意思がぎりぎりを尽くしても、思うようにできない辛さ

2022年06月14日 | 苦痛の価値論
2-5-2. 意思がぎりぎりを尽くしても、思うようにできない辛さ
 「生きているのが苦痛だ、苦しい」は、重病に息絶え絶えで消耗しているようなときにいう。これに対して「生きるのがつらい」になると、懸命に生きようと意思し努力しているのに、その意思のぎりぎりをもってしているのに、思うようにならず、悶え悲嘆し疲労困憊状態になっている姿が浮かんでくる。苦しみが、苦痛のその主観的感情内容自体を語るのに対して、辛さは、苦しくて思うようにならないことのその意思・営為の困難さを語るのであろう。あらゆる手を使って尽力しているのに、その思いは阻害されて通らないというその能動的実践的な窮状を語る。もはや、残された妙手は存在せず、主観的な苦しさを踏まえつつ、焦燥し煩悶しつつ、その先には、破綻が迫っているそのぎりぎりにある状態を辛さは語る。辛さは、主観的に苦しみを持ちつつ、さらには、敗北の迫っていることを踏まえての悲しみをも感じることであろう。苦しみは欲求等の思いへの阻害を感じるものだが、辛さは、その阻害・妨害に対決した意志の貫徹がかなわなくなってのその不如意の悶えを語り、その絶望的な状況に悲嘆の感情も交えた苦痛を語る。
 自分の子供が難病で、「痛い」「苦しい」と泣いているとき、親は、自分ではなにもできず、いてもたってもおれなくなる。その苦しむのを見ながら、出来れば代わってやりたいと思う。そのとき、親は、主観的に「苦しい」のだが、なんといっても「つらい」と感じることであろう。何とかならないかと思い、強い意思(意志や願い)をもってかかわり続けるのだが、その願い、思いとその営為は、空転するのみであり、いたずらにもがき悶えるのみである。意志は、行為しようとするのだが、何もすることができず、代わることが出来ない、その不可能の思いを、どこにもぶつけることができず、煩悶、焦燥し、辛い状態になる。自分の無力さに、無能さに敗北を思い悲しくもある。苦しみを深め絶望的な自身の無力に悲嘆して、「つらい」と胸をかきむしる。
 辛さは、苦しみ・痛みの度外れというよりは、別の領域の感情、心的状態となる場合もある。「聞きづらい」「聞きにくい」という。それは、苦しさや痛みが激しいからそうなるのではない。ここでの「辛さ」「難さ」は、意思、実践的な思いの通らないことが前面に出る。苦しさは無くても良い。聞くとき、苦しさは、そこにはないが、聞こうとする意志の阻害された聞こえにくい状態を、それらは語る。苦しさ・痛さの極限にいうのではない。ひとの能動的な意思・営為の通らないこと、その困難さを語る。「寝苦しい」「寝辛い」「寝難い」という場合でも、その「辛い」は、その苦しさが激しいものになっていうわけではない。寝苦しいは、主観的に苦痛の状態を語る。だが、寝辛い、寝難いは、苦しさがなくはないだろうが、ときには、苦しさは、なくても言いうる。背中を傷めていて、背中を下にして寝ることができない場合、その姿勢では寝難い、寝辛いということになる。が、寝苦しいかどうかは、不明である。つまり、苦が極端になって辛いのではなく、実践的に意思し営為を貫こうとするのに、そのことが行いがたいという不如意の事態に、意思の悶えに、その辛さはいう。暑さの苦痛については、「暑苦しい」は言っても、「暑つらい」は言わない。寝るとか息する、見る、聞くとちがい、暑いは、単なる受動状態で、意思の能動的な営為・行為とはならないから、言わないのだろう。辛いは、ひとの実践的能動的な願い・意思の営為が抵抗をうけてその思いが通らない状態にいうのだろう。苦・痛の極限には、意志が乗り出して耐えねばならず、そこでの意志の悶えとしての辛さをもって、そのぎりぎりの苦痛を「辛い」と表現するのではないか。