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物部守屋はマヘツキミ層から孤立していた?:篠川賢『物部氏の研究』

2023年09月10日 | 論文・研究書紹介

 蘇我氏が勃興する以前、最も強大であった豪族、物部氏については研究が進んできており、その代表例の一つが、

篠川賢『物部氏の研究【第二版】』
(吉川弘文館、2009年)

です。この研究書は広範な時代を扱ってますが、ここでは「第三章 物部氏の盛衰」のうち、「第二節 物部氏の衰退」を紹介します。

 まず、「1 物部守屋と蘇我馬子」では、敏達紀に見られる記事から検討を始めます。敏達元年四月是月条では、「物部弓削守屋大連」を元の通りに大連に任じたとあります。

 その前の欽明朝では、当初の大連は物部尾輿でしたが、尾輿の名は崇仏論争の後、見えなくなります。このため、それ以後のどこかの時点で、守屋が大連を受け継いだことになります。尾輿と守屋については、後の文献では父子としますが、篠川氏は確定はできないと述べ、物部氏の長がこの家系に固定されていたと見ることもできないと説きます。

 これは妥当な見解ですね。天皇にしても、この時代は同じ世代の候補者たちがほぼ年代順に即位していくのが通例だったのですから、大連も氏内で同様のやり方で引き継いでいた可能性もあります。それだけに、蘇我氏が稻目→馬子→蝦夷→入鹿 と長子相続が続いたのが異例であったと言えるのであって、私は馬子の弟と言われる境部摩理勢が山背大兄を支持して蝦夷に殺されたのは、蘇我氏の氏の長をめぐる対立もあったものと見ています。

 なお、「弓削」とあるのは、弓削(後の河内国若江郡弓削郷)に住んでいたためと見るのが通説ですが、篠川氏は、弓削部の管掌者(伴造)であったためである可能性もあるとします。

 次に、同十四年八月己亥条では、敏達天皇が没した後の「誄」の仕方をめぐって馬子と守屋が嘲笑しあったとする有名な記事を載せています。敏達紀では、この時の衝突によって「微に怨恨を生ず」とありますが、篠川氏は、これは「崇仏論争」によって既に対立していたとする記事と矛盾すると指摘します。つまり、別々に作成された記事を『日本書紀』編者が調整せずに利用したため、こうした結果となったと説くのです。

 このため、敏達紀における守屋の記事で読み取れるのは、大連であったことだけ、ということになります。ただ、敏達紀には物部贄子連という人物が見えており、これとともに列記されている人物たちは「大夫(マヘツキミ)」と見られるため、贄子も大夫であったと想像され、物部氏は一族から二人の大夫を出していたのであって、その強大さが知られるとします。後に蘇我氏も氏から二人、大夫を出しますね。

 その強大な物部氏が、守屋が殺されて衰退するのですが、敏達の後を継いで即位しようとした穴穂部皇子が守屋をつかわして三輪逆を殺させたところ、推古と馬子が穴穂部を恨むようになったとあるため、馬子と推古は同じ立場で用明の即位を支持していたと見られる、と篠川氏は説きます。言い換えれば、穴穂部と守屋が結託して用明の即位を否定しようとしたことも事実と見られるとするのです。

 そして、守屋合戦となるのですが、守屋の阿部の家から馬子のもとにつかわされた者たちは、いずれも大夫の下の伴造の者たちであったことに注意します。これは、有力な大夫を味方として交渉に派遣することができなかったと見ることもできますので、篠川氏は、当時は守屋は大夫層から孤立していたと推測するのです。

 また、この事件の際、大伴毗籮夫は守屋に対する強硬姿勢をとったと推定されるため、守屋合戦は、物部氏と大伴氏の対立という面もあったと説きます。

 守屋合戦の記事については、参加者たちの名前は事実に基づく可能性が高いとしつつ、厩戸皇子の活躍をあまりにも強調しているため、その記述をそのまま事実と見ることはできないとし、守屋が有していた奴と宅(の半分)を四天王寺に施入したという記述にも疑問を呈します。

 これはどうでしょうかね。斑鳩の西のあたりは守屋の勢力範囲であったのですから、まだ少年だった厩戸の意志はともかく、戦いに勝った馬子が自らその遺産を引き継ぎ、自分の妹の孫であって有力な天皇候補者であった厩戸皇子にもある程度分配したと考えるのは不自然ではないと思われます。厩戸と馬子の二人で戦いに勝ち、守屋の財産ほ二人で半分づつ分けた、といった書き方には潤色があると思われますが。

 いずれにせよ、守屋は討たれるのですが、篠川氏は、物部氏が滅亡したわけでなく、このことを「物部本宗家の滅亡」ととらえることも不適切と説きます。この当時の氏の構造から見て、「本宗家」といったものが確立されていたかどうか不明であるためです。

 また、守屋合戦当時、馬子側には大伴連・佐伯連・土師連などがついていたため、物部氏に代表される連姓氏族と臣姓氏族の対立を想定することはできないとします。

 蘇我氏を進歩派、物部氏を保守派とする見解についても、物部氏は早くから百済外交に携わっていたうえ、居住地の河内は渡来系氏族が多く、そうした氏族と関わりがあった以上、物部氏を保守派と見ることはできないとします。 物部氏も寺を建てていたから仏教反対ではなかったという昔の謬説(こちら)には触れていませんね。

 そして、「推測にすぎないが」とことわったうえで、その物部氏がかついだ穴穂部皇子が馬子に殺されたのは、敏達と推古の間に生まれた有力な大王候補、竹田皇子が死去したという事情があったためであって、竹田の死去により、崇峻は「中継ぎ」の大王ではなく、新たな王統の担い手になりうる状況が生まれたためかもしれないとします。

 そして、新たに大王候補となった厩戸が推古のもとで皇太子になったとする一連に記事については、「皇太子」といった語が示すような潤色はあったものの、おおむね事実と認定します。

 そして、守屋以後も隋使と応対した物部依網連抱の存在が示すように、物部氏は、推古朝にあっては大夫として国政に参加していたものの、次の舒明朝からは大夫の地位につくことはなかったようで、衰退していったらしいと説きます。

 篠川氏は、以後の物部氏の動向についても紹介していますが、ここまでにしておきます。ともかく、物部氏は守屋合戦のやや前あたりまでは最も有力な氏族であったことは事実ですので、後代になってその物部氏が伝えてきたと称して様ざまな伝承が言い立てられるようになるのは、無理もないと言えるでしょう。