傷害と欲求での苦痛の生じ方のちがい 

2020年09月15日 | 苦痛の価値論
1-1-3-3. 傷害と欲求での苦痛の生じ方のちがい 
 忍耐は、辛苦・苦痛にするが、その原因としての外的な損傷は、そのはじめから苦痛で、内から生じる欲求の場合は、はじめは快であったり何でもないものが、欲求の不充足感が大きくなるとともにだんだんと苦痛・辛苦になっていくようなことがある。外的加害とちがって、欲求とか衝動は、自分のうちから生じるもので、それの生起のはじめから意識できる。はじめは、欲求は小さくて、まだ不充足感もいだかず、あるいは充足の未来を描いて楽しみとする。だが、しだいに欲求が大きくなってその充足のできないことが続くと、だんだん不充足への不快感が生じてきて、苦痛にまでなっていく。この段階から、欲求の抑制は苦痛として忍耐の対象となる。欲求の場合は、苦痛となり忍耐になるのは、その不充足感が大きくなる途中からということになる。
 これに対して、加害による外的な損傷の場合は、はじめから苦痛となり、したがって、はじめから忍耐の対象になる。加害が突然になることは、多い。突然、損傷が発生し、突然に苦痛の発生となる。が、外的な加害も突然に生じるとは限らない。接触している針などの圧力がだんだん大きくなり、皮膚に損傷を与えるまでになるというようなこともある。そういう場合は、はじめは、針の存在が分かる程度であり、苦痛ではない。それの圧力が大きくなって皮膚に食い込むほどになると損傷を発生させ、痛覚が作動して苦痛となる。欲求の通常と同じく、あるレベル、閾値を超えたところからが苦痛になり忍耐になるという場合もある。
 外的なものは、接していてもはじめは気づかないこともある。欲求なら小さくても一応意識される。意識されないものは、欲求となっていないということになる。だが、外的なものは、刺激を生じないなら、着衣や空気のように、その存在には気づかない。気づくのは、苦痛刺激になってから、傷害が発生してからということになる。こういう場合、欲求はだんだんと不快になり苦痛になるが、外的損傷の場合は、突然にということとなる。しかし、欲求や衝動も突然ということがときにはある。急に尿意が生じるとか、急に便意が生じることがある。いやなものを排除したいという欲求、つまり、反欲求は、傷害による苦痛と同じで、はじめから不快・苦痛である。したがって、はじめから忍耐の対象ということになろう。