浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの同一性

2020年09月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-4.浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの同一性】時間に関わる異常なものとしては、通常の夢のように、時間的継起の秩序を破壊していて時間自体を無視した、支離滅裂に異常なものがある。あるいは、一寸法師やかぐや姫の成長のように、時間自体は通常の継起の速度にありつつ、そこでの通常に比しての遅速をいうものもある。これらと、ここで問題にしてきた浦島と死者の登場する夢での奇怪な時間異常とは、異なる。浦島も死者の永遠も、時間自体は支離滅裂の夢とはちがって、過去から未来への継起の秩序をふまえるし、かぐや姫のように一つの時間継起のもとでの異常な速度をいうのでもない。その時間自体の速度が、自分たちの世界と異世界で根本的に異なることを語る。時間という継起の秩序を有した、進み具合にちがいのある二つの時間の間で生じた奇怪さを扱うものになる。 
 浦島の異世界(竜宮)と死者のあの世での時間異常は、どんなところでも本来同一の、ひとつのはずの時間について、異なった二つの時間、二つの継起の秩序が見出されることにある。それは、いずれも、一方では、通常の世俗の時間が展開していて、他方に同時にその同じ場面に、別の継起の秩序をもった時間があることである。その別の時間とは、端的にいえば、時間の停止、時間展開がゼロに留まるという事態である。あの世にいった死者が夢にでてくるとき、生きている者の登場するのと異なり、死者は、死んだ時点から、あの世で過ごしている時間のもとでは、一切年取らず、いつまでも死んだ日までの若い姿で登場する。つまり、あの世に行ってから時間がストップした状態に、時間展開がゼロに留まる。あの世の不老不死の時間が、この世のひとの夢に現れて奇怪さを感じさせるのである。同じように、浦島体験でも、故郷のひとの時間展開は、旅の間、ゼロに停止したままである。帰郷時、そのゼロの時間、つまり昨日の今日のはずと感じている時間があり、他方には、旅の間の時間展開がある。その時間停止と時間進行の二つが帰郷時には見られて奇怪な異時間体験をもつ。あの世のひとの場合も、浦島体験でも、一方に通常の時間展開があり、他方で時間が停止し無時間となっているのである。
 浦島の場合も、死者のあの世の時間異常も、その根本は、一方の時間展開がまるでゼロになっていて時間的進行のないことであるが、それは、記憶の更新がないということに基づいている。時間の進行、その過去の時間の把握は、記憶をもって成り立つ。記憶がない状態では、時間における過去は成立しない。時間が流れていることは、今が過ぎていくことは、さっきの今は、もうないのだから、記憶されない限り、単に無、ゼロになるだけである。昨日も一昨日も、記憶がないと成立しない。昨日の記憶がなければ、あるいは一日中眠っていてなにも意識に残るものがなかったなら、昨日という一日は無となる。その眠りとか昏睡状態が長期になった場合、その間は、なにも記憶がなくなり、目覚めたとき、「さっき寝たのだが」と時間は無になるはずであろう。記憶が時間の自覚を可能にする。その記憶の更新がひとつの領域においてゼロになるのが、浦島(の故郷)とあの世の死者である。浦島では故郷については、旅立ち以降記憶更新はない。帰郷時には、その記憶更新ゼロのまま、昨日のように旅立ちの日を感じて帰郷時をその翌日のように感じる。時間更新ゼロである。死者も同様である。死んで以降は、記憶の更新は停止する。若くして死んだならその若さのままで、それ以降の記憶更新は不可能である。死んで以降も夢に出てくるが、周囲の生者は、夢でも現実でも時間のもとでどんどん変貌していくのだが、死者だけは、記憶更新なく時間ゼロで、若いままとなる。
 この記憶更新ゼロの状態は、長い眠りとか、世俗からの隔離(現代見られるものでは刑務所とか洞窟や建物への長期の閉じ込めあたり)、長い間あっていない人などでも生じる。メルヘン(昔話)では、この記憶更新ゼロに基づく時間異常を種々に語るが、大きくは、浦島的なものとあの世の永遠に類したものの二つに分類することが可能であろう。浦島的なものとしては、異境に迷い込んで奇異な時空間に遭遇するものとか、眠りつづけて時間停止状態になる「眠り姫」のようなものがあり、塔とか洞窟に閉じ込められて世間の時間的変動から隔離されこれを無として記憶更新ゼロとなっていた話等があがるであろう。他方、死者の永遠という一点の記憶更新ゼロの方は、夢に出てくる死者の話、天国や地獄に関わっての話があり、現実のなかでは、長くあっていない人とか、ずっと昔の記憶しかないところとかに持つことになる。さらに、この世界での不老不死とか異常な長命という話も、死者に準じた永遠の時間の話になるともいえる。ほかのものはどんどん変化しているのに、一つのもののみは、いつ見ても不変であれば、記憶更新なしではないが、新規の更新内容はなしとなり、実質的には記憶更新なしと同等となって、あの世のひとの不変・不老不死に近くなる。古池の大蛇が不死にみえ、八百比丘尼や常陸坊が何百年もの長命であるのは、(本当は入れ替わっているのに、それが分からず)記憶内容が常に同一に留まることで、いつ見ても変わらない夢の中の死者の記憶更新ゼロに似たものとなっていることに起因する。
 浦島異時間体験とあの世の死者の永遠の体験は、区別されるが、ひとつにすることもできよう。あの世的時間異常も、その長く会ってない人とか場所に実際に出会えれば、浦島体験になる。浦島体験も、帰郷せず、故郷の人を想起する段階では、時間ゼロのままで、旅先の人と並べて想起するときは、あの世のひとと同じく、故郷の人のみが変わらない姿で登場することである。その記憶更新・進展のゼロと、他方で継起して展開する一般的な時間の二つの時間が浦島とかあの世の時間になるとすると、記憶更新0ではないが、時間(記憶更新)が一般には10進んでいるのに、5とか2しか進まないものとか、逆に20とか50のスピードで進むものも、別種の時間異常とみなしていくことができる。成長の遅速が顕著で異常な一寸法師とかかぐや姫、あるいは、動物の世界に入り込んでの急速な時間展開等は、これになる。記憶更新ゼロの浦島やあの世の永遠の場合は、この世の現実にはないことなので、その奇怪さに好奇心をかきたてられるが(錯覚ではあるが、現に閉じ込められた者の体験談ではあることで、時間という世界の根本形式についての奇怪な(錯覚)体験として、興味がそそられる話となる)、遅速では、その奇怪さはない。面白さという点では、劣る。が、現実的なことという点では、つまり、錯覚ではなく、これは、どこにでも現に生じていることであるから、真実という点では、遅速の時間異常の物語の方がまさる。
 一寸法師のような遅々とした成長のもとでは、一般の時間が10進むのに比して2とか3の速度で、停滞した状態が続く。八百比丘尼とか常陸坊の話は、何百年と生きた不老不死に近い存在として、時間展開ゼロではなく、ゆっくりとのんびりと進むもの、あるいは遅々として進まないものと見ることもできよう。現代でいえば、遅々として時間が進まないものというと、長期の療養とか、引きこもりが目に浮かぶが、そういう、一般的な生から引き離された生の時間的停滞では、それからもとの社会にもどったとき、世界の激変を見るだろう。停滞し、希薄化しゼロに近くなった自分の時間と、客観世界の無慈悲に過ぎゆく継起の秩序の時間である。引きこもった者がそとに出たときには、激変している世界の急速度の時間の流れに戸惑うことになるであろう。時間の奇怪さということでは、浦島には、到底かなわないが、身近にある現実的な時間異常を語るものとなる。そういうのも異時間の話ということであれば、我が国の昔話では、かぐや姫、一寸法師とか、三年寝(ものぐさ)太郎などがあがる。時間展開の異常を語り手も聞き手もあまり意識することのない桃太郎なども、急速な成長をしたのであり、時間異常を示す昔話の中に入ってくることとなろう。 

(終わり)

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