中国江南で活躍した南嶽慧思は、倭国の王家に生まれて聖徳太子となったとする慧思託生説があります。その慧思の弟子である天台大師の系統を引く鑑真とともに来日した思託が著した『延暦僧録』巻第二の「上宮皇太子菩薩伝」が伝える話です。
かの大山誠一氏の『<聖徳太子>の誕生』では、この話は鑑真が主人公であり、この話は彼のために作られたものであって、慧思も聖徳太子も鑑真のために利用されているとし、『延暦僧録』の鑑真伝を述作した思託と『唐大和上東征伝』を著した淡海三船が創作したと主張していました。
これに異を唱えたのが、道慈がいた大安寺文化圏の文学を追究している蔵中しのぶ氏の論文、
蔵中しのぶ「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」」
(吉田一彦編『変貌する聖徳太子』、平凡社、2011年)
です。
まず蔵中氏は、「上宮皇太子菩薩伝」を含めた『延暦僧録』が、唐で成立したとされる『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』の類型表現と似ていることに注目します。この『七代記』によれば、慧思は「倭国の王家に生まれ、百姓を哀(かなし)び矜(あわれ)び、三宝を棟梁し」たとされています。
この「三宝を棟梁す」という言葉は、639年に百済の王后が弥勒寺西塔に舎利を納めた際に作らせた「金製舎利奉安記」でも百済王后に関して述べられており、『法苑珠林』には唐の太宗に関して「三宝を棟梁す」という表現が見られることを、蔵中氏は指摘します。
つまり、「上宮皇太子菩薩伝」は、「東アジア世界に広く分布する《皇帝・皇族》にして《在家仏教徒》」(109頁)に関する記述という性格を持っているのです。
また、蔵中氏の父君である蔵中進氏は、『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』が引用する開元6年(718)に杭州で書写された「碑下題」なる文献が、慧思について「倭州天皇は彼の聖化する所」と述べている点に着目していました。杭州は、遣唐使の経由地です。つまり、聖徳太子と特定はしないものの、慧思が倭国の王家に転生したという伝説が『日本書紀』以前に既に中国に存在していたのです。
さらに、蔵中氏は、聖武天皇が天平3年(731)に謹厳な書体で書写し終えた『雑集』末尾の「諦思忍、慎口、止内悪、息外縁」という言葉に関する有富由紀子氏の研究を紹介します。これは、敦煌文書によれば、慧思の「思大和上坐禅銘」の句であって、『法華経』安楽行品に説かれる四法を指しているとする指摘です。
また、蔵中氏は、光明皇后が天平九年(737)に細字『法華経』を法隆寺に寄進したのは、慧思託生説に基づくとする東野治之氏の研究に注意しています。
そして、以上のことから、聖武天皇が慧思の「坐禅銘」を書写した天平3年の頃から、聖徳太子に特定していく方向で、慧思が倭国の王家に転生したという説が日本でも根付いていったと考えたいと述べています。つまり、鑑真来日以前に、既にそうした説が形成されつつあったと見るのです。
というわけで、ここでも大山説は疑われています。
なお、蔵中論文は、「三船伝」について「悪を息めんと為(し)」(122頁)と訓んでいますが、「息悪と為り」と訓むべきところです。「息悪」は「悪を息(や)」めるということで、僧侶を指す仏教用語です。三船は以前は僧侶でしたので。
かの大山誠一氏の『<聖徳太子>の誕生』では、この話は鑑真が主人公であり、この話は彼のために作られたものであって、慧思も聖徳太子も鑑真のために利用されているとし、『延暦僧録』の鑑真伝を述作した思託と『唐大和上東征伝』を著した淡海三船が創作したと主張していました。
これに異を唱えたのが、道慈がいた大安寺文化圏の文学を追究している蔵中しのぶ氏の論文、
蔵中しのぶ「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」」
(吉田一彦編『変貌する聖徳太子』、平凡社、2011年)
です。
まず蔵中氏は、「上宮皇太子菩薩伝」を含めた『延暦僧録』が、唐で成立したとされる『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』の類型表現と似ていることに注目します。この『七代記』によれば、慧思は「倭国の王家に生まれ、百姓を哀(かなし)び矜(あわれ)び、三宝を棟梁し」たとされています。
この「三宝を棟梁す」という言葉は、639年に百済の王后が弥勒寺西塔に舎利を納めた際に作らせた「金製舎利奉安記」でも百済王后に関して述べられており、『法苑珠林』には唐の太宗に関して「三宝を棟梁す」という表現が見られることを、蔵中氏は指摘します。
つまり、「上宮皇太子菩薩伝」は、「東アジア世界に広く分布する《皇帝・皇族》にして《在家仏教徒》」(109頁)に関する記述という性格を持っているのです。
また、蔵中氏の父君である蔵中進氏は、『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』が引用する開元6年(718)に杭州で書写された「碑下題」なる文献が、慧思について「倭州天皇は彼の聖化する所」と述べている点に着目していました。杭州は、遣唐使の経由地です。つまり、聖徳太子と特定はしないものの、慧思が倭国の王家に転生したという伝説が『日本書紀』以前に既に中国に存在していたのです。
さらに、蔵中氏は、聖武天皇が天平3年(731)に謹厳な書体で書写し終えた『雑集』末尾の「諦思忍、慎口、止内悪、息外縁」という言葉に関する有富由紀子氏の研究を紹介します。これは、敦煌文書によれば、慧思の「思大和上坐禅銘」の句であって、『法華経』安楽行品に説かれる四法を指しているとする指摘です。
また、蔵中氏は、光明皇后が天平九年(737)に細字『法華経』を法隆寺に寄進したのは、慧思託生説に基づくとする東野治之氏の研究に注意しています。
そして、以上のことから、聖武天皇が慧思の「坐禅銘」を書写した天平3年の頃から、聖徳太子に特定していく方向で、慧思が倭国の王家に転生したという説が日本でも根付いていったと考えたいと述べています。つまり、鑑真来日以前に、既にそうした説が形成されつつあったと見るのです。
というわけで、ここでも大山説は疑われています。
なお、蔵中論文は、「三船伝」について「悪を息めんと為(し)」(122頁)と訓んでいますが、「息悪と為り」と訓むべきところです。「息悪」は「悪を息(や)」めるということで、僧侶を指す仏教用語です。三船は以前は僧侶でしたので。