推古朝については、分からないことが多く、特に問題になるのは『隋書』の記述との不一致です。この点について、新たに見いだした中国側の記述などを検討して確実に考察を進めたのが、以前もこのブログで論文を紹介したことのある榎本淳一氏の、
榎本淳一「比較儀礼論」
(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係2 律令国家と東アジア』、吉川弘文館、2011年)
です。
『日本書紀』では、推古16年(607)に隋の使者がやって来た際の迎賓儀礼について詳しく記していますが、これについては、唐の『大唐開元礼』が基づいた隋代の『江都集礼』に基づくというのが有力な見解でした。しかし、榎本氏は、大業年間(605-616)に編纂された『江都集礼』を、開皇20年・推古8年(600)に初めて派遣された遣隋使が持ってこれたか、持ってきたとしても、すぐにそれによる迎賓儀礼を整えることができたかどうか疑問とします。
そして、冠位十二階は中国より朝鮮諸国の制度に似ているほか、『隋書』に記された倭国の衣服なども、隋唐ではなく、それ以前の中国南朝のものに似ていることから見ても、推古朝の礼制のモデルは隋ではなかったと考えられると述べます。
推古12年(604)9月に朝礼を改正し、宮門を出入りする際は、匍匐して超えるべきことが命じられており、これは倭国固有の礼とされることが多いのですが、改革にあたって自国の旧来の礼法を採用するとは考えにくいとし、大隅清陽氏の研究により、隋唐以前の中国でも匍匐礼を行った事例があることを指摘し、中国の礼制をとりいれたものと見ます。
『隋書』との記述の違いについては、東南アジアの他の国が行っていた隋使の迎賓儀礼と似た面があることを指摘します。そして、唐使の高表仁と倭国の王と礼をめぐって衝突し、皇帝の命を伝えないまま帰国したとする『唐会要』の記述については、唐代には中国の兄弟官僚が高句麗に派遣された際、王を屈服させて礼拝させた兄と、次に出かけて匍匐して王に拝伏した弟の優劣を論じた『唐書』の記述により、外交使節にあっては儀礼上の上下関係より朝命を伝えることの方が重視されたと説いています。
すなわち、高表仁は朝命を伝えられず、外交の才が無いとして非難されたのに対して、高麗王を拝礼した兄弟官僚の弟は兄に比べて劣っているとされたものの、非難されておらず、処罰された形跡も見られないというのが、その理由です。
そこで、「日出る処の天子」などという無礼な国書を繰り返し送りつけた倭国が、隋使に対してそれと矛盾するような態度をとったとは考えがたいと説きます。また、『隋書』と『日本書紀』の記述を比較すると、『日本書紀』は迎えの人数などが具体的であるのに対し、『隋書』の記述がおおよその概数であって、『日本書紀』よりかなり多目になっているのは、『隋書』に見える報告がやや大げさになっていると判断します。
従来は、『日本書紀』の記述が政治的にかたよっていることが強調されてきましたが、『隋書』の側の性格にも注意すべきであるとするです。日本古来の儀礼習俗に、中国南朝の儀礼、朝鮮諸国で変容された中国儀礼、そして隋唐朝の儀礼が積み重なって、古代日本の儀礼が整備されていったのだ、というのが氏の結論です。
日本と中国の限られた資料だけを比較し、あれこれ想像を働かせて論じていた段階は終わったことを痛感しますね。
榎本淳一「比較儀礼論」
(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係2 律令国家と東アジア』、吉川弘文館、2011年)
です。
『日本書紀』では、推古16年(607)に隋の使者がやって来た際の迎賓儀礼について詳しく記していますが、これについては、唐の『大唐開元礼』が基づいた隋代の『江都集礼』に基づくというのが有力な見解でした。しかし、榎本氏は、大業年間(605-616)に編纂された『江都集礼』を、開皇20年・推古8年(600)に初めて派遣された遣隋使が持ってこれたか、持ってきたとしても、すぐにそれによる迎賓儀礼を整えることができたかどうか疑問とします。
そして、冠位十二階は中国より朝鮮諸国の制度に似ているほか、『隋書』に記された倭国の衣服なども、隋唐ではなく、それ以前の中国南朝のものに似ていることから見ても、推古朝の礼制のモデルは隋ではなかったと考えられると述べます。
推古12年(604)9月に朝礼を改正し、宮門を出入りする際は、匍匐して超えるべきことが命じられており、これは倭国固有の礼とされることが多いのですが、改革にあたって自国の旧来の礼法を採用するとは考えにくいとし、大隅清陽氏の研究により、隋唐以前の中国でも匍匐礼を行った事例があることを指摘し、中国の礼制をとりいれたものと見ます。
『隋書』との記述の違いについては、東南アジアの他の国が行っていた隋使の迎賓儀礼と似た面があることを指摘します。そして、唐使の高表仁と倭国の王と礼をめぐって衝突し、皇帝の命を伝えないまま帰国したとする『唐会要』の記述については、唐代には中国の兄弟官僚が高句麗に派遣された際、王を屈服させて礼拝させた兄と、次に出かけて匍匐して王に拝伏した弟の優劣を論じた『唐書』の記述により、外交使節にあっては儀礼上の上下関係より朝命を伝えることの方が重視されたと説いています。
すなわち、高表仁は朝命を伝えられず、外交の才が無いとして非難されたのに対して、高麗王を拝礼した兄弟官僚の弟は兄に比べて劣っているとされたものの、非難されておらず、処罰された形跡も見られないというのが、その理由です。
そこで、「日出る処の天子」などという無礼な国書を繰り返し送りつけた倭国が、隋使に対してそれと矛盾するような態度をとったとは考えがたいと説きます。また、『隋書』と『日本書紀』の記述を比較すると、『日本書紀』は迎えの人数などが具体的であるのに対し、『隋書』の記述がおおよその概数であって、『日本書紀』よりかなり多目になっているのは、『隋書』に見える報告がやや大げさになっていると判断します。
従来は、『日本書紀』の記述が政治的にかたよっていることが強調されてきましたが、『隋書』の側の性格にも注意すべきであるとするです。日本古来の儀礼習俗に、中国南朝の儀礼、朝鮮諸国で変容された中国儀礼、そして隋唐朝の儀礼が積み重なって、古代日本の儀礼が整備されていったのだ、というのが氏の結論です。
日本と中国の限られた資料だけを比較し、あれこれ想像を働かせて論じていた段階は終わったことを痛感しますね。