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聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

近年の聖徳太子研究のまとめと一国史観:光川康雄「聖徳太子とその伝記」

2020年09月06日 | 論文・研究書紹介
 この数年、聖徳太子に関して特に新しい発見はないように思います。そうした中で、近年の研究状況、聖徳太子について書いてきた自ら文章の概要、太子研究にあたっての注意すべき点について述べたのが、

光川康雄「聖徳太子とその伝記」
(『教育文化』28号、同志社大学社会学部教育文化研究室、2019年3月)

光川氏は、自分は小倉豊文の研究から啓発されたことがきわめて大きいと述べて論文を始め、「なぜ太子のような偉大な聖人が飛鳥時代に登場させられたのか」という問題があまり注意されていないと説きます。そして、天武朝と太子の時代の類似性を強調し、この時代に太子信仰の萌芽を認める田中嗣人『聖徳太子信仰の成立』(1983年)の研究を評価します。

 光川氏は、太子に関する『日本書紀』などの記述をそのまま信じがちな研究者たちを批判する一方で、大山誠一氏や吉田一彦氏の虚構説については、「歴史学界からの批判が続いている」と述べます。大山説は『日本書紀』編纂の最終段階の編纂作業を「過大に評価しすぎ」であり、田中氏が検討している天武朝の修史事業などを軽視しているというのが、氏の判断です。

 光川氏は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述が異様に詳しいのは、『日本書紀』以前に聖徳太子伝が成立していた証拠とします。また、太子の名については、上宮王家の創始者であることから、上宮王が適切だと考えていると説いています。最後の点は、私も賛成です。和語としては、「かみつみやのみこ」ないし「かみつみやのおおきみ」、漢語としては「じょうぐうおう」と呼んでいたものと考えています。ちなみに、三経義疏の選者名も、自署ではありませんが「上宮王」となっていることは、これが古い呼び方であった証拠と思われます。ただ、これは斑鳩に移った後の名である可能性もあります。

 光川氏は、10世紀半ばから後半にかけて成立し、近代以前の太子伝の基盤となった『聖徳太子伝暦』の研究者であるため、『伝暦』に基づいて展開していった太子伝については、国文学者たちが中世文学の観点から研究してすぐれた業績をあげているのに対し、『伝暦』そのものの研究が進んでいないことに警鐘を鳴らします。例外として、光川氏がおこなった『伝暦』における中国文献の典拠の調査を不十分として、さらに精査した中国人研究者、崔鵬偉氏の研究を評価しつつも、崔氏が用いた本文は誤りの多いものであって、より原本に近い『続群書類従』本や文明十六年書写の東大寺図書館本などを用いるべきであるとしています。テキストは重要です。

 光川氏は、「太子死後まもなくから太子の一族」が太子の伝説化を始め、また法隆寺など関連寺院も伝説化を進めたと見ます。ついで、即位以前に活躍していた中大兄(天智天皇)や大海人(天武天皇)の行動を正統視するために、天武朝期に聖人視が進んだものと推定します。

 しかし、中国やその他のアジア諸国の例から見れば、国王やそれに準ずる存在、国王の候補者については、生きているうちから神格化されて語られるのが通例です。これは、近現代でも独裁者には良く見られる傾向ですが、呪術的な思考が支配的であった古代にあっては、その傾向はいっそう強かったことは言うまでもありません。また、古代の史書では、目立つ人物については、超人的な存在としてほめたたえたり、極悪人として非難するような書き方をするのが通例でした。

 光川氏の議論は、そうしたアジア諸国の状況に注意せず、現代の常識の範囲で客観的・良心的に研究しようとしているように見えます。私は、このブログで何度も触れたように、小倉豊文を高く評価していますが、小倉も日本古代史の研究者であって、また戦後まもない頃ですので、アジア諸国の状況には不案内でした。しかし、自国の資料だけで考える「一国史観」に基づく研究方法は、既に過去のものとなりつつあるのが現状です。光川氏は『伝暦』の典拠を探すため、中国の資料を精査しているのですから、『伝暦』以前の状況についても、中国その他の諸国の状況を考慮してほしいところです。

【付記:9月8日】
結論の部分を少し追加しました。
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