『日本書紀研究』第34冊シリーズの続きです。今回は、このブログでは何度も紹介してきた平林氏の新論文、
平林章仁「廐戸皇子の四天王誓願と物部守屋の稲城」
(『日本書紀研究』第34冊、2022年5月)
です。
守屋合戦において劣勢になった際、廐戸皇子が白膠木を刻んで四天王の像を作り、戦いに勝たせてくれたら四天王のために寺を建てますと誓ったために勝利することができ、後に四天王寺を建立したという話は有名です。
ただ、14歳だった廐戸がそこまで活躍するはずがないため、懐疑派は、四天王寺が宣伝のために作り上げた説話だろうとしてきました。
ただ、そうした文献批判の時期を経て、ある程度史実を反映しているとする説が出てきたとして、平林氏は、吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書、2002年)の説を紹介します。
吉村氏は、馬子は病気治癒を仏教の加護を求めていた以上、守屋との戦いの際に加護を求めるのは自然であり、古代では戦いに呪術はつきものだとしつつ、実際には四天王寺建立からさかのぼって廐戸王子の伝承が作られた可能性が高いとするのですが、平林氏は最後の部分は通説に戻ってしまったことが惜しまれると評します。
次に某石井公成氏の『聖徳太子』(春秋社、2016年)をとりあげ、戦勝儀礼がなされるのは当然であり、馬子が主導して造寺を誓う誓願がなされ、皇子や豪族が参加したのが実状であり、それが太子を中心にして劇的に描いたと「ほぼ肯定的」に述べておりながら、結論は吉村氏と大同小異だとし、ただ、廐戸が四天王を刻んだとされる白膠木は密教で儀礼をおこなう時に用いるとした指摘は参考になると説きます。
えー、私の書き方が悪かったですね。私の主眼は「誓願」の重要性であって、廐戸が四天王に戦勝を誓願したことは事実だと考えてます。ただ、『日本書紀』が描くような劇的な形ではなかったろうというということなのですが。
平林氏は、廐戸がその時の宗教儀礼の中心となったと見ており、そのことを守屋側が築いた「稲城」を手がかりにして検討してゆきます。その結果、稲城は攻撃に備えて急いで作るもの、稲を用いて構えるものであって、堅牢で打ち破ることが難しいものの、最後には火を放たれ、守る側は敗死する、という特徴がある由。
そして、「古代の戦いは神と神の戦い」であるとし、稲城については相手の攻撃を躊躇させる宗教的な堅牢さを感じさせる存在であり、その中に霊威強大と信じられた神が祀られていたとします。
古代の戦いにおいては、それぞれが自らが頼む宗教的権威に基づく矢を放つ例が、各種の聖徳太子伝にも見られることを確認し、守屋合戦の記述においては、守屋の稲城構築と廐戸皇子の四天王誓願が対照的に描かれていること、そして廐戸が「束髪於額し」たという童子の姿は、発願と関わるものであって呪術者としての廐戸皇子像を示している渡辺信和氏の指摘に注意します。
平林氏は、こうした検討によって、これまで疑われがちであった廐戸の四天王誓願の位置づけが明確になり、聖徳太子の実像はもちろんのこと、蘇我・物部戦争についても新たな視点から考察する手がかりとなる、と説いてしめくくっています。