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『日本書紀』の最終編纂時期における唐の政教策:手島一真「政教の教化と仏教の風化」

2012年02月19日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」については、地方長官たちに遵守が命じられた西魏の「六条詔書」などが手本とされることが多いのですが、「憲法十七条」の成立時期をめぐって論争が続いていることはよく知られています。

 「憲法十七条」が『日本書紀』編集の最終段階において、つまり、710年代後半に作成されたのであれば、当時は唐にならって律令制を強化しようとしていたのですがから、唐の似た規定がある程度考慮された可能性があります。

 その当時の唐の規定として注目されるのは、則天武后が685年に学者たちに編纂させて公表した『臣軌』でしょう。実質的な最高権力者であった武后は、当時は皇帝や皇太子や官僚その他に関する様々な書物の編纂を命じていますが、その中核とされる『臣軌』について論じたのが、

手島一真「政教の教化と仏教の風化--則天武后の『臣軌』撰述を通じて見る比較考察--」
(『日本仏教学会年報』第74号、2009年7月)

です。「憲法十七条」については触れていませんが、「憲法十七条」について考える際は、『臣軌』はきわめて重要です。

 武后は690年に皇帝位について国号を周と改めると、693年には『老子』に代えて『臣軌』を科挙の科目としました。705年1月に退位させられて国号が唐に戻されると、『臣軌』に代わって『老子』が再び科挙の科目に指定されています。

 『臣軌』は唐の太宗が編纂させた『帝範』を意識したものとされており、臣下の倫理を十章に分けて説いたものです。手島氏の要約に基づいて条目を列挙すると、以下の通りです。

 一 同体章 君臣は父子以上に同体であれ
 二 至忠章 至公の精神で忠義に努めよ
 三 守道章 臣下の分を守り、職務に励め
 四 公正章 公正無私であれ
 五 匡諌章 諌言に努めよ
 六 誠真章 誠実信義を重んじよ
 七 慎密章 機密を漏らさず、慎重に行動せよ
 八 廉潔章 清廉潔白であれ
 九 良将章 上には忠、下には愛の優れた将であれ
 十 利人章 農を勧め、民の生活を安心ならしめよ

 内容の詳細な検討は、

渡邊信一郎「『臣軌』小論--唐代前半期の国家と国家イデオロギー--」
(礪波護編『中国中世の文物』、京都大学人文科学研究所、1993年)

がおこなっています。手島論文では、この渡邊論文によりつつ論じており、右の十章には仏教によるものは全く無く、儒教が多いほか、道家やその他の諸家の主張も取り入れていることに注意しています。

 この『臣軌』は、門閥貴族を押さえ、父子関係より君臣関係の方が上であることを示し、皇帝へ権力を集中させようとするものです。手島氏は、武后は帝位につくために仏教を用いて様々な神秘的な宣伝を行う一方、こうした儒教的君臣共同体論によって行政機能の理想型を示したとし、武后は仏教・儒教という二つの「教」によって、統治を行ったと論じています。

 さて、この『臣軌』と「憲法十七条」は、どの点が似ており、どの点が違っているでしょうか。慶雲元年(704)と養老2年(718)に帰国した遣唐使たちのうち、前者は『臣軌』ないし、その方針にそった文献類を持ち帰った可能性がありますが。

 なお、4月刊行予定の『藝林』誌に掲載したシンポジウム発表では、「憲法十七条」について、これまで知られていなかった仏教経典の典拠などを少々指摘してあります。