷりに圧倒される。「芸術新潮」などに寄稿されていたものは何度も読んでいるが、まとまった作品を通しで読むのは本書が初めて。先生は本書のなかで「この論文では」としばしば書いておられる。え、これって論文なんですか、と驚く。文庫とは言え、上下二巻の構成だが、重複や無駄な部分をそぎ落とすと二巻にするほどのものかどうか。尤も、本書を手にする人は、おそらく、梅原節を期待しているのだろうから、これでよいのだろう。とにかく、読んでいて楽しい。そういう作品だ。

以下、備忘録

一般に幕末になると、学問が専門化すると共にスケールが小さくなり、学者はヒネクリコネクリを弄するようになったと思われる。(上巻 144頁)

日本では、神になる人は、いつも恨みをのんで死んでいった人間ばかりであることを。(上巻 231頁)

日本で火葬が行われたのは文武四年に死んだ道昭(629-700)にはじまるといわれるが、天皇にしてはじめての火葬者は大宝二年(702)に死んだ持統天皇である。(上巻 302頁)

もしも人が死して灰になり煙になるとすれば、もはや巨大な墳墓や新しい石室は必要がなくなる。そしてそれと共に、見事な挽歌によってその死を荘厳することすら必要でなくなる。詩人の役割はすでに終わろうとしていたのである。(上巻 328-329頁)

万葉集にせよ、『古今集』にせよ、それぞれひそかな政治的配慮をその背景にもっている歌集である。(上巻 459頁)

1. 天皇の誕生は、持統帝の時代、早くとも天武帝の時代をさかのぼることはできないのではないか。
2. 天皇は、政治的概念であるより、宗教的概念であり、天皇はその発生形態において、地上の国を支配するようにはできていず、歴史的偶然によって天皇の国家支配が行われた後も、天皇概念に含むそのような非政治性は、永く日本の天皇に附着していたのではないか。(下巻 69頁)

じっさい、日本の和歌が歴史上、正当な文学として認められるには、勅撰集である『古今集』の出現をまたなければならなかった。それ以前、それは現代における歌謡曲の如き扱いを受けていたのであろう。多少、人気のある歌謡曲作歌・人麿、おそらく人麿のこの歌は、多くの漢詩人たちに何の感興も起こさせなかったにちがいない。彼等は、明治の文化人以上に、だいたい日本のものは馬鹿にしていたのである。人麿の歌と『懐風藻』の詩をならべてみると、漢詩人の間における人麿の孤独さがよく分かるような気がする。(下巻 116頁)

天皇信仰、天照信仰は、まさに持統帝のときできはじめたものではないか。それは道教から多く思想を借りてはくるが、いつの間にか、ちょうど『懐風藻』の詩が万葉集の歌にかわるように、楽国産の神は、いつか日本製の神に変わったのである。聖地が吉野から伊勢へ移ることによって、宗教の日本化が行われるが、その宗教内容は、その原型とそれほども違っていないのではないか。(下巻 121頁)

私は、このごろますます進歩史観というものを信じることができなくなってきている。それは、精神の世界において、進歩というものが、はたしてあるのだろうかという疑問のゆえである。現代は、精神の世界においてはおどろくべき低俗の世界である。おどろくべき卑俗な精神が、わがもの顔にこの世界をのさばり歩いているではないか。(下巻 374頁)

折口信夫は、真淵以来ほとんど忘れられた宗教の意味、死の意味、霊の意味を発見する。そして彼は、今まで単なる叙景の歌と考えられた多くの万葉の歌を、鎮魂の歌と解釈する。(下巻 406頁)

万葉集巻一は、すべて雑歌である。この雑歌は、『古今集』以後の歌集でいうような雑歌ではない。以後の歌集の意味では、四季、恋、賀、離別などに属さない歌という意味である。しかし万葉集での意味は、雑歌という名で、いわば、雄略天皇(生没年、在位未詳)の時代から奈良時代までの、政治的な人間、およびその周辺の人々を登場せしめて、自由に歌を歌わせている。そしてこの歌は、直接、間接に重要な政治的事件に関係している。いわば、万葉集巻一は、壮大な歴史的叙事詩である。(下巻 408頁)

 

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫

心洗われる思いがした。人の暮らしとは本来こういうものだと思う。私が駄文を連ねるより、引用を並べたほうがいいだろう。

ところが六十歳を過ぎた老人が、知人に「人間一人一人をとって見れば、正しいことばかりはしておらん。人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。お互いにゆずりあうところがなくてはいけぬ」と話してくれた。(村の寄りあい 37頁)

他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。(村の寄りあい 39頁)

稗は凶作の年にも割合よくできたし、虫もつかず、何年おいても味がかわらぬので、郷倉の貯蓄は稗でやりました。(中略)まァ百姓というもんはヒネからヒネへくいつなぐのがよい百姓とされた。それだから、一生うまい米を食うことはなかった。そうしないと飢饉年がしのげなかった。(名倉談義 70-71頁)

おやじにくらべたら半分も働きゃァしません。おやじにくらべたら道楽もんです。しかしそれでも食えるんじゃから、昔より楽に食えるんじゃから、わたしは文句をいいません。(名倉談義 82頁)

村の中というものはみんなが仲ようせねばならんものじゃとよく親から言いきかされたものであります。まじめに働いておりさえすれば、いつの間にかまたよくなるものであります。この村は昔はひどく貧乏したものだそうであります。この村の土地の半分から上は大平の沢田さんのものになておりました。いつそうなったのか、飢饉の年にでも、米をかりて土地をとられたのでありましょうが、沢田さんの家が半つぶれになったとき、土地はまたもとの持主にみなもどって来ました。大久保にはまた百石五兵衛という家がありました。高を百石も持っている大百姓でありましたが、それが何一つ悪いことをしたのでもなければ、なまけものが出たというのでもないのに、自然とまた百姓の手に戻って、その家はつぶれました。(名倉談義 91-92頁)

村の中が仲ようするというても、そりゃけんかもあればわる口のいいあいもあります。貧乏人同士がいがみあうて見ても金持ちにはなりませんで。それよりはみな工夫がだいじであります。(名倉談義 96頁)

この村に言いごとのすくないのは、昔から村が貧乏であったおかげでありましょう。とびぬけた金持はなかった。それに名主は一軒一軒が順番にやっております。小作人でも名主をしたものであります。それはいまもってつづいております。今も区長は順番にやることになっております。このあたりの村はみなそうでありました。そういう風でありますから、嫁どりもそれほど家柄をやかましく言う者はいなかったのであります。まァ親類中に年頃の娘があればそれをもらう事にしておりました。それはなるべく費用がかからんようにということからでありました。そうでないものでも、本人同士が心安うなるのが多くて、親は大ていあとから承諾したものであります。(中略)知らん娘を嫁にもらうようになったのは明治の終頃からでありましょう。その頃になると遠い村と嫁のやりとりをするようになります。おのずと、家の格式とか財産とかをやかましく言うようになりました。それから結婚式がはでになって来たので…。それはどこもおなじことではありませんかのう。(名倉談義 97-98頁)

子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ。Bは池や川のほとりを。Cは子どもの友だちの家を、Dは隣へという風に、子どもの行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手わけしてそうしてもらったのでもなければ申しあわせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、かってにさがしにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれの心当りをさがしてくれたのであるが、あとで気がついて見ると実に計画的に捜査がなされている。ということは村の人たちが、子どもの家の事情やその暮らし方をすっかり知りつくしているということであろう。もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦の間でも票のわれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。ところがそうして村人が真剣にさがしまわっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったく他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。(子供をさがす 102-103頁)

わるい、しようもない牛を追うていって、「この牛はええ牛じゃ」いうておいて来る。そうしてものの半年もたっていって見ると、百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃええ百姓ちうもんは神さまのようなもんで、石ころでも自分の力で金にかえよる。そいう者から見れば、わしら人間のかすじゃ。(土佐源氏 139頁)

ところどころで人情風俗はかわっているが、土地のやせて生活のくるしいところが人情はよくない。(世間師(2) 256頁)

 

本居宣長(全訳注:白石良夫)『うひ山ぶみ』講談社学術文庫

「うひ山ぶみ」とは「うひ」=「初」=初めて+「山ぶみ」=「山踏み」=「登山」、「はじめての山登り」の意だ。学問を登山に見立てて、その手引きをする書である。具体的な方法論を述べているのではなく、心構えを語っている。

古い本を読んでいつも思うのは人の世が変わっていないということだ。確かに知識は増えただろう。しかし、人の性とか業といったものは一向変化が感じられない。もちろん、生物誕生の歴史を振り返れば生物は環境に適応しながら様々に姿を変え、分化したり消滅したりしながら今日に至っている。しかし、それは反応であって変化というほどのものではないような気がするのである。

毎度同じ話になってしまうが、生命の営みは「わたし」と「あなた」の関係が基本だと思う。人間は知能があるから自意識が強くて、というようなことはなく、バクテリアだろうが人間だろうが、それを構成する細胞の根底にある「私」が神羅万象の基本にあるのではないか。その「私」の個体差が相互の交渉と反応を生み、それが別の交渉と反応に連鎖していくことで世界が成り立っている、というイメージだ。当然、「私」の認識は生物種によって、そのなかの個体によって、ほぼ同じように括れることもあるだろうし、「個性」とされるところもあるだろう。そして、そうした括りはその時々の環境の変化に反応して微妙に揺れるものだろう。

「私」の捉え方が生き方を規定することになる。「私」とは何かを思いめぐらす、その思考実験を登山に例えるというのはわからないでもない。登山は山頂を極めることではなく、登って下りて何かを感得することを言うのだろう。とすれば、そこに際限はない。同じ山でも日によって時によって同じ山とは思えないほどの変化を見せるだろうし、どういう状況に出会うかによって同じ山に対する見方も自ずと違うはずだ。既存の山道を往くのか、新たな道を切り開くのか、同道する者がいるのか単独なのか、前を往く人がいるのか、先頭を切っているのか、対向する人がいるのか、それは無数の状況設定があり、そういうなかで軽々しく「この山は」云々とできないはずだ。つまり、正解がない。安易に成否を問うのは思考を停止することである。問い続けることが、すなわち生きるということだと思う。


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