聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

藝林会「聖徳太子をめぐる諸問題」シンポジウム内容の刊行

2012年04月15日 | 論文・研究書紹介
 このブログで紹介した昨年9月開催の聖徳太子シンポジウムの内容が活字になりました。『藝林』第61巻第1号(平成24年4月)です。内容は、以下の通り。

北  康 宏「国制史からみた聖徳太子--聖徳太子否定論の本質とその再検討--」21-42頁
石井 正敏 「『日本書紀』隋使斐世清の朝見記事について」43-76頁
武田佐知子「聖徳太子の造形--仏教文化史からみる聖徳太子--」77-109頁
石井 公成「問題提起 聖徳太子研究の諸問題」110-137頁
「聖徳太子をめぐる諸問題」相互討論(司会:所 功。パネラーは上記4名)138-152頁

 そして、北氏の発表への批判として投稿され、【研究ノート】として掲載されているのが、

上野利三「冠位十二階に関する新説について」153-164頁

です。

 発表者のうち、北・石井(正)・武田の三先生は、内容を増補して論文形式にされているのに対し、私の場合は冗談ばかり連発していたため、そうした冗談を少し削っただけで、講演の筆録に近い「です、ます」調のものとなってます。

 最初の北論文は、最近の聖徳太子否定論は、推古朝の意義を否定する戦後の日本史学の論調の上に立っていることを確認したうえで、この問題を再検討しようとする試みです。大化改新・律令国家に直接つながる改革の理念は示されていないとする意見に賛同しつつ、過小評価する傾向には反対し、推古朝には独自の方針によって王権の立て直しをはかったことを認めている。結論の末尾は、「その意味で聖徳太子はやはり実在したのである」となっています。

 石井正敏論文は、榎本淳一氏などの研究成果を踏まえつつ、隋からの使者たちの実態を検討し直したもの。『日本書紀』に見える斐世清の朝見儀式については、基本部分では「史実を反映していると考えてよいと思われる」と述べ、信頼性が高いとされる『隋書』にしても、『日本書紀』同様に政治的な色彩の濃い編纂物であることに注意すべきだと論じています。

 武田論文は、広隆寺上宮太子院の有名な太子像を中心として、着物を着せるようになっている裸の太子像群について考察しています。この像については、元永三年(1120)の紀年を持つ銘が胎内から発見されたため、制作時期が従来の通説より大幅にさかのぼることになったこと、柄杓と柄香炉を持つことによって示される王法と仏法の統合の時期もさかのぼることが注意され、現存する諸像と文献の両面から、こうした着衣の彫刻像の意味が論じられています。

 私の発表は、このブログで書いてきたことをまとめ、いくつかの新発見を報告し、今後は学際的、また国際的な研究が必要となることを論じたものです。聖徳太子については、基本文献がきちんと読めておらず、まだまだ分からないことばかりであることを強調してあります。

 「相互討論」では、発表者による講演の補足と、会場からの質問への回答がなされました。また、司会から、女帝である推古天皇登場の意義についての問いかけもあり、また発表者同士の質疑も少々なされました。

 上野論文は、冠位十二階では皇子や諸王や蘇我馬子などには冠位は授けられなかった、とする通説に反対する北説に疑問を呈したものです。『日本書紀』に見える「古冠」に関する記述に関する北氏の解釈を問うています。その中で、『日本書紀』の推古二年の記事は十三年のことと見てよいのではないかといった主張をされており、立場としては、厩戸皇子は推古10年以降は政治力を向上させ、蘇我氏の独裁的傾向を抑制した役割を果たしたという見方です。

 詳細は、また別に紹介します。なお、抜刷はないそうですので、私の分については、引用させていただいた方を含め、関わる方々にコピーをお届けできるのは、少し先になります。