精神的内奥に引き下がっての辛さ

2022年06月21日 | 苦痛の価値論
2-5-3. 精神的内奥に引き下がっての辛さ
 苦痛のぎりぎり・極限に「辛さ」をしばしばいうが、それは、苦痛から逃げようという衝動をなんとしても抑えねばと、意志が前面に出て耐える場面であろう。苦痛に耐える日頃の自己がぎりぎりになって、これから一歩さがり理性意志にまで内的に引き下がっての、最後の砦としての精神的な自己において耐えていくとき、辛さが出てくるとも見られよう。観想し超越した理性的精神の高みから、己の通らぬ阻害の辛さに耐えるのであり、さらには、この耐えがたさに悲観的なものを予期する状態でもあろうか。「つらい」という言葉は、子供には似合わないように感じられる。
 映画に『男はつらいよ』という喜劇のシリーズがあったが、この言葉は「男は苦しいよ」とはちがう。男は「苦しいよ」では、主観的な受動的感情に傾きすぎるが、「辛いよ」だと、己の尊厳の核をなす精神(理性意志)をもってぎりぎり耐え抜いて、敗北していく悲しい姿が見えてくる。ぎりぎりの忍耐において悲壮な思いをもって、逃げてはならない、まだ断念はしないぞといった勇気・気力を振り絞っているが、その思いが通らない困難極まりない状態である。そういう苦難のこころをそっと隠して周囲に心配かけないでおこうといった心構えももつはずの「男のつらさ」の(辛くなると必ず逃げる)コメディ版があの映画であった。 
 「苦しい(物質的経済的)生活だったが、(精神的には、辛くはなく)充実感に溢れていた」「苦はなく楽な仕事だったが、精神的には辛い仕事であった」と苦と辛さは区別される。「苦しい一月」「つらい一月」(「立場」「生活」)のちがいは、辛さが、ぎりぎりの限界の耐え難い大きな苦しみをもつとともに、自己を統括する内奥の精神までが懊悩するところにあるのであろう。価値喪失への悲しみ・無力感が加わり、かつ、これをなお断念せず悲壮の思いで耐える状態である。「辛い」は、「立場」「一ヶ月」を形容するとき、苦しみが大きくぎりぎりになったり、苦は気にならないが意志を貫こうとするのにこれが困難になってきて、尊厳をもった己の精神、理性意志が対処していくに、その尽力も限界となってきて、泣きたいようなものになろうか。
 大まかに言えば、痛みは、身体損傷での痛覚を中心にした火急の対応を迫る疼痛で、苦しみは、欲求・衝動等の思いの抑止に感じる抑鬱的な苦悶で、辛さは、意志を中心にしてその実践的営みのかなわぬところに抱く内奥の精神の悲痛だということができるであろうか。戦争で例えれば、痛みは、前線で傷つく兵士のもので、苦しみは、それを統率しながら戦うリーダーのもので、辛さは、前線の本部で、ダメージを受けた我が子のような兵たちを指揮する指令官のものになるのであろう。
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