昭和4年5月12日に東京高等師範学校の信和会の開会式が開催される少し前に、日本一のエリート高校であった第一高等学校の学生たちによって、同様に黒上正一郎を指導者と仰ぐ昭信会が成立していました。学生の中心は、2年生でリーダーシップに富んでいたスポーツマンの田所廣泰(1910~1946)でした。
田所は、入学まもなく聞いた黒上の講演に感銘を受け、仲間の新井兼吉、河野稔、市川安司とともに、黒上に師事するようになったのです。その黒上は、郷里の徳島で療養中であった親友の東大生、梅木紹男とともに日本のあり方を憂い、三井甲之の主張に基づく聖徳太子・明治天皇鑚仰を柱とする学生の精神団体を設立しようとしていました。
黒上が一高と関わりを持つようになったのは、一高教授だった国家主義の国文学者、沼波瓊音(1877~1927)が大正15年2月に学内に創設した日本精神強調の瑞穂会が、昭和3年に黒上を招き、「聖徳太子の人生観と日本文化」と題する連続講演を開催したのがきっかけです。
黒上に傾倒するようになった田所たちは、瑞穂会から分かれて聖徳太子と明治天皇を鑚仰する会を創設することとなり、翌年の2月に昭信会という名を決め、3月に黒上とともに河内磯長の太子廟に詣で、徳島で梅木に会い、5月5日に明治神宮に参拝した後、一高の寮内で昭信会の発会式を行ないました。こうした経緯については、
国民文化研究会編『「一高昭信会」初期活動記録-「御製拝誦」と黒上正一郎先生ご逝去前後の「昭信会日誌」を中心として-』(国民文化研究会、2005年)
が詳しく記しています。
この昭信会には、後に小田村事件で有名となる小田村寅二郎(1914~1999)が参加していました。小田村は東大に進むと、先に入学していたものの肺患のために療養することの多かった田所と連絡をとりつつ昭信会メンバーを柱として昭和13年に東大精神科学研究会、昭和15年には日本学生協会を発足させ、国家主義学生運動を全国的に展開していきます。この流れを汲むのが、昭和31年に小田村が理事長となって創設し、上記のような黒上関連の資料などを刊行している国民文化研究会です。ここは戦後になっても、三経義疏研究を継続していました。
こうしたメンバーは、きまじめで行動力のある学生たちでしたが、明治風なナショナリストであったからこそ神話の押しつけを嫌い、聖徳太子に関して客観的な研究をしようとしていた津田左右吉の研究には強く反発しており、また伝承をそのまま信じて日本礼賛に励むばかりで視野が狭く、当時の世界における日本の位置について冷静に判断するだけの力はありませんでした。そのような判断ができた数少ない例外は、北京で活動していた中江丑吉でしょう(こちら)。
【付記】
昭信会は、黒上正一郎が亡くなると、昭和10年にその著作を編集して黒上正一郎『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』を刊行しました。戦後になると、国民文化研究会が編集し直し、理事長であった小田村の「復刊の辞」を付けて昭和41年に再刊します。興味深いのは、その「復刊の辞」では、
また発行について、文部省の社会教育課の方々をはじめ、解説、註釈、ふ
りがな、その他編集については、当会の役員・会員の方々にすくなからぬ
ご協力をいただき……(4頁)
と述べられていることです。文部省そのものではなく、社会教育課の何人かの職員・嘱託が趣旨に賛同して協力したのでしょうが、そうした人たちと国民文化研究会がつながりを持っていたことが注目されます。戦前・戦中に文部省がいかに聖徳太子を重視し、関連するパンフレットなどを多数刊行して諸学校に配布していたことは、以前、紹介しました(こちら)。
田所は、入学まもなく聞いた黒上の講演に感銘を受け、仲間の新井兼吉、河野稔、市川安司とともに、黒上に師事するようになったのです。その黒上は、郷里の徳島で療養中であった親友の東大生、梅木紹男とともに日本のあり方を憂い、三井甲之の主張に基づく聖徳太子・明治天皇鑚仰を柱とする学生の精神団体を設立しようとしていました。
黒上が一高と関わりを持つようになったのは、一高教授だった国家主義の国文学者、沼波瓊音(1877~1927)が大正15年2月に学内に創設した日本精神強調の瑞穂会が、昭和3年に黒上を招き、「聖徳太子の人生観と日本文化」と題する連続講演を開催したのがきっかけです。
黒上に傾倒するようになった田所たちは、瑞穂会から分かれて聖徳太子と明治天皇を鑚仰する会を創設することとなり、翌年の2月に昭信会という名を決め、3月に黒上とともに河内磯長の太子廟に詣で、徳島で梅木に会い、5月5日に明治神宮に参拝した後、一高の寮内で昭信会の発会式を行ないました。こうした経緯については、
国民文化研究会編『「一高昭信会」初期活動記録-「御製拝誦」と黒上正一郎先生ご逝去前後の「昭信会日誌」を中心として-』(国民文化研究会、2005年)
が詳しく記しています。
この昭信会には、後に小田村事件で有名となる小田村寅二郎(1914~1999)が参加していました。小田村は東大に進むと、先に入学していたものの肺患のために療養することの多かった田所と連絡をとりつつ昭信会メンバーを柱として昭和13年に東大精神科学研究会、昭和15年には日本学生協会を発足させ、国家主義学生運動を全国的に展開していきます。この流れを汲むのが、昭和31年に小田村が理事長となって創設し、上記のような黒上関連の資料などを刊行している国民文化研究会です。ここは戦後になっても、三経義疏研究を継続していました。
こうしたメンバーは、きまじめで行動力のある学生たちでしたが、明治風なナショナリストであったからこそ神話の押しつけを嫌い、聖徳太子に関して客観的な研究をしようとしていた津田左右吉の研究には強く反発しており、また伝承をそのまま信じて日本礼賛に励むばかりで視野が狭く、当時の世界における日本の位置について冷静に判断するだけの力はありませんでした。そのような判断ができた数少ない例外は、北京で活動していた中江丑吉でしょう(こちら)。
【付記】
昭信会は、黒上正一郎が亡くなると、昭和10年にその著作を編集して黒上正一郎『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』を刊行しました。戦後になると、国民文化研究会が編集し直し、理事長であった小田村の「復刊の辞」を付けて昭和41年に再刊します。興味深いのは、その「復刊の辞」では、
また発行について、文部省の社会教育課の方々をはじめ、解説、註釈、ふ
りがな、その他編集については、当会の役員・会員の方々にすくなからぬ
ご協力をいただき……(4頁)
と述べられていることです。文部省そのものではなく、社会教育課の何人かの職員・嘱託が趣旨に賛同して協力したのでしょうが、そうした人たちと国民文化研究会がつながりを持っていたことが注目されます。戦前・戦中に文部省がいかに聖徳太子を重視し、関連するパンフレットなどを多数刊行して諸学校に配布していたことは、以前、紹介しました(こちら)。