熊本熊的日常

日常生活についての雑記

幻ふだんのちゃわん 4日目

2020年04月11日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんが変わる
 
陶器の器は使っているうちに嵌入に汚れが蓄積されてきます。それを「景色」と呼んで尊ぶ人もいれば、「汚れ」と感じて漂白剤などで洗浄したり、器を処分してしまう人もいます。どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、同じ物理現象が人によって正反対に認識されるということです。

嵌入というのは陶磁器の表面のひび割れです。陶磁器は土の地に釉薬を掛けて焼成します。釉薬は様々な種類がありますが、ざっくり言ってしまえばガラス質です。地の土と、それを覆うガラスとは収縮率の違いがあるので焼成をしたときに表面に負荷がかかり大小無数のひびが入ります。しかし、よほど酷くない限り、嵌入が使用の障りになることはありません。

使用しなければそのままですが、食器や花器などとして使用すれば、たとえ湯水しか入れないとしても湯垢水垢が付着します。仮に全く同じ茶碗がいくつかあったとして、それらが別々の人の手に渡り、同時に使い始められ、同頻度の使用がなされたものとします。何年か後、それらの茶碗を比べると別物のようになるでしょう。それぞれの使われ方に応じて、使用跡の蓄積も違ったものになります。茶碗は無機質ですが、使う人の色に染まるのです。

無機質が有機的に変化するのは陶磁器に限ったことではないでしょう。私が今暮らしているのは昭和40年代前半に竣工した旧公団住宅(現UR住宅)です。私が暮らし始めたのは7年ほど前のことですが、入居に先立って部屋をいくつか内覧しました。同じ間取り、同じ築年数なのに部屋によって表情が違うことに驚きました。今暮らしている住戸を選んだのは、駅までの距離とか階数といった係数も判断材料ではありますが、部屋の雰囲気というような何とも説明のしようのないことも関係しています。

茶道具となると、茶碗の物理的な変化もさることながら、誰の手から誰の手へ移ったかという来歴、その時々の持主が誂えた仕服、箱書き、といったその茶碗を巡る物語がモノを言います。同じ窯から出た同じような茶碗が持主の違いで雑器にも名物にもなるのです。落語に「はてなの茶碗」というのがありますが、モノの価値というものを語るよくできた噺だと思います。

無機物ですら長年の使用を経てそれぞれの変化を示すのですから、生き物であれば長年の関係性の積み重ねで如何様に変化しても不思議はないでしょう。最期の瞬間まで人はどのようにでもなることができるような気がします。