痛み・苦しみの限界としての辛さ

2022年06月07日 | 苦痛の価値論
2-5-1. 痛み・苦しみの限界としての辛さ
 息をとめていると苦しくなる。その苦しみが増してくると、最後は、辛い状態になる。苦しみのぎりぎりの限界が辛さということになる。忍耐は、苦痛・苦しみにするが、その苦しみは、忍耐し続けているとしばしば大きくなり、その我慢は限界になっていく。そのぎりぎりの限界において辛さが登場してくる。苦しみに我慢するが、その持続が困難な状態になってくると、もう駄目だという思いが生じてくる。この苦しみのぎりぎり、苦しみから逃げないで我慢しつづけることのぎりぎりに、辛さを感じる。呼吸停止の苦しみは、息したいという欲求が呼吸のための筋肉を動かそうとするのを、意志が抑止して、その欲求抑圧に感じるもので、肺や喉に発して身体全体で感じる生理的なものだが、辛さは、その苦しみへの平常的対応では無理・限界となって、自身の精神の内奥からの意志が前面に出てきて、その苦しみの受け入れの断念を阻止し続ける段階になるのであろう。通常の限度を超えた苦しみを精神(意志)の力みが引き受けての辛さである。辛さの感情は、心身全体での苦痛反応であるが、それを可能とするのは精神・意志にあるといっていいであろうか。
 痛みでも、耐えがたさの最後は、辛さになるであろう。足を麻酔なしで切断せねばならない場合、激痛に耐えることになる。それが瞬時なら、「痛い」で終わるが、続くのだとすると、だんだんに、疲労困憊状態になって、痛みは、「辛い」ものになろう。逃げないで苦痛を受け入れ続けるのだが、激痛甘受の持続は、意志が自身の逃走衝動を抑え続けてのことで、激痛が長くなるほどに逃げ出したい衝動も大きくなろう。弱気になりだし、逃げようかといった思いを持ち始めることでもある。激痛から生じるその弱気の思いを抑止し、歯を食いしばって耐える最後・最内奥の精神(理性意志)がここに登場する。その困難な状態とそこに生じる感情が辛さということになろうか。
 「まま子に辛くあたる」という。その辛さは、冷酷無情ということである。激しい苦・痛をもって当たるのである。自身が辛いという場合も、自身のぎりぎりのものになり、自身に、冷酷に対処して辛く当たり、激痛や苦悩に耐えさせる。辛さは、激しく厳しい、全身全霊をもってしなくてはならない、ぎりぎりの苦痛であろう。
 苦しみがぎりぎりになっての辛さなのか、そういう段階になると耐える意志が力むことで、その意志の力みの全力を尽くす営為に辛さを抱き、この意志の辛さを、限界を超えた苦痛に投影して、辛いと表現するのであろうか。意志が力まなければ、それ以上は無理と、耐えていた苦しみは放棄され終わりとなるから、意志がこれを引き受けて、苦しみの限界を超えて辛さとなるものに挑戦するのであろう。