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「憲法十七条」は「百姓」問題対処を試みた最初の法令で大化改新の先駆:神崎勝「大化改新の実像」

2022年10月08日 | 論文・研究書紹介

 このところ、古い内容の聖徳太子論をいくつか紹介しました。そこで今回は、『日本書紀研究』誌に出た2016年以後の論文を4篇紹介します。最初は、

神崎勝「大化改新の実像」
(『日本書紀研究』第31冊、2016年8月)

であって、74頁もある大作です。

 日本史学の主流派であった坂本太郎は、聖徳太子→大化改新→律令制、という図式を提示し、これに対する反論・再検討がなされてきたわけですが、神崎氏は大化改新の研究史を5期に分けます。

 第一期は、明治期において大化改新の概念が固まり、明治維新と結びついた形で語られるようになった時期です。ただ、この当時既に国際的な契機に注意したり、氏姓制度の変革と見る視点も提起されていたとされます。

 第二期は、津田左右吉によって文献批判が始まり、孝徳紀の記載は近江令に基づいて潤色・造作・後補されたという見方が出された時期です。この時期には、唯物論に基づく研究も始まっています。

 第三期は、坂本太郎が津田説を評価しつつも、要所に反論を加え、大化改新を律令制の起点と位置づけた時期です。井上光貞はそれを受け継ぎつつも、改新の詔の疑問点をさらに示し、曽我部静雄は三韓系の評から中国系の郡への推移を説きました。この頃から、個々の要素に関する研究が進み、様々な改新論が出されたうえ、鶴岡静夫は改新の実態は天武朝の内容として改新虚構論の先駆となりました。

 第四期は、坂本説の継承と批判の面で研究が進んだ時期です。関晃は、これまでの改新研究は原因論が欠けているとし、舒明・皇極朝を胎動期と位置づけ、改新の直接のきっかけを海外情勢に求めます。また、改新の諸詔については、すぐに実施されたとは限らないという立場を取り、実際には前代の方式が併用されたとします。

 井上光貞も海外情勢に注意する中で、律令形成が実際に具体化するのは天智・天武朝以後だとする傾向が強まります。「評」については、大量の木簡が出たため解決しましたが、戸籍の研究を進めた岸俊男は、関連する造藉記事や詔を疑います。

 第五期は、この岸の疑問を受け、『日本書紀』編者の歴史観からの解放をうたって登場した改新虚構論が論じられた時期です(この図式は、聖徳太子いなかった説でも見られましたね)。

 神崎氏は、虚構論者たちは、律令形成はどのような過程を経たのかという命題と、大化改新は何であったかという命題を分けて考えず、従来の説を一蹴して天武朝の意義を強調したため、大化改新は蘇我氏本宗家を打倒したというだけの事件になったと批判します。ただ、この時期には考古学の発見が相次ぎ、また個別の要素に関する研究も進んでいます。

 第六期は、これまでの研究を反省した諸説が出てきた時期であって、改新の諸詔は海外情勢と直接結びつかないということで、農民上層部の勢力向上による地方支配の弛緩、それに対する国家の対応などに着目した井上は、推古朝はやはり大化改新の前提となるものだとします。

 また最近の諸研究者からは半島経由で受容したプレ律令制から唐の律令制志向への変革と見る説も出ているものの、神崎氏は、改新諸詔には律令制への志向は見られないとし、やはり公民(部民)と公地(屯倉)に関わる問題を、改新諸詔の分析を通して明らかにしていくという王道によるほかない、と説きます。

 そして、『日本書紀』を読む際、平安期の古訓に基づいて読むのが通例だが、あくまでも平安期の訓読であって、しかも敬語表現が加えられているため、やはりまず漢文として訓み下すべきだとします(これは私もその立場です)。そして、指摘されている改新諸詔の倭臭の多さについては、編者の漢文素養の低さというより、原資料となった詔勅類を尊重して忠実に記そうとした方針と見るべきだと論じます。これだと、原詔勅を認める立場ですね。

 神崎氏は、こうした立場で『日本書紀』を見ていくのですが、漢語の「百姓」は下級官人と民という二義があり、『日本書紀』には118例見え、その多くは「民」の意味ですが、21例見える孝徳紀では5例は下級官人の意で使われていることに津田が注意し、不用意な書き換えとしていますが、神崎氏は反対します。「十七条憲法」に見えるからです。

 神崎氏は、中小首長たちを「国造伴造」配下の下級官人とみなしたのは「十七條憲法」第四条が最初とし、「十七條憲法」については一般的な訓戒を述べたもの、あるいは、官人服務規程とする説はとらないと明言し、目下の情勢に対して、現在の効果をまず要求するものと見ます。つまり、文字の潤色などはあるにせよ、推古朝の作とするのです。

 そして、十七条は類似項目があり、現実的なものと理念的なものがあるため、具体的な条文が主文であって理念的な条目は副文とする関係になっていたのではないかと論じします。

 ここら辺は、推測が目立つところであって、特に「十七條憲法」に見える仏教尊崇の面は、『日本書紀』編纂説時の仏家の手に加上された可能性が高い、と説くのですが、これは私が出典を解明する前の論文であって、そもそも仏教や中国思想に関する論述が見えないことからしても、神崎氏は仏教や中国思想には通じていないことは明らかです。

 以下、神崎氏は「十七條憲法」の内容と孝徳朝の詔と比較し、

このように憲法が掲げた諸問題の多くは孝徳朝に持ち越され、大化改新の主要課題になった。すなわち憲法は、「百姓」問題に対処しようとした最初の法令であり、大化改新の先駆をなす改革であったといえる。(108-109頁)

と断定しています。「むすび」では、「十七條憲法」第四条によって、礼的身分秩序の末端に位置づけられ、改新後は、中央では百官の末端に、地方では新設された評の官人となったのであり、朝廷は、これまで国造伴造どまりだった支配の基盤を、より下層の百姓層まで深めたとしています。

 公地・公民の問題も「十七條憲法」が提起したものであり、憲法第五条の内容を具体化したのが鍾匱制だとし、これによって訴訟の処理が迅速化されたと説きます。

 肝心な論証部分を略してしまいましたが、要するに「十七條憲法」真作説であって、改新諸詔の先駆とするのです。問題は、推古朝において「十七條憲法」がどれだけ実施されたか、実施には至らなくても、その方向で改革がなされたかですが、その辺りは推測になるためか説かれていません。

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