聖徳太子研究の最前線

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台湾の儒教研究者の目から見た「憲法十七条」の二重性:金培懿「儒家経典の受容と大和魂の形成」

2012年01月11日 | 論文・研究書紹介
 ご無沙汰しました。帰省やら何やらであちこち出かけたり、締め切り過ぎの論文に追われたりしていたこともありますが、ここの記事はメモをかなり書きためてあるのに10日も更新していなかったのは、年末に紹介した吉田論文で道慈述作説を柱とする聖徳太子虚構説が自滅してしまったことが大きいですね。あれで一段落した気分になってしまい、ぼんやりと過ごしておりました。
(道慈と額安寺の関係については、12月24日の記事に【追記】として情報を加えておきました)

 ここで気をとりなおして紹介するのは、台湾師範大学国文学科副教授である金培懿氏の論文、

金培懿「儒家経典の受容と大和魂の形成--『憲法十七条』を通して--」
(『中国語中国文化』第8号、2011年3月)

です。金氏は、九州大学で学位を得た研究者で、儒学史、日本漢学、日中儒学の比較その他を研究されている方です。2010年度には日本大学文理学部訪問教授として日本に滞在されていたため、日大の中国語中国文化学科の雑誌に書かれています。

 この論文で目につくのは、「憲法十七条」を単に礼賛したり批判したりするのではなく、ほど良い距離を置いて冷静に眺めて特質を指摘している点でしょうか。「大和魂の形成」となっていますが、『源氏物語』その他の用例を踏まえたり、大和魂自慢を皮肉った夏目漱石の文章を引いたりしていることが示すように、単純な大和魂評価ではなく、大和魂というのは「漢才」という外来文化を選別する過程で獲得した一種の「日本人が日本人たる所以」の識見であった(69頁)と説いています。これは、中国では仏教の影響を受けて民族宗教としての道教が形成されたのと似ていますね。

 「憲法十七条」が中国のどのような古典を踏まえているかについては、膨大な研究の蓄積があり、意見は様々ですが、金氏は、先年亡くなった近代中国の大学者、銭鍾書(1910-1998)の議論に基づき、もとの典拠の利用の仕方を「語典」「意典」「勢典」に分けます。「語典」は言葉そのままの利用、「意典」は意義内容の利用、「勢典」は語句の形式の模倣を指します。そして、その立場で、第一条の出典についてこれまでの諸説を見直しており、新たに見いだした典拠も示されています。

 「無忤」については、儒学の研究者だけに、私が発見した仏教の典拠(江南成実学派の僧たちの徳目)には気づいておられませんが、『韓非子』に「忤」の用例があることを指摘し、また「憲法十七条」の「人皆有党」は『左伝』の「亡人無党」を逆にしたものであって、「意典」と見ています。そして、『韓非子』姦劫弑臣では上に「孤」として立つ君主と下で「党」を組む臣下との対立を述べている箇所その他に注目しているのは、妥当なものでしょう。

 金論文では、上記のような方法で典拠を明らかにしていっており、君主は絶対的なものとされていて仁などの道徳はまったく想定されておらず、臣下の忠だけが強調されているなど、中国古典との様々な違いが指摘されています。

 その中には、これまでの研究で指摘されていることも多いのですが、重要なのは、「憲法十七条」は多様な系統の中国古典の文句を活用して述べているものの、そうした言葉が中国古典の本来の意味と異なった意味で用いられている場合が多いことを、いくつも指摘していることです。つまり、「憲法十七条」は、中国古典に従っている面と従っていない面があるのです。

 金氏は、江戸時代以来、「憲法十七条」を中国の古典を踏まえた内容豊かな文章として評価する者と、水戸学の安積淡泊が「憲法十七条」は儒教の言葉を「剽窃」しつつ仏教を主にしたと批判しているように、儒教本来の立場でないとして非難する者がいるのは、「憲法十七条」のそうした二重性に基づくと指摘しています。

 大山誠一説では、「憲法十七条」は不比等が儒教、道慈が仏教の内容を書いたと述べるだけで、これまで多くの学者が指摘している『韓非子』など法家の思想には全く触れていませんが、そんな単純な図式では「憲法十七条」はとうてい理解できないことが、この金論文からもよく分かります。ただ、金氏が、「憲法十七条」から「豪族が権勢を恣にし、天皇の権力が衰退していたこと」が分かるとしているのは、日本の古い史観に引き摺られたものですね。

 金氏は、日本文学は日本特有のものと見ることもでき、また漢字を用いて中国文学を受容した点で中国文学の支派の一つと見ることもできるのであって、二重性を持つことは「憲法十七条」も同じであるとしつつ、こうした現象は、自分たちが中国の伝統文化の特質を知る上でも有効であり、中国以外の様々な文化を知ってこそ中国文化の特質を知ることが出来るのだ、と述べています。

 つまり、日本に留学して日本の中国文化受容のあり方を学んだ金氏は、逆に、そうした知識によって中国を相対化しつつ中国文化を見直そうとしているのです。この金論文は、何かを研究するに当たって、ほどよい距離を置いて、対象自体の論理とは異なる視点で眺めることの有効さを示していると言えるでしょう。「憲法十七条」の個々の語の解釈については、私は少々異論もありますが、新たに教えられたこともあり、また上記のような姿勢に基づく研究という意味で有益な論文でした。